No.53, No.52, No.51, No.50, No.49, No.48, No.47[7件]
●番外編:チョコレート・パラノイアその後
「南雲くん、嬉しそうですね……」
「そう見えます?」
来客用ソファに寝そべって長い脚をぶらつかせる南雲彰は、普段通りの死人のような顔色に仏頂面、という「嬉しそう」という言葉とは完全に無縁な顔をしていた。
しかし、五年間南雲を観察し続けてきた神秘対策係係長・綿貫栄太郎は「ええ、とても」と深々と頷いてみせる。
人一倍豊かな感情を抱えながら「表現する」という能力を欠いて久しい南雲は、それでも意外なほどにわかりやすい男である。表情ではなく全身で感情を表現する犬や猫のようなものだと思えばわかりやすい。
というわけで、南雲は今、かわいらしい小さな箱を、天井に向けて伸ばした手に握り、綿貫にしか見えない架空の尻尾をぶんぶんと振っていた。相方の八束ほどではないが、南雲も比較的犬っぽいところがある。ごろりと転がったきりなかなか動かないところは、犬というよりアザラシのようにも見えるが。
スキンヘッドに黒スーツという恐ろしげな見かけに反し、かわいいところもある――というか実際は女子高生みたいな感性の持ち主だ――部下に、綿貫はほほえましさを覚えずにはいられない。
「それ、八束くんにもらったんですか」
「そうですよー。あの八束ですよ? バレンタインって言葉もろくに知らなかった、あの八束ですよ?」
仏頂面ながら、南雲の声は弾んでいた。どうやら本当に嬉しいらしい。とはいえ、そこに含まれる喜びは「女の子からチョコレートをもらった」という喜びではなく、「バレンタインのバの字も知らなかった同僚がついに人並みに行事に参加するようになった」ことへの喜びであることは、あえて南雲に確認せずとも明らかだった。
ちなみに南雲はこれで女性から貰うチョコの数には困っていない。ただし、その全てはいわゆる「友チョコ」というやつらしい。何しろ昼休みに女性職員のガールズトークにしれっと混ざっているような男だ、要するに男だと思われていないのだろう。
「僕も八束くんから貰いましたけど、南雲くんのとは別のチョコみたいですね」
綿貫は南雲にも見えるように、箱をかざしてやる。中に入っているのは、トリュフチョコレートが三つ。本当は四つだったのだが、一つは既に綿貫の腹の中に収まっている。「甘いものは本腹、そして本腹が満たされたら別腹、別腹が満たされる頃には本腹が空いてる」という謎の永久機関を提唱する超甘党の南雲ほどではないが、綿貫も甘いものは好きなのだ。
南雲は物欲しげに綿貫のチョコレートを睨んだが、流石に人のものを奪わない程度の節度はあるらしく、上体を起こして自分の箱に視線を戻す。
「じゃ、こっちの中身は何なんでしょね」
本人に確かめようにも、八束は今日の事件の後始末を終え、既に帰宅している。仕事もないのにだらだら残っている南雲の方がおかしいのは、気にしてはいけないお約束である。
「気になりますね。見せてもらえますか?」
「いいですよぅー」
南雲は箱にかかっていたリボンをはずして、鼻歌交じりに箱を開く。
そして、速攻で閉じた。
「どうしたんですか?」
「……なんか、いたたまれなくなった」
南雲は、ぼそりと呟いた。そして、ソファから身を乗り出して、そっと綿貫にチョコレートの箱を差し出す。
綿貫は南雲から箱を受け取ると、恐る恐る蓋を開ける。
すると、六対の目が綿貫を見上げてくる。
そう、それはチョコレートだった。確かにチョコレートだった。
ただし、綺麗な球面を描くチョコレートは全て、デフォルメされた動物の顔をしていた。ワンちゃん、ウサギさん、リスさん、パンダさん、ブタさん、そしてアザラシさん……。かわいいチョコレートの動物たちが六匹、蓋を開けた者をじっと見つめているのである。そりゃあもう、きらきらと光るつぶらな瞳で。
「いたたたたまれないでしょ」
「確かに……。やたらかわいいですが」
「かわいい。めっちゃ好み。俺の趣味を反映させられるまで八束の気遣いレベルが上がってたのにもびっくりだけど、でもさあ」
――これ、食べるのめっちゃ躊躇われますよね?
