幸福偏執雑記帳

あざらしこと青波零也のメモ的なものです。

文章34件]

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CoC『かいぶつたちとマホラカルト』自陣向け140文字SS
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以下はネタバレ含むやつ
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あざらし140文字
Not恋愛《書き出し/終り》お題
https://shindanmaker.com/1147155

別に恋愛お題でもよかったんだけど、あざらしのタイムライン(青波の方)ではこれが流行ってたのでこれをしている。
(つまるところ、あざらしの周囲には恋愛を主軸とした書き手がほとんどいないということなのだが……w)
毎日ちょこちょこツイッター最大文字数の140字書くの、よい頭の体操になっていると思う。
140字の旅路
https://min.togetter.com/Qg81NIo

以下にTweetそのものをまとめたけど、min.tの方が楽と気づいてこっちにまとめていくことにする。









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「近頃は随分明るくなりましたね。……外は暑いですか?」
 Xに発言を許可すると、そんな他愛ないことを話し出した。
 当初は必要最低限のことしか話そうとしないXだったが、最近は少しずつ、世間話のようなやり取りが成り立ちつつある。果たして、それを喜んでいいのかはわからなかったけれど、別に私からXに会話を禁じているわけではないので、軽く応じる。
「そうね。そろそろ夏も本番という感じ。あなたは、夏は好き?」
「暑いのは苦手ですが、夏の風景は好きですよ」
 夏の木々の濃い緑だとか、明るい色で咲き誇る花だとか、青空にかかる入道雲だとか、ぎらぎらと照り付ける太陽が生み出す風景の陰影だとか。そういうものを好ましく感じるのだと、Xはぽつぽつと言う。
「そういう風景を目にすると、ああ、今、自分は生きているな、と、思うんですよ。これは夏に限ったことでは、ありませんが」
 ――それでも、特に「夏」という季節に、それを感じる、と。
 Xは言って、窓のない研究室の壁に視線をやる。その向こうに広がっているだろう、夏の風景を思うように。
 もう二度と目にすることはない、夏の風景を思うように。

#無名夜行
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●Scene:16 カーテン・コール

 僕はカーテンコールという慣習があまり好きではなかった。
 今の今まで「僕ではない誰か」であった僕が、その瞬間だけは配役を脱ぎ去った「僕」という一人の人間として人前に顔を出さなければならなかったから。
 けれど、今は少しだけ気が変わった、ような気がする。
 舞台という別世界から、観客と演者が現実へと戻るための一つの手続き。もしくは儀式。
 それがあるからこそ、僕らは「僕でない誰か」が生きている小さな世界と、「僕自身」が存在する現実とを自由に行き来が出来る。そんなことを、思うようになった。
 だからここから先は、大団円で幕が下りた、その後の顛末。
 僕が「桟敷城の魔王」という役を、本当の意味で終えるための「カーテンコール」だ。
 
 
          *     *     *
 
 
 インターフォンを鳴らしてから、失態に気づく。
 アポイントメントなんて取ってないし、問いかけられても僕に答える声はない。これでは単なる不審者ではないか。
 とにかくいても立ってもいられなかった、というか、勢いでここまで来てしまって、インターフォンを鳴らしてしまったところで我に返るとか、本当にどうにかしてほしい。せめてもう一瞬前で我に返ってほしかった。馬鹿野郎。
 そんな葛藤をよそに、微かなノイズが響いて。
『……五月(いつき)くん?』
 懐かしい声が、「僕の名前」を呼んだ。
 
 
          *     *     *
 
 
 僕に友人は少ない。というより、ほとんど切り捨ててしまった。一回目は芸能界に入ると決めたときに。二回目は、声を失って芸能界から去るときに。
 そんな中で、縁を切らずにいられた数少ない幼馴染と呼んでもいい、小学校時代からの友人からLINEが来ていた。それも、数週間前――ちょうど、僕が桟敷城の魔王をやっていたころから、毎日定期的に送られていたものだったようだ。
『生きてるか?』
 死んでたら答えられないだろうに。つい笑ってしまいながら、昨日買い換えたスマートフォンの画面をタップする。
『生きてる』
『マジか。幽霊とかじゃなくて?』
『足はある』
 いや、足があるどころかマッチョな肉体を持つ幽霊ならつい先日までそこにいたような気がするけど、それはそれとして。
『どこ行ってたんだ。マジで連絡取れないからついに樹海に行ったかってめちゃくちゃ話題になってたぞ』
『実は僕にもわからない。ここしばらく神隠しみたいなものに遭ってたっぽい。気づいたら一昨日だった』
『えっ何それめちゃくちゃ怖ぇな』
『怖い。それでも僕は無事だから』
『ならよかった。親御さんには?』
『連絡ついてる。めちゃくちゃ泣かれた』
『だろうな。お前、いつ死んでもおかしくない顔してたもん』
『でも、もう大丈夫だ。何か、すっきりした』
『ならいいけど』
『でさ、仕事、もう一度やり直そうと思うんだ』
『演劇?』
『僕の取り得はそのくらいだから。それに、こんなんでも、まだ体は動くし、できることはたくさんある。難しいとは思うけど、やってみたいって思えるようになった』
『そっか。何かよくわかんねーけど、本当に吹っ切れたんだな。よかった』
『ありがとう。心配かけた』
『仕事入ったら美味いもん奢れよ』
『今すぐって言わないお前の優しさに涙が出そうだ』
『嘘つけ』
『ばれたか』
『あーなんか心配した俺が馬鹿みたいじゃん。元気そうで何よりだけどさ』
『悪かったって。で、話は変わるんだけど、一つ聞いていいか』
『何?』
『日向(ひなた)って、覚えてるか? 中学時代、同じクラスだった』
 
 
          *     *     *
 
 
「よかった、五月くんが元気そうで。色んなニュースを聞いて、本当に心配だったの」
 中学時代の僕の記憶より随分と痩せてしまった日向のおばさんは、それでもあの頃と同じ笑顔を僕に向けてくれる。僕と彼女とのお互いの趣味を語り合うだけ、という年頃の学生らしからぬやり取りを、呆れ半分に、それでも温かく見守ってくれていた頃と変わらない視線が、どこかくすぐったくて、それでいてほっとする。
「喉の病気はもう大丈夫なの?」
『大丈夫です。ご心配おかけしました』
 入力した文字列をスマホで読み上げつつ、頭を下げる。本当に、パロットに壊されさえしなければ、こういう小技が使えたのだ。音声機能さえ使えれば、コルヴスとのコミュニケーションにああも手間取らないで済んだというのに。まあ、あの場に充電器がなかった以上、その方法にも限界はあったのだけれども。
 そういえば、スマホといえば、買い換えてからLINEに謎のアカウントが登録されていて、勝手にメッセージを着信していた。どう見てもめちゃくちゃな英語で、スパムか何かかとブロックしてやろうかと思ったが、見覚えのある単語がいくつか見えたことで、パロットからのメッセージだとわかってぎりぎり踏みとどまった。
 あの幽霊、確かに色んな能力を持っていたらしいが、LINEにアカウントを追加してメッセージを送信する、という謎すぎる能力が今になって明らかになるのどうなんだ。
 ああ、でも、うん、悪くはない。あれが夢でなかったことが、これではっきりしたから。桟敷城は世界の更新と共に二度と入れなくなってしまったけれど、パロットは今もどこかの世界を渡り歩いているのだ。そして、これからは時々、コルヴスからのメッセージも伝えてくれるという。それだけで、少しだけ前向きな気分になれた。別の世界で「これから」を生きていく二人の背中に、こちらの背中を押されている気分になった。
 だから、以前の僕なら躊躇ったであろうその言葉を、迷わず「言う」ことだって、できた。
『その、譲葉さんは?』
 と、途端に、どたどたーん、という酷い音が扉の向こうから聞こえてきた。もう少し正しく形容するならば、階段から落ち……そうになって、ぎりぎり駆け下りるだけで済んだという類の音。
 そして、部屋の扉がそっと開く。と言っても、本当に、紙一枚が通る程度の開き方で。これには流石に日向のおばさんも呆れ顔で言う。
「譲葉(ゆずりは)ー、五月くん来てるわよ、きちんとご挨拶しなさい」
 すると、扉の向こうから、声が――桟敷城で散々聞いてきた「お姫様」の声が、聞こえてきた。
「せ、せめて、化粧、してきてもいい?」
『そのままでも気にしないけど』
「うおおおおおおおおおこの天然タラシめ! あたしは騙されないからな!」
 こいつは僕を何だと思ってるんだ? いや、そういう演技をして欲しいっていうならいくらでもするけど、そういうのは好みではあるまい。
 それに、僕だって「僕でない誰か」の演技がしたくてここに来たわけじゃない。
『隠れてないで、出てきてくれないか』
 
 そうだ、これが僕なりのカーテンコール。
 魔王と姫の茶番劇は終わりを告げた。
 けれど――。
 
『話をしたいんだ』
 
 僕らはやっと出会えた。
 随分遠回りをしてしまったけれど、やっと、夢を叶える第一歩を踏み出せた。
 
『今、ここで、君と』
 
 そうだ。きっと、僕らの本当の物語は、ここから始まる。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:15 アンコール!

 ごうん、ごうん、と。
 鐘の音が鳴る。それは劇の終わりを告げる鐘の音。
 ――幕が下りようとしている。この、桟敷城そのものの終わりが、始まっている。
「さあ、今度こそ終幕の時間ですね」
 舞台の上に上がったコルヴスは、本当は人の目が怖いんだろう。その肩が微かに震えているのは、僕にだけは見えている。見えてないのに難儀なことだと思うが、見えてないだけに、人の気配をはっきりと感じてしまうに違いない。
 パロットはコルヴスの「目」の代わりとしてその横に立ちながら、派手な頭を揺らして言う。
「外も随分騒がしいもんなー、そろそろこの世界も店じまいかな?」
 十五週。それで、この世界は終わるのだという。本来想定していた「終わり」とはいささかかけ離れた形のようだが、それでも、僕もまた言葉には出来ない感覚の部分で、この場に居られる時間はあと少しである、ということを理解していた。
 長くも短い十五週だった。色々なことがあって、見方によっては何一つ変わることはなく、それでいて、僕の中では何かが確かに変わった。変わることができたと、思っている。
 ヒワの手を握る。その小さな手の温もりを確かめる。すると、ヒワが細い指で僕の手を握り返して、こちらを見上げてくる。彼女もまた笑ってはいたけれど、少しだけ、不安そうでもあった。
「……ほんとはね。怖いんだ」
 うん、と僕は頷きをもってそれに応える。
 一番怖いのは、多分ヒワなのだと思う。
 僕はただ、立ち上がる勇気が無かっただけだ。どうしたって、もう一度舞台に立つためのきっかけが必要で、それがヒワとの「再会」だったのだ。
 けれど、一方でヒワはずっと「置いていかれた」と思っていたのだと思う。僕が最初に彼女に感じたように。ヒワはずっと僕の背中を見つめながら、ままならない自分自身をもてあましていたのだと思う。そして、それは今も変わらない。僕がもう一度舞台に立ったところで、ヒワの「怖い」という思いが拭い去れるわけではない。
 その気持ちがわかってしまうだけに、僕はただ、微かに震えるヒワの手を強く握り締めることしかできなかった、けれど。
「んなしょぼくれた顔すんじゃねーよ!」
 明るい声が飛び込んでくる。その声によく似合う、派手な髪をした男が、歌うように言葉を紡いでいく。
「ヒワの話、めちゃくちゃ面白かったぜ! 自信持てよ、背筋伸ばせよ、諦めなきゃ人は空だって飛べんだ。お前さんなら、青空より高い場所、ここじゃない世界にまで連れてけるさ!」
「パロット……」
「それに俺様、ハッピーな話が好きだからさ! 応援するぜ、お姫様! 今度はもっとわかりやすくハッピーなのを頼むぜ、それこそ、ハッピーウエディーング! 二人は末永く幸せに暮らしましたとさ(Happily ever after)、ってやつ!」
 それはお伽噺の定型文。僕らの国では「めでたし、めでたし」と訳されるもの、全ての喜劇の結末。なるほど、かつての僕は「ざっくりしすぎ」だと言ったが、古くから今にまで息づく決まり文句といえた。それは、パロットのいた世界でも変わらないのかもしれない。
 生前は死と隣り合わせの戦場に生きてきて、これからも死と共に生きていくのであろう戦闘機乗りの幽霊は、能天気なようで、意外と核心を突いてくる。本人はそれに気づいていないのかもしれないけれど。
 ヒワは、笑うパロットを真っ直ぐに見据えながら、それでも踏ん切りがつかないとばかりに唇を噛む。すると、コルヴスがそっと、声をかけてくる。
「それでも、レディ・ヒワ、あなたに力が少しばかり足らないというなら。……あなたの手を握る方が、導いてくれますよ」
 ヒワはぱっと僕を見上げる。僕も、思わずヒワとコルヴスを交互に見つめてしまう。そんな僕らの気配を察知したのか、コルヴスはくすくすと笑いながら言う。
「それがどれだけ荒唐無稽な喜劇でも。人間の身体を通すことで、虚構と現実との境界を飛び越える。それが演技であり、舞台というものだと思っています。そうでしょう、ミスター?」
 そう、そうか。コルヴスの言うとおり、それこそが――僕の、役目だ。
 コルヴスはパロットの同僚だったというが、その性質は全然違う。パロットが光り輝く存在であるなら、彼は、パロットの影であったのだろう。人に「魅せる」ための演技を志した僕とは相容れないけれど、演じる、ということに全てを捧げた影。そんなコルヴスが、僕は決して嫌いではなかったのだと、今改めて気づく。
『ありがとう、二人とも』
「いいってことよ!」
「ええ。十分すぎるほどに楽しませていただきましたから」
 この二人、案外息が合っているのかもしれない。普段は相当口さがないやり取りをしているが、それも――一種の「気安さ」がそうさせていたのだろう、と今ならわかる。
 二人がいてくれてよかった。僕の背を押してくれてよかった。
 それは、今、この瞬間だって変わらない。
「さあ、お客様に最後のご挨拶を」
「そうだぜ、びしっと決めてくれよ、魔王様とお姫様!」
 おんぼろ桟敷は今にも崩れかけている。僕の城である桟敷城を含めた、この「できそこないの世界」が、変わろうとしているのが、わかる。
 二人に背を押される形で、僕とヒワは二人で一歩を踏み出す。
 ヒワに視線を合わせれば、もう、ヒワは震えてはいなかった。喜びと、決意と、それでいて好敵手を見るような不敵な目つきで、僕をきっと見据えてくる。
 うん、そうだな。きっと、僕らは上手くやれるはずだ。お互いにお互いの背中を追いかけながら、遥か高みを目指せるはずだ。そして、二人でもう一度手を取り合ったその時には、見るもの全てを他の世界に連れていく。そんな舞台が作れるはずだ。
 作ってみせよう。絶対に。
 言葉にならない思いを胸に、舞台を取り巻く桟敷に向き合う。
 もはや観客席に本来の「観客」がいるのかすらもわからないけれど、この茶番劇を見ていてくれた人は、確かにいるのだと思う。
 ――例えば、そこのあなただとか。
 この劇を見届けてくれたあなたが誰なのか、僕にはわからないけれど。
 それでも、今だけは、あなたのために。
「ありがとうございました!」
『……ありがとうございました!』
 声にならない声をあげて、ヒワと手を取り合って笑いあい、頭を下げて――。
 
 桟敷城の幕が、下りる。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:14 大団円

 凛、と。城いっぱいに声が響き渡った、途端。
 ぽむん、と。どこか間の抜けた音と共に、僕の伸ばした手の先に一人の少女が現れる。
 黄色い髪に黄色い翼の少女――ヒワは、伸ばした僕の手を掴んで、僕の胸の中に飛び込んできた。いつしか抱きしめたときに感じた、いやに軽い手ごたえが腕いっぱいに広がる。
 それから。
「あああああ、ばかあああああああササゴイのばかああああ」
 べしょべしょの涙声が響いたと思うと、僕の胸をぺちぺち叩く感触。全く力の入っていない手は、やっぱり、僕の記憶の通りに小さかった。
「どうして、どうして今まで気づいてくれなかったのさあああ」
 ごめん、と息遣いだけで囁く。果たして、その声はヒワに届いたんだと思う。一瞬、顔を上げて、涙をいっぱい溜めた目で僕を見たかと思うと、ごっ、と僕の胸に頭突きをくれやがりまして。
「ごめんじゃないよこのやろおおおおもおおおおお」
 うん、わかってる。わかってるからせめて顔をぐりぐり擦り付けるのはやめてくれないかな、いくらユニクロのセールで買った服とはいえ、涙と鼻水でびたびたになるのはいかがかと思う。
 とはいえ。
「諦めてないなら諦めてないって言ってよおおおお、ほんとに、ほんとに、あたし、あたし、もう、忘れられちゃったって、もう、約束も守れないって、ずっと、ずっと、うええええええ」
 そうだ。本当に、そうだ。これは何もかも僕が悪い。煮え切らないまま、本当は諦めてなんていなかったのに、諦めたふりをし続けていた僕が悪くて、ヒワとの約束を忘れようとしていた僕が悪かった。
 答える代わりに、ぽんぽんとヒワの肩を叩いてやる。果たして、現実の彼女がどうなっているのかは、今の僕にはわからない。けれど、多分……、まあ、何か、心配する必要はない気がしてきたな。仮にこのヒワが「生霊」のようなものだとしても、これだけ元気なら案外大丈夫なんじゃなかろうかと思うのだ。
 ただ、仮に、僕が彼女を否定し続けていたら……否、もう考えるのは止めよう。
 僕は向き合うと決めたんだ。ヒワに。その向こうにいる彼女に。それから、未だに諦められない僕自身に。だから、「否定した」可能性を考えるのはやめる。
 涙と鼻水で酷い顔をした、けれど相変わらず夢のような色の目をしたお姫様は、僕を見上げて言う。
「ササゴイ、もう舞台に立たないなんて言わないよな?」
 立ってるからね。と笑ってみせる。
 そうだ、ここはもう舞台の上だ。……僕は、今、一人の「役者」として舞台に立っている。彼女の描いた脚本を、彼女が好きだといった「喜劇」で終わらせるために。
 ヒワも、ここが舞台の上だと一拍遅れて自覚したらしい、「ふあっ」と慌てて僕の袖で涙と鼻水を拭く。ちょっとそれ酷くないか。ハンカチの一つも用意してない僕が悪いのかもしれないけど、それは流石に無いんじゃないか。
 それから、何とか真っ赤な目で顔を上げたヒワは……、ぽつりと、問いかけてくる。
「もう、大丈夫なんだな?」
 大丈夫、と言い切るには、少しだけ躊躇いが必要だった。
 確かに今、僕は「魔王ササゴイ」として舞台に立っていられる。けれど、それはこの桟敷城という場所あっての話だ。……夢、と言い切るにはあまりにも僕の手から離れすぎているこの世界は、もうすぐ幕を閉じる。その後、僕は現実に帰っていくんだと思う。あのとっちらかったせまっ苦しい部屋に。
 その後、再び立ち上がれるかどうか、僕にはまだちょっと自信がない。声が出ないのは事実だし、そんな「悲劇の俳優」なんてレッテルを貼られた状態のまま、元の場所に戻っていく勇気を振り絞ることができるだろうか。
 とはいえ、自信がなくとも。勇気がなくとも。
 ――君が、手を引いてくれるんだろ。
 唇だけで、そう囁く。わかってくれただろうか。きっと、ヒワなら、わかってくれたんだと思う。まだ真っ赤な目で、それでも、にっかりと笑ってみせるのだ。
「任せとき! 今度こそ、最高の物語を綴ってみせるさ! 君が自分から舞台に立ちたくなるくらいのね!」
 うん、……なら、僕はきっと、前を向ける。
 君が約束してくれるなら。今度こそ、僕も君との約束を守ろう。
 この舞台の幕が下りても、僕はまた、新しい舞台に立ってゆこう。君のために。君のために、と誓った僕自身のために。
 ヒワは笑う。僕も、きっと、今度こそ上手く笑えていたと思う。この時ばかりは、舞台の上であるとわかっていても「僕自身」の顔で。
 と、不意にヒワが「あ」と声を上げて、僕の顔をまじまじと見た。そのふっくらとした顔はどこまでも不思議そうな面持ちをしている。
「あのさ、さっき……、ササゴイの声が聞こえて、それで目が覚めたんだけど、どうして、だって、ササゴイの声は」
 そう、それは、僕だって不思議だった。
 僕に声はない。今だってそうだ、ヒワに対してかけた声は、どうしたってただの息遣いにしかならない。なのに。
 かつり、と。そこに声ではない音が生まれる。それが杖の音だと気づいたのは、舞台の袖にその姿を認めてからだった。
「ミスターだってご存知でしょう? 声帯模写はボクの特技の一つですよ」
 ――コルヴス。
 ハンチング帽を目深に被った長身痩躯の男は、薄い唇を開く。
 
「意外と、似ていると思わないか?」
 
 ――ああ、完全にしてやられた。
 コルヴスが放った声は、確かに「僕の声」だった。とっくのとうに失われた、僕の。
 この世界が夢であろうとも、僕の声は戻ってきてはくれない。この僕の体が僕のよく知っている僕のものでしかない以上、そこはどうしたって覆らないんだろう。心だけがここにあるヒワとは、そこが違う。
 だから、僕はあの刹那だけ、コルヴスの喉を借りることで「僕の声」をヒワに届けた。そういうことなのだと、僕も今やっと理解できた。
 けれど……、どうして、コルヴスが僕の声を知っている?
 僕の声にならない問いかけを遮るように、華々しいファンファーレが響く。舞台の左右に配置された黄昏色の楽団達が、唐突にBGMを奏ではじめたのだ。呆然とする僕とヒワの前に飛び下りてきたパロットが、歌うように言う。
「ヒワが見せてくれたんだぜ、ササゴイの舞台! すげーよな、本職の役者さんはやっぱ違えーよなー!」
「ええ。本当によかったです、充電が残ってて」
 コルヴスが差し出したのは、僕の知らない、黄色いカバーのかけられた、少し古いモデルのスマートフォン。電波は当然通っていない。けれど、そこにあらかじめ保存されていたものを再生することは、できる。コルヴスなら、僕の演技こそ見えてなくとも、そこから僕の声だけを聞き取って記憶することなど、造作もなかったに違いない。
「さあさあ、魔王とお姫様のお話もクライマックスだ! 盛り上げてくぜえ!」
 パロットは両手を振り上げる。それに合わせて、黄昏色の楽団が華やかな音楽を奏でる。僕の知らない、けれど明らかに「祝福」であるとわかる音楽。いつパロットが劇団員を手懐けたのかは知らないが、パロットの歌声に応えるように、本当ならばただの「影」でしかない黄昏色の彼らが、生き生きと舞台を彩っていく。
 本当に、してやられたとしか言いようがない。パロットとコルヴスには、どうしたって敵う気がしない。僕が「幕は下りていない」と宣言した時から、僕はこの二人に踊らされてたってことだ。否、もしかしたら、その宣言すら、この二人の手のひらの上だったのかもしれない。
 けれど――けれど。
 問いかけずにはいられない。きっと、それはヒワも同じだったのだと思う。僕の代わりに、口を開く。
「でも、どうして……、どうして、二人は、そこまでしてくれるんだ?」
 その問いに対して、コルヴスは不敵に微笑み、パロットはにいっと白い歯を見せて。
 
「ボクはね」
「俺様だって!」
 
『折角見るなら、大団円の方がいい!』
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:13 魔王ササゴイの無声劇

『むかし、むかし。ここではない、遠い世界の物語』
 
 コルヴスのナレーションが響く。
 アドリブだらけのパロットと正反対に、コルヴスは脚本には忠実だ。と言っても、この脚本は僕が即興で書いたもので、多分、ヒワほど上手く「物語」の形には出来ていないと思う。僕は話の筋を評価できても、自分で物語を作る才能がない。
 だからこそ、ヒワが、そこにいたのだと今ならはっきりわかる。
 桟敷城の魔王である僕にとって本当は「脚本家」たるヒワは欠かせない存在で、そして多分、ヒワにとってもそれは同じだった。なのに、舞台に立つことを僕が否定したから、ヒワは「欠けて」しまった。僕の前から、消えてしまった。
 そんな、今の僕に取れる行動は、ただ一つ。
『地底深くに住まう魔王ササゴイは、暇を持て余していました。否、ずっと「何かが足りない」と思っていたのです』
 これは、ある意味今の僕そのものだ。声を失ってから、何もかもがつまらなくなってしまった。それで、誰とも連絡を絶って、一人で穴倉のような部屋に篭って、日々を消化していた。「やればできるはず」「どうとでもなるはず」そんな無意味な呪文を唱えながら、布団の上で溜息をついていた。
 実際には、何一つ納得もしていないのに、満足もしていないのに。だって、僕はまだ約束の一つも果たせちゃいなかったんだ。――なのに、その「約束」すらも、今の今まで忘れていた。
『何かを欠いたまま、魔王ササゴイは一つの「遊び」を考えました。大地の底からは見えない場所、天空の城に住まう姫君をさらってきたらどうだろう、と』
 そのナレーションを合図に、僕は、一歩、足を踏み出して張りぼての舞台の上に立つ。スポットライトの熱を感じたのはいつぶりだろう。舞台を見下ろす「観客」の視線を浴びるのは、いつぶりだろうか。
 体が震える。怖い。そうだな、僕は未だに恐れている。僕を見ている「誰か」の期待に応えられない可能性は、僕の背中にべったりと張り付いて離れてくれない。
 けれど、そんなものはいつだって変わらない。それこそ、声があったころから何一つ変わりはしないのだ。違うことといえば、ここには「かつての僕」を知る者が誰一人いないということ。それだけで、随分気が楽だ。
 さあ、今こそ思い出すんだ、黄昏色の教室で語り合った「魔王ササゴイ」のことを。僕の役目は――全力で「魔王」を演じること。ただ、それだけなのだから!
『天空の城は世界のあまねくを見通すという。ならば、きっと、面白い話をしてくれるに違いない。かくして、魔王ササゴイは、黄昏の兵隊を操り、天空王国の姫君を己の城へとさらってきたのです』
 僕は空っぽの玉座に腰掛けて、足を組む。黄昏色の劇団員たちが「僕」と「ヒワ」の形をとって、今までの記憶を影絵のように次々と映し出していく。
 初めてヒワと出会った日。
 ヒワが必死に僕のために物語を語る様子。
 僕が「つまらない」というたびに、僕のために新たな筋書きを考えるヒワ。
 それは、それは、まさしく遠い日の僕と彼女の関係そのものだった。放課後、黄昏色の教室で、僕らは二人だけの物語を作りあげていた。誰からも自分のしていることを笑い飛ばされた孤独な姫君と、理解者を得られず一人で過ごしていた魔王の物語。二人が出会って、少しずつ「物語」を共有していくという筋書きは、その頃の僕らをただただ戯画化したもので、今となっては酷く気恥ずかしいものでもある。
 それでも、これは今の僕らにこそ必要なプロセスだ。
『一日が過ぎ、二日が過ぎ、幾日もが過ぎました。それでも魔王ササゴイは満足できません。姫君のお話が面白くないわけではないのです。ただ、ただ、何かが足りないと。そんな思いに駆られて、魔王ササゴイは姫君ヒワを縛り続けます』
 その頃の僕は、彼女と言葉を交わすたびに、焦燥のようなものが募っていたのだと思い出す。彼女の物語は日々洗練されていって、陳腐だった筋書きは「王道」へと変わり、やがて僕が一目見て「面白い」と感じられるものになっていた。最初は共に時間を過ごしていただけの彼女が、急に遠くなってしまったかのような、感覚。同じ場所にいながら、置いていかれているような、感覚。
 だから、僕は少しずつ彼女と距離を取るようになった。黄昏色の世界できらきらと輝く彼女の目を、直視できなくなっていたとも言う。
 ただ、最後に一度だけ。卒業と共に劇団に入ろう、という覚悟を決めたその時に、彼女と改めて向き合ったのだ。
『姫君ヒワは、これが最後と言って、一つの物語を語りはじめます。それは』
 その日の僕は。
『――天空の姫と、地底の魔王の、一つの約束の物語』
 そう、約束をしたのだ。
 