南雲の問いに、綿貫は重々しく頷くことしかできなかった。
翌日、八束に「食べてくれないんですか?」と潤んだ子犬の目で見つめられ、「ごめんな……」と呟きながらチョコをもぐもぐしていた南雲がいたとかなんとか。
――後に聞いたところによると、とても美味しかったそうだ。
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#時計うさぎの不在証明
●番外編:煮込みハンバーグを作るだけ
キッチンに立つ南雲彰の横に、ジャージ姿の八束結がちょこちょこと寄っていく。今まさに人を殺してきたような凶相に剃り跡一つ見えないスキンヘッド、という極めてその筋の人らしい南雲であるが、今日に限っては猫のアップリケと足跡の模様がかわいらしい、フリルつきのエプロンを身に着けていた。
そんな、どこからどうツッコミを入れるべきか悩ましい姿の南雲は、相変わらずの仏頂面で食器を拭き、棚に戻しているところだった。仕事しないことに定評のある南雲だが、こと「仕事以外」に関しては嫌な顔一つせずてきぱきこなすのがこの男の奇妙な特徴の一つである。常に「嫌な顔」をしているように見えることに関しては、八束もノーコメントを貫くことにしている。この男の顔と内面が一致していたことは、今まで一度も無いのだから。
「南雲さん、これから何を作るんですか?」
「んー、何作ろうか考えてたとこ。何が食べたい?」
最後の皿を棚にしまいながら、南雲がのんびりとした声で問いを投げ返す。八束はこくんと首を傾げて、数秒ほど答えを考えた後に、背筋を伸ばして答える。
「今のところ希望はありません」
「そう言われるのが一番困るんだけどな。あと、八束」
「はい」
「何で俺ん家にいるの」
――当然の問いであった。
流石に、八束もその質問は予測していたため、正直に答える。
「今日は、真さんのお部屋でお泊り会なのです」
ちなみに、真は南雲の妹である。八束と同い年である彼女は、ある日偶然八束と知り合い、色々あった結果、八束と真は休みの日に買い物に行ったり、時にはお互いの家に招き招かれる程度の関係になった。八束にとっての、数少ない友人というやつである。
というわけで、今日は八束が真の家――つまり南雲の家に招かれ、当たり前のようにそこにいるのであった。
「そう、ならごゆっくり。とりあえず、今日の夕飯は煮込みハンバーグにしようか」
そして、南雲も、別段八束がそこにいようがいまいが、やることは特に変わらないのである。
「煮込みハンバーグですか。煮込み料理ということは、時間がかかるものでしょうか」
「真面目にやればそりゃかかるけど、手抜けばそこまでかからないよ。作り方見とく?」
「はい。後学のために」
「後学って言葉がまた硬いなー」
言いながら、南雲はまな板を置き、冷蔵庫の中から玉ねぎとにんじんを取り出し、それぞれ皮を剥いてざくざくと切る。
「切り方は」
「適当。っていうかお好み」
そして、まずは玉ねぎを耐熱容器に入れ、ラップをかけてレンジに放り込む。
「温めるです?」
「温めるのです。こいつら真面目に火を通そうとすると時間かかるから」
「にんじんは入れないのですか?」
「途中で入れる。個人的ににんじんは形残ってる方が好きだから、型崩れしない程度に温めたいんだよ」
その間にとボウルを取り出し、用意されるのはパン粉とひき肉二パックと卵一つ、それから、袋に入った――。
「お麩」
「こいつをパン粉とか卵と同じように、つなぎとして使う」
そうすることで、普通に作るよりも柔らかく、また全体に対する肉の割合が減るためヘルシーに仕上がるのだという。お麩自体にはっきりとした味がついているわけではないので、肉の味を邪魔することもない。
「ハンバーグには玉ねぎを入れると聞いていましたが」
「それはお好み。入れなくてもお麩入れとくと比較的柔らかく仕上がるから、今日は入れないやり方でやる。というわけで、それ適当にもにもにしといて」
ジッパーつきの袋にお麩を放り込んだ南雲は、内側の空気を抜いてからしっかりジッパーを閉め、八束にそれを押し付ける。八束は、それを掌でぐいぐい押しながら、南雲に問う。
「これらの分量は」
「適当」
「南雲さん、さっきから『適当』ばかりですね」
「正直、きちんと計測とかしたことないから、説明のしようがないんだよな。それに、八束なら見れば覚えられるでしょ」
フライパンをコンロの上に用意し、次いで取り出した大きめの鍋の半分くらいまで水を入れながら南雲は言う。この水の量も聞くまでもなく「適当」なのだろう。
常日頃から料理を日課としている南雲にとっては、適切な分量というのはわざわざ計測するまでもなく、感覚として身についているものらしい。というわけで、手順さえしっかり見ておけば、南雲の言葉は聞いても聞かなくても問題ないことがよくわかった。
「で、その間にソースの用意を始めとく。こっちの鍋の水を、とりあえず沸騰させる」
言いながら水の入った鍋を火にかけ、ついでとばかりにレンジに向かい、いい具合に温まっていた玉ねぎの器ににんじんを投入し、再びラップをかけ直してレンジに戻した。その間に、八束の手の中にあったお麩は、元の形を失いつつあった。
「大体形が崩れました」
「じゃあ水を加えて更にもにもにしよう」
「水、この袋に直接入れちゃうんですか」
「入れちゃっていいよ」
そんなわけで、袋の中に水を加えてさらにお麩を揉む。すると、もはや何だかよくわからないもにもにした塊が出来上がった。それを確認した南雲は、袋から出したお麩の塊をボウルに移し、先ほど用意したハンバーグの具材もボウルに投入。軽く塩胡椒してから一緒に混ぜ始める。
「ここで、少し固かったら水を加える。多少にちゃにちゃするくらいでいい」
そうして出来上がったハンバーグの種を、手の中で空気を抜きながら丸く形を整え、フライパンの上に並べる。
「今回は煮込みハンバーグだし、形は多少イビツでもいいと思ってる」
そんなわけで、半分ほどの種がハンバーグとなりフライパンの上に揃った。南雲がそのまま火をつけるのを見て、八束はこくんと首を傾げる。
「サラダ油は入れないんですか? 焦げ付きませんか?」
「肉から油出るし、きちんと様子見てれば平気」
フライパンの蓋を閉め、流れるような動きで沸騰していたお湯の方に移る。
「こちらがソースです」
「お湯ですが」
「これからソースになるよ。って言ってもベースはどこにでも売っているこちら」
棚から取り出したのが、市販のビーフシチューのルーだ。八束も、スーパーでよく見かける箱である。ただ、ちらっと見えた棚の中には、何故か各メーカーの、それこそ八束が見たことも無いメーカーのルーまで揃っていたので、多分、食べ比べたりしたことがあるのだろうなあ、と内心思わずにはいられない。南雲の料理は日課ではあるものの、半分くらいは彼にとっての道楽であることも、八束はよく知っていたから。
「これを溶かせば、確かに煮込みハンバーグのソースらしくはなりますね」
「でも、これだけだと完全に市販のお味になるんで、ルーを投入する前後に手を加える」
言って、別の棚から次々と調味料を取り出す南雲。このキッチンには、一体どれだけの材料が隠されているのか、八束は不思議で仕方ない。何しろ、八束の部屋にはカロリーメイトとサプリメントとミネラルウォーターしか常備されていないのだから。
「固形コンソメを、この量ならとりあえず二個かな……」
本当に適当らしいことを呟きながら、南雲はぽいぽいとコンソメを投げ込み、お湯に溶かす。
「で、冷蔵庫にセロリがあったのでこれも入れる」
「何を入れてもいいんですか」
「相性さえ合えば別に何でもいいと思うよ」
手際よくセロリの茎の部分を切って、鍋の中に放り込む。そして、次に取り出したのはにんにく一欠け。これをさくさくとみじん切りにして、即座に鍋に投入。
「にんにくですか?」
「うん。これは本当にちょっとでいいんだけど、入れると風味が結構変わるんだ」
そして、電子レンジに放置されていたにんじんと玉ねぎを投入。ある程度煮立ったところで一旦火を弱火にして、ルー一箱分を投入して、ついでにとばかりにローレルも三枚ほど入れる。
「これだけですか」
「基本はこれだけ。ルーがちゃんと溶けたかどうかは確認しないとだけど、野菜は火が通ってるから、そこまで気を遣って煮込む必要は無い」
喋りながらも南雲の動きは止まらない。フライパンの蓋を開け、ハンバーグの片面がいい感じに焼けたのを確認して、ひっくり返す。フライパンの内側には、種を熱したことによって蒸発した水分と、肉から出た油が付着している。
「確かに、油はあえて入れなくても大丈夫なんですね」
「ついでに、焼き色ついてなくても、火さえきちんと通ってれば大丈夫」