「いつか必ず、立派な役者になるから。そうしたら、君の物語を演じてみせる」
「本当に? ……本当に?」
「約束する。だから、君も物語を綴り続けてほしい。僕に届くように」
「もちろん、もちろんだよ、あたしの魔王様! 約束!」
 かわした指きり。その時、僕は初めて彼女に触れたのだと覚えている。彼女の手が、僕のものよりもずっと小さかったことを、覚えている。
 
『遠い日に出会った二人は、必ずお互いの役目を果たして、もう一度会おうと約束しました。けれど……、けれど、その願いは叶うことがなかったのです』
 僕は、玉座から立ち上がる。舞台の上の、影絵が消える。
 だって、黄昏色の影絵は全て幻想だ。物語の中に描かれた「魔王ササゴイ」と「姫君ヒワ」でしかない。
 現実はそうではない。こんなお綺麗なお話じゃない。もっと、どうしようもない顛末だ。
 彼女は多分、僕の言葉を愚直に信じてくれていたのだと思う。小説家としてデビューした、という話を聞いたのは、僕が中学を卒業して少ししてからのことだった。女子高生小説家、という肩書きが話題になったことを、今でもはっきりと覚えている。
 だが、それっきりだった。
 僕が持っている彼女の本は一冊だけ。それっきり、彼女の話題は途絶えた。よくある話ではある。
 一方の僕は、紆余曲折といくらかの幸運があって、なんとか役者として舞台に立てるまでになっていった。僕は一足飛びに階段を駆け上り続けていた。そんな日々の中で、彼女との約束は遠いものとなっていった。けれど、何かが欠けているという感覚だけが、僕の中に残っていて――。
 そして、僕は声を失った。
『魔王と姫君。二人の間に横たわった隔絶は、あまりにも深く。魔王は、約束を忘れ果てていたのですから』
 しん、と。観客席は静まり返っている。咳払いの音すら聞こえない、静寂。
 ああ、そうだ、この感覚だ。僕が長らく忘れていた、忘れようとしていた、背筋のぞくぞくする感覚。もう、この体を支配しているのは恐怖などではない。舞台に立った以上、僕はもはや「魔王ササゴイ」であり、この感覚は「魔王ササゴイ」の興奮だ。
 僕は、そっと己の両手を開く。
 この両手には何もない。僕――魔王ササゴイは、過去の影絵以外に何一つ持っていない。声を失うあの日まで、全力で走り続けたという自負はある。けれど、なりふり構わず駆けていった結果、持っていたはずのものも、取り落としてしまった。一番大切だった約束も、手から零れ落ちていたことに、気づいていなかった。
 気づいていなかったから、あの頃の僕は、聞き流してしまったのだ。
 
 ――彼女が病気がちで、ほとんど眠ったままでいる、ということも。
 
 僕が今まで見ていた「姫君ヒワ」は、彼女の夢だったのだろう。そして、彼女は今もなお、僕との約束に囚われていた。否、彼女自身が望んで、この桟敷城にいたのだ。僕との約束を叶えるために。
 なのに、僕自身が否定してしまった。もう舞台に立てないと、言ってしまった。
 それは、彼女の心を折ってしまうのに、十分すぎたのだと思う。
 今まで気づけなくてごめん。約束を忘れていてごめん。
 君を支えていたのが僕の言葉であったように、僕を支えてくれたものは、確かに君の存在だったのだと、やっと思い出せた。
 だから。
 だからこそ。
 手を伸ばす。虚空に。けれど、まだ君がそこにいてくれているのだと信じて、
 ――ヒワ。
 
「ヒワ! どうかもう一度、君の『物語』を聞かせてくれ!」
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:12 ショウ・マスト・ゴー・オン

 ――僕は、どうやら、本当に大切なことを忘れていた、らしい。
 黄昏色。
 それは、僕と彼女が共有した記憶の色だ。
 放課後の空き教室、密やかな対話。お互いに、今まで他の誰にも語ることの出来なかった、僕と彼女の「夢」を語り合った、全てのはじまりの時間。
 未だに舞台に散らばったままだった白紙の脚本を、ゆっくりと、一枚ずつ、拾い集めていく。何も書かれていないのは当然だ、これは元より「魔王ササゴイ」と「姫君ヒワ」の物語という皮をかぶった、僕ら二人のリアルであって、今までの茶番は僕に遠い日の記憶を思い出させるための手続きに過ぎなかった。
 そしてここから先は、僕らの未来の物語であって。僕にも、ヒワにも、「これから」のことなんてわかるはずがなくて。だから――全部、全部、白紙だった。
 だけど、今ならわかる。
 
『君ならできるさ、魔王様』
 
 かつて、黄昏色の教室で、そう言って笑った君のことが。
 
『頼むぞ、あたしの魔王様』
 
 黄昏色の劇場で、嬉しそうに笑った君のことが。
 
 ヒワ。――僕は、君の本当の名前を知っている。
 けれど、まだ幕は下りていないから、君のことをヒワと呼ぼう。僕の「未練」であるこの城に囚われていた君。今はもう、ここにもいない君のことを。
 そして、僕は両手いっぱいに白紙の脚本を抱えて、舞台の上で顔を上げる。
 視界を埋め尽くすのはちっぽけな舞台には不似合いにも過ぎる無数の客席。僕が最も恐れていたそれは、けれど、今となっては全く恐れるに値しなかった。僕の頭の中を占めているのは、どこまでも、どこまでも、ヒワのことだったから。
 先のない脚本を前に、必死に「姫」を演じていた君は、一体どのような結末を望んでいただろうか。
 遠い日のことを思い出す。黄昏色のシルエットとなった彼女は、陳腐な筋書きでありながら、当時の僕の眼を奪ってやまなかった、彼女の思い描く幻想と冒険に満ちた物語を書き綴ったノートを前に、上機嫌に言う。
『あたしはね、悲劇よりは喜劇が好きなんだよ、XXXXさん』
『喜劇?』
『そう、「すべての悲劇は死によって終わり、すべての喜劇は結婚によって終わる」ってね』
『バイロンの言葉だよな。……ざっくりしすぎだと思うけど』
『確かに、結婚ばかりが喜劇、っていうのは暴論かもしれないけど……、一度幕が上がったなら、ハッピーに終わって欲しいなって思うんだ。あたしは、そういう話を書きたいって思ってる』
 それから、と。
 にっと白い歯を見せて笑った彼女は、こうも言っていたはずだ。
『その主役が君なら、あたしはもっとハッピーだね!』
 ならば、ヒワが思い描いていた脚本の姿も、見えてくる。
 僕の考えていることが、ヒワにとっての正解かどうかはわからない。僕がそれを行動に移す意味があるのかもわからない。けれど、何となく、今までのような舞台の上での重さや不快感は不思議と感じなかったから、多分――理屈ではなく。
 僕が、僕自身が「そうしたい」と望んでいる。
 黄昏色の影が、僕が指示もしていないのに、舞台袖からマントを持ってくる。このどう見てもユニクロでそろえたとわかる上下に、黒に橙の裏地のマントなんて悪目立ちして仕方ないが、舞台に立つ以上は多少「目を引く」要素も必要だ。
 マントを羽織って、軽く腕や足を動かしてみる。随分と鈍ってしまっているが、それでも、舞台の広さと観客との距離、「どのように見えるか」は何となくわかってくる。
 舞台はあくまで有限の空間であり、その場所も、そこに立つ人間も、あくまで物語を演じるために必要なものであって、物語そのものではない。けれど、それらは何一つ欠いてはならない。それらが全て調和し合って、時に反発し、刺激し合って、そうすることで舞台の上にはそのほんのひと時だけ、現実とは切り離された「別の世界」が生まれるのだと、僕は信じている。
 そしてきっと、ヒワも、それを信じている。信じていた。
 ――ごめん、ヒワ。僕は君の気持ちに気づくのが、遅すぎた。
 君が今どこにいるのかなんて、僕にはわからないけれど。これが君に見えているのかもわからないけれど。
 僕も、もう少しだけ、僕自身に正直になってみようと思う。
「おーい、ササゴイ! ……って、あれっ、ササゴイ、珍しいカッコしてんじゃん!」
 似合ってるぜ、と駆け寄ってきたパロットはにっと笑ってみせる。本当に「似合っている」と思ってるんだか思ってないんだか。こいつはものを考えるより前に言葉にしているところがあるから、一応、こいつの感覚の中ではそれなりにかっこよく見えているのかもしれない。正直ダサT着てる奴に共感はされたくないところだが。
「そうそう、桟敷城の公演のことだ! 早く続きを見せろって」
「このままじゃあ、ただでさえ潰れそうなのに、本当に潰れちゃうからねえ」
 パロットの後ろからゆっくり歩いてきたコルヴスの声には多少皮肉げな響きが混ざっていたが、別に、僕を責めているような言いざまではない。この男は、意外と僕には気を遣っくれているのだと今になってよくわかる。
 そして、そのコルヴスも、ハンチング帽のつばを少し上げて、見えていない目で舞台上の僕を「見る」。
「おや……、少し、気分が変わりましたかね?」
 ああ、と応える代わりに頷いてみせる。この距離でコルヴスにこちらの所作が届くとは思わなかったが、それでも、わかってもらえると信じて。
「別にやめてもよいとは思ったんですよ。君は誰にも強制されていない。どう最後の週まで乗り切るか、それだけ考えていてもよかった」
 ――と言っても、もう、覚悟は決まってるみたいですけどね、と肩をすくめるコルヴスの一方で、さっぱり僕の心情なんて理解できないパロットが、ひょこっと僕の顔を見上げてくる。
 
「どうすんだ、ササゴイ?」
「ご決断を、魔王様?」
 
 本当に、今は、この二人がいてくれてよかったと思う。
 ヒワが消え、僕一人取り残されると思ったこの場所に響く二人の声は、ともすれば硬直してしまいそうになる僕の背をぽんと押してくれる。
 桟敷城は今、確かにここにあり――まだ、幕は下りていない。
 ならば、僕は。桟敷城の魔王ササゴイは。
 声無き声で、具体的には手にした脚本の一枚に書きなぐって「宣言」する。
 
『SHOW MUST GO ON!!』
 
 そうだ。
 一度舞台に立った以上、こんな形で終わってたまるか!
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●Scene:11 この舞台は誰がために

 ――一言で言えば、途方に暮れていた。
 パロットとコルヴスから聞ける限りのことは聞いた。ヒワのこと。ヒワがどのような人物だったのか。
 夢のような物語が好きだった。
 この桟敷城が好きだった。
 それから、多分、僕に何らかの願いをかけていた。
 桟敷城の一番高い位置の席に腰掛けて、もはや最低限の灯りしかつけていない舞台の上に、ぼんやりとヒワの姿を思い描こうとする。
 黄色い髪、天空の姫という役柄をそのまま表した、髪と同じ色の羽。光をいっぱいに孕んだ、琥珀色の瞳。小さな体をふわふわと浮かばせながら、舞台の上で出来る限り大きく見えるように背筋を伸ばして、必死に「お姫様」を演じる姿。
 思い出せる。思い出せる、けれど……、どうしてだろう。思い出したところで、何一つ、ヒワについて掴めた気がしない。ヒワがここにいたのは間違いないのに、僕がこうして考えている間にも、一つ、また一つとヒワがそこにいたという痕跡が消えていっているような……、そんな、錯覚。
 否、これは錯覚などではないのかもしれない。パロットやコルヴスから話を聞いてみると、日に日にヒワについての記憶が薄れているような、そんな感覚がある。単なる時間経過によるものではなく、ヒワについて昨日語ったことが、今日にはすっかり欠け落ちている、ような。
 これが鳥頭のパロットならともかく、コルヴスもそうなのだから、明らかに普通じゃない。僕はかろうじてまだヒワについて覚えているけれど、それでも、僕の記憶だって完璧なものではない。もし、僕が彼女を忘れてしまったら、もはやこの桟敷城に、何の意味が――。
「随分冴えない顔してるな、あたしの魔王様」
 突然耳元で囁かれた声に、わっ、と思わず声をあげようとしてしまう。声は出ないのだが、もはやこれは反射のようなものだ。
 けれど、今の、声は?
 それから、今、頭に浮かんだイメージは――。
 混乱する頭を振って振り向けば、そこに想像していた顔はいなかった。
「うーん、やっぱり女声の模写は無理があるな。上手く声が出ない」
 言いながら、けほ、と軽く咳をするのはコルヴスで、その後ろから、パロットが呆れ顔でこちらを見ていた。
「コルヴスー、悪趣味だぞその特技ー」
「悪趣味なのは百も承知だよ。……でも、まあ、それなりに似てましたよね?」
 前半はパロットに、そして後半が僕に投げかけられた言葉であることは、流石にわかった。コルヴスにもわかるように、深く頷く。確かに、今のコルヴスが放った声はヒワの声に聞こえて、それから――、それから?
 さっきの声をかけられて、僕の脳裏に閃いたイメージは、何だったのだろう。
 黄昏色の空。その前に立つ、小さなシルエット。
「悪ふざけが過ぎましたかね、ミスター?」
 僕の「沈黙」を前に、コルヴスが申し訳なさそうな顔をしてみせる。実際、申し訳ないとは思っているのだろうし、多分、平素の僕なら多少の苛立ちすらも覚えただろう。
 けれど、今の僕にとってはそうではなかった。
 ああ、どうしてこの喉は使い物にならないんだ。紙とペンを出すことすらももどかしくて、乱暴にコルヴスの手を取る。コルヴスの手は相変わらず冷たかった。幽霊を自称するパロットがやけに体温が高くて、一応生きた人間であるコルヴスが冷たいのもなかなか奇妙な話だが、そんな雑念は一旦横に置く。
 それから、呆然とするコルヴスの手のひらに、記す。
『もう一度』
「……もう一度、ですか?」
『頼む』
 僕の懇願の意味がわからなかったのだろう、コルヴスは色眼鏡の下で一つぱちりと瞬きをしたが、それから改めて瞼を閉じて微笑んだ。
「我らが魔王、ササゴイ様が望むなら」
 この芝居がかった台詞回し、普通の奴が言うなら鳥肌ものだが、コルヴスのそれは不思議と不自然さを感じないのが面白いところだ。当初からコルヴスの全てが演技である、ということもあるし、その「演技」に対して僕の感覚が麻痺してしまった、ともいえた。
 ともあれ、軽く咳払いをするコルヴスの前で、瞼を閉じる。
 それが彼女の声でないことを理解してしまった以上、もう、あの奇妙な閃きは戻ってこないかもしれない。
 それでも――。
 
「魔王様」
 
 それは。
 脳裏に閃くそれは、確かに、黄昏色の記憶だった。
 黄昏色だと思ったそれは、窓の外に広がる空の色。そうだ、あれは教室の窓だ。僕が舞台の上に立つようになるより前。他の誰にも上手く馴染めずに、ただただ日々を浪費していただけの場所。
 そこに、たった一人立っている誰かの姿を幻視する。
 黄昏色に浮かぶ小さなシルエット。セーラー服姿の少女が、くすくす笑いとともに僕を呼ぶ。
 
「ねえ、魔王様?」
 
 ――思い出した。
 僕は思わず、声にならない声を吐き出していた。
「ササゴイ?」
 パロットの問いかけに、僕は答えることもできないまま頭をかきむしるしかなかった。
 やっと思い出したんだ。今の声が、誰のものであったのか。
 ヒワ。そうだ、彼女の名前は――本当の名前ではなかったけれど、確かにヒワという「役名」であったはずだ。
 どうして忘れていたのだろう。いや、忘れようとしていたのかもしれない。僕にとって、その頃の記憶は大体がろくでもないものばかりで、だから、無意識に何もかもを無かったことにしていた。
 けれど、けれど、その中に、決して忘れてはいけないものが混ざっていたのではないか?
 思いだせ。もっと深く。黄昏色の、その向こうまで。
 
 
     *     *     *
 
 
 放課後の空き教室。
 それが、一日の中で僕が息をつける唯一の時間であり、場所であった。
 僕はこの頃からずっと役者になりたくて、けれど、僕のいる学校には演劇を志望する人なんていなかったし、親は全く僕の話を聞こうとはしてくれなかった――今ならその理由も何となくはわかるけれど。
 というわけで、家に帰れば宿題をしろだのなんだの言われるだけだし、だからといって、どこかの部活に入る気も起きなかった。だから、僕はいつだって、声一つ出すこともできずにただただ本、特に戯曲ばかりを選んで読んでいた。
 ――そんな日々が少しだけ変わったのは、空き教室の住人が一人増えたからだ。
 野暮ったい、黒髪を二つのお下げにした女の子。クラスメイトの一人。当時は名前すらまともに認識できていなかった彼女が教室に居座っているのを見つけた時、僕は失望を覚えたのだった。僕の居場所が失われた、と。
 けれど、彼女は僕の居場所を侵害しようとはしなかった。軽く会釈をするだけで、部屋の片隅で何かを書く作業に戻っただけ。だから、僕もその対角線上で、本を読むことにした。
 彼女が紙の上にシャープペンシルを走らせる音は、いっそ心地よかった。彼女がほとんど手を止めなかったから、ということもある。時々小さく唸るような声が混ざっていたのも、彼女が全く僕の存在に気を留めずに作業に没頭しているからだとわかったから、不愉快とは思わなかった。
 ……だから、だろうか。
 声をかけたのは、確か、僕の方からだった。
「何を書いてるの?」
「ひえっ」
 教室の対角線上から投げかけられた声に、彼女はいたく驚いたようで、黄昏色の教室の中で、黒いお下げが跳ねたのを覚えている。
「しょ、小説!」
「……小説?」
「っ、XXXXさんこそ、何読んでるの?」
 それに、僕はなんと返したんだったか。ただ、その頃の僕に嘘をつく理由は無かったと思うから、普通に答えたんだと思う。それに対して、彼女はほう、と息をついて、それからうって変わって慌てた様子で言ったのだ。
「あ、あたしがここで小説書いてるのは、他の皆には内緒だぞ!」
「別に。言う理由もないから、言わないよ。でも、どんな話を書いてるの?」
 その問いに対して、彼女はぱっと顔を綻ばせて、今までのたどたどしい言葉遣いが嘘のように、ぺらぺらとまくし立て始めたのだ。
「これはね、神様が本当にいて、魔法って力が当たり前の遠い世界で、天空の城にたった一人暮らしてた姫の話で――」
 その筋書き自体は酷く陳腐で、僕は確か、相当棘のある評価を下したんだったと思う。けれど、それを真に受けてしょげたかと思うと、すぐに顔を上げて笑ってみせたのだ。
「話を聞いてくれてありがとう、XXXXさん。参考にするよ」
「いや、ごめん、少しきつい言い方をした。姫の性格づけは面白いと思うよ。折角、頭の回る姫なんだから、もう少し機転を利かせた行動を差し込んだ方がいいんじゃないかな」
「例えばどんな感じの?」
「そうだな……」
 そんな風に。僕は、気づけば彼女の「世界」に足を踏み入れていたのだと、後になって気づいた。そして、彼女の「世界」について語り合うことが、楽しくなっていたことにも。
 彼女の物語は、いつだって筋書きはどこにでもあるような恋愛ものだったのだけれども、それでも、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。彼女が、それを「形にしよう」としているのを見ているのが、好きだった。
 そんな彼女を見ていると、何一つ行動に移すこともせず、口を噤んだままでいる僕自身が情けなくなってくるほどに。
 そんなある日、彼女は言ったのだ。
「XXXXさんは、どうしていつもここで本を読んでるの?」
「僕にも、やりたいことがあるから、その勉強をしてる」
「演劇?」
「うん」
 その頃には、彼女にも僕が何をしたがっているのかわかっていて。彼女は、僕の前にびっしりと手書きで書かれたノートを突き出してきたのだった。
「なら、未来の役者さんに、魔王を演じていただこうか!」
「……魔王ササゴイ?」
「そう。それで、あたしが姫君ヒワ。よろしく、あたしの魔王様!」
 やっと。やっと思い出した。
 どこかで聞いた名前の理由。陳腐な筋書きの既視感。僕のために存在する『黄昏劇団』。
 そうだ、黄昏色の教室で、二人きり。囁くように、紙の上に描かれた世界を演じていく。
 それこそが僕と彼女――魔王ササゴイと、姫君ヒワの、誰一人として観客のない「舞台」だったのだ。
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●Scene:10 ヒワという脚本家について