もう片面にも焼き色がつき、火が通ったことを示す透明な肉汁がふつふつ出ているのを確認し、ハンバーグを鍋にぽいぽいと放り込む。そして、第二弾のハンバーグを仕掛けて再び蓋を閉める。
「これで、次のハンバーグが焼けたら大体おしまい。あとはちょっととろみが出るまで煮込んで、一旦火止めて、食べるときに温めればいい」
「確かに、手順自体はそこまで難しくないんですね」
「そ。あと、今回はケチャップ入れておこうか」
「ケチャップ……、ですか?」
「ん、入れすぎるとただのケチャップ味になっちゃうけど、ある程度入れる分には、いい感じの酸味と甘みが加わっておすすめ」
冷蔵庫から取り出したケチャップを、やはり特に分量も確認せず無造作に投入する。それでも南雲の手つきに迷いはないので、感覚的に理解している領域なのだろう。そのままではケチャップがそのまま沈んでいるだけなので、ハンバーグが崩れないよう、慎重に鍋をかき混ぜる。
ある程度ケチャップとソースが混ざり合ったところで、南雲がお玉にすくったソースを小皿に移して、八束に示す。
「味見してみる?」
「はい」
八束は素直に頷いて、小皿のソースを舐める。しばし舌の上でその風味を確かめ、飲み下して南雲を見上げる。
「美味しいのですが、とてもケチャップ感があります。ビーフシチューとケチャップが、それぞれ存在を主張しています」
「まだそうだろうね。でも、しばらく煮込んでおくと馴染むよ」
南雲は下手くそな鼻歌を歌いながら、焼けた第二弾のハンバーグもぽいぽいと鍋の中に入れ、更に煮込み続ける。火が通ってきたからか、先ほどよりも随分とろみが増して、ソースらしくなってきた気がする。
そのまましばらく弱火でとろとろ煮込んだところで、南雲はもう一度小皿にソースを取って、八束に渡す。八束は先ほどのケチャップ味を思い出しながら、ぺろりとソースを舐め取って、はっとする。
先ほどまであれだけ存在を主張していたケチャップがいつの間にか姿を消し、微かなトマトの香りと、後味としての爽やかな酸味だけが残っていたのだ。
「さっきと全然味が違いますね!」
「でしょ。これが『味が馴染む』ってこと。完成品だけ食べてると、案外こういうのってわかりづらいけど」
「興味深いです。ここまで大きく変わるとは思いませんでした」
南雲はその言葉に満足げに頷いて、八束の頭をぽんぽんと叩く。
「八束は味覚しっかりしてるから、基本さえ覚えれば応用も出来るでしょ。どれを入れればどう味が変わる、ってのがわかれば料理ってそう難しいもんじゃないし、この『変化』が何より面白い」
「南雲さんは、料理を純粋に楽しまれているんですね」
「そうだね。面白くなきゃやらないもん」
なるほど。ことこと煮込まれてゆくハンバーグを見ながら、八束は内心で深く頷く。
南雲にとって、料理を含めた諸々の行動は「面白い」という一点で全て説明できるものなのだ。自分で「面白い」と思うことさえできれば、それが何であっても熱心に取り組むことができるというのは、この男の最大の美点であるといえよう。
――とはいえ。
八束は、こちらをぐりぐり撫でてくる南雲を真っ向から見上げて言う。
「その『面白さ』を、仕事にも見出してくださると嬉しいのですが」
「無理」
「ですよね」
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#時計うさぎの不在証明
●番外編:やつぐもグルメ
▼熱に弱い
酷く暑い朝。対策室の扉を開いた八束は、硬直した。
「おはよー、八束」
ソファの上に巨大スライムが鎮座し、しかも相棒の南雲の声で喋ったから。
「どうしたんですか!」
「暑くて溶けた」
「治るんですかそれ」
「うん。冷凍庫のアイス取って」
慌てて青いアイスを取り出し、スライムに渡す。
「あと、どうすればいいですか?」
もしゃり。見えない口で確かにアイスを咀嚼したスライムは、重々しく言った。
「かき氷食べたい」
「それで、元に戻るんですか?」
「溶けたら冷やして固めるものだよ。あ、スイカバーも食べたいなー」
「……という夢を見ました」
「夢でもぶれないねえ、俺」
南雲は、八束が夢の中でも見た、ソーダ味のアイスをもぐもぐしていた。
▼南雲臨時講師
南雲せんせい、と声をかけてきたのは、八束も何度か世話になっている、職員の女性だった。
八束の横で眠そうにしていた南雲が、重たげに頭を上げる。
「あー、高橋ちゃん」
「教室再開してくださいよ、みんな待ってるんですよ!」
「最近サボっちゃってたもんな。そろそろまたやる、って皆に伝えといて」
高橋は、俄然顔を輝かせて頷き、小走りに駆けていく。
その背中が見えなくなるまで見送った後、とりあえず、最大の疑問を南雲に投げかける。
「教室、って何ですか?」
「一人暮らしの味方、安くて早くておいしい手作り弁当教室。毎週水曜昼休み開講、受講料はお菓子一つ」
「……南雲さん、刑事より絶対そっちの方が向いてる気がします」
「知ってた」
▼やつづかのお願い
「南雲さん、お願いがあります」
「仕事以外のお願いなら」
「仕事してください」
いつも通りのやり取りの後、八束は持っていたチラシを渡してきた。南雲は、分厚い眼鏡の位置を直し、普段から細い目をさらに細める。
「うちの近くのスーパーか。これがどうしたの?」
「こちらを見てください」
八束は、チラシの隅の一点を指す。
カロリーメイト、五個セット安売り。
おひとり様一セット限定。
「……つまり、お前の買い出しに付き合えと」
「はいっ!」
八束の主食はカロリーメイトであり、副食はサプリメントである。
南雲は、そんな食生活の何が楽しいのだろうと思いながらも、期待に満ちた目で見つめる八束の頭を撫でた。
「しょうがないなー、八束は」
▼君とシュークリーム
ソファに腰掛けた八束は、シュークリームを手に取る。
南雲行きつけの洋菓子屋『時計うさぎ』のシュークリームは、表面さくさく内側しっとりのシュー皮に、微かに洋酒が香るカスタードクリームがたっぷり詰まった、特別な味わいだ。
大きめのそれに、口を広げて食らいつく。
クリームが漏れないように気をつけていても、なかなか上手く食べられない。
隣の南雲は慣れたもので、ぺろりと一つ平らげたかと思うと、二つ目に手を伸ばしていた。
そして。
「クリーム、ついてるよ」
人差し指で、八束の唇の端をなぞる。
冷たい感触に一瞬瞑った目を開けると、南雲が、指先のクリームをぺろりと舐め取ったところだった。
「おいしいね」
「はい、おいしいです」
▼豊かな人生の第一歩
「今日から、八束食生活改善プログラムを開始しようと思う」
「本当に、いただいていいんですか、南雲さん」
「毎朝家族の分も作ってるからな。一つ増えたところで変わらないよ」
言いながら、正面の席に座った南雲は「どうぞ」と八束に弁当箱を差し出す。蓋に描かれたピンクのクマさんは、南雲の趣味以外の何物でもないだろう。
かねてから八束の「必要な栄養を取る」だけの食生活に対し「食事は単なる栄養摂取手段ではなく、人生を豊かにするものだ!」と柄にもなくエクスクラメーションマークつきで力説していた南雲が、ついに八束の食生活改善に乗り出したのだ。
その第一歩が、昼食の提供である。
恐る恐る、弁当箱の蓋を開けてみると、目に飛び込んできたのは、色とりどりのおかずに、かわいらしく飾られたおにぎり。しかも、目を楽しませるだけでなく、八束がざっと脳内ではじき出した計算が正しければ、栄養のバランスもよく考えられている。八束を納得させるポイントをきっちり抑えてくる辺りは流石である。
ほう、と。息を漏らし、自分の弁当の蓋を開ける南雲に視線を戻す。
「南雲さんって、本当に器用ですよね」
「そんなことないよ。八束みたいに、何でもかんでも見よう見まねでできちゃうわけじゃない」
「それでも、好きなことや大切なことを形にして共有できるというのは、わたしにはない、南雲さんの才能だと思います」
南雲は、一瞬眼鏡の下で目を見張って、それからふいと視線を逸らした。
もしかして、また変なことを言ってしまっただろうか。ひやひやしていると、そっぽを向いたままの南雲が、ぽつりと言った。
「ありがと」
……どうやら、怒らせたわけでは、なかったらしい。
内心ほっとしながら、手を合わせる。南雲も八束にならうようにして、両の掌を合わせて。
『いただきます』
▼もう一度、彼に
「シュークリームを六つください」
声をかけてきたのは、洋菓子屋には似合わない、スキンヘッドにスーツ姿の無愛想な男。
しかし、店主にとっては見慣れた顔だ。
「最近、よく来てくださいますね」
ん、と。仏頂面のまま、男が頷く。