 ――ヒワが、消えた。
 
 言葉通りだ。
 僕の前から、忽然と姿を消してしまった。
 ばらばらに破かれた、白紙の脚本だけを残して。
 
「ヒワ? そういやどこ行ったんだ? コルヴスは知ってっか?」
「ボクは知らないよ。……最後に見たのは、昨日の朝食の時間だね」
 桟敷城の居候のパロットとコルヴスも、ヒワの行方は知らないという。そして、ヒワのことに関して、この二人が嘘をつくとは思えなかった。パロットはそもそも嘘なんてつけそうにないし、コルヴスはしれっと嘘をついていてもおかしくないタイプではあるが、絶対に「必要の無い」「つまらない」嘘はつかない。そういう意味で、僕はこの二人の発言には信頼を置いている。……名前以外にさして知っていることも多くない相手なのに、不思議なことではあるが。
 かくして、僕は途方にくれるしかなくなった。
 ヒワがいなくなったということは、この学芸会もどきを続ける意味もなくなったということだ。元はといえばヒワが僕に自作の脚本を押し付けてきて、ここに書かれている通りに公演をするのだと言ったのだ。この世界のルールとして、この世界において「魔王」と呼ばれる存在は何らかの「商売」をしなければならないから、と。実際、この世界はそんな奇妙なルールで回っている。
 ただ、商売は別に「公演」である必要は無い。僕の城は劇場の形をしているけれど、劇場でパンや本や家電製品を売ったってよかろう。別にそこに厳密なルールがあるわけではない。だから、残りの日々を、何か適当なものを売るなりして過ごせばいい。
 それでも、僕は途方にくれる。
 だって、僕は何もわからないのだ。
 覚めない夢の中で、何をすべきかもわからない僕の手を引いて。ヒワは、いつも僕に何らかの指針を示してくれていた。最もわかりやすかったのは「脚本」の存在だ。これの通りに公演を進めればいいのだと言われた以上は、それをこなすだけでよかった。
 そのヒワが、いなくなった。
 脚本を破り捨て、僕の手を離して、消えてしまった。
 それなら、僕は――。
「ササゴイ、冷めてしまいますよ」
 コルヴスの指摘に、ボクは慌てて手元を見る。
 朝の食事当番はパロットとコルヴスで――パロットは料理が「できない」とは言わないがとんでもない味音痴で美味いときとそうでないときの差がやたらと激しく、コルヴスは人並みに料理は出来るのだが手元が見えていないため少々危ない。というか、実際、彼の指には火傷やら小さな怪我のあとがいくつも見受けられる。そのため、コルヴスが来てからは自然とコルヴスをパロットが補佐する、という形の食事当番になった――今日の献立は温かなオートミールだった。このオートミール、当初は僕にとってはさほど美味いものには感じられなかったしヒワも文句を垂れていたが、近頃は慣れつつある。……というより、僕らの味覚に合わせてコルヴスが味付けを少しずつ変えてくれているのだ。
 そんな、優しい味のオートミールを腹の中に入れているうちに、少しだけ心が落ち着いてきた。
 そんな僕を、パロットが綺麗な色の眼で覗き込んでくる。
「……ササゴイ、だいじょぶか? めちゃくちゃ顔色悪いぞ」
 大丈夫ではない、と首を横に振る。落ち着きはしたが、途方にくれていること、それ自体は変わらない。
「レディのことが、心配ですか?」
 コルヴスの問いかけに、僕は少しだけ首を捻った。
 ――心配。
 ヒワがいなくなったことで、僕は途方にくれた。指針を失った。ただ、コルヴスの言葉を聞いた瞬間に脳裏に閃いたのは、脚本を破り捨てたヒワの、今にも泣き出しそうな笑顔。なのに僕は、そんな彼女の心境を考えもせずにただただ僕自身のことばかり考えていた。そのことに気づいた瞬間、自分の喉をかきむしりたくなる衝動に駆られる。
 心配か? 否、ただ混乱するばかりで、心配だと思うことすらしなかったのだ、僕は。
 たまらず、手元に置いたメモにペンの先を置く。
『私には』
 そこまで記して、一瞬、手が止まる。
 何と書けばこの二人に伝わるだろうか、この僕の混乱が。戸惑いが。そして自分のことしか考えていなかった浅ましさが。
 それでも、何かを伝えなければならないという思いだけが、僕の手を動かした。
『ヒワがわからない』
 パロットは、僕のメモを読み上げて――これは目が見えないコルヴスへの、パロットのほとんど無意識の配慮だ――それから、首を傾げる。
「俺様だってわかんねーよ。俺様はヒワじゃねーし」
「いや、それはちょっと違うよパロット。ミスターは、多分こう言いたいんじゃないかな」
 コルヴスは食後の紅茶で唇を湿してから、顔をこちらに向けて、静かに言った。
「ミスターは、レディのことを、何も知らないと言いたいのでしょう? 彼女の考え方、彼女の趣味嗜好、彼女の行動選択の理由。だからこそ、彼女が消えたことが納得できない。納得できないから、心配のしようもない」
 コルヴスには本当に舌を巻く。彼は目で見る以上に僕の顔色を、思考を、的確に読み取ってくる。ただ、もしかするとそれは「同属」だからなのかもしれない。方向性は違えど「演じる」ことに慣れきった僕らだからこその、一種の共感。
 コルヴスの言葉に「そっか」と頷いたパロットは、僕に向き直って、きょとんとした顔で言った。
「ササゴイって、ヒワのこと、何も聞いてなかったんだな」
 ――ああ。
「ヒワ、色々面白い話してくれたんだぜ。何のとりえも無い女の子が、突然知らない世界に召喚される話とか! 誰にも見えないけど確かにそこにいるお化けの事件を解決するコンビの話とか! 自分の未来を変えるために必死にあがく連中の話とかさ!」
「ほとんど、即興の作り話でしたけどね。……でも、彼女にはストーリーテラーの才能がありましたよ。どうしてあんな陳腐な脚本を書いていたのか、不思議なくらいです」
 その陳腐さも嫌いじゃなかったんですがね、とコルヴスはどこか懐かしむような表情を浮かべる。
 ……僕はそんな話、ヒワの口から聞いたことがなかった。ごく基本的な練習方法についてあれこれ教えて、これからの展開をどう演じていくかを相談して、あとは、いつだって潰れかけの桟敷城をどう盛りたてていくかを話し合うくらいだった。
 そうだった。
 僕は、いつだって僕の周りの不思議が夢なのだとばかり考えていて、その不思議について思いを馳せることはあっても、ヒワについて何一つとして知ろうとしなかった。否、知りたいと思わなかったわけじゃない。彼女の存在を疑問に思わなかったわけでもない。
 それでも、どこまでも夢の中なのだから、僕が魔王でヒワがお姫様だという設定は「そういう設定」であって、僕はヒワから言われたことを、ただ粛々とこなしていればいいのだと……、そんな風に決め付けることで、考えることをやめていた。
 けれど、多分、そうじゃないんだ。
 この桟敷城の存在は確かに夢、もしくは僕の心象風景かもしれない。現実ではありえないことしか起きないのだから、夢と考えていても問題は無いはずだ。
 けれど、ヒワは。ヒワのことだけは。ただの僕の妄想で片付けるには、あまりにも「僕」からかけ離れすぎている。それを言ったら、パロットとコルヴスも、それに僕に語りかけてくれてきた人々全てがそうなのだけれども。
『もっと、教えてくれないか』
 僕は「言う」。僕の声はいつだって、紙の上に走らせるペンの速度でしか届かず、それが酷くもどかしい。パロットがコルヴスのために僕の書いてくれた文字列を読み上げてくれるのに内心で感謝しながら、更にペンを走らせる。
『もう、手遅れかもしれないけど、それでも、私は知りたい』
 知らなければ、いけない気がするのだ。
 知りたいと願う僕のために。それに――もしかすると、ここにいたヒワのためにも。
『ヒワのこと。ヒワが、どうして、桟敷城に「囚われて」いたのかを』
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●Scene:09 君の脚本を破り捨て

 タイムリミットが刻一刻と迫っている、と魔王たちが噂する。
 そうなのかもしれない。この夢が覚める日がやってくるのかもしれない。もしくは、永遠に覚めない日が。別にどちらでも僕にとっては変わらないことだ。「終わり」というのは、それだけで少し恐ろしいような気はするけれど、気にしたところで僕一人がどうこうできる問題ではないのだから。
 ただ、日に日に、焦燥感が募るのはどうしてだろう。今まで「どうにかしよう」と内心何度も呟きながら、結局行動にも移す気になったことがない僕らしくもなく――僕は、多分、いつになく焦っている。何に対して焦っているのか、何をしていいのかもわからないまま、ただただちりちりするような感覚が徐々に胸の端を焦がしている。
 いや……、目を逸らしているだけで。何に対する焦燥なのかは、とっくにわかってはいるんだ。
 僕は気づいてしまった。向き合ってしまった。僕自身がまだ、諦められていない、という事実に。
 けれど、だからといってどうすればいいんだ?
 そろそろと、張りぼての舞台の上に立ってみる。広すぎる観客席には人一人いない。それでも、自然と指先が震える。指だけじゃない、全身が。言ってしまえば、舞台の上で震えるのはヒワやコルヴスも同じだ。何があろうと堂々と振舞えるパロットみたいな奴は、例外中の例外と言っていいと思う。
 ただ、ヒワのそれは激しい緊張で、コルヴスのそれは「見られる」ことへの羞恥と恐怖だが、僕のそれは多分どちらとも違う。
 ――僕が恐れているのは、きっと。
「ササゴイ」
 突然投げかけられた声に、はっとそちらを見る。見れば、いつの間にかヒワが舞台の上に立っていた。
 今日は、調子が悪いから練習は休みだと朝に伝えたはずだ。けれど、ヒワは真っ直ぐに僕を見据えたまま、いつになく真剣な表情で口を開いた。
「話があるんだ」
 
 
          *     *     *


 僕とヒワは、舞台の縁に腰掛ける。どちらともなく。
 そして、しばしの静寂が流れた。何せ僕からヒワに何かを切り出そうにも、僕が話すこともなければ、話す声もない。メモ帳の上に、ペンでぐるぐるとよくわからない図形を描くことしかできない。
 やがて、僕の横に腰掛けたヒワがやっと口を開いた。
「……ササゴイは、コルヴスと話をしたんだな」
 ああ、その話は結局コルヴスから伝わったのか。僕から言うことは何も無いと思っていたから、コルヴスと何を話したのかヒワとパロットには伝えていなかった。ただ、その日あたりから僕の様子がおかしいことくらいは、ヒワも気づいていたんだろう。
 そして、きっと。
『ヒワは』
 最初から。桟敷城で目覚めた僕を「魔王ササゴイ」と呼んだその時から、もしくは僕が目覚める前から、ずっと。
『私が役者だってことを、知ってた?』
 僕の問いかけに、ヒワは顔を露骨にこわばらせた。それでも、絵に描いたようなふっくらとした唇を震わせながら、はっきりと、言った。
「うん。あたしはササゴイが何だったのか知ってる。君の本当の名前だって」
 そっか、と僕は唇だけで囁いた。
 別に驚きはなかった。そうだろうな、とは随分前から思っていた。僕に舞台に立ってくれないかと頼んできた頃から、彼女は僕の不機嫌に気づいていた。僕が本職の役者だからこそ、そんな僕の前で「演技」をするというのがどういうことか、わかっていたのだ。だからこそ、僕に稚拙さを叱責されると怯えていたのだと、今なら認めることができる。
「……ササゴイは、怒らないんだな。あたしが黙ってたこと」
『怒る理由がない』
 ヒワがずっと黙っていた理由はわからなかったけれど、僕が「誰」なのかを具体的に指摘されないだけ、ずっと気楽だったのは事実なのだ。不思議には思えど、怒る理由なんてどこにもない。
 僕――魔王ササゴイでない現実の僕は、かつて、舞台に立つことを生業とする俳優だった。
 正確に言えば舞台俳優だと胸を張れるようになるまでに紆余曲折といくらかの幸運があって、舞台の上に立ち続けていられたのだと思っている。
 うん、そうだ。冷静に思い返してみれば、僕はその時疑いもしていなかったのだ。このまま、ずっと、充実した舞台上の日々が送れるのだと。夢が叶った日々が続くのだと。
 それを、どうしようもなく、病によって絶たれるまでは。
 張りぼての舞台に、大きすぎる観客席。
 この桟敷城が歪な形をしている意味も、今なら何となくわかる。そして、ヒワも僕が無数の観客席を見つめていることに気づいたのだろう。ぽつり、ぽつりと、言葉を落としていく。
「あのさ。ササゴイからは、現実が、こういう風に見えてたんだな」
 僕は一つ頷くことで、ヒワの言葉が正しいことを伝える。
 張りぼてで取り繕った舞台は、まさしく今の僕自身だ。
 僕は、昔から僕自身の形のまま表に立たないようにしてきた。現実でも、ほとんど「僕」を露出させずに、あくまで「役」としての僕を見せることだけを考えて生きてきた。舞台裏など、本当の自分など、見せる必要はない。プライベートを限りなく隠して――と言っても、僕のプライベートはほとんど「演劇」をするための手続きに費やされていたけれど――その分、舞台の上の「誰か」を見てもらいたかった。僕という肉体を、精神を通して僕でない「誰か」を表現すること。舞台の上にいる時だけは別の誰かとして全ての人の目に映ること。それが「演技者」としての僕の目指すところだったのだ。
 けれど、どうしたって、それは叶わなくなってしまった。
 声を失ったことは確かに酷い痛手だった。けれど、それ以上に、無数の、それこそ「演技者」としての僕を知らない連中までが「僕」に注目したのだ。そりゃあ格好の話題だろう、病で声を失った俳優なんて。
 だけど、僕は。
『私は、私のまま衆目に晒されるのが堪えられなかった』
 この無数の観客席は僕にとっての「脅威」の象徴だ。ある意味ではコルヴスが恐れたそれに近いかもしれない。ただ、少しだけ違うのは、僕が恐れている視線の意味だ。
『私は、「私」が失望されることに堪えられなかった』
 僕に向けられるものの大体は好奇と哀れみの視線。けれどそれ以上に恐ろしかったのは、「失望」だった。舞台上の「僕ではない誰か」を見てくれていた人が、リアルの、生身の僕に向ける「失望」。その視線に気づいてしまった瞬間、心が折れる音がした。
『だから逃げた。全ての連絡を絶って、遠くに引っ越して、これから何かをしようとする気すら起きなかった。君に呼ばれるまで、ずっと。それでまた、こんな、舞台に呼ばれるなんて、思わなかったけれど』
「そっか」
 一気に書き記した、いつになく汚く荒れた文字列を、それでもヒワは一目で読み取ってくれたらしい。眉を寄せて、きゅっと唇を引き結んで。それから、囁くように問いかけてくる。
「もう、舞台には立たない?」
 ペンを持つ手が震えた。ああ、これを「言う」のは流石に勇気がいるんだな、と僕は僕自身を笑いたくなる。
 けれど、今の僕の、素直な気持ちを、殴るように書き記す。
『立てないよ』
 ――誰も見ていない舞台の上ですら、震えが止まらないんだ。
 こんな僕が、かつてのように「誰か」を演じることなんてできない。もう僕以外の何にもなれないものが、舞台に立つことなんて、僕自身が許せそうにない。
 すると、ヒワが。
「ごめん、ササゴイ」
 ぽつり、謝罪の言葉を漏らした。一体何への謝罪なのかわからず目を点にする僕に対して、ヒワは観客席に目をやって、背中の羽をゆったりと動かしながら言う。自分自身に言い聞かせるように。
「あたし、ササゴイの望みを取り違えてた。……そうだよね。そんなことがあったら、当然だよね。うん、あたしが浮かれてたんだね」
 だから、と。
 言って立ち上がったヒワの手には、いつの間にか分厚い脚本が握られている。
 どういうことだ、という声はヒワには届かない。僕の口から声が出ることはないのだから。
 ヒワは両手に持った脚本を、広げて――。
 
「もう、おしまいにしよう」
 
 そのまま、勢いよく破り捨てた。
 ばらばらと、無数のページが舞台の上に広がっていく。僕はただそれを呆然と見つめることしかできない。ヒワはその上に浮かびながら、じっと、僕を見下ろしている。
 恐る恐る、破り捨てられた脚本の一枚を、手に取る。
 それは……、白紙だった。
 その一枚だけじゃない。僕の視界に映る床に落ちた紙の全てには。
 
 何も、書かれてはいなかった。
 
 見上げたヒワは笑う。今にも泣き出しそうな顔で。
 ――僕が、どこかで見た顔で。
 
「お別れだ、あたしの、」
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:08 叫ぶための声もない

 あれから――あれから、特に何も無かった。
 ちょっとしたハプニングはあったが、いつもと少し違う客相手の公演も何とかかんとか幕を下ろして、それからは今までと何一つ変わらない、練習と宣伝の日々だ。
 強いて変化があったとすれば、何故か僕とコルヴスとの関係が少し良好なものになった、くらいか。コルヴスはどうも人との距離感を測るのが苦手らしい、というのはパロットから後で聞いた話だ。空気あえて読まない芸人のパロットに言われるのも相当アレではあるが、確かにパロットのそれと、コルヴスのそれとは全く質が違うらしい、ということはあの日の一件でよくわかった。
 そして、わかってしまえばどうということはないのだ。僕も、コルヴスも、お互いの見えてる地雷を踏みぬくような真似はしない。もとい、コルヴス曰く「地雷を踏む相手は選びますよ」とのこと。つまり相手によっては見えてても踏んでくるらしいが、今のところその様子がない以上は、僕の地雷を踏む価値は特に感じていないということだろう。いいことだ。
 いいことだ。いっそこのまま、永遠に、同じような日々を過ごしていられればいいとすら思い始めるほどに。
 未だ夢は覚めない。数だけは多い観客席と、張りぼての舞台を持つ劇場の夢。いつか必ず終わると予言はされているけれど、それでも、僕にとっては変化の無い、桟敷城での日々。
 ヒワの書いた脚本は、ちょうど半分を越えたくらいだ。分厚い手書きの脚本は読みづらいったらなくて、僕は未だに脚本の結末を知らないまま、ヒワとパロットと、ナレーションとして参加することになったコルヴスに稽古をつけている。
 今日も、僕は全員が集まる前に、舞台の袖で今回の脚本を確かめる。
 桟敷城の魔王ササゴイにさらわれた天空王国の姫君ヒワ。魔王は姫君に『己を楽しませろ』と一方的に告げた。そして、姫君は魔王にいくつかの物語を語って聞かせるけれど、魔王は一向に満足した様子が無い。
 けれど、姫君がある物語を語り始めたその時、魔王の様子が少しだけ変わった――。
 まるで起伏も何もない、正直面白くもなんともなかった物語が、初めて動き出す場面といっていいだろう。霧に包まれたような物語の全容が、少しずつ明らかにされていく、そのきっかけの場面。
 僕は椅子に腰掛けて、脚本をめくる。膝の上に載せながらでないと、手が疲れてしまう程度には重たい脚本だから仕方ない。
 今、『魔王ササゴイ』は僕の使役できるもの――黄昏色の不思議な影の劇団員が演じ、魔王には元より台詞が用意されておらず、魔王が何を言ったのかはヒワやパロットが代弁する。これからはナレーションのコルヴスに言わせてもよいだろう。
 脚本を手繰る。
 天空王国の姫君ヒワは、ある時から一つの運命を担っているという。
 世界の――これはこの「できそこないの世界」とは関係の無い、あくまで舞台上の話だ――存亡に関わる、重大な運命。そして、それは黄昏色の記憶と結びついているのだとヒワ姫は言う。
 黄昏。何度も出てくる言葉であり、この桟敷城を象徴する色でもある。物語の『魔王ササゴイ』は黄昏色の兵隊を使役し、桟敷城の魔王である僕は、黄昏色の劇団員を操ることができる。そもそも、この劇団の名前が『黄昏劇団』なのだと、ヒワが言っていたことを思い出す。
 これは、単純にヒワが好きな色とか、そういうものなのだろうかと思ったが、少しばかり引っかかる。
 桟敷城は、ヒワのものでは、ありえないのだ。
 最初にそこにいたのはヒワ――とパロットだが、パロットは客人であることがはっきりしている――だった。けれど、桟敷城の全ての決定権は僕にあり、黄昏色の劇団員も僕に従う。ヒワは脚本を書いて、姫を演じるだけで、桟敷城の全てを操れるわけではない。
 なら、この桟敷城は、どうして黄昏色をしているのだろう。
 僕の影は、どうして黄昏色をしているのだろう。
 そして、ヒワは、どうして桟敷城にいるのだろう。
「――ササゴイ?」
 刹那、鈴を鳴らすような、声がした。
 そちらを見れば、黄色い羽を持った少女が、壁の後ろから恐る恐るこちらを見ていた。
「どうした? 随分、怖い顔をしてる」
 ヒワの言葉に、僕は意識して顔の筋肉を緩める。ヒワについて色々と考えていたのは事実だが、何も、ヒワを脅かしたいわけではないのだ。
 ヒワの存在は、僕にとって夢のようなものだし、実際に夢なのだと思っている。黄色い髪に黄色い羽、舞台上の役そのものの姿をした「お姫様」。そんなもの、現実にはあり得ない。
 だから、疑問に思うことをやめていた。そういうものなのだと自分に言い聞かせて、考えても意味が無いのだと思うことにしていた。
 けれど、本当にそれでいいのだろうか。
「ササゴイ。ここしばらく顔色が悪いぞ、少し休んだらどうだ?」
 こちらに音もなく近づいてきた――浮いているから当然だ――ヒワは、きらきら輝く琥珀色の瞳で僕の顔を覗き込んで、そんなことを言う。なるほど、ヒワからはそう見えているのか。コルヴスと僕との間にあったやり取りを、僕は結局ヒワとパロットには伝えていないから、そう見えるのは当然かもしれない。
 コルヴスに僕自身を暴かれたあの日から、僕は、夢の中で夢を見るようになっていた。
 遠い日の夢。実際にはそんなに前のことではないけれど、もはや遥か遠くのことのように感じられる、僕が「全て」を失った日の夢。
 ササゴイ、と。ヒワがもう一度僕の名前を呼ぶ。否、僕の役柄の名前を呼ぶ。
 僕は本当はそんな名前じゃない。ただ、その「名前」で呼ばれることが、何よりも心地よかった。最低でも、この場所では。この夢の中では。僕を「かつての僕」として見てくるモノは誰もいなかったから。
 なのに、僕は思い出してしまった。コルヴスの言葉がきっかけではあったけれど、コルヴスは別に悪くないと思っている。これは、ずっと、忘れていたふりをし続けていた僕自身の問題だ。
 スポットライトの下で、喝采を浴びていたことを思い出す。観客席の全てを見渡して、彼らの視線がこちらに向けられていることを意識する。誰もが僕を見ていた。僕という肉体を持ちながら、僕ではない「何者か」となった僕を。
 そうだ、僕は何にだってなれた。なれるのだという自負があった。
 僕はそうやって「演じて」「魅せる」ために、いくつものものを削り落としてきたし、その選択を後悔したことは一度もない。選び取った、ということ自体は僕の誇りであり続けている。
 だけど。だけど。
 誰もが僕を見ている。舞台から引きずり降ろされた、「僕」でしかありえない僕を。
 もう、何かになることもできない僕を。
「……ササゴイ、大丈夫か? ササゴイ?」
 頭が痛い。喉が焼けるようだ。
 嫌だ。僕はそんなこと望んだ覚えはない。死に至るならそれでよかったんだ。それまでの時間だけでも、舞台に立たせてほしい。そう訴える僕の言葉など、誰も聞いちゃくれなかった。お前には、まだ、未来があるのだから、と。諦めるにはまだ早すぎる、と。
 諦めたわけじゃないというのに。僕はただ、僕の夢を叶え続けていたかっただけなのに。
 そうして、僕を待っていたのは、無数のカメラのフラッシュと好奇の目。声を失った、悲劇の舞台俳優。違うんだ、僕はそんなものになりたかったんじゃない!
 だから、逃げた。人の「目」から逃げて、逃げて、逃げ続けて、そうして、ついには夢の中にまで逃げ込んだのだ。
 誰一人として僕の名を呼ぶことのない、過去も未来もない、この場所に。
 けれど――ここでも、まだ、僕は。
「ササゴイ!」
 分厚い脚本を握りしめる。
 僕だって舞台に立ちたいに決まっているだろう!
 どんな張りぼての舞台だって構わない。僕がなりたかったものになれる、唯一の場所に、もう一度立ちたいに決まってるだろう!
 
 なのに。
 
 僕には、そう叫ぶための、声もない。
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●Scene:07 他人事オーディエンス

 結局のところ、桟敷城には住人がもう一人増えることになった。他に行き場が無いと言われては、宿を貸さないわけにも行くまい。別に、部屋は作ればいくらでもあるのだし、食糧にも困ってないんだから、ケチなことを言う理由もない。
 新たな住人の名は、コルヴス・コラクス。盲目の白鴉、ここではない世界の住人であり、パロットの友人。元は戦闘機乗りで、視力を失ってからは整備工を生業にしているとか。なかなか波乱万丈だ。
 そのコルヴスは、目が見えないってハンデこそあるが、当たり前のように一人で桟敷城を闊歩しているし、生活にはそこまで不自由していないようだった。
 どうも、手足の感覚だけでなく、杖や足で立てる音の反響で空間を把握しているらしいが、正直人間業じゃない。なお、パロットは「え、そのくらい普通じゃね?」みたいな顔をするのであいつはあいつで人間を辞めているのだと思うことにしている。実際コルヴスも「パロットよりは耳が悪い」とのたまうので、僕の見解もそう的外れじゃないはずだ。
 だから、目下の懸念事項は――僕とコルヴスとのコミュニケーションだ。
 コルヴスが「見る」という能力を失っているのに対し、僕には「声を出す」という能力がない。いや、訓練すれば発声は可能らしいけれど、意味を感じなかったのだ。それこそ、コルヴスと対峙するようになるまでは。というか、パロットがスマホを壊さなきゃもうちょいやりやすかったんだろうけど。
 もちろん、僕がコルヴスと積極的にコミュニケーションを取る理由はそこまでなくて、話す必要に迫られた時は、通訳ならヒワかパロットに頼めばいい。だから、そういうものだと割り切ってしまえば済むことで。
 実際、それでもよかったのだ。
 よかった、はずなのに。
 

          *     *     *


「ミスター・ササゴイは、舞台には立たれないのですか?」
 公演は始まっている。日々の練習の成果もあってか、やっとこささまになってきたヒワの長台詞を舞台袖で聞いていたコルヴスが、唐突に僕に問いかけてきたのだ。
 ヒワも、パロットも舞台の上にいる。僕やヒワが操ることのできる「影の演者」も、僕の言葉を代弁してはくれない。何せ、彼らは一様に言葉を持たない。……もしかすると、それも僕の影だからかもしれないけれど。
 コルヴスはいつだって芝居がかった言い回しかつ、よく響く声で喋る。ただし、その声は「聞かせたい相手」以外に聞こえることのない声でもある。よく訓練されている。僕も似た訓練を知っているから、その難しさはよくわかるが……。
「ミスターは、声を出せないと伺いましたが、その様子だと声帯の切除でしょうか」
 ――初めて。
 この男は、僕の「声」に言及してきた。
 ヒワもパロットも、僕が『何故』声を失っているのかを聞いてくることはなかった。だから、声について話を振ってきたのは、コルヴスが初めてだ。これが「声帯の切除」であると確認されたのも。
 僕は頷き一つでコルヴスに応える。見えていなくとも、コルヴスはこちらが首を縦に振ったか横に振ったかくらいは、気配で察する。
 けれど……、何故、わかった?
 僕の内心の問いを、果たしてコルヴスは正確に受け取ったに違いない。音もなく僕の目の前にやってきたかと思うと、僕の喉元に冷たい指で触れる。
「ミスターの振る舞いは、内因性の症状には思えなかったので。時々、唇だけで喋っていると思われる時もありますしね」
 ああ、本当にコルヴスはよく「見て」いる。ほとんど無意識に、反射的に、喋ろうとして、そして喉から声が出ないと理解するたびに。僕は――。
 やめよう。考えたところで何が変わるでもない。別にここにいる限りは困ることはほとんどないし、仮に「目が覚めた」ところで、僕の過ごし方が変わるわけでもない。
 変わらない。変わらない、はずなのに。
「それで。……舞台には、立たれないのですか?」
 もう一度、コルヴスは僕に問いかけてくる。
 僕は、その問いかけに首を縦に振ることはない。僕は舞台に立たない。座長なんてお飾りの役職にすえられながら、裏方でヒワとパロットと影の劇団員たちの芝居を眺めているのが僕の役目だ。
 けれど――首を、横に振ることもできなかった。
 コルヴスは、見えていないはずの目を開いて、じっと、色眼鏡越しに僕を見つめる。光を映さない代わりに、僕の奥の奥を見透かすように。
 何故、そんなことを問うのか、と。僕は唇の動きだけで問う。普通ならば「声」として届かない音でも、今この場におけるコルヴスには十分だったらしい。細い顎の前に人差し指を立てて。
 
「だって、あなたは『役者』でしょう?」
 
 そうのたまって、笑ってみせるのだ。
「本職の役者が舞台に立たないなんて、それこそ怠慢ではありませんか?」
 コルヴス。コルヴス・コラクス。
 僕はこの男を見誤っていた。どこか芝居がかった、否、芝居そのものといえる「桟敷城の客」を演じながら、誰とも軋轢を起こさずに生きているばかりの男だと思っていた。
 けれど実態はそうじゃない。そうじゃないんだ。この男は、客という仮面の下から、僕を「観察して」いる――!
 気づいてしまった瞬間、僕はコルヴスの目を潰してしまいたいという、激しく強烈な衝動に駆られた。この男は。僕が何一つ言っていないのに。僕が『役者』だと見破ってみせた。ああ、違う、目を潰すのでは意味がない。この男の目は見えていないのだから。
 なら、僕は。
 僕は――。
 気づけば、すぐ傍に立っていたコルヴスを突き飛ばしていた。僕の、完全に衝動的な反応には流石のコルヴスも対応しきれなかったらしく、たたらを踏んで、その勢いのままに舞台の上にまろび出てしまう。
 舞台上のヒワは、突然の闖入者に長台詞がすっ飛んだらしい。パロットは変わらない調子で、むしろその闖入者を面白がるような台詞をでっち上げて見せる。そういう突発的な事態へのアドリブ――というかパロットのそれは本当に素直な反応なのだが、結果として舞台の推進力になる――はパロットの十八番だ。
 だから、この程度のアクシデントはどうということない。
 そう、思っていたのに。
「あ、……ぁ」
 心細く響いたその声が。酷く混乱していた僕の意識を現実に否応なく引き戻す。
 コルヴスは、舞台上に棒立ちになっていた。スポットライトを浴びて、姫と魔王の謁見の舞台に立たされて、そして――、酷くおびえた顔で、立ち尽くすことしかできずにいた。
「ササゴイ!」
 舞台の上で、パロットが鋭く叫ぶ。それが台本にない台詞である、とわかった瞬間、影の演者を何人も舞台の上に生み出して、コルヴスを一気に舞台袖まで引き戻す。
 舞台袖に戻ってきたコルヴスは、床に膝をついて、長い腕で自分の体を抱いて、顔面蒼白で震えていた。けれど、僕が傍にいるということはわかったのだろう、何とか作り笑いを浮かべて僕を見上げる。
「ああ、その……、みっともない姿をお見せしてしまって……、申し訳ない」
 いや、これは、僕の失態だ。判断ミス、と言い換えていい。
 コルヴスも僕と同じ「役者」には違いない。こうして、咄嗟に作り笑いを浮かべてみせるくらいには、自分を取り繕う、本来自分のものではないものを演じるということに慣れきってしまっていることを、僕は自然と悟っていた。
 コルヴスが僕を「役者」だと見抜いていたのと同じように、僕もまた、コルヴスは僕の同類なのだと理解はしていたのだ。この男の態度は、常に演じられているものだ。他の誰も気づいていなかっただろうが、僕だけは、それをただただ「気持ち悪い」と感じていた。
 ただ――コルヴスのそれは、人に「見せる」ための姿であって、人を「魅せる」ためのそれではないと、思い知らされた。
 コルヴスは、役者ではあるが僕と違って「舞台に立つ人間」ではないのだ。
 膝をついて、コルヴスの手を取る。冷たく、そして酷く震えている手だ。
 ごめん、と。その手のひらに文字を記す。
「謝らなくてもいいんですよ、ミスター。ボクの方が不躾でした」
 それでも。もう一度「ごめん」をコルヴスに伝える。
 僕の勝手な感情のままに、「人の前に立つ」だけでこれだけ怯えあがってしまうコルヴスを衆目に晒してしまった。知らなかったとはいえ、苦痛を与えてしまったことには、謝罪しなければならない。
「……ミスターは」
 ぽつり、と。声が降ってくる。
「諦めきれないのですね」
 それは、僕にだけ聞こえる声だ。舞台上のヒワとパロットには、きっと聞こえない声。
 そう――そう、なのだ。
 諦めきれないから、コルヴスの問いに答えられなかった。それどころか、逆上してしまった。僕は、言うまでもなく……。
 舞台袖から舞台を見る。張りぼてばかりの、けれどきらきらと輝く世界。観客はほとんどが演劇のよさなどわからない、勇者どもであったとしても。
 それでも、舞台の上には一つの世界があって。
 僕は、その世界を映し出すスポットライトに、憧れて止まないのだ。
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●Scene:06 迷子の白鴉

「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 桟敷城の公演、はっじまるぜー!」
 今日もパロットの声が高らかに響く。
 僕ら桟敷城の面々が売るのは、物体としての商品ではなく舞台上の「公演」だ。もちろん、それに付随してものを売ることもあるが、何せ、舞台とその客席という、劇場の形をした城なのだから当然目玉は公演になる。
 何故、この城が他のほとんどの魔王の「ものを売るための」城と違ってこんな形状なのかは知らない。桟敷城の魔王である僕自身が何一つとしてこの城のことを理解できていない。何かを知るらしいヒワも未だ口を閉ざしたまま、よくわからない「魔王」と「姫」の劇だけが進んでいる。
 とはいえ、元よりこれは僕の夢の中、わけのわからない世界の、わけのわからない日々の出来事なのだ。理解よりも先に慣れが来て、僕は今日も朝にはヒワとパロットの練習を見て、昼にはパロットの声に合わせて舞台のチラシを配るという「普段通り」の日を送ろうとしていた――、が。
 突然、パロットが呼び込みの声を止めて、不意にある一点を凝視した。
「あ、」
 パロットの視線の先に立っていたその何者かが、「勇者」でなく、僕と同じ「魔王」でもないらしい、ということはすぐにわかった。
 それにしても、パロットもそれなりに大きいが、パロットが見つめる男はもっと大きかった。大きい、というよりは「ひょろ長い」と言った方が正しいか。背丈があるのに加えてやたらと手足の長い、どこか人間離れした体つきをした、ハンチング帽を目深に被った男だった。
 そんな、桟敷城には珍しい純粋な「お客様」は、片手に荷物を抱え、片手の杖と靴をかつかつ鳴らして、「あ」の形に口を開いたまま硬直しているパロットに近寄ってきたかと思うと――手にした杖を足元に投げ捨て、無造作に、その胸ぐらを掴んでぐいと引き寄せたのだった。
「パロット」
 男の薄い唇から放たれた声は押し殺されてはいるが、それでも、パロットから少し離れていた僕の耳に届く程度にはよく響いた。
 男の顔は、パロットの陰になって僕からはよく見えないが、
「ボクはね? 地図だけ渡されたって、読めないんだよ? わかる?」
 ――苛立ってるんだろうな、ってことくらいは、声音から明らかだった。
 どうやら、パロットとこの男は知り合いらしい。パロットは胸ぐらを掴まれながら、特に抵抗する様子もなく、ただ「あっ」と間抜けな声をあげる。
「悪い、忘れてた!」
 その、あまりにもあっけらかんとした答えに、男は鼻白んだに違いない。一拍置いて、パロットの胸を掴む手を緩めた。
「……君はそういう奴だよね。うん、わかっていた。わかっていたとも」
 ああ、何か、既視感がある。これは、僕が常々パロットに抱いている感想だ。そう、パロットの鳥頭は「そういうもの」としか言えないし、諦めるしかないのだ。怒るだけ無駄、と言い換えてもいい。
 パロットから手を離した知らない男は、杖を拾い上げてから、つい、とこちらを向く。よくよく見れば、帽子の鍔の下にはサングラスまでかけていて、胡散臭いことこの上ない。
「パロット、そちらの方は?」
「この城の魔王のササゴイ!」
「魔王のミスター・ササゴイ……。魔王って、この世界においては『城主』ということだよね。ご挨拶させていただかないと」
 僕の前に歩み寄ってきた男は――近くで見ると、更にでかかった。僕と頭一つくらい違うんじゃなかろうか。パロットとはまた違う凄みにすくみ上がる僕の前で、男は、どこか芝居がかった所作で杖を己の正面に立て、よくできた動きで一礼した。
「初めまして、『桟敷城』の城主ササゴイ。同郷のパロットの招待を受けて参りました、コルヴス・コラクスと申します」
 招待云々とか全く聞いてないんだが、それでも、正面からやってきて挨拶をしてくれるだけでも、窓から飛び込んできたというパロットとは雲泥の差だ。
「パロットがお世話になっております。うるさくてお困りでしょう、ミスター? こちらの花は、先ほど立ち寄ったお店で包んでいただいたものです。もしお気に召しましたら、どこかに飾っていただけるときっと花も喜ぶと思います。あと、こちらのお茶菓子もどうぞ、皆様のお口に合えばよいのですが」
 うん、胡散臭いなんて思って悪かった、この男はひとまず真っ当だ。
 最低限、人を突然魔王呼ばわりした挙句誘拐犯に仕立て上げるお姫様とか、話が通じてるように見せかけて三歩で忘れる鸚鵡以上の鳥頭、それに勝手に城を荒らしていく根本的に話の通じない勇者どもより、よっぽどマシだ。
 花束と、袋に入った茶菓子を受け取って、それから慌てて頭を下げる。ただ、頭を下げただけでこちらの意図が伝わっているかどうかは定かではなかったし、パロットから招待されたとはいえ、本当にここまで足を運んで、かつ差し入れまで用意してくた「お客様」にはきちんとお礼を言うべきだろう。
 ひとまずパロットに貰ったものを預けて、いつも携えているメモ帳を取り出す。そういえばペンは何処にしまったんだったか。
「……? パロット、彼は何を?」
「ああ、ササゴイは喋れねーんだ……、あっ」
 そっか、これめんどくせーな、とパロットがぶつぶつ呟く。ポケットからやっとペンを探り当てながら、何が面倒くさいんだ、と思っていると。
「ん? 誰か来てる?」
 桟敷城の外では俄然人見知りのヒワが、ひょこりと入り口から顔を覗かせる。パロットが荷物を両手に抱えたまま、ヒワに笑いかけてみせる。
「おう、前に言っただろ、俺様の友達も招待したって」
「あたしは聞いてないぞ」
「あれ、言ってなかったっけ? もしかしたら言い忘れてたかも」
 さすがパロット、自分の言葉に全く責任を取れない男。こいつ、既に死んでるらしいけど、生前もよっぽどはた迷惑な奴だったに違いない。横のコルヴスとかいうお兄さんがとても迷惑そうな顔をしているから、多分大体僕の想像は間違っていないと思う。
 ヒワはパロットより背の高いコルヴスに一瞬気圧されたようだったが、それでも何とか胸を張って、コルヴスを見上げる。
「は、初めましてっ。あたしはヒワ。よろしく!」
「ヒワ。かわいらしいお名前ですね。ボクはコルヴス・コラクスと申します。よろしくお願いしますね、レディ」
 気障な台詞をさらっと言えてしまう――しかも舞台の上ではなくごくごく一般的なシチュエーションで――のは、この男の特徴なのだろうか。微かな違和感を覚えつつも、実行に移す胆力には正直感服する。
「コルヴス……、えーっと、確かラテン語かなんかで鴉、だっけか?」
 ヒワは妙に言葉を知っているところがある。そして、どうやらその知識は間違ってはいなかったようで、男は口元の笑みを深めて、胸元に手を当てる。
「ええ、よくご存知ですね。コルヴス・コラクスはワタリガラスの学名です。ボクらの故郷ではレイヴンと称されますね」
 ワタリガラス、と言われてもぴんとこない。とはいえ、ワタリガラスを見たことはなくとも、流石に鴉がどんな鳥かはわかる。全身真っ黒のアレだ。
 わかるからこそ、違和感しかない。
 目の前に立つ男は――肌の色から帽子から覗く髪の色まで白いのだ。服装も別段黒尽くめというわけではなく、ぴしっとアイロンのかかった白いシャツにベストを羽織り、サスペンダーで少し古い型のスラックスを吊るしている。暑かろうが寒かろうがクソ筆文字Tシャツにハーフパンツのパロットとは服のセンスから何からまるで違う。本当に友達なのか、君ら。
 ヒワも僕と同じ感想を抱いたのだろう。小首をかしげて言う。
「鴉には見えないな?」
「よく言われます」
 まあ、あまり気にせず、とコルヴスは穏やかに笑う。パロットとはまた違う意味で表情豊かな男だと思う。どこか「作り物じみている」とも思うのだけれど。
 そんなことを思いながら、メモ帳に僕なりの感謝の言葉を書き記す。
『来てくれてありがとう、コルヴス。花束もお菓子も嬉しい。どうか、楽しんでいってほしい』
 そして、その紙をコルヴスに渡そうとして――今更ながらに、気づいた。
 ほとんど気にならないレベルではあるが、時折手指が空をかくような動きをすること、「地図が読めなかった」という言葉と、パロットの「面倒くさい」という感想。それに、片手に握った杖。
 ――この男は。
「……もしかして、コルヴス、目が悪いのか?」
「ええ、両目共に盲でして」
 さらりと、コルヴスは言い切った。
「ですから、お渡しした花の色も種類もわからなくて、お恥ずかしいことです。それに」
 と、コルヴスの顔が――実際にはそのサングラスの下の眼は、僕の姿を見てはいないのだろうが――こちらに向けられる。
「こればかりはパロットの言うとおり、ミスターにはご面倒をおかけすることになってしまいますね」
 そうだ。
 僕の「言葉」は、コルヴスには届かない。
 当然のことだ。あくまで、お互いに少しだけ不便なだけに過ぎない。
 けれど、僕は、体がぶるりと震えるのを抑えられなかった。今まで目を背けてきた「何か」が、一人の男の形を借りてやってきたような、気がして。
 思わず立ちすくむ僕の手から、ヒワがメモを奪い取る。そして、コルヴスを見上げて声を上げる。
「ササゴイが、ありがとうってさ! お花もお茶菓子も嬉しいって。劇も、見えないところは仕方ないとしても、楽しんでってほしいな」
「ええ。楽しみにしておりますね」
 にこりと微笑んだコルヴスは、僕に向かって大きな手を差し出す。
「改めまして。よろしくお願いします、ミスター・ササゴイ?」
 頷きを返して、恐る恐る掴んだ手は――、妙に、冷たかった。
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●Scene:05 或る戦闘機乗りの生涯

「ササゴイー! これどこに運べばいいー?」
 マーケットから購入してきた資材を運ぶパロットの声に、僕は手の動きだけで指示を飛ばす。最初の数日こそお互いの意思疎通もおぼつかなかったのが、意外や意外、この鳥頭は僕の意図をすぐに飲み込んでくれるようになった。
 どうやらこの男、「もの」を覚えるのは苦手だが、人の意図というか、空気を読むのは得意らしい。空気を読んだ上でそれに合わせた動きをしてくれるかどうかは別として。
『お疲れ様』
 舞台から降りてきたパロットに、あらかじめ用意しておいた麦茶を渡す。この前冷蔵庫を仕入れたから――どういう仕組みで冷えているのかは考えないことにしている。どうせ夢だし――姉妹提携しているカフェからの差し入れも含め、食生活は随分と充実してきている。
 特によく冷えた麦茶はパロットのお気に入りらしく、毎日がぶがぶ飲んでいる。まあ、紅茶もコーヒーもがぶがぶ飲むので、もしかすると味がわかってないのかもしれない――という疑念はそっと横に置いて、美味しそうに麦茶を飲み干したパロットが盆にコップを戻すのを見やる。
「んー、ササゴイもお疲れ。結構動いたもんな、大丈夫か?」
 大丈夫。そう頷いて返す。真面目に二人の練習に付き合うようになった初日は、オーバーワーク気味でふらふらしていたが、一週間もすれば慣れる。一方で、体力の衰えは取り戻していかないといけないと真面目に思うが。
 そんなことを考えていると、不意に視界に何か黄色いものが舞いおりてきた。それがヒワだと気づくまでに、数秒ほど必要だった。今日も黄色い髪を結い、黄色い羽をぱたぱたさせているお姫様は、琥珀色の目をきらきらさせて言う。
「麦茶! あたしにも麦茶ちょーだい!」
 はいはい、と、もう一つ用意しておいた――本当は僕が飲む予定だったコップに麦茶を注いでやる。ヒワは満面の笑みを浮かべてコップを受け取ると、ちびちびと飲み始めた。うん、ヒワが嬉しそうなところを見るのは悪くない。練習ではちょっときついことを言ってしょげさせてしまうことも多いから、尚更。
「あー、仕事の後の一杯はしみるなぁー」
 そのお姫様のなりでおっさんみたいな台詞を言うのは止めていただきたい。
 ヒワは劇場内を飛べるという利点を生かして、桟敷城の照明を弄っていた。本当は影の劇団員に頼めばいい仕事ではあるのだが、僕やパロットが色々と作業をしている中で、自分だけ何もしていない、というのも落ち着かないらしかった。
 まあ、舞台の上で三人で座り込んで茶を喫するのも悪くない。何だかんだ、朝食と練習の時以外はてんでばらばらに動いていることが多かったから、こうして三人で一緒に息をつく瞬間は、意外と貴重だった。
「あ、そうだ。パロット」
「あ?」
「前にも聞いたけど、ちゃんと答えてくれてなかったよな? パロットがここにいる理由」
「あれ、答えてなかったっけか?」
 ヒワの問いかけに、パロットはぐーっと首をかしげてみせる。派手な頭も相まって、その挙動は本当に鳥のようにも見える。
「つっても、特に深い理由はねーよ? ふらふらーっと世界を渡ってたら、何か面白そうなとこ見かけて飛び込んだだけ! そしたら、何か人手が足りなさそうだしー? ってそのままお邪魔してる!」
 世界を渡る。そういえば、この世界の住人は、元よりこの場にいた者もいるにはいるが、どちらかというと「他の世界からやってきた」住人が多いように見える。かく言う僕も周りからはそう見えているだろうし、この世界の仕組みをよく知らないというヒワもそうなんだと思う。
「自由に世界を渡れるんだ?」
「そうだぜ! 何せ俺様ハイスペック幽霊だからな!」
「……幽霊?」
 幽霊。そういえば、他の魔王たちとの話でも、ちょこちょこそんなことを言っていた気がする。
 だが、パロットはどこからどう見ても生身の人間だ。足はあるし、今まさにそうしていたように、ものを運ぶこともすれば、人並み以上に飲み食いする。人より少し肌の色が薄いのは気になるが、それ以外に人間とかけ離れたところはない。というか、他の魔王の方がよっぽど人間離れしている。
「電霊、っつーのが正しいのかな? 電気の信号でできてる幽霊。で、色んな世界を旅してる。つっても、ここじゃ他の連中と変わらないな? 何か、行く世界によって実体作れたり作れなかったりすんだよな、なんでだろ」
 パロット自身、自分のことをよくわかっていない、ということだけはよくわかった。
 ただ、幽霊であることだけはパロットの認識では確実なことであるらしい。ぽん、と手を打って、こう付け加えたから。
「ま、どうにせよ、俺様は一度死んでるからな!」
「死んでるんだ……?」
「そう! 空から落っこちて死んじまったんだ。俺様、戦闘機乗りだったからさ」
 死んだ話をしているにもかかわらず、パロットはにっと白い歯を見せて笑ってみせる。
 ただ、そうか、戦闘機乗り。軍人だか傭兵だか、立場こそわからないが「そういう訓練を受けた人間」ってことか。それなら、このマッチョ具合もわからなくはない。どうやら、僕とはありとあらゆる意味で住む世界の違う人間、というか幽霊らしい。
 そして、ヒワは幽霊だというパロットに怯えるようなことはなく、それどころかいつもきらきらしている目をさらに輝かせて食いついていく。
「戦闘機乗りなんだ! ねえ、生前どんなことしてたの? っていうか死ぬときってどんな感じだったの?」
「あー、死んだときのことはよく覚えてねーんだ。っつーか生前のことはほとんど忘れちまってる。何か、幽霊ってそういうもんらしくてな。だから、俺様の話は全部、後から聞きかじった話になっちまうんだけど」
「それでもいいぞ、聞かせて聞かせて!」
 食いついていくなー、ヒワ。ヒワは人見知りする性質のようだから、もしかすると、本当はもっと色んな人の話を聞いてみたくて、やっと、僕やパロットにそういう面を見せられるようになった、のかもしれない。
 パロットは少しだけ身を動かして、姿勢を正して。それから、よく響く声で語り始める。
「俺様が生まれたのは、ここからずっとずっと遠い世界。全てが霧で出来てる世界だった。っても、覚えてることといえば、見上げた空が真っ白で、でもそれが『本当の空』じゃねーってことだけだった」
「本当の空じゃない?」
「本当の空は青いんだって、不思議と俺様は信じてた。俺様にそう教えてくれた友達がいた。で、本当の空を見るために、俺様と友達は一緒に戦闘機乗りになった。いつか、空を覆う白い天井を飛び越えて、その向こうを見るために」
 ――けれど、その前に、落ちて死んじまった。
 そう言ったパロットは、けれど、楽しげに笑っていた。
「死んじまった俺様は、相当無念だったんだろうなー。無念の中身も忘れるくらい長い間、めちゃくちゃしつこくその世界に幽霊として留まってたんだけど、俺様が幽霊になってるって気づいてくれた友達が、消えそうになってた俺様に今の器を与えてくれて――青い空を、見せてくれたってわけ」
「その友達は?」
「今も遠くで元気にしてるぜ? たまに遊びに行って、色んな話をするのが楽しみなんだ」
 けらけら笑ったパロットは、それから、ふ、と頭上を見上げる。ぎらぎらと舞台を照らすライトは、パロットの横顔も明るく照らし出す。本当に、その横顔は、幽霊とは思えないほどに生き生きとして。
 それでいて、確かに、人間とは異なる「何か」であることを、感じさせる。
「生きてる間に青い空を見られなかったのは残念だけど、まあ、そりゃ仕方ねーんだ。戦闘機乗りっつーのはそういうもんだ。だから、その代わりに、今の俺様は色んな世界を見て回ろうって決めてる。生きてた間の俺様が出来なかった分、知らない世界の空の色を見るために旅をしてるんだ」
 パロットの表情に陰影はほとんど見えない。死を経験していながら、この男はどこまでも、どこまでも、それこそ太陽のように笑ってる。
「この世界も面白いよな、ダンジョンなのに雨は降るし風も吹く! 色んな魔王の城があって、みんな違う色の空を持ってる!」
 空の色。それは――パロットにとっては単に「頭上に広がるもの」を意味するのではなくて、その世界そのものの色を意味しているのだと、何となくわかる。ヒワも、「ほう」と息をついて、どこか感心したようにパロットを見やる。
「パロットって、意外と詩人だよな」
「おうよ、何せ俺様は吟遊詩人だからな!」
 ふふーん、とパロットは鼻歌を歌う。やたらと上手い鼻歌を。
 僕とヒワは、そんなパロットを前に、顔を見合わせて……、それから、少しだけ笑った。
 まあ、パロットというのはそういう奴だ。悪い奴じゃないと、思っている。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●Scene:04 ちぐはぐなエチュード

 あれから一週間が経った。
 桟敷城の公演に対して、僕の感想を一言で述べよう。
 
 とんだ学芸会だ。
 
 いや、うん、それを言葉にしないだけの理性も僕にはある。というか、声が出なくてよかったと本気で思っている。もし好きに喋れたなら、絶対に余計な口を挟んでいたと思うし、うちと姉妹提携を結んでいる少々浮世離れしたカフェの店主二人は果たして楽しんでくれただろうか、という心配ばかりが頭をよぎって仕方ない。
 ヒワはやたらと元気がいいだけで台詞はほとんど棒読み。というより、台詞を覚えているだけでいっぱいいっぱいなのかもしれない。パロットはやたら歌は上手いし声もよく通るが、台詞なんて全く覚えてないし、覚えてないのだから台本通りには動かない。だからただでさえオーバーフロー気味のヒワが、頭が真っ白になって舞台の上で立ちつくすことも多々ある。
 そんなわけで、素人の、練習不足にもほどがある学芸会だという感想しか出てこない。
 そんな僕の不機嫌に、ヒワはとっくのとうに気づいていたらしい。勇者相手の公演の幕が下りた後、舞台袖で彼女を迎えた僕に歩み寄ってきて、こう言ったのだ。
「その、えっと、やっぱり、下手だよな。ごめん、ササゴイ」
 普段は明るく煌く瞳も、張りのある声も重たく沈んでいて、僕の顔色を伺っているらしいことはすぐにわかった。ヒワ自身も自分の演技が見られたものではないということは自覚しているのだ。自覚しながら、それでも胸を張って舞台の上に立とうとする彼女に――率直な感想なんて、言えるわけないだろう。
 それに、一度公演が始まってしまえば、不思議な「影」の演者たちを引き連れて立ち回るヒワとパロットを桟敷の上から眺めているだけの僕に口を挟む権利などない。舞台は、あくまでそこに立つ演者たちのものだ。僕のものではない。
 だから、どれだけ下手くそな、学芸会の延長線でしかない舞台であろうとも、僕は何も言わない。言ってはいけないし、口を挟みたいという気持ちの一方で「言いたくない」とも思う。
 そうだ、ヒワたちの好きにやらせておけばいいのだ。僕は桟敷城の魔王であり、一応この劇団――ヒワ曰く『黄昏劇団』の「座長」らしいが、あくまで裏方に徹していればいい。桟敷城を本当の意味で潰さないように頭を使えば、それで十分。舞台のことは、全部ヒワに任せておけばいい。脚本を握ってるのだって、ヒワなのだから。
 ヒワは、明らかに落ち込んだ、そして僅かにおびえた様子で僕を見上げて続ける。
「あの、その……、お、怒ってるか?」
 ……どうも、ヒワは舞台の上でこそ堂々と振舞ってみせるが、一度舞台を降りてしまうと意外と人見知りする性質であるし、実は人と喋るのもあまり得意ではないのかもしれない。言葉遣いこそ偉そうな雰囲気ではあるが、これは「お姫様」という役柄を通した虚勢なのかもしれない。彼女なりの、精一杯の。
 ヒワの言葉に対し、僕は、ゆっくりと首を横に振る。
 そうだ、別に怒っているわけじゃない。ただただ、もどかしいだけだ。
 舞台に立つヒワとパロットを見ているのが。それでいて、ヒワたちのために未だ何をする気にもなれずにいる僕自身が。
 まあ、何をする必要もないのだ。僕は単に巻き込まれて、勝手に「魔王」という役割を振られているだけで、ヒワのために何かをしてやる義理もない……、はずだ。
 はず、というのは、この城で目を覚ましてから、ヒワと言葉を交わしてから、ずっと何かが胸に引っかかり続けているからなのだが、それが何なのかわからない以上は考えても仕方ない。きっといつか、思い出す時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。その程度の話。
 ヒワはきょときょとと落ち着きなく視線を彷徨わせながら、僕にもう一度問いかける。
「怒ってない? 本当か?」
 本当だよ、と頷く。そんなところで嘘をつく理由がない。
「……でも、さ、ササゴイは不機嫌そうだ」
 不機嫌なのはどうしようもなく、僕の問題だ。ヒワの問題じゃない。そう言ってしまえれば楽なのに、僕にその言葉をかける声は、ない。
 代わりに、持っていたスケッチブックに文字を書き記す。
『大丈夫。ヒワは頑張ってる』
 頑張ってる。それだけではどうしようもないのだけれども。頑張るだけでどうにかなると言い切れるなら、僕らの世界はとっくに平和になっている。きっと、僕自身だってもう少しいい方向に向かっていけたはずだ。
 そして、ヒワも馬鹿じゃないから、こんなありきたりな言葉に誤魔化されてくれやしない。うつむいて、ぽつりと落とされた声が、
「……頑張っても、どうしようもないことだって、あるよ」
 いやに、僕の耳に響いた。
「空回り、してるのがわかるんだ。あたしの脚本だって、面白いかどうかわからない。ほんとは、何をしていいのかも、どうすればいいのかも、わかんない」
 わかんないよ、と。ヒワはもう一度繰り返す。
 それに対し、僕は何も「言え」なくなる。
 そんな風に思っているなんて、思いもしなかったんだ。ヒワには、全て、とは言わなくとも、少なくとも桟敷城と学芸会じみた劇の行方はわかってて、舞台の上に立っているのだとばかり思っていた。
 けれど、今、この場でぽつぽつと落とされた言葉が、僕を誤魔化すための嘘や方便とも思えなかった。
 ヒワはどうして舞台に立っている? そもそもこの「桟敷城」は何なんだ? 今まで後回しにしてきた疑問が、頭をちらつく。
 支離滅裂なのは夢の中だから。そう己に言い聞かせながら、ヒワのこの言葉も僕の頭が生み出した戯言なのかと思うと、すぐには首を縦に振れない僕がいる。
 わからない。わからないのは僕も同じというか、ヒワ以上であるはずだというのに。ヒワの「わかんない」という言葉が酷く頭の中をかき乱す。
「ササゴイ」
 ササゴイ。本当の名ではないのだけれど、いやにしっくり来る――どこかで僕をそう呼んだ誰かがいたかのような――僕の名前。
 見れば、ヒワが顔を上げて僕を見ている。どうしようもなく冴えない顔をしているだろう、僕を。
「あたし、その、ササゴイにも、舞台に立ってほしいんだ。そうしたら、きっと、何かが……、わかる、気がして」
 舞台に。僕が。
 舞台袖から、スポットライトを浴びる安っぽい舞台がちらりと見える。そこに立つ僕自身を思い描く。思い描くことはそう難しくない。けれど。けれど。
 震えだしそうな手を押さえ込んで、唇を噛み締めて。僕は、スケッチブックにかろうじて文字を書き記す。
『私には無理だ』
 その言葉を見たヒワは、「そうだよね。ごめん」と言ってほんの少しだけ笑ってみせる。このやり取りも、初めてじゃない。ただ、引きつるような笑みを浮かべるヒワを見るのは、ぐだぐだな学芸会を見せつけられるよりも、ずっと、ずっと、嫌な気分になる。
 ヒワのことが嫌なのではない。――僕が。僕のことが、嫌になるのだ。
 それがどうしてもたまらなくて、僕はほとんど無意識に、『でも』と続きをスケッチブックに書き記していた。
『練習なら付き合う。練習は、大事だ』
 そう書いた瞬間、あれだけ落ち込んだ顔をしていたヒワがぱっと顔を輝かせて、ふわり、と僕に飛びついてきた。
「ありがとう、ササゴイ!」
 その腕の柔らかさが、かかる体重の軽さが、こうして確かに触れているはずなのに酷く遠く感じる。それは、彼女が常にそのちいさな羽で浮かんでいるからだろうか。それとも……、それとも?
 ――ヒワ。
 声にならない声で、僕の肩に手を回す彼女の名を呼ぶ。
 彼女に触れるたびに、僕の胸のどこかに、何かが燻るのを感じる。言葉を交わすたびに、燻りは深く深く僕の内で広がっていく。
 こんなもの、夢なんだから、早く覚めて欲しい。
 僕は、ちぐはぐな即興劇(エチュード)を、いつまで続けていなきゃならないんだ?
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●幕間:パロット発電

パロット:やっぱり、城の主であるササゴイ様がしゃべれねーってちょっと不便だよな? 
ササゴイ:『それなりに不便』
パロット:だよなー。紙に書く以外にいい方法ねーかなー?
ヒワ:あっ、パロットって、確か電気びりびりーってできなかったっけ?
パロット:おう、そのくらいなら朝飯前だぜ!
ササゴイ:(そんなトンチキ能力あるのか、という顔)
ヒワ:それで、ササゴイのスマホを充電したら、アプリ経由で読み上げできるんじゃない?
パロット:スマホ? アプリ? 何だそれ?
ササゴイ:(既に充電の切れたスマホを示す)
パロット:あー、その、ちっちゃい端末?
ササゴイ:(頷く)
パロット:よーし、俺様のパワーを見せちゃるぜ! よいしょー!

 電撃を受けて、ばちん、と音を立てるスマートフォン。
 続けて漂ってくる、焦げ臭い香り。

パロット:……………………。
ヒワ:…………………………。
ササゴイ:……………………。
パロット:ごめん。
ササゴイ:『素直でよろしい』
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●Scene:03 魔王、姫、吟遊詩人

 桟敷城。
 それがこの「城」の名前であるらしい。
 照明も装飾もぎらぎら輝きながら、どう見ても張りぼてだとわかってしまうちっぽけな舞台に反して、やたらと数だけは多い観客席によってできているこの建築物について、詳細は何一つわかっていない。ただ、僕が望みさえすれば――何故かヒワが渡してきた金と引き換えに、様々な形に変えることができるのだそうだ。
 そして、「できそこないの世界」と呼ばれているらしいこの世界において、魔王とは、一週間に一度、次から次へと現れる勇者相手に商売を営むものであるらしい。どういうことだ。
「そういうものなんだ。あたしもその辺の仕組みは、実はよくわかってない」
 ヒワはそう言って唇を尖らせた。今、僕らがいるのは舞台裏で、今日は勇者を迎え撃つ日だ――と、僕は認識している。まあ、夢の中なので、時間の感覚が曖昧なのは当然だろう。というか、この夢早く覚めないかな。
「そんなわけで、桟敷城を経営するのが、魔王様の役目なんだ」
 はあ。
 つい溜息をつきながら、僕は、手元に置かれたメモ帳にペンを走らせる。
『経営、具体的に何を?』
 この桟敷城に元からいた二人――ヒワとパロット。どう見ても日本人じゃないこの二人に筆談が通用するかは正直不安だったのだが、どうやら普通に日本語は読めるらしい。
 というより、お互いに別の言語を喋っていても通じる、不思議な仕組みが働いているのかもしれない。ヒワは最初から僕にわかる言葉で語りかけてきたが、パロットの言葉は日本語のようであって、時々英語のような発音が混じって聞こえる。要は、頭の中に自動翻訳機能が入っていて、僕の知っている言葉に訳しきれないニュアンスだけが本来の音声で伝わってくるような感覚なのだ。これも夢だからだろう。そういうことにしておこう。
 かくして、何故か僕に「さらわれた」ことになっているが、実際には僕よりも前にこの桟敷城にいたお姫様・ヒワが、背中の小さな羽根を広げ、鮮やかにドレスの裾を翻し、その肩書きに相応しくどんと仁王立ちして――前言撤回、これ全然「お姫様」には相応しくなかった――言う。
「勇者にものを売るのだ! と言っても、うちは劇場だからな。どちらかといえば、乱暴な勇者様を狙って桟敷城に引きずり込んで、楽しんで帰ってもらう、みたいな感じと思ってくれればいいよ。それで手に入ったお金で、桟敷城を改築! ついでに演者も雇っちゃえ! って感じでお金を回していくのだ。その辺の管理をするのが、魔王ササゴイ様の役目なのだよ」
 どんな世界なんだよここ……。魔王と勇者の関係性がさっぱりわからない。普通に商売をする人間とその客、って考えればよいような気はするが。要は稼いだ金で劇場を立派にしながら、その立派さに見合う役者をそろえて、勇者たちを楽しませる。で、次回作のチケットもしっかり買わせて、その金でまた以下略。そういう感じだろう。
「あっ、ちなみにこの世界、あと十四週くらいで滅ぶんだった」
 ――はあ?
 声が出ないとわかっていても、思わず口を開いてしまった。
『なぜ?』
「んー、何か神様が云々とか色々あるみたいだけどあたしはよく知らないんだ。パロットは?」
「えっ、俺様に聞く?」
 あっちこっちをうろうろ落ち着きなく歩いていたのは、派手な頭をした男――ヒワ曰く「吟遊詩人」のパロットだった。
 舞台上にいる時にはそこまで気にならないが、こうして同じ床の上に立っていると、僕より断然背が高く、肩は張り出していて、腕は太いし胸板も厚いとわかる。要するに「身体を使うために鍛えている人間」だ。今の僕なんて片手で捻り潰されておかしくない。吟遊詩人というか、これ、どちらかというと武器持たせて護衛にしておいた方がいいんじゃないか、というレベル。実際、時々舞台をぶち壊そうとする勇者を殴る。
 でも、歌がやたら上手いのは初日から明らかだし、今だってとんでもなくいい声で鼻歌を歌っていたのだから、人は見かけによらない。ついでに、こんなでかくて派手で強そうなやつだが、とても人懐こくていつもニコニコしている。楽しそうなのはいいことだ、が。
「俺様の鳥頭ご存知でしょ? 人の話なんて覚えてるはずねーだろ」
「だよね。うん、期待してなかった」
 大丈夫、僕も期待していなかった。
 このパロットという男、しばらく一緒に過ごしてみてわかったが、本当にとんでもない鳥頭だ。三歩歩いたら、どころか次の言葉を聞いたら前に聞いた言葉が完全にすっぽ抜けるレベル。と言っても何もかもを忘れるわけではなく、自分の興味のあることにはめちゃくちゃ食いついてくるし、言われたことも忘れないので、要は人の話をろくに聞いてないってだけなんだと思う。
「ともかく、もうすぐ世界が滅ぶらしいんだけど、何かもしかすると魔王様が頑張るとどうにかなる、かもしれないらしい」
 今の言葉、何一つとして確定情報がなかったぞ。大丈夫かこれ。
 僕の呆れと不安を察したのか、ヒワは腕をぶんぶん振り回し、ついでに背中の羽もぱたぱたさせて十センチくらい浮かび上がる。こんな小さく頼りない羽でも、この劇場の中に限っては自由に飛べるという辺り、やっぱり夢ってすごいなー。
「大丈夫だ! 魔王ササゴイ様ならなんとかしてくれる! なにしろ強くてかっこよい! そして金を稼ぐセンスもばっちりだ! きっと!」
 僕は強くもかっこよくもないし、ついでに金を稼ぐセンスがあったら、今頃家でごろごろしながら株かFXか何かでもう少しよい暮らしをしていていいと思う。そういうセンスがないから、コンビニ飯でぎりぎり食いつなぐような羽目になってるんじゃないか。
 そう、そうだ。
『なぜ、私が魔王なんだ?』
 これが、この一週間を過ごしてみた僕にとって、未だに解決できてない謎だ。ちなみに書き言葉で「私」なのは正直「僕」ってやたら画数多いし、「ぼく」ですら「私」と画数が変わらないからだ。
 すると、ヒワはにひっ、とお姫様らしからぬ笑い声を立てて、白い歯を見せる。
「なんでだと思う?」
 わからない。わからないから聞いてるんだ。
 もちろん、ヒワだって、僕が答えを持たないことはわかっていたんだと思う。空中でステップを踏んで、スカートの裾がくるりと回る。
「実は、その答えは、この脚本にまるっと書いてあるのだ!」
 言って、ヒワは「ばばーん」と口で言いながら、どこからか分厚い一冊の本を取り出す。表紙には手書きで「さじき城の魔王」と書かれていた。――『桟敷』が書けなかったんだろうな。僕も手で書けと言われたらちょっと不安だ。というか多分無理だ。桟敷の「桟」が多分木偏だったことくらいしか思い出せない。
 とりあえず、渡された本を小脇に抱えて、メモ帳にペンを走らせる。
『君が書いた?』
「そう、あたしが書いたんだ!」
 つまり、何もかもはヒワが描いたシナリオ、ってことか。この世界の仕組みはヒワの認識の外のようではあるが、最低限、この桟敷城での役割に関してはヒワの手の上にあるらしい。
 手の上、とわかったところで不満があるわけではない。何一つ、目的もないままに、この意味不明な夢の中で生きていくくらいなら、何か役割を与えられていた方がずっと気が楽だ、とも思うのだけれど。
 表紙をめくり、少しだけ、脚本に目を通してみる。魔王ササゴイは天空の姫ヒワを攫い、己の城である桟敷城に軟禁する。ササゴイがヒワ姫に望んだことは、己を楽しませること――。どこかで聞いたような筋書きだし、正直面白いのかどうか、この数ページを見ただけではさっぱりわからない。
 ただ、それでも、一つだけ聞いておかなければならなかった。
『私も、舞台に立つのか?』
「え?」
 魔王ササゴイに台詞はなく、ト書きだけが記されている。後で書き直したのか、それとも最初から知っていたのか。それは僕にはわからない。わかりたい、と思うわけでもない。
 それでも。
『立たなきゃ、いけないのか?』
 僕の問いかけに、パロットは首を傾げた。僕の「言葉」の意味をわからなかったに違いない。けれど、ヒワは。
「ササゴイが嫌なら、強要はしないよ」
 一瞬。ほんの一瞬だけど、どこか、失望したような……、否、少し違うような気がする。とにかく、何か苦いものを飲み込んだような顔をして、それから、にこりと笑う。今度こそ、絵本の中に出てくる「お姫様」のような、完璧な笑顔で。
 そして――ヒワは両腕を広げる。ヒワの影から、僕の影から、何人もの人影が生まれる。たった三人であったはずの舞台裏に、幾人もの、言葉通りの「影」の演者が現れる。
 それらを率いて、姫君は笑う。ただそこにいることしかできない僕の心を、まるで見透かすように。
「魔王様は、舞台に立たなくたっていい。でも、あたしたち『黄昏劇団』は、桟敷城の魔王ササゴイのものなんだ。だから――君が導いて、魔王様。お願い」
 その言葉に、僕は頷くことも、首を横に振ることもできなかった。
 ただ、手の中の脚本の重みを。未だ中身も定かではないシナリオの重みを、確かめることしかできなかった。
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●Scene:02 迷宮桟敷の人々

 ――随分と長い間、眠っていたような気がする。
 
 目覚ましは鳴らない。そもそも長らく、セットなんてしていなかった気がする。その理由もなかったから。目が覚めた時に起き出して、冷蔵庫の中身を確認して、食うものがなければ近くのコンビニかスーパーに出かけて、出来合いのものを買って食べて。
 それから……、何を、しようか。
 貯金も有り余ってるわけじゃない。バイトでも何でもいい、仕事をするべきだ。案外、始めてしまえば何とでもなるだろうし、本職とバイトをいくつも掛け持ちしていた時期だってあったんだ、やってできないことはない。そのはずだ。
 そのはずだ。何度目だろう、その言葉。
 結局僕はありもしない「はず」を頭の中でぐるぐるかき混ぜながら、今日も薄っぺらい敷布団の上でごろごろしたまま一日を始めて、終えてしまうのだろう。
 本当に、僕は一体、何のために息をしているのだろう?
 とにかく、起きよう。もしかすると、もしかしたら。今日くらいは気持ちよく起きて、多少は人間らしい生活をして、それで、少しくらいは変わった一日になるかもしれない。
 そんな無根拠かつ全く信じられないことを言い聞かせながら、何とか重たい瞼を開こうとした、その時。
 
「おはよう、あたしの魔王様!」
 
 ――声?
 この部屋に、僕以外の誰かがいるわけがないのに?
 ついでに、テレビもなければラジオも置いてないんだ、Nから始まる国営放送の集金はこの前一時間をかけて突っぱねたばかりだ。スマホの電話番号を変えてからは、誰かから電話がかかってくることだってなくなった。唯一、両親と、かろうじて話のできる奴とLINEは繋がってるけれど、僕に「通話」をしてくるなんて馬鹿はいない、はずだ。
 なら、この声は、何だ?
 跳ね起きて、瞼を開いた瞬間、確信した。
 これは、よくできた夢だ。
 何しろ、僕の前に広がる光景は、夢以外の何ものでもない。
 目が覚めて真っ先に目に入るはずのとっ散らかった部屋はどこへやら、きらきら、否、ぎらぎらとした照明に照らされているのは、誰一人として座っていない無数の座席だ。そして、眼下に見える小さな小さなそれは、どう見ても「舞台」にしか見えない。きらびやかに飾り付けられた、けれどどこか張りぼてのような安っぽさを感じさせる舞台。
 その上に立っているのは、お世辞にも舞台衣装とは言いがたい、『死体』と筆文字で書かれたTシャツにハーフパンツ姿の男だ。その服装のセンスはともかくとして、橙色に近い金髪に、ところどころ青緑の房が覗く妙に鮮やかな色の髪が目に焼きつく。西洋の、しかも北方の生まれなのか、血管が透けて見えるほどに白い肌をした、けれど決して不健康そうには見えない生き生きとした顔が遠目にもはっきりと見て取れる。
 それに、何よりも。
 舞台の上で歌う男の声は、伸びやかで、晴れやかで、そうだ、聞いているだけで真夏の晴れた空の青が、長らく見上げることも忘れていた空の色が思い浮かぶ。歌詞も無い、僕の全く知らない歌だというのに、僕にはそれが「青空」を歌った歌に聞こえたのだ。
 じわり、と。目元が熱くなる。どうしてだろう、舞台を見下ろしているだけで、男の歌を聴いているだけで、胸が痛んでくる。喉がからからに渇いて、噛み締めた唇が痛みを訴えて。なのに、僕はそれを止めることができずにいる。
 ああ、こんなの、悪夢だ。悪い夢に決まっている。
 だって、僕は――。
「もしもーし? 魔王様?」
 歌とはまた違う、今度は意味のある言葉が、突然、僕の意識の中に滑り込んでくる。
 息を飲んで勢いよくそちらに視線を向けると、
「ぴゃっ」
 奇妙な鳴き声と共に、僕に声をかけた「それ」はものすごい勢いで僕から離れると、壁沿いの柱の後ろに隠れてしまう。と言っても、柱はそう大きなものではなくて、体の半分くらいは僕から丸見えなわけだが。
 それにしても、これまた、舞台の上で歌う男より更に現実感からかけ離れた女の子だった。
 年のころは中学生くらいだろうか。ふわふわと波打つ髪の毛は、金髪を通り越して柔らかな黄色、と言った趣だ。ひよこの毛、よりも更にはっきりとした黄色。大きく見開かれた目も琥珀を固めたような、きらきらと輝く不思議な色をしている。
 それ以上に、どうしても目が行ってしまうのは、女の子の背中に生えた、髪の色と同じ黄色い羽だ。張りぼてめいた座席や舞台に反して、女の子のその羽だけは、どう見ても本物にしか見えなかった。実際、女の子の警戒を反映してか、ゆるゆると閉じたり開いたりを繰り返している。
 君は誰だ、と問いかけたかった。けれど、その問いかけが声になることはなかった。夢の中なのだから声くらい出せてもよいだろう、と思うのに、ただただ、掠れた呼吸が漏れるだけだ。
 それでも不思議と、柱の後ろの女の子は、そんな僕の言わんとしていることを察したのだろう。ちょこんと顔を柱の後ろから顔を覗かせて言う。
「あっ、あたしはヒワ。古代より続く天空王国アーウィスのお姫様だ!」
 お姫様。確かに、ファンタジーRPGに出てくるようなひらひらした服装からしても、言われてみればそんな感じがする。正直自分で「お姫様」って言うものでは無いと思うけど。
 僕がそんなことをつらつら考えていると、お姫様・ヒワは僕のことをびしっと指差してみせる。柱の後ろから。人を指差してはいけないと教えてもらわなかったのか、お姫様のくせに。
「そして、君はササゴイ!」
 ササゴイ?
「ササゴイだ。ダンジョンの一角を支配するこわーいこわーい魔王ササゴイ様! 黄昏の軍勢を操る強大な魔王で、あたしをさらって、この『桟敷城』に閉じ込めたんだ」
 ササゴイ。ヒワもそうだけど、確か鳥の名前だったか。もちろん、僕はそんな名前じゃないし、魔王なんて胡散臭いものじゃない。もしかすると「無職」よりは幾分かマシかもしれないけれど。
 そして、当然ながら、こんな羽の生えた女の子を拉致監禁した記憶もない。そんな真似してバレてみろ、無職どころか豚箱行きだ。ただでさえ死んでるようなものなのに、今度こそ社会的に死んでしまう。
 ヒワと名乗った女の子は今のやりとりで少し警戒を解いたのか、柱の後ろから出てくると、僕らしか観客がいないにもかかわらず、舞台の上で朗々と気持ちよさそうに歌い続けている男に視線を向ける。男はヒワと僕の視線に気づいたのか、こちらを見上げて、にっと人懐っこく笑って手を振ってきた。
 何だあれ、という僕の思いを受け止めたのか、ヒワは首をかしげながら言う。
「あれはパロット。何か……、気づいたらこの城にいた。多分、旅の吟遊詩人。そういうことにしてる」
 自己紹介や僕に対する決め付けに反して、ものすごくふわっとした説明をされた気がする。「多分」とか「そういうことにしてる」って、普通、人に対する説明には出てこないぞ。
 言っているヒワ自身も流石に無理があると思ったのか、僕を見上げて、煌く目をぱちりと瞬きをして、そっと、秘密を打ち明けるように囁いた。
「という、役なんだ。この、桟敷城では」
 ――役。
 その言葉は、不思議と、ぐちゃぐちゃにかき乱されていた僕の心の中に、すとんと落ちた。
 そうか。どうやら、僕はこのヒワとかいう女の子曰く、既に意味のわからない「劇」に巻き込まれているということらしい。お姫様とか魔王とか、はっきり言って何が何だかさっぱりわからないし、こんな台本も与えられてない、子供のお遊戯に付き合ってやる義理もない、けれど。
「というわけで、魔王ササゴイ様! 今日から君は桟敷城の魔王として、魔王らしく振舞ってもらう!」
 びしっ、ともう一度指差されて、僕はつい、少しだけ笑ってしまった。
「なっ、何で笑うんだ?」
 だって、おかしいじゃないか。夢の中でまで、僕は誰かに「役」を押し付けられようとしている。こんな、張りぼての劇場で。
 ただ――、今この瞬間の僕を。誰でもない、それこそ形すら定かでない僕を真っ直ぐ見つめられるのは、気恥ずかしくもあったけれど、自分でもわからないままに、笑いたくなってしまったのだ。
 何で笑ったのか。その答えを僕は持たないし、仮に答えを持っていたとしても、答えることができない。それでも、多分僕の笑顔がヒワを笑ったものではない、ということは伝わったのだと思う。ヒワも、僕に向けて、どこかはにかむように――笑ってみせた。
「頼むぞ、あたしの魔王様」
 何故だろう。
 そうやって、はにかむように笑う誰かを、僕は何故だか知っている気がした。
 気がしただけ、なのだけれども。
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●Scene:01 むかしむかし、

 むかしむかし。
 空を見上げればそこには城が浮かんでいました。
 古の天空王国アーウィス。世のあまねくを見守る役目を持つ王国の主、翼持つ姫君ヒワは、今日も空の高みから地上の営みを見守っておりました。
 空は青く、雲は白く、鳥は歌を歌います。
 鳥の声にあわせて、ヒワも歌を歌います。
 それは約束の歌。ヒワすらも意味を覚えていない、けれど「約束」であることだけはわかる、うた。
 いつからでしょうか、ヒワはどこか胸の底にぽっかりと穴が空いたような気分でいました。城の人々は優しくて、鳥はいつだってヒワと一緒に歌を歌ってくれて、何一つ不自由なことはありません。
 なのに。なのに、何か大切なものが、たった一つ、欠けているような気がしていたのです。そして、欠けた何かの代わりに、自分でも何なのか思い出せない「約束」の歌が、口からこぼれおちるようになったのでした。
 それが何なのか、わからないまま、青空に、雨空に、星空に。天空の城はただよい、主たる姫君ヒワは歌を歌い続けておりました。そんな日々が、ずっと続くのだと思っておりました。
 しかし、ある日、その平穏は破られることになります。
 黄昏時。それは、何もかもの境目が曖昧になる、魔の刻限。
 音もなく、「それら」はやってきました。
 黄昏の空と同じ色をした、のっぺりとした影が、天空の城に押し寄せてきたのです。天空の城の兵隊たちは影を押し返そうとしますが、何せ相手は影なのです。剣も槍も、もちろん弓矢も効果がありません。
 黄昏色の影たちは何も語りません。けれど、目的が姫君ヒワであることは間違いのないことでした。迷うことなくヒワの部屋に滑り込んできた影たちは、ヒワをその黄昏色の腕で捕らえてしまいます。
 かくして、姫君ヒワは天空王国アーウィスから連れ去られてしまったのです。
 ヒワが連れられた先は、天空王国からも見えない地面の底。幾重にも連なる地下道の更に深く、深く、どこまでも深く降りていった、その終点に築かれた黄昏色の城でした。
 王の間に連れてこられたヒワは、やっと解放されました。ふかふかの、けれど天空のそれとは違う、ひんやりとした黄昏色の絨毯の上に転がされたヒワは、玉座に腰掛けている、黄昏色の影ではない一人の男――この城の王らしき人物をきっと見据えます。
 あなたは、誰?
 ヒワの問いかけに、黄昏色の外套を羽織った王は、唇を開きかけて、閉ざしました。同時に、不思議なことにヒワの頭の中に声が響きます。それは、氷のように冷たく、けれどどうしてでしょう、聞いている方が泣きたくなるような声音をしていました。
『僕は「桟敷城」の魔王ササゴイ。ようこそ、天空王国の姫君ヒワ』
 どうして、自分をさらったのか。ヒワがそう問いかけると、頭の中の声は答えます。
『僕は――してたんだ。――ずっと、ずっと』
 答えは、雑音に紛れて聞こえなくなってしまいました。もう一度問いかけようとしても、魔王ササゴイは応えません。そして、黄昏色の外套を翻して、声ではない声で語りかけてきます。
『僕を楽しませてくれたまえ、お姫様。そうしたら、僕は君を解放すると約束しよう』
 かくして、黄昏色の桟敷城に囚われた天空王国の姫君ヒワは、魔王ササゴイを楽しませるために日々頭を悩ませることになりました。天空王国から見える景色の話、地面の上を駆ける動物たちの話、鳥の歌の話。何もかも、何もかも、ヒワの話は魔王ササゴイにとっては面白くもなんともないもののようでした。ヒワを離してくれる様子はありません。それならば、とヒワが本で読んだ面白い物語を語っても、ササゴイは笑い顔一つ見せません。果たしてササゴイはどんなものを「楽しい」と感じるのでしょうか。ヒワは途方にくれてしまいました。それでもササゴイは『楽しませてくれ』というのです。冷たいのに何故か胸が苦しくなる声で。ヒワは、ヒワは――。
 
 
     *     *     *
 
 
「違う、違う違う違う、そうじゃない!」
 そうじゃない、ともう一度、口の中で呟いて、それから頭を抱える。
 そうじゃないのだとすれば、どうすればいいのだろう。
 どうすれば、あの人に、届くだろうか。
 体から力が抜けていく。あと少し。あと少しを望みながら、どうしたって届かない。わかっているのに、考えるのを止められない理由も、わかっている。
 約束をしたのだ。もう、お互いに叶わないかもしれない約束を。
 
「…………」
 
 口の中、ひとつ、呟くのは遠い日の名前。
 そして、彼女は――瞼を、閉じる。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!
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●appendix / inverted

 談話室で新聞を眺めていると、扉が開く音がした。
 そちらを見れば、見慣れた金髪の男、アーサー・パーシングが半眼気味の目を向けてきた。
「今日は一人ですか、ジーン」
「ああ。訓練が終わったから、休憩してたところだ。何か?」
「いーや、別に何もねーから来ただけっすよ。茶ぁ飲みます? ついでに淹れますよ」
「では、頼む」
 それからしばらくして、アーサーは銀盆の上に二人分のティーカップと、紅茶の入ったポット、それにミルクピッチャーを載せて戻ってきた。ミルクを先にカップに注ぐのがアーサーの流儀らしいが、私は正直どちらでも構わないと思っている。
 使い古されたカップには、我々がずぼらなせいもあるのだろうが、すっかり茶渋が染み付いている。うち、いくつかはどこぞの誰かが割ってしまっていて、カップとソーサーの数が合わなくなっていたりするが、それも含めて、懐かしさと微かな胸の痛みを感じるのだった。
 自分好みに紅茶を注いだアーサーは、私の手にしている新聞を一目見て、む、と小さく唸った。
「まーた、例の殺人事件ですか?」
「何だ、アーサーが知らなかったのは珍しいな」
「オレ、昨日は傷心でそれどころじゃなかったんですって……。あー……、もう誰でもいいからオレに優しくしてほしい……」
 また女に振られたのか。何年同じことを繰り返しているのかわからないが、そろそろアーサーは自分が女――に限らず、特定の誰かと恋愛という形で付き合うことに向いていないと気づくべきなのではないだろうか。私が言えたことではないので、言葉にはしないことにしているが。
 己の紅茶を確保したアーサーがちょいと人差し指で新聞を指してみせたので、私はアーサーに新聞と交換する形でカップとソーサーを受け取る。アーサーの好みはミルク多めで甘さは控えめ。それに対して、ミルクも甘さも控えめなのが私の好みだ。どこまでも正確に私の好みに合わせられた紅茶に口をつけつつ、アーサーは長椅子に腰掛けて足を組み、新聞を広げるのを横目で見やる。
 それもまた、いつもと何一つ変わらないアーサーの姿勢ではあるが、それと同時に不思議な既視感があった。同じような光景を、私は確かに知っている。ただ、今と違うのは、アーサーの横に鮮やかな色の髪を揺らして笑う男がいたということ。それから。
「死体が発見されたのは昨日の明け方、ですか」
 過去の色あせつつある一幕から、私の意識を現在へと引き戻すアーサーの声。小さく頷きを返し、もう一口、紅茶で喉を湿してから私が把握しているだけの情報を反芻する。
「今回も以前の事件同様に、両手足と喉、それから頭を潰されていたそうだ」
「これで四件目。いやー、相変わらず首都警察は無能なこって」
 アーサーはふんと鼻を鳴らして、片手に紅茶のカップを手にしながら、テーブルの上に広げた紙面に視線を走らせる。
「犯人の手がかりはなし、被害者に明白な関連性も見当たらない、と。強いて言えば、被害者は全員が五十代以上の、それなりにいい暮らしをしてた連中ってことくらいですかね」
「ただ、報道を信じる限り、金銭目当ての犯行でないらしい。被害者からは何一つ、所持品は奪われていなかったそうだ」
「奪われたものは命だけ、と。それにしたって、悪趣味な事件ですけどね」
 とん、と。アーサーの指先が新聞の一点、被害者の殺害状況を指す。
「ただ殺されてるだけじゃあなくて、わざわざ手足と喉と頭が潰されてるんでしょう? しかも、手足を潰されてから喉を潰されて、その後頭蓋を割られてるってとこまでわかってる。つまり、被害者は痛みや失血で意識を失ってさえいなければ、一つ一つ、自分の手足が奪われていくのを見せ付けられた挙句に、悲鳴を奪われて、それから頭を潰されて殺されたってことですよね。正気の沙汰じゃない」
「どういう殺害手段であれ、殺人者が正気であるとは思えないがな」
 アーサーは「ははっ」と笑い声を漏らし、紅茶を一口飲み下してから私を見据えてくる。魄霧汚染による褪色が始まっている、過去の記憶よりも遥かに淡く煙る青い瞳で。
「じゃ、オレら霧航士(ミストノート)も正気じゃないってことっすよね」
「当然だ。我々はとうに女神の戒律を破っている罪人だ。正気であるはずがない」
 返事をする代わりに、アーサーはどこか皮肉げな笑みと共に軽く肩を竦めてみせた。それでも明確な反論が無い以上は、私の言わんとしているところを理解はしてくれたのだろう。何せ、同期の中でも私とアーサーは思想の面では最もかけ離れた位置にいる。故に、私とアーサーが同じ考えを辿ることはありえないが、それでも、こと我々の立ち位置について言うなら、辿りつく結論だけは同じだと思っている。
 我々は霧航士で、つまり殺戮者だ。今までは戦争という大義名分を掲げてきたが、戦争が終われば己の罪と向き合うことになるだろう。
 そして、その日は決して遠くはない。
 アーサーはその日が来た時、果たして何を思うのだろうか。そんな思いをめぐらせながら、口はほとんど無意識に言葉を紡いでいた。
「……なあ、アーサー」
「何すか、リーダー?」
「随分前にも、こんな風に話をしたな。新聞に載っていた連続殺人の話を」
「ああ、あの、結局迷宮入りしちまった事件ですよね。あれは、未だにオレももやっとしてるんですよねー」
 言われてみれば、そうだった気がする。殺人を実行に移した犯人は捕まったが、結局、死体から奪われた脳を「買った」人間は見つからなかった。私はその後の話を聞いていないし、アーサーもそれ以上を知らない以上は本当に迷宮入りしたのだろう。
 かつてこの場で語られた話の中に、真実の一端は混ざりこんでいただろうか。どうしようもなく不謹慎で悪趣味な素人推理でしかなくて、おそらくその大半は妄想でしかなかったのだろうけれど、つい、記憶の糸を手繰り寄せずにはいられない。
 思い出されるのは青く染まった、煙草を手挟む指先。立ち込める煙草の香り。そして、二度とこの場に戻ることはない声。私は、誰かのような絶対の記憶力を持つわけではないから、それらをもはや霞んだ断章のようにしか思い出せずにいるけれど。
「あの時みたいに、推理ゲームでもしてみるか?」
「はっ、ジーンの方から切り出されるとは思いませんでしたよ。不謹慎だとは思わないんです?」
「不謹慎は今更だろう。……本当に、今更だ」
 アーサーは「そうですね」と認めてくいっと一気に紅茶を飲み干し、カップをいささか乱暴にソーサーの上に投げ出す。それから、元より下がり気味の眉を更に下げて苦笑いを浮かべてみせる。
「でも、オレら二人きりで推理したって楽しかねーですよ。人の話をろくに聞かねー鳥頭も、神出鬼没の白ゴキブリも、とぼけた天才様もいねーんですから」
「それもそうだな」
 もはや時計台に残っている第二世代霧航士は私とアーサーだけだ。
 トレヴァー・トラヴァースは交戦中に乗機『ロビン・グッドフェロー』と共に消息を絶った。とはいえ、彼と彼の乗機の真価は「隠密」ということもあって、霧航士たちの間では「あのゴキブリが死んだとは思えない」と言われている。
 しかし、特に深い理由もないものの、私は彼が死んだと確信している。最低でも、二度と彼を目にすることはないのだろうと思っている。
 また、ゲイル・ウインドワードも同時期の「決戦」で重傷を負い、療養のために乗機『エアリエル』と共に、西の果て、サードカーテン基地に転属した。おそらく、身体以上に精神が限界を訴えていたのだろう。私が時計台で最後に目にしたゲイルは、己を「英雄」と賞賛する声を聞きながら、今にも霧の海に飛び込みそうな顔をしていたから――せめて、静かな辺境の地で彼の心が少しでも癒えることを祈ることしかできずにいる。
 そして、オズワルド・フォーサイスは霧の海に墜ちた。それ以上、語るべきことはない。
 一人、また一人と失われていく。霧航士とはそういうものであると覚悟はしていても、彼らが確かにここにいたという痕跡は、私にとって微かな、しかし確かな痛みとして感じられるのだ。
 果たして、アーサーは彼らがここにいないことをどのように感じているのだろうか。問うてみたくはあったが、アーサーが素直に答えてくれるとは思わなかった。半眼を少しだけ細めて、皮肉げな笑みと軽薄な調子ではぐらかすに違いない。アーサー・パーシングがそういう男であることくらいは、流石に、理解しているつもりだ。
 すると、アーサーはとカップの縁を指でなぞりながら、ぽつり、と言葉を落とす。
「ああ、でも、一つだけ。こいつぁ推理ともいえない、単なる妄想ですけど」
 視線をテーブルの上の新聞に向け、アーサーは、いつになく低い声で囁く。
「……オレ、今回の事件は『見立て殺人』なんじゃねーかと思うんですよね」
「見立て殺人?」
「ジーンはご存知ないですかね。探偵小説ではよく出てくる言葉ですけど。詩や歌、物語の一節を真似るように人が殺されていくってタイプの話、知りません?」
 そのような話は確かに読んだことがある。童謡をなぞらえる形で、一人、また一人とその場に集った人間が殺されていく。一人は鳥のように両腕を広げて壁に張り付けられ、一人は花のように地面に血痕を広げて――、と、あまり心地のよい話ではなかったと記憶している。そもそも探偵小説なんて人が殺されるところから始まる話なのだから、心地よいものではないわけだが。
 アーサーはそんな探偵小説の主要人物であるかのごとく、顎に手を当てて、伏し気味の目を細めてみせる。
「この連続殺人の犯人は、必ず被害者の四肢を潰して、喉を潰して、それから頭を潰してる。ただ殺すだけなら不要な手続きじゃねーですか」
「しかも、以前の『脳無し』殺人事件と違って、被害者から何かを奪うわけでもないのに、わざわざ手間をかけている、ということか」
「そう。だから、この『殺し方』そのものが何か特定のものに見立てたもの、ある種の『犯人からのメッセージ』なんじゃねーかなって思ったんですよ。……何に見立てたものなのかは、オレには皆目見当もつきませんけどね」
 アーサーは顔を上げて、へらりと笑う。話はこれで終わり、ということだろう。なるほど、我々二人では、話はそうそう愉快な方向に膨らんではくれない。ただただ、私の脳裏に大事なものを一つずつ奪われていく誰かのイメージが焼きつくだけで。
 もちろん、四肢を奪われる感覚を、声を喪う感覚を、頭蓋を割られる瞬間を、私が本当の意味で理解することはできない。私の両手足も、喉も、もちろん頭も、今もなお私のものとしてここにあるが故に。それでも、それが想像を絶する苦痛である、ということくらいは想像できる。痛覚を遮断できるように訓練された私でも、途中で痛みを自覚してしまう程度の、苦悶と、灼熱と、絶望であるに違いない。
 しばしの沈黙の後、アーサーが深く息を吐き出して、己のポケットからシガレットケースを取り出す。しかし、その中には細かな装飾の施されたライターが納まっているだけだった。ちらり、とアーサーの淡い色の視線がこちらを向く。
「すいません、ジーン、煙草くれません? オレ、切らしちゃってて」
 つい、沈みかけてしまっていた意識を引き上げて、「ああ」と自分の煙草の箱から一本引き抜いてアーサーに渡す。アーサーは己のライターで先端に火を灯し、吸い口に唇をつけて――思い切りむせこんだ。
「うえ、重っ。ジーン、こんなの吸ってましたっけ?」
「最近はな」
 自分の分の煙草にも火をつけて、決して慣れることのできない、苦く重たい煙を吸う。この苦味が好みかと問われれば全くそんなことはない、が。
「……でも、そうですね。こいつは、懐かしい匂いだ」
 そう、この重く沈む匂いだけは忘れたくないと思っている。
 忘れてはならないと、思っている。
 ――全てが終わる、その時までは。
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●appendix / about Eugene Neville

 ユージーン・ネヴィル。俺たち第二世代のリーダーだ。俺は案を出すことはできるが物事を決定するのは苦手で、トレヴァーもああ見えて上から命令されることで能力を発揮する、典型的な「兵隊」だ。アーサーは後から正規霧航士として認められたパターンだし、ゲイルは、うん、考えるまでもなく論外。というわけで、第二世代で生き残ってる奴の中でもジーン以外にリーダーを務められる奴なんていない。
 ジーンは、霧航士としては凡庸と言っていい。いや、凡庸って言ったって、翅翼艇に乗れて正規霧航士として認められてる、って時点で十二分だけど、それでも尖った奴の多い第二世代じゃ肩身が狭いとよく愚痴っている。まあ、同期が二強のゲイルとトレヴァーだしな……。アーサーも、補欠だったのは単純に運が悪かっただけで、能力は平均以上だし。
 ただ、霧航士としての能力とは別に、ジーンは、状況把握からの行動選択がめちゃくちゃ早い。行動選択が早いのはゲイルもそうだが、ジーンのそれは全体を見た上で、それぞれの方針を決定する能力だ。自分しか考えられないゲイルとは完全に一線を画している。
 それから、覚悟が決まっている、って言えばいいのかな。東国の言い方を借りるなら、腹を切る覚悟。どこまでも俺たちを尊重し、一方で、いざって時には、俺たちの分まで全ての責任をとる覚悟。もちろん、本人がそう言ったわけじゃない。でも、俺たち第二世代は、ジーンのそういう姿勢も含めて、あいつを「リーダー」と認めている。
 何でだろうな。ジーンが全部背負う理由なんて何一つないのに。あいつは、色んな事に真正面から悩みながら、自分が背負って当たり前だってことだけは疑ってない。元とはいえ修道士だし、まさしくその姿勢は「殉教者」のそれかもしれない。己の信ずるもののためになら、手を血に染めて、その身を捧げることすら辞さない。そういう奴だよ、ジーンは。
 
(語り手 オズワルド・フォーサイス)
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●appendix / about Arthur Pershing

 ――アーサー・パーシング?
 うん、アーサーは面白え奴だよな。親父さんが軍の偉いさんなのに、親の七光りだって思われるのが嫌だから、わざわざ霧航士になろうって思ったんだってさ。霧航士って生まれも育ちも金も関係なく、完全に能力だけで選抜されるからな、霧航士になれれば、そいつはアーサーの実力であって親父さんの威光じゃねーってのは誰にでも明らか、ってわけ。
 で、結局、霧航士としての才能も実力もあったんだけど、色々と運が悪くて、っつーか、アーサーって全体的に運がねーんだよな。霧航士になった後も貧乏くじ引かされまくってるし、女運もよくないし、この前なんてやっとこさ射止めたと思った女に金だけむしり取られて捨てられてたからな。流石に俺様もあれは同情して酒奢っちゃったもん……。
 って、俺、今まで何の話してたっけ? まあ、アーサーの話ならいいんだよな。
 あいつ、色んなこと知ってるし、耳が早いっつーか、最新の情報を捕まえてくんのが得意だから、話してて楽しいぜ。言うこと時々わけわかんねーんだけど、時々わけわかんねーのはオズも一緒だし、別に困ってはねーよ。頭の働くスピードと、頭の使い方が俺様とは根本的に違うんだろうな。高速演算、並列思考型だっけ? 何か、そういう分類らしいぜ。
 だから、乗ってる翅翼艇も、本体に加えて並列で三つの子機を操る『キング・リア』ってやつ。前に乗ってた第一世代のねーちゃんが蒸発しちまって、それでアーサーに正規霧航士の肩書と一緒にお鉢が回ってきた、ってわけ。あれ、かーっこいいんだよなー。でも、あんなすげー船操れるのに、いつもオズには喧嘩腰なんだよな。オズはそもそも翅翼艇に乗れないんだから、比較なんてできねーのに。その辺り、アーサーとしちゃ、やっぱり色々複雑な思いがあんだろな。俺様には、よくわかんねーけどさ。
 
(語り手 ゲイル・ウインドワード)
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●appendix / about Trevor Traverse

 トレヴァー・トラヴァースについて、私は詳しく説明することができそうにない。
 表面上のことならば、いくつか。例えば、彼が隠密攻撃翅翼艇『ロビン・グッドフェロー』の乗り手である、とか。我々第二世代の中でも、否、霧航士全体から見ても稀有ともいえる精密飛行と精密射撃の両者を実現する言葉通りの優等生である、とか。船に乗っているときと降りているときとで、まるで別人のようである、とか。
 そう、翅翼艇を操る際の彼は、ゲイル曰く「えげつない」「ろくでもない」「いやらしい」、言ってしまえば聞くに堪えない言葉を並べ立てて、己の限界を目指し、己と並び立つ『相手』を求めて情熱的に振舞う。特にゲイルの飛ぶ姿に対する愛情は偏執的で、それ故に『エアリエル』の僚機として常にゲイルの側にあろうとする。ただ、それでいて私やオズの指示を聞き漏らすことも、理由なく逆らうこともない。そういう点において、彼は極めて真面目というか、有り体に言ってしまえば「理想的な兵隊」と言ってよいと思っている。
 一方、陸の上では神出鬼没かつ気ままな、猫のような生態をしている。ついでに、ゲイル個人のことは毛嫌いしている。これはトレヴァー自身の言葉だが、彼が一番嫌いなものは「何でもできると根拠もなく信じていて、実際にできてしまうタイプ」らしい。要はゲイルのことであり、つまるところトレヴァーの本質は努力家なのだろう。その努力は見せないけれど。否、それだけじゃない。彼は何も見せないのだ。本音も、感情も、背景も。
 霧航士としては、兵隊としては、有能さを示せば十分だろうとトレヴァーは笑ってみせるし、霧航士の誰もが彼を「そういうものだ」と認めている。
 それでも、私は、彼に対して興味を抱くことを止められずにいる。その温度を欠いた皮膚の奥に隠したものの正体を、知りたいと希うのだ。
 
(語り手 ユージーン・ネヴィル)
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●appendix / about Oswald Forsyth

 嫌な奴ですよ。存在が嫌味にもほどがある。何しろ、あいつは本来なら「霧航士には成り得ない」。翅翼艇を操れない奴に正規霧航士の肩書きを与える余裕なんて、霧航士隊にはないんです。オレが、他の連中が蒸発するまで長らく補欠扱いであったように。
 それでもオズワルド・フォーサイスは例外中の例外、前代未聞の「特別枠」の霧航士なんですよ。絶対記憶能力に分割並列思考、高速演算能力。それに生まれながらの特殊能力、一定の入力から限定的な未来予測すらも可能とする『虚空書庫』。完全に人間を辞めてるとしか思えない天性の才が、オズを航法士兼銃手専門の霧航士たらしめてるわけです。いやあ、マジで天才って羨ましいですよね。
 あ、こうは言いましたけど、別にああはなりたくねーですよ。翅翼艇に乗るたびに、蒸発とは別に脳死の危険性があるとか、正直やってられませんよ。怖すぎるでしょ。
 それと、あいつ、あんなに頭の回転速いのに、めちゃくちゃ鈍くさいんですよね。なまじ頭の回転が速すぎるだけに、体が全く反応できてない、みたいな……。いや、もしかすると、体だけじゃなくて人格もついてきてないんじゃねーですかね。ほんと、何であんなに不器用なんでしょうね。朴訥で、生真面目で、悲観的。でも、めちゃくちゃ素直で、いつだって、誰かのいいところを褒めて回ってるんですよ。それは俺にはないもので、素晴らしいものだ、って。
 つまり、嫌な奴だけど……、いい奴、ですよ。嫌な奴、っていうのはあくまでオレの僻み、個人的な感想ってやつなんで、あんま気にしないでください。
 まあ、仲良くしてやってくださいよ。あいつ、ほっとくと延々と一人で絵描いて遊んでる引きこもりなんで。遊び相手があのゲイルだけじゃ、かーなーりー、不安なんで。
 
(語り手 アーサー・パーシング)
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●appendix / about Gale Windward

 ゲイル・ウインドワード! 素晴らしいよ、彼は! どれだけボクが腕を磨いても、不要な部分を削り落としていったとしても、きっと全力の彼には敵わない。彼は、紛れもなく、飛ぶために生まれた生物だ。偶然、人の姿を取って生まれてしまっただけで、ね。
 君は知らない? 彼の飛ぶ姿を間近で見たことがない? それは人生を十割損していると言ってもいいよ! つまり生きてる価値がないね! そのくらい、彼の飛ぶ姿は――美しいんだ。ああ、どんな言葉も彼を形容するには足りない。単なる美辞麗句じゃあ意味がない。彼が『エアリエル』の翼を広げた瞬間、ボクの目に見えていた世界がどれだけ狭いものか、気づかされたんだ。ああ、この魄霧の海はあまりにも広く、それでいて彼はその全てをもってしても満足しないだろう。いつか、ボクらの遥か頭上を覆う天蓋にも辿り着いて、そこすらも突き抜けてしまうかのごとき飛翔。翅翼艇の機能をもってしても逆らいきれないありとあらゆる物理法則も、彼にとっては何の障害にもならない。吹き荒れる嵐ですら、ゲイルにとっては祝福と歓喜の歌声でしかないんだ。本当にそういう風に「聞こえる」んだよ、それが彼の能力の一つだからね。
 もちろん、彼が自由に飛べるのは相棒の存在があるからだ。オズと共に在ってこそ、ゲイルは全力で飛べる。誰よりも速く、誰よりも高く、霧の海を駆けてゆくことができるんだ。何の憂いもなく、何の迷いもなく、ただ歓喜の声をあげながら――。
 えっ、そういうことが聞きたいんじゃない?
 ……ゲイルの、人となりの評価?
 ボク、前から思ってたんだけど。あれの頭の中、脳味噌の代わりに東方の豆腐とかいう白くてぷるぷるしたやつが入ってるって、絶対。
 
(語り手 トレヴァー・トラヴァース)
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#談話室の飛ばない探偵たち
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●番外編:チョコレート・パラノイアその後

「南雲くん、嬉しそうですね……」
「そう見えます?」
 来客用ソファに寝そべって長い脚をぶらつかせる南雲彰は、普段通りの死人のような顔色に仏頂面、という「嬉しそう」という言葉とは完全に無縁な顔をしていた。
 しかし、五年間南雲を観察し続けてきた神秘対策係係長・綿貫栄太郎は「ええ、とても」と深々と頷いてみせる。
 人一倍豊かな感情を抱えながら「表現する」という能力を欠いて久しい南雲は、それでも意外なほどにわかりやすい男である。表情ではなく全身で感情を表現する犬や猫のようなものだと思えばわかりやすい。
 というわけで、南雲は今、かわいらしい小さな箱を、天井に向けて伸ばした手に握り、綿貫にしか見えない架空の尻尾をぶんぶんと振っていた。相方の八束ほどではないが、南雲も比較的犬っぽいところがある。ごろりと転がったきりなかなか動かないところは、犬というよりアザラシのようにも見えるが。
 スキンヘッドに黒スーツという恐ろしげな見かけに反し、かわいいところもある――というか実際は女子高生みたいな感性の持ち主だ――部下に、綿貫はほほえましさを覚えずにはいられない。
「それ、八束くんにもらったんですか」
「そうですよー。あの八束ですよ? バレンタインって言葉もろくに知らなかった、あの八束ですよ?」
 仏頂面ながら、南雲の声は弾んでいた。どうやら本当に嬉しいらしい。とはいえ、そこに含まれる喜びは「女の子からチョコレートをもらった」という喜びではなく、「バレンタインのバの字も知らなかった同僚がついに人並みに行事に参加するようになった」ことへの喜びであることは、あえて南雲に確認せずとも明らかだった。
 ちなみに南雲はこれで女性から貰うチョコの数には困っていない。ただし、その全てはいわゆる「友チョコ」というやつらしい。何しろ昼休みに女性職員のガールズトークにしれっと混ざっているような男だ、要するに男だと思われていないのだろう。
「僕も八束くんから貰いましたけど、南雲くんのとは別のチョコみたいですね」
 綿貫は南雲にも見えるように、箱をかざしてやる。中に入っているのは、トリュフチョコレートが三つ。本当は四つだったのだが、一つは既に綿貫の腹の中に収まっている。「甘いものは本腹、そして本腹が満たされたら別腹、別腹が満たされる頃には本腹が空いてる」という謎の永久機関を提唱する超甘党の南雲ほどではないが、綿貫も甘いものは好きなのだ。
 南雲は物欲しげに綿貫のチョコレートを睨んだが、流石に人のものを奪わない程度の節度はあるらしく、上体を起こして自分の箱に視線を戻す。
「じゃ、こっちの中身は何なんでしょね」
 本人に確かめようにも、八束は今日の事件の後始末を終え、既に帰宅している。仕事もないのにだらだら残っている南雲の方がおかしいのは、気にしてはいけないお約束である。
「気になりますね。見せてもらえますか?」
「いいですよぅー」
 南雲は箱にかかっていたリボンをはずして、鼻歌交じりに箱を開く。
 そして、速攻で閉じた。
「どうしたんですか?」
「……なんか、いたたまれなくなった」
 南雲は、ぼそりと呟いた。そして、ソファから身を乗り出して、そっと綿貫にチョコレートの箱を差し出す。
 綿貫は南雲から箱を受け取ると、恐る恐る蓋を開ける。
 すると、六対の目が綿貫を見上げてくる。
 そう、それはチョコレートだった。確かにチョコレートだった。
 ただし、綺麗な球面を描くチョコレートは全て、デフォルメされた動物の顔をしていた。ワンちゃん、ウサギさん、リスさん、パンダさん、ブタさん、そしてアザラシさん……。かわいいチョコレートの動物たちが六匹、蓋を開けた者をじっと見つめているのである。そりゃあもう、きらきらと光るつぶらな瞳で。
「いたたたたまれないでしょ」
「確かに……。やたらかわいいですが」
「かわいい。めっちゃ好み。俺の趣味を反映させられるまで八束の気遣いレベルが上がってたのにもびっくりだけど、でもさあ」
 ――これ、食べるのめっちゃ躊躇われますよね?
 南雲の問いに、綿貫は重々しく頷くことしかできなかった。
 
 
 翌日、八束に「食べてくれないんですか?」と潤んだ子犬の目で見つめられ、「ごめんな……」と呟きながらチョコをもぐもぐしていた南雲がいたとかなんとか。
 ――後に聞いたところによると、とても美味しかったそうだ。
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#時計うさぎの不在証明
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●番外編:煮込みハンバーグを作るだけ

 キッチンに立つ南雲彰の横に、ジャージ姿の八束結がちょこちょこと寄っていく。今まさに人を殺してきたような凶相に剃り跡一つ見えないスキンヘッド、という極めてその筋の人らしい南雲であるが、今日に限っては猫のアップリケと足跡の模様がかわいらしい、フリルつきのエプロンを身に着けていた。
 そんな、どこからどうツッコミを入れるべきか悩ましい姿の南雲は、相変わらずの仏頂面で食器を拭き、棚に戻しているところだった。仕事しないことに定評のある南雲だが、こと「仕事以外」に関しては嫌な顔一つせずてきぱきこなすのがこの男の奇妙な特徴の一つである。常に「嫌な顔」をしているように見えることに関しては、八束もノーコメントを貫くことにしている。この男の顔と内面が一致していたことは、今まで一度も無いのだから。
「南雲さん、これから何を作るんですか?」
「んー、何作ろうか考えてたとこ。何が食べたい?」
 最後の皿を棚にしまいながら、南雲がのんびりとした声で問いを投げ返す。八束はこくんと首を傾げて、数秒ほど答えを考えた後に、背筋を伸ばして答える。
「今のところ希望はありません」
「そう言われるのが一番困るんだけどな。あと、八束」
「はい」
「何で俺ん家にいるの」
 ――当然の問いであった。
 流石に、八束もその質問は予測していたため、正直に答える。
「今日は、真さんのお部屋でお泊り会なのです」
 ちなみに、真は南雲の妹である。八束と同い年である彼女は、ある日偶然八束と知り合い、色々あった結果、八束と真は休みの日に買い物に行ったり、時にはお互いの家に招き招かれる程度の関係になった。八束にとっての、数少ない友人というやつである。
 というわけで、今日は八束が真の家――つまり南雲の家に招かれ、当たり前のようにそこにいるのであった。
「そう、ならごゆっくり。とりあえず、今日の夕飯は煮込みハンバーグにしようか」
 そして、南雲も、別段八束がそこにいようがいまいが、やることは特に変わらないのである。
「煮込みハンバーグですか。煮込み料理ということは、時間がかかるものでしょうか」
「真面目にやればそりゃかかるけど、手抜けばそこまでかからないよ。作り方見とく?」
「はい。後学のために」
「後学って言葉がまた硬いなー」
 言いながら、南雲はまな板を置き、冷蔵庫の中から玉ねぎとにんじんを取り出し、それぞれ皮を剥いてざくざくと切る。
「切り方は」
「適当。っていうかお好み」
 そして、まずは玉ねぎを耐熱容器に入れ、ラップをかけてレンジに放り込む。
「温めるです?」
「温めるのです。こいつら真面目に火を通そうとすると時間かかるから」
「にんじんは入れないのですか?」
「途中で入れる。個人的ににんじんは形残ってる方が好きだから、型崩れしない程度に温めたいんだよ」
 その間にとボウルを取り出し、用意されるのはパン粉とひき肉二パックと卵一つ、それから、袋に入った――。
「お麩」
「こいつをパン粉とか卵と同じように、つなぎとして使う」
 そうすることで、普通に作るよりも柔らかく、また全体に対する肉の割合が減るためヘルシーに仕上がるのだという。お麩自体にはっきりとした味がついているわけではないので、肉の味を邪魔することもない。
「ハンバーグには玉ねぎを入れると聞いていましたが」
「それはお好み。入れなくてもお麩入れとくと比較的柔らかく仕上がるから、今日は入れないやり方でやる。というわけで、それ適当にもにもにしといて」
 ジッパーつきの袋にお麩を放り込んだ南雲は、内側の空気を抜いてからしっかりジッパーを閉め、八束にそれを押し付ける。八束は、それを掌でぐいぐい押しながら、南雲に問う。
「これらの分量は」
「適当」
「南雲さん、さっきから『適当』ばかりですね」
「正直、きちんと計測とかしたことないから、説明のしようがないんだよな。それに、八束なら見れば覚えられるでしょ」
 フライパンをコンロの上に用意し、次いで取り出した大きめの鍋の半分くらいまで水を入れながら南雲は言う。この水の量も聞くまでもなく「適当」なのだろう。
 常日頃から料理を日課としている南雲にとっては、適切な分量というのはわざわざ計測するまでもなく、感覚として身についているものらしい。というわけで、手順さえしっかり見ておけば、南雲の言葉は聞いても聞かなくても問題ないことがよくわかった。
「で、その間にソースの用意を始めとく。こっちの鍋の水を、とりあえず沸騰させる」
 言いながら水の入った鍋を火にかけ、ついでとばかりにレンジに向かい、いい具合に温まっていた玉ねぎの器ににんじんを投入し、再びラップをかけ直してレンジに戻した。その間に、八束の手の中にあったお麩は、元の形を失いつつあった。
「大体形が崩れました」
「じゃあ水を加えて更にもにもにしよう」
「水、この袋に直接入れちゃうんですか」
「入れちゃっていいよ」
 そんなわけで、袋の中に水を加えてさらにお麩を揉む。すると、もはや何だかよくわからないもにもにした塊が出来上がった。それを確認した南雲は、袋から出したお麩の塊をボウルに移し、先ほど用意したハンバーグの具材もボウルに投入。軽く塩胡椒してから一緒に混ぜ始める。
「ここで、少し固かったら水を加える。多少にちゃにちゃするくらいでいい」
 そうして出来上がったハンバーグの種を、手の中で空気を抜きながら丸く形を整え、フライパンの上に並べる。
「今回は煮込みハンバーグだし、形は多少イビツでもいいと思ってる」
 そんなわけで、半分ほどの種がハンバーグとなりフライパンの上に揃った。南雲がそのまま火をつけるのを見て、八束はこくんと首を傾げる。
「サラダ油は入れないんですか? 焦げ付きませんか?」
「肉から油出るし、きちんと様子見てれば平気」
 フライパンの蓋を閉め、流れるような動きで沸騰していたお湯の方に移る。
「こちらがソースです」
「お湯ですが」
「これからソースになるよ。って言ってもベースはどこにでも売っているこちら」
 棚から取り出したのが、市販のビーフシチューのルーだ。八束も、スーパーでよく見かける箱である。ただ、ちらっと見えた棚の中には、何故か各メーカーの、それこそ八束が見たことも無いメーカーのルーまで揃っていたので、多分、食べ比べたりしたことがあるのだろうなあ、と内心思わずにはいられない。南雲の料理は日課ではあるものの、半分くらいは彼にとっての道楽であることも、八束はよく知っていたから。
「これを溶かせば、確かに煮込みハンバーグのソースらしくはなりますね」
「でも、これだけだと完全に市販のお味になるんで、ルーを投入する前後に手を加える」
 言って、別の棚から次々と調味料を取り出す南雲。このキッチンには、一体どれだけの材料が隠されているのか、八束は不思議で仕方ない。何しろ、八束の部屋にはカロリーメイトとサプリメントとミネラルウォーターしか常備されていないのだから。
「固形コンソメを、この量ならとりあえず二個かな……」
 本当に適当らしいことを呟きながら、南雲はぽいぽいとコンソメを投げ込み、お湯に溶かす。
「で、冷蔵庫にセロリがあったのでこれも入れる」
「何を入れてもいいんですか」
「相性さえ合えば別に何でもいいと思うよ」
 手際よくセロリの茎の部分を切って、鍋の中に放り込む。そして、次に取り出したのはにんにく一欠け。これをさくさくとみじん切りにして、即座に鍋に投入。
「にんにくですか?」
「うん。これは本当にちょっとでいいんだけど、入れると風味が結構変わるんだ」
 そして、電子レンジに放置されていたにんじんと玉ねぎを投入。ある程度煮立ったところで一旦火を弱火にして、ルー一箱分を投入して、ついでにとばかりにローレルも三枚ほど入れる。
「これだけですか」
「基本はこれだけ。ルーがちゃんと溶けたかどうかは確認しないとだけど、野菜は火が通ってるから、そこまで気を遣って煮込む必要は無い」
 喋りながらも南雲の動きは止まらない。フライパンの蓋を開け、ハンバーグの片面がいい感じに焼けたのを確認して、ひっくり返す。フライパンの内側には、種を熱したことによって蒸発した水分と、肉から出た油が付着している。
「確かに、油はあえて入れなくても大丈夫なんですね」
「ついでに、焼き色ついてなくても、火さえきちんと通ってれば大丈夫」
 もう片面にも焼き色がつき、火が通ったことを示す透明な肉汁がふつふつ出ているのを確認し、ハンバーグを鍋にぽいぽいと放り込む。そして、第二弾のハンバーグを仕掛けて再び蓋を閉める。
「これで、次のハンバーグが焼けたら大体おしまい。あとはちょっととろみが出るまで煮込んで、一旦火止めて、食べるときに温めればいい」
「確かに、手順自体はそこまで難しくないんですね」
「そ。あと、今回はケチャップ入れておこうか」
「ケチャップ……、ですか?」
「ん、入れすぎるとただのケチャップ味になっちゃうけど、ある程度入れる分には、いい感じの酸味と甘みが加わっておすすめ」
 冷蔵庫から取り出したケチャップを、やはり特に分量も確認せず無造作に投入する。それでも南雲の手つきに迷いはないので、感覚的に理解している領域なのだろう。そのままではケチャップがそのまま沈んでいるだけなので、ハンバーグが崩れないよう、慎重に鍋をかき混ぜる。
 ある程度ケチャップとソースが混ざり合ったところで、南雲がお玉にすくったソースを小皿に移して、八束に示す。
「味見してみる?」
「はい」
 八束は素直に頷いて、小皿のソースを舐める。しばし舌の上でその風味を確かめ、飲み下して南雲を見上げる。
「美味しいのですが、とてもケチャップ感があります。ビーフシチューとケチャップが、それぞれ存在を主張しています」
「まだそうだろうね。でも、しばらく煮込んでおくと馴染むよ」
 南雲は下手くそな鼻歌を歌いながら、焼けた第二弾のハンバーグもぽいぽいと鍋の中に入れ、更に煮込み続ける。火が通ってきたからか、先ほどよりも随分とろみが増して、ソースらしくなってきた気がする。
 そのまましばらく弱火でとろとろ煮込んだところで、南雲はもう一度小皿にソースを取って、八束に渡す。八束は先ほどのケチャップ味を思い出しながら、ぺろりとソースを舐め取って、はっとする。
 先ほどまであれだけ存在を主張していたケチャップがいつの間にか姿を消し、微かなトマトの香りと、後味としての爽やかな酸味だけが残っていたのだ。
「さっきと全然味が違いますね!」
「でしょ。これが『味が馴染む』ってこと。完成品だけ食べてると、案外こういうのってわかりづらいけど」
「興味深いです。ここまで大きく変わるとは思いませんでした」
 南雲はその言葉に満足げに頷いて、八束の頭をぽんぽんと叩く。
「八束は味覚しっかりしてるから、基本さえ覚えれば応用も出来るでしょ。どれを入れればどう味が変わる、ってのがわかれば料理ってそう難しいもんじゃないし、この『変化』が何より面白い」
「南雲さんは、料理を純粋に楽しまれているんですね」
「そうだね。面白くなきゃやらないもん」
 なるほど。ことこと煮込まれてゆくハンバーグを見ながら、八束は内心で深く頷く。
 南雲にとって、料理を含めた諸々の行動は「面白い」という一点で全て説明できるものなのだ。自分で「面白い」と思うことさえできれば、それが何であっても熱心に取り組むことができるというのは、この男の最大の美点であるといえよう。
 ――とはいえ。
 八束は、こちらをぐりぐり撫でてくる南雲を真っ向から見上げて言う。
「その『面白さ』を、仕事にも見出してくださると嬉しいのですが」
「無理」
「ですよね」
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●番外編:やつぐもグルメ

▼熱に弱い

 酷く暑い朝。対策室の扉を開いた八束は、硬直した。
「おはよー、八束」
 ソファの上に巨大スライムが鎮座し、しかも相棒の南雲の声で喋ったから。
「どうしたんですか!」
「暑くて溶けた」
「治るんですかそれ」
「うん。冷凍庫のアイス取って」
 慌てて青いアイスを取り出し、スライムに渡す。
「あと、どうすればいいですか?」
 もしゃり。見えない口で確かにアイスを咀嚼したスライムは、重々しく言った。
「かき氷食べたい」
「それで、元に戻るんですか?」
「溶けたら冷やして固めるものだよ。あ、スイカバーも食べたいなー」
 
 
「……という夢を見ました」
「夢でもぶれないねえ、俺」
 南雲は、八束が夢の中でも見た、ソーダ味のアイスをもぐもぐしていた。
 
 
 
 
▼南雲臨時講師

 南雲せんせい、と声をかけてきたのは、八束も何度か世話になっている、職員の女性だった。
 八束の横で眠そうにしていた南雲が、重たげに頭を上げる。
「あー、高橋ちゃん」
「教室再開してくださいよ、みんな待ってるんですよ!」
「最近サボっちゃってたもんな。そろそろまたやる、って皆に伝えといて」
 高橋は、俄然顔を輝かせて頷き、小走りに駆けていく。
 その背中が見えなくなるまで見送った後、とりあえず、最大の疑問を南雲に投げかける。
「教室、って何ですか?」
 
「一人暮らしの味方、安くて早くておいしい手作り弁当教室。毎週水曜昼休み開講、受講料はお菓子一つ」
 
「……南雲さん、刑事より絶対そっちの方が向いてる気がします」
「知ってた」
 
 
 
 
▼やつづかのお願い

「南雲さん、お願いがあります」
「仕事以外のお願いなら」
「仕事してください」
 いつも通りのやり取りの後、八束は持っていたチラシを渡してきた。南雲は、分厚い眼鏡の位置を直し、普段から細い目をさらに細める。
「うちの近くのスーパーか。これがどうしたの?」
「こちらを見てください」
 八束は、チラシの隅の一点を指す。
 
 カロリーメイト、五個セット安売り。
 おひとり様一セット限定。
 
「……つまり、お前の買い出しに付き合えと」
「はいっ!」
 八束の主食はカロリーメイトであり、副食はサプリメントである。
 南雲は、そんな食生活の何が楽しいのだろうと思いながらも、期待に満ちた目で見つめる八束の頭を撫でた。
「しょうがないなー、八束は」
 
 
 
 
▼君とシュークリーム

 ソファに腰掛けた八束は、シュークリームを手に取る。
 
 南雲行きつけの洋菓子屋『時計うさぎ』のシュークリームは、表面さくさく内側しっとりのシュー皮に、微かに洋酒が香るカスタードクリームがたっぷり詰まった、特別な味わいだ。
 大きめのそれに、口を広げて食らいつく。
 クリームが漏れないように気をつけていても、なかなか上手く食べられない。
 隣の南雲は慣れたもので、ぺろりと一つ平らげたかと思うと、二つ目に手を伸ばしていた。
 そして。
「クリーム、ついてるよ」
 人差し指で、八束の唇の端をなぞる。
 冷たい感触に一瞬瞑った目を開けると、南雲が、指先のクリームをぺろりと舐め取ったところだった。
「おいしいね」
「はい、おいしいです」
 
 
 
 
▼豊かな人生の第一歩

「今日から、八束食生活改善プログラムを開始しようと思う」
「本当に、いただいていいんですか、南雲さん」
「毎朝家族の分も作ってるからな。一つ増えたところで変わらないよ」
 言いながら、正面の席に座った南雲は「どうぞ」と八束に弁当箱を差し出す。蓋に描かれたピンクのクマさんは、南雲の趣味以外の何物でもないだろう。
 かねてから八束の「必要な栄養を取る」だけの食生活に対し「食事は単なる栄養摂取手段ではなく、人生を豊かにするものだ!」と柄にもなくエクスクラメーションマークつきで力説していた南雲が、ついに八束の食生活改善に乗り出したのだ。
 その第一歩が、昼食の提供である。
 恐る恐る、弁当箱の蓋を開けてみると、目に飛び込んできたのは、色とりどりのおかずに、かわいらしく飾られたおにぎり。しかも、目を楽しませるだけでなく、八束がざっと脳内ではじき出した計算が正しければ、栄養のバランスもよく考えられている。八束を納得させるポイントをきっちり抑えてくる辺りは流石である。
 ほう、と。息を漏らし、自分の弁当の蓋を開ける南雲に視線を戻す。
「南雲さんって、本当に器用ですよね」
「そんなことないよ。八束みたいに、何でもかんでも見よう見まねでできちゃうわけじゃない」
「それでも、好きなことや大切なことを形にして共有できるというのは、わたしにはない、南雲さんの才能だと思います」
 南雲は、一瞬眼鏡の下で目を見張って、それからふいと視線を逸らした。
 もしかして、また変なことを言ってしまっただろうか。ひやひやしていると、そっぽを向いたままの南雲が、ぽつりと言った。
「ありがと」
 ……どうやら、怒らせたわけでは、なかったらしい。
 内心ほっとしながら、手を合わせる。南雲も八束にならうようにして、両の掌を合わせて。
 
『いただきます』
 
 
 
 
▼もう一度、彼に

「シュークリームを六つください」
 
 声をかけてきたのは、洋菓子屋には似合わない、スキンヘッドにスーツ姿の無愛想な男。
 しかし、店主にとっては見慣れた顔だ。
「最近、よく来てくださいますね」
 ん、と。仏頂面のまま、男が頷く。
「ここのお菓子を、気に入ってくれた子がいて」
「ありがとうございます」
 喜ばしいことだ。店主にとっても、男にとっても。
 店主は知っている。かつて、この男がある女性と笑い合っていたことも、その女性が消えて、男が心を殺したことも。
 だから。
「一つおまけしますよ」
「いいの?」
「ええ。ごちそうしてあげてください」
 まだ見ぬ誰かが、男のかつての笑顔を取り戻してくれることを祈り、シュークリームを詰めてゆく。 
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●番外編:ふぁふろつきーず

「趣味とは、生命維持には必要のないものかもしれない。しかし、人間社会の中で生きる以上、『生きがい』というものがなければ、ただ息をしているのと何も変わらない。つまり、人間が人間らしく生きるに不可欠な要素であって」
 八束結は淡々とキーボードで何度目になるかもわからない文字列を入力しながら、ちらりと視線だけをディスプレイの向こう側に向ける。八束の、必要最低限のものしか置かれていない、殺風景な机とは対照的に、正面の机の上は極めてカラフルであった。テディベアをはじめとした、手作りのぬいぐるみによって。
「もちろん、人によって趣味はそれぞれなわけだが、俺は手芸を推す。無心に手を動かしていれば、やがて意味のある形が見えてくる――。ばらばらであった要素から、一つのものを作り出すという喜びがそこにある」
 そして、そのぬいぐるみに囲まれているのは、剃り跡すら見えないスキンヘッドに、細い体を隙なく覆う黒スーツ、という堅気からかけ離れた身なりの男であった。その眉間には深く皺が刻まれ、黒縁眼鏡の下の目は不気味な隈に縁取られており、どう贔屓目に見ても今まさに人を殺してきたような顔をしている。
 が、その鋭く抉るような視線は、あくまで、手元の編み棒に向けられているわけで。
「編み物も当然そのうちの一つだ。毛糸という一本の頼りなくすら見える線が、面となり立体となるこの瞬間、俺は言いようのない感動を覚える。今、ここに生きていると感じるのだ。わかるか? 八束」
 そう言って、男――待盾警察署刑事課神秘対策係主任、南雲彰は仏頂面をこちらに向けてきた。この男、表情筋が死んでいるのか何なのか、常に不機嫌そうな顔をしているが、本当に不機嫌であることはほぼ皆無と言っていい。
 もしかすると、今のも、本人の中ではとびっきりの決め顔だったのかもしれない。
 とはいえ、今は仕事中である。かたかたとキーボードを鳴らしながら、あくまで視線はディスプレイに。要するに、八束は無視を決め込んだ。
 場に、重苦しい沈黙が流れた。
 しかし、南雲が机に突っ伏して「あー」と力なく呻いたことで、その沈黙はあっけなく破られた。
「構ってよやつづかー。南雲さんは寂しいと死んじゃうんだぞー」
「最近、南雲さんの言葉の九割は意味がないことを学びましたから」
「八束も、随分俺の扱いに慣れたねえ」
 八束が放った呆れ交じりの言葉にも、南雲は全く動じなかった。つれない態度も予測済みだった、ということだろう。
 待盾警察署の片隅に位置する神秘対策室には、今日もけだるい空気が流れていた。仕事といえば事務手続きばかりで、しかも、その仕事のほとんどは南雲が「新入りなら雑務にも慣れていただかないと」とほざいて、堂々と八束に押し付けたものである。
 手の早い八束からすればそれすらも大した仕事量ではないのだが、それでも仕事を押し付けてきた張本人が横で仕事とは全く関係ない作業をしていると、流石にいらっと来る。
「そんなに生きがいを求めるなら、仕事しましょう、南雲さん。仕事も十分生きがいになりえます」
 その苛立ちを隠しもせずに言った、つもりだったのだが。南雲は意に介した様子もなく、つるりとした頭を机に載せたまま、器用に編み棒を動かし続ける。
「事務仕事とかめんどくさいじゃん。眠くなっちゃうよ」
「編み物も、十分眠くなれる案件だと思うのですが」
 どうも、南雲の中ではそれらは全く別であるらしく、眠そうに隈の浮いた目をしょぼしょぼさせながらも、熱心に編み物を続けている。
 八束が待盾警察署刑事課神秘対策係に配属されてから二ヶ月。遺憾ながら、これが当たり前の毎日になってしまっていた。
 恐ろしげな顔に似合わず手芸全般を趣味兼特技とするこの怪人は、仕事をほっぽり出して、日々新たな作品を生み出し続けている。ちなみに、作ったものは大概南雲の机を飾り、場合によっては八束や係長である綿貫栄太郎の机をも侵蝕しているが、時々数が減っているところを見るに、誰かに贈ったりもしているらしい。
 そんな、いてもいなくても仕事の進捗に関わらない主任を抱えて、八束が配属されるまで神秘対策係がかろうじて係として成立していたのは、ひとえに、大きな仕事がほとんど存在しないからだった。
 神秘対策係、通称「秘策」とは、待盾警察署独自の係であり、業務内容は「オカルトに属する事象に関する相談請負と解決」。魔法や妖怪、超能力といったオカルティックな現象が特別多い「特異点都市」待盾市において、人にも相談できない不可思議なものに悩まされる市民は、一定数存在する。そんな市民に手を差し伸べるのが、神秘対策係だ。
 無論、八束たちがオカルトを信じているわけではない。むしろ、その逆だ。待盾市の特異性を利用して、人知の及ばぬオカルトとして片付けられかけている事件。それらを、人の手による犯罪であると証明するのが、神秘対策係の本領である。
 とはいえ、そのトンデモ感とそもそもの知名度の低さから、神秘対策係の仕事は極めて少なかった。今、八束がパソコン上で処理している書類も、忙しくて書類仕事まで手が回らないという盗犯係の書類を代わりに捌いているだけで、神秘対策係本来の仕事ではない。
「やーつーづーかー、何か面白い話ないのー?」
「子供ですか! せめてちょっと黙っててください!」
 正直、この男が給料を貰っているのが理解できない。ついでに、公務員なのだから、それは市民の税金である。善良な市民がこの光景を見たら、十中八九この場にあるテディベアの首が全て飛ぶだろう。そして南雲がしくしく泣くだろう。想像するだけで鬱陶しい。
「ああ、そういえばさ、八束」
「何ですか? もう趣味と甘いものの話はなしですよ」
「仕事の話だよ。昨日、ファフロツキーズがあったんだって」
「ふぁふろ……、何です?」
 南雲は、一度編み棒を机の上に置き、机をカラフルに彩る要素の一つ、こんなところにあること自体奇妙な棒つき飴の卓上ディスプレイから、飴を一本引き抜きつつ言った。
「Fall from the skiesを略してFafrothskies。日本語では怪しい雨、って書いて『怪雨』。本来空から降ってくるはずのないものが降ってくる現象だな。八束は『マグノリア』って知らない?」
 マグノリア。まず頭に浮かんだのはその名を持つ花――木蓮だったが、文脈からすると、別のものを指しているのだろう。その音に引っかかるものをざっと脳内検索、南雲が意図しているだろうものを言葉にする。
「『マグノリア』って、映画ですよね? 見たことはありませんが、カエルがいっぱい降ってくるポスターは印象に残ってます」
「そ、ああいうのがファフロツキーズ。今日、綿貫さんはその相談を受けてるとか何とか」
「あ、だからいないんですね、係長」
 朝から対策室に綿貫係長の姿が見えなかったから不思議には思っていたのだが、おそらく、迷える市民の相談を受けているのだろう。相談役は、八束が配属される以前から、人当たりのよい綿貫が一手に引き受けている。
 係長に全て任せるのはどうかとも思うのだが、何しろ南雲は物腰はともかくこの見た目なので、相談に向かないどころの話じゃない。八束は一度だけ相談に立ち会わせてもらったが、その後一度も綿貫から声をかけられなくなった。つまり、そういうことである。
「それで、何が降ってくるんですか?」
「さあ。俺も詳しい話は聞いてない。一般的なのは、魚とかカエルみたいだけど」
 超常現象に「一般的」も何もないとは思うが。
 魚やカエルが空から降ってくるのを想像して、思わず苦いものを噛み潰した顔になってしまう八束に対し、南雲は棒つき飴をもぐもぐしながら、仏頂面のままぼんやりと虚空を眺めて言う。
「あー、でも、飴とかお菓子が落ちてくるなら、嬉しくなっちゃうなあ」
「いくら好きなものでも、空から落ちてきた得体の知れないものは食べたくないです」
「確かに、ものによっては口に合わないのもあるし、無差別はちょっと嫌だね」
「そうじゃありません」
 この男の頭は、甘いものと趣味でしかできていないのか。どうして曲がりなりにも刑事という肩書きを持っているのだろう、といつもながら不思議に思う。
「お菓子は横に置くとして、それって、どういう原因で起こるものなんですか? 流石に虚空から魚やカエルが生まれる、なんてことはないと思うんですが」
「諸説あるよ。一番有力な説は、竜巻とか上昇気流に乗せられたものが、上空を運ばれて降ってくるって話。でも、その現場を見た人はいないから、本当かどうかは謎」
 謎、というのは嫌な話だ。証明できないものは、否応なく八束を不安にさせる。この係の本来の目的は、オカルトを装うことで警察の手を逃れようとする者たちの犯罪を暴くことであって、本物のオカルトは八束の許容範囲を大幅に逸脱している。
 南雲も「流石にこういう出来事は、八束の手にも余るかもねえ」と、しかし緊張感もなくばりぼり飴を噛み砕きながら、編み棒を動かしている。自分で解決する気がさらさらない辺りが南雲の南雲たる所以である。
 と、その時、対策室の扉の向こうから、聞きなれた声がした。
「いやー、やれやれですよ」
 それと同時に扉が開き、係長の綿貫が入ってきた。どこか狐めいた細い目を更に細め、片手には紙袋を抱えている。開いた口から覗いているのは、八束も見覚えのある、最近発売されたチョコバーのパッケージ。
「係長、どうしたんですか、南雲さんじゃあるまいし」
 菓子イコール南雲、という認識の八束に苦笑を見せた綿貫は、南雲の机の上にどん、と紙袋を置く。南雲の机の上に、ものを置くようなスペースは存在しないので、何匹かのテディベアが下敷きになった。
「南雲くん、チョコ、お好きですよね」
「もちろん」
 即答である。
 綿貫は、そんな南雲の目の前で、紙袋をひっくり返す。すると、紙袋に詰まっていたチョコバーが机の上に溢れた。哀れぬいぐるみはチョコバーの海に溺れ――というか、チョコバーがぬいぐるみの海に沈んでいくようにも見えたが。
「これ、食っていいんすか」
 仏頂面ながら、眼鏡の下できらりと目を輝かせた南雲に、綿貫は何故か、少しだけ疲れたような顔で微笑みかける。
「ええ。どうぞ、八束くんも」
 そして、綿貫は袋の中に残った最後の一つのチョコバーを、八束に向かって無造作に放り投げる。少々慌てながらも無事チョコバーをキャッチした八束は、手元と綿貫を交互に見ながら、頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
 のそのそと奥の係長席についた綿貫を横目に、包装を剥いて一口。目の前の南雲は既に二本目に手をかけている。一本目をいつ食べたのか、八束は視認すらできていなかった。
 ともあれ、口の中に広がるのはチョコレートのほろ苦い甘さと、内側のさくさくとしたクランチの感触だ。独特の食感を確かめるように何度か咀嚼してから飲み込んで、最初に聞いておくべきだったことを、改めて問う。
「美味しいですけど、どうしたんですか、これ」
「ああ、降ってきました」
 こともなげに綿貫が言い放ったものだから、八束は、その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
 ファフロツキーズ。本来空から降ってくるはずのないものが降ってくる現象。
「マジか、最高じゃん。現場どこっすか」
「南雲さん!」
 今までのゆるい態度が嘘であったかのように、素早く立ち上がる南雲。まさか本当に落ちてきた菓子まで食べるというのか。そこまで見境のない男なのか。いや、この男に常識が通用しないことくらい、八束も理解していたはずではなかったか。それはそれでどうかと思うが。
 すると、綿貫がくつくつ笑いながら言った。
「冗談ですよ、冗談。ただ、お菓子が降ってきたというのは事実なんですけどね」
「どういうこと、ですか?」
 さっぱり意味がわからない。ため息交じりに着席した南雲も、胡乱げな視線で綿貫に話の先を促す。
「昨日昼ごろ、菓子が降ってきたという報告があって、目撃者から話を聞いていたんですがね。先ほど、菓子の販売会社が訪ねてきまして、どうも新商品販促イベントとして、ヘリで上空から会場に撒くはずだったものを、誤ったポイントで少数撒いてしまったらしいということで」
 それが、風に乗る形でちょうど待盾に落下した、ということだったらしい。
 何ともあっけない解決に、八束も「は、はあ」と気の抜けた声を出すことしかできない。
「で、後始末は自分たちでやるとのことで、騒がせたお詫びとしてもらいました」
「なるほどー。得しましたね」
 南雲は三つ目のチョコバーの封を開けながら言う。だが、八束は渋い顔をせずにはいられない。
「……それ、収賄じゃないんですか、係長」
 けれど、綿貫はしれっとした顔で、人差し指を唇の前に立てる。
「ええ。そういうわけで、これは内密にお願いします」
 ――それでいいのだろうか。
 どうにも納得できない八束の目の前で、南雲は構わずもぐもぐチョコバーを食しているわけで。食べてしまったものを、返すわけにもいかない。難しい顔を続ける八束に対し、南雲はちらりと眼鏡の下から八束を見やり、ぽつりと言った。
「そんな怖い顔するなって。ばれなきゃ犯罪じゃないんだよ、八束」
「それ、警察官の発言として根本的に間違っていると思います!」
 八束のもっともな言葉に対し、南雲は大げさに耳を塞ぎ、綿貫はただ苦笑するだけで。
 八束は頬を膨らませながらも、食べかけのチョコバーを齧り取る。
 
 いくつもの不思議を抱える「特異点都市」待盾には、不思議の正体を暴く者がいる。
 それが、神秘対策係――通称「秘策」。
 ただ、彼らの毎日は、大概の場合、とことん怠惰で気だるいのであった。
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●番外編:はじめての風邪の日

「情けない……。風邪で寝込むなんて初めてです」
「いつも無駄に元気だもんねえ、八束」
 普段ならすかさず「無駄にとは失礼な」と言い返す八束結だが、今日ばかりはその元気すらないのか、畳に敷いた布団に横になったまま、申し訳なさそうに太い眉を下げた。
 そんな八束の熱い額に手を乗せ、南雲彰は濃い隈に縁取られた目を細める。八束の枕元には、差し入れとして持ってきた風邪薬の瓶が置かれている。
「ま、仕事も暇なんだ、たまにはゆっくり休みなよ」
 南雲の顔は仏頂面以外の表情を浮かべることはなかったが、いたわりの感情は八束にも伝わったらしい。八束は「すみません」と掠れた声で謝罪しながらも、小さく頷いた。
 それから、アーモンド型の目をくりくりさせて、南雲を見上げる。
「南雲さん、今日は休暇ではなかったと思いますが」
「俺が仕事をサボってるのはいつものことでしょ。俺がいなくても何も変わらないし」
 C県警待盾署刑事課神秘対策係は、多忙を極める刑事課に属しながら、主任の南雲が一日中編み物に励んでいても特に業務に差し支えはない、という怠惰極まりない係だ。何しろ、業務の九割は他の係が押し付けてくる事務手続きの手伝いだ。南雲がいなくても問題ない、というのはあながち誇張でもない。
 ただし、南雲がサボっている裏では、生真面目で仕事熱心な新人・八束が南雲の分まで仕事をしているわけで、八束はジト目で南雲を見上げる。
「お心遣いはありがたいですが、南雲さんは仕事をしてください」
 ――一人で寝込んでいるお前が気になって、仕事が手につかなかったんだよ。
 そんな本音は喉の奥に飲み込み、ただ肩を竦めて八束の冷たい視線を受け流す。
「それはそうと、八束、今日は何か食べた?」
 いくら鈍い八束でも、はぐらかされたのは理解したらしく頬を膨らませるが、質問には正直に答える。
「まだですが……」
「なら、何か作るよ。台所借りるね」
「えっ、流石に南雲さんにそこまでさせるわけにはっ」
 八束は反射的に起き上がりかけたものの、すぐにふらりとして、枕に頭を落としてしまう。南雲は八束の乱れた掛け布団を整えながら言い聞かせる。
「無理するんじゃないよ。熱で消耗してるだろうし、胃に何も入れないまま薬飲むのもよくない。大人しく任せときなさいって」
「南雲さんが、わたしに優しいなんて……」
「おい、俺が普段は優しくないみたいじゃない、それ」
 心外なんだけどー、と言いながらも、八束を観察するのは忘れない。熱は高そうだが意識ははっきりしている。まずはきちんと食事をさせて、薬を飲ませて様子を見てみようと考える。容態が悪化するようならすぐに医者に連絡しよう、と思いつつ。
 南雲にも、罪悪感がないわけではないのだ。八束は、どんな難題を前にしても、無尽蔵にも見える活力をもってことに当たっていた。その八束に寄りかかり、知らず無理をさせていたとも思うのだ。
 だから、今日くらいは自分がきっちり働くべきだ。八束の回復に尽力する、という形で。
「南雲さん、『さっさと治してもらって、仕事を押し付けよう』って思ってません?」
「思ってる」
 それはそれで、南雲の偽らざる本音ではある。
 怠慢な先輩に対するじっとりとした目つきを隠しもせず、八束はついと視線を台所に向ける。
「とにかく、食事は南雲さんのお手を借りずとも大丈夫です。棚の中に、いつものが入ってます。あと、水が冷蔵庫にあるので取っていただけますか?」
「……いつもの?」
 具体的に「何」と指定されていないのが気になりつつ、南雲は立ち上がると台所に向かう。八束が一人暮らしをしているアパート『湯上荘』は、今にも崩れそうなぼろい見かけの割に案外設備はしっかりしており、六畳一間に台所、トイレ、シャワーまでついている。その台所部分に置かれた棚の戸を無造作に引き、
 南雲は、絶句した。
 そこには、黄色い箱がいっぱいに詰まっていた。
 カロリーメイト。
 カロリーメイトだ。見間違えようもない。
 チーズ味、フルーツ味、チョコレート味という、コンビニでおなじみのラインナップが、八束の病的な几帳面さをもって整然と並べられている。それ以外のものは、何一つ確認できない。
 嫌な予感を感じながら、下の戸も開ける。
 そこに詰まっていたのは各種サプリメントの詰まった容器。カロリーメイトでは足らない成分を摂取するためのものだろう、と理性では判断しつつも、南雲はただでさえ普段から消えない眉間の皺が、更に深まったのを実感する。
 こう来ると、冷蔵庫の中身も想像はついてしまう。それでも、一縷の望みをかけて冷蔵庫の扉に手を掛けて、引く。
 そこには、ペットボトルに入ったミネラルウォーターのみ、十本ほど詰め込まれていた。あと、この状態で何の意味があるのかもわからない、脱臭剤が一つ。
 それを認識した南雲は、ついに膝をつき、頭を抱えて声を上げていた。
「うおああぁあぁ」
「な、南雲さん、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねえよ! これのどこが食事だ!」
 南雲は普段の飄々とした態度をかなぐり捨てて叫ぶ。八束は、声を荒げる南雲を初めて目にした戸惑いを隠しもせず、目を白黒させながらも自分の考えを伝えることは忘れない。
「必須栄養価を摂取するという行為として、最も効率的な方法だと思いますが」
「違う! そうじゃない! 単なる栄養摂取なら点滴でも何でもいい、経口摂取である必要すらねえ! 食事ってのはなあ、食欲を満たしながら、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚全てを駆使して快楽を味わう、人間という種に与えられた至高の時間だ、それをおろそかにする奴は誰が許そうとこの俺が許さん!」
「南雲さんの怒りのツボがわかりません」
 怯え半分、呆れ半分の八束の声が聞こえた気がしたが、無視して台所に立つ。もし食材が切れてたら、と思って持ってきた食材と調味料が役に立ちそうだ。こんな形で役に立つとは思いもしなかったが。
 今まで相対したどの事件よりも南雲に動揺をもたらした棚と冷蔵庫は一旦忘れ――その前に、枕元に水のペットボトルは置いてやったが――ひとまず喉を通りやすいものを作ろう、と思いかけて重要なことに気づく。
「ねえ、八束……」
 ほとんど答えは決まっているだろうが、一応、聞いておく。
「調理器具と食器もないってこと?」
「いえ、薬缶とマグカップはあります」
「それだけかよ」
 振り返って、分厚い眼鏡越しに八束を睨むも、八束は南雲がどうして睨むのかも理解できていないようで、横になったままきょとんとしている。それを見て、南雲はいつになく胸の中が熱くなる感覚に襲われた。
 ――どうやら、俺はこいつに、食の何たるかを教えてやらねばならないようだ。
 そうと決まれば即行動。部屋を飛び出し、隣から鍋と食器を借りて戻ってくる。南雲の知り合いでもある隣室の住人には、後でオリーブオイルを差し入れようと思う。オリーブオイルは万能だ。
 さて、当然ながら炊飯器もないから、米から粥を炊く必要がある。鍋を火にかけて八束の様子を見れば、目を閉じて大人しくしていた。準備をしている間に眠ってしまったようで、すうすう息を立てている。
 無防備な寝顔を晒してくれる程度には、信頼されているらしい。普段あれほど気を張っているのに、妙に危機感が薄いというか、何というか。南雲に変な気はないが、こうも無頓着だとつい心配になる――八束の横に座り込み、そんなことを考えずにはいられない。
 ともあれ、粥が炊けた辺りでといた卵を混ぜ、食べやすいように薄く味をつける。味見した感じでは悪くないと思うが、八束の口に合ってくれるといい。そう、心から思う。
 八束の肩を軽くゆすると、眠りは浅かったのか、すぐに目を覚まし南雲を大きな目で見つめてきた。つい目を逸らしながら、南雲は器によそった卵粥を差し出す。
「できたけど、食えそう?」
「おそらく」
 南雲の手を借りて上体を起こした八束は、盆を膝の上に載せて、器を手に取る。レンゲですくった粥をふうふうと冷ましたあと、恐る恐る口に含む。一連の動作をじっと見守っていた南雲は、八束のどこか虚ろだった表情が、明るいものに変化したのを見て取った。
「これ、美味しいです」
「ならよかった」
「南雲さん、お料理も得意だったんですね」
 南雲にとって、料理は手芸と同じく退屈な日々をやり過ごす工夫の一つだ。普段仕事場で嗜んでいる手芸と違い、今まで八束の前で披露する機会がなかっただけで。
 どうやら、食欲が減退していても卵粥は喉を通るらしく、八束はゆっくり、しかし確かに粥を食していく。南雲もその様子を見て、内心胸を撫で下ろす。
 半分ほど粥を胃の中に収めたところで、八束は小さく息をついて言う。
「こんなに温かなご飯を作ってもらうのも初めてです。何だか、ほっとしますね」
 いつになく柔らかく微笑む八束だったが、その言葉は南雲の中に小さな不安を抱かせる。南雲は八束の背景を全く知らない。どのような生まれ育ちで、どうして警察官になろうと思い立ち、果てにこんな閑職に回されたのかも、何もかも、何もかも。
 とはいえ。
「ほっとしたなら何よりだ」
 それを追及するのは今ではない。美味しそうに粥を食べる八束の頭を軽く小突き、コンロの上の鍋を指す。
「多めに作っといたから、夜と明日の朝は温めて食べてね。毎食、薬はきちんと飲むこと。もし俺が帰った後に具合が悪くなったら、隣の部屋に声をかけろよ、小林には事情話しとくから」
 てきぱきと指示を加えると、八束は深々と頷いてから、ぼそりと呟く。
「南雲さん、いつもこのくらいしっかり働いてくれると嬉しいんですけど」
「やだよめんどくさい」
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●番外編:なぐもさん

「おはようございます、なぐもさん!」
 八束結は、明るい挨拶の声をかけて、席につく。目の前の席から返事はないが、いつになく満足げな表情でパソコンの電源を入れる。
 南雲彰は、そんな八束を、どこか遠い目で見つめていた。
「そうだ、なぐもさん。今日は来る途中で、猫の集会を見たんですよ。なぐもさんも、一緒に見られればよかったんですけど……」
 返事はなくとも、八束は楽しげに前の席に話しかけ続ける。しばらくその様子を黙って眺めていた南雲も、やがて見ていられなくなり、ソファの上に体を起こして、八束に声をかける。
「あのさあ、八束」
「何ですか、南雲さんだった人」
「だった人……」
 南雲は、隈の浮いた目で、自分の席にでんと鎮座ましましている「なぐもさん」――巨大アザラシのぬいぐるみを睨んだ。
 そのぬいぐるみは、本来、南雲が抱き枕として作ったものだ。八束の身長くらいある規格外の大きさと、すべすべふわふわな触り心地が特徴的な、最高傑作と自負している。
 だが、その最高傑作が、何故か自分の席に座って、しかも自分として扱われているのは、さすがに解せない。
 もちろん、理由はわかっていないわけじゃないのだが。
 八束はつんとした表情で立ち上がると、南雲の席の横に立ち、つぶらな瞳をしているぬいぐるみの頭をふわふわと撫でてみせる。
「いつもソファでごろごろしながら人に仕事押し付けるダメな人より、こちらの方がわたしの先輩としてふさわしいと確信しています」
「そいつは、そこにいるだけで、仕事してくれるわけじゃないだろ……?」
「確かに何もしませんが、大人しく席に座っているだけでも、南雲さんだった人よりはずっと真面目だと思います」
「ごめん、俺が悪かったから、せめて『だった人』は外して」
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●番外編:お茶の時間

 がらんがらん、という派手な音とともに、八束結の「ぎゃあああ」という声がかぶさって聞こえた。
 思わずそちらを見やった南雲彰は、しまった、と思う。きっと、そんな焦りも表情には出なかったとは思うのだが。
 とりあえず、棚を開けたままのポーズで固まり、目を白黒させている八束の横に立ち、素直に謝ることにした。
「ごめん、八束。後で整理しようと思って忘れてた」
「び、びっくりしました……」
 八束の足元に転がっているのは、いくつもの、紅茶の茶葉を詰めた缶だ。南雲が、菓子と一緒に買ってきたものを、大量に棚に突っ込んでいたために発生した悲劇であった。
「片付けますね」
「いいよ、俺がやるから」
 そうは言ったものの、八束の方が動きは圧倒的に早い。缶の一つを拾い上げた八束は、そのラベルを眺めて、首を傾げる。
「この缶、お茶ですか?」
「そうだよ」
「キャラメルって書いてありますけど。お菓子ではないのですね」
「……八束、フレーバードティーって知らない?」
「それは何ですか?」
 質問に対して、八束は当然の如く質問で返してきた。
 時々、というかよく、こういうことがあるのだ。
 八束の常識と、南雲の常識はかなり食い違っている。生きてきた年月と、場所と、状況が違うのだから、ある意味当然といえば当然ではある。だが、「歩く百科事典」とも称されるほどの知識を溜め込んでいながら、八束は意外なほどにものを知らないところがある。
 とはいえ、軽く引っかかるものがあるとはいえ、それを南雲がどう思うわけでもない。知らないのならば、教えればいい。一度教えれば、その知識は八束の脳内百科の一ページとなり、決して忘れ去られることはないのだから。
「言葉通り、香りをつけてあるお茶。飲んでみる?」
「興味はあります」
 わかった、と言って、キャラメルティーの缶だけよけて、まずは落ちた缶を片付ける。それから、愛用のティーセットを用意する。このティーセットも、粗大ゴミ置き場から拾ってきたソファや冷蔵庫同様、南雲が「快適な秘策生活」を送るために揃えたものだ。
 仕事をするのは億劫だが、対策室にいる時間が一日の大半を占める以上、快適に過ごすための工夫を絶やさないのは大切なことだと思う。係長・綿貫の視線に込められた、切実な「仕事しろ」という念は知らんぷりを決め込むことにしている。
 ともあれ、慣れきった手順で茶を淹れると、ひとまずは砂糖も牛乳も入れずに八束にカップを差し出す。八束は、恐る恐るカップに顔を近づけて、そして驚きに目を見開く。
「あっ、お茶なのに本当にキャラメルの香りがするんですね! すごい!」
 そのストレートな反応に、南雲は自然と目を細めてしまう。多分、笑いたくなったのだろう、と自分自身で分析する。八束には、この感情も正しくは伝わらなかったと思うけれど。
 目を真ん丸にしたまま、八束はしばしキャラメルの香りを楽しんでいたようだが、思い切って、カップに口をつけて……、それから、眉をへの字にした。
「甘く、ありません……」
「あー、まあ、香りをつけただけで、あくまで紅茶だからねえ」
「うう、苦いです、苦いいい」
 八束は、意外と苦いものを苦手としている。茶や珈琲は無糖の方が好きな南雲とは対照的である。予想通りの反応に、どこか安堵すら抱きつつ、南雲は八束の手からカップを取り上げる。
「キャラメルティーは、ミルクを入れて飲むのがスタンダードなんだよ。ミルクと砂糖、入れようか」
 涙目で南雲を見上げた八束は、口をへにょりと曲げて。
「どうか、お願いします……」
 情けない声で、そう、訴えたのだった。
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●番外編:アザラシさん

 待盾署刑事課神秘対策係の主な仕事は、暇を持て余すことである。
 だが、いくら暇といえど、決して消化すべき仕事はゼロではない。デスクで一向に減らない書類――それは、自分の書類だけでなく、抱え込んでいた南雲のものも任されているからだが――を片付けるのにも飽いた八束は、全く仕事をしようとしない南雲に文句の一つでも言ってやろうと、彼の特等席である来客用のソファをのぞき込む。
「何ごろごろしてるんです、南雲さん……、な、南雲さん!?」
「どうしたの、八束」
「南雲さんが、アザラシのぬいぐるみになってるー!」
「そうだね」
 そう、普段南雲が寝ているはずのソファには、巨大な白いアザラシが鎮座ましましていたのである。ついでに、そのアザラシは南雲のスーツの上着を羽織っている。八束は、慌ててアザラシを抱え上げると、くたーんと頭を垂らすアザラシに向かって、「ああ」と嘆きの声を上げる。
「怠惰を極めるあまり、本当にアザラシになってしまうなんて……」
「それで、今背後に立ってる俺のことは何だと思ってんの?」
 八束は、はっとして後ろを振り向く。そこに立っているのは、いつも通りに猫背で不機嫌そうな面構えの南雲だった。
「あれ、南雲さん、上着……」
「暑かったから脱いだの。っていうか、本気で俺がアザラシになったとでも思ったの?」
「南雲さんなら、それでもおかしくないかなと思いました」
 八束は、どこまでも真面目だった。
 南雲は仏頂面ながらも呆れのため息をつき、八束の手からアザラシの巨大ぬいぐるみを上着と一緒に引き抜く。八束は名残惜しそうにアザラシを目で追いながら、一番の疑問を投げかける。
「……その巨大アザラシぬいぐるみ、どうしたんですか?」
「作った」
「本当に何でも作りますね、南雲さん!?」
 南雲の手先が器用なのは知っていたが、ほとんど八束の身長と同じサイズのぬいぐるみを実際に作ってしまうとは思いもしなかった。八束は作っているところを目撃していないから、多分、早朝か八束が帰った後にこつこつ作っていたに違いない。
 南雲は八束の反応に満足したのか、神妙な顔でこくりと頷くと、上着を纏ったアザラシを抱いたまま、ソファにごろりと横になる。
「抱き枕がほしかったんだよ」
 そして、そのままアザラシの頭に顔を埋め、寝の姿勢に入る。ぼんやりとその様子を見つめていた八束は、次の瞬間我に返り、南雲の肩を強く引く。
「明らかにソファで寝る気満々じゃないですか! 仕事してください!」
「八束はできる子なんだから、俺の分もちゃちゃっとできるでしょー」
「南雲さんだってやればできる人なんですから、二人でやればもっと短時間で済みます!」
「正論は聞きたくなーい」
 ごろんとソファの背側に倒れようとする南雲を、何とか引き戻そうと努力する八束。しかし、力はともかく体格では圧倒的に勝る南雲である。ソファとぬいぐるみにしがみつき、離れようとしない。
「もうっ、そもそも勤務時間中に寝るってこと自体おかしいんですよっ! ちょっと、綿貫さんも、にやにやしてないで、手伝ってください!」
 八束の訴えに、しかし奥のデスクに座る係長・綿貫は、紅茶のカップを傾け、目を細めてこうつぶやくだけだった。
「……今日も、平和ですねえ」
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シアワセモノマニアのあざらしこと青波零也の創作メモだったり、日々のどうでもいいつぶやきだったり、投稿サイトに載せるまでもない番外編だったり、見聞きしたものの感想メモだったり。

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2024年06月18日(火) 17時52分53秒