「ここのお菓子を、気に入ってくれた子がいて」
「ありがとうございます」
喜ばしいことだ。店主にとっても、男にとっても。
店主は知っている。かつて、この男がある女性と笑い合っていたことも、その女性が消えて、男が心を殺したことも。
だから。
「一つおまけしますよ」
「いいの?」
「ええ。ごちそうしてあげてください」
まだ見ぬ誰かが、男のかつての笑顔を取り戻してくれることを祈り、シュークリームを詰めてゆく。
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#時計うさぎの不在証明
●番外編:はじめての風邪の日
「情けない……。風邪で寝込むなんて初めてです」
「いつも無駄に元気だもんねえ、八束」
普段ならすかさず「無駄にとは失礼な」と言い返す八束結だが、今日ばかりはその元気すらないのか、畳に敷いた布団に横になったまま、申し訳なさそうに太い眉を下げた。
そんな八束の熱い額に手を乗せ、南雲彰は濃い隈に縁取られた目を細める。八束の枕元には、差し入れとして持ってきた風邪薬の瓶が置かれている。
「ま、仕事も暇なんだ、たまにはゆっくり休みなよ」
南雲の顔は仏頂面以外の表情を浮かべることはなかったが、いたわりの感情は八束にも伝わったらしい。八束は「すみません」と掠れた声で謝罪しながらも、小さく頷いた。
それから、アーモンド型の目をくりくりさせて、南雲を見上げる。
「南雲さん、今日は休暇ではなかったと思いますが」
「俺が仕事をサボってるのはいつものことでしょ。俺がいなくても何も変わらないし」
C県警待盾署刑事課神秘対策係は、多忙を極める刑事課に属しながら、主任の南雲が一日中編み物に励んでいても特に業務に差し支えはない、という怠惰極まりない係だ。何しろ、業務の九割は他の係が押し付けてくる事務手続きの手伝いだ。南雲がいなくても問題ない、というのはあながち誇張でもない。
ただし、南雲がサボっている裏では、生真面目で仕事熱心な新人・八束が南雲の分まで仕事をしているわけで、八束はジト目で南雲を見上げる。
「お心遣いはありがたいですが、南雲さんは仕事をしてください」
――一人で寝込んでいるお前が気になって、仕事が手につかなかったんだよ。
そんな本音は喉の奥に飲み込み、ただ肩を竦めて八束の冷たい視線を受け流す。
「それはそうと、八束、今日は何か食べた?」
いくら鈍い八束でも、はぐらかされたのは理解したらしく頬を膨らませるが、質問には正直に答える。
「まだですが……」
「なら、何か作るよ。台所借りるね」
「えっ、流石に南雲さんにそこまでさせるわけにはっ」
八束は反射的に起き上がりかけたものの、すぐにふらりとして、枕に頭を落としてしまう。南雲は八束の乱れた掛け布団を整えながら言い聞かせる。
「無理するんじゃないよ。熱で消耗してるだろうし、胃に何も入れないまま薬飲むのもよくない。大人しく任せときなさいって」
「南雲さんが、わたしに優しいなんて……」
「おい、俺が普段は優しくないみたいじゃない、それ」
心外なんだけどー、と言いながらも、八束を観察するのは忘れない。熱は高そうだが意識ははっきりしている。まずはきちんと食事をさせて、薬を飲ませて様子を見てみようと考える。容態が悪化するようならすぐに医者に連絡しよう、と思いつつ。
南雲にも、罪悪感がないわけではないのだ。八束は、どんな難題を前にしても、無尽蔵にも見える活力をもってことに当たっていた。その八束に寄りかかり、知らず無理をさせていたとも思うのだ。
だから、今日くらいは自分がきっちり働くべきだ。八束の回復に尽力する、という形で。
「南雲さん、『さっさと治してもらって、仕事を押し付けよう』って思ってません?」
「思ってる」
それはそれで、南雲の偽らざる本音ではある。
怠慢な先輩に対するじっとりとした目つきを隠しもせず、八束はついと視線を台所に向ける。
「とにかく、食事は南雲さんのお手を借りずとも大丈夫です。棚の中に、いつものが入ってます。あと、水が冷蔵庫にあるので取っていただけますか?」
「……いつもの?」
具体的に「何」と指定されていないのが気になりつつ、南雲は立ち上がると台所に向かう。八束が一人暮らしをしているアパート『湯上荘』は、今にも崩れそうなぼろい見かけの割に案外設備はしっかりしており、六畳一間に台所、トイレ、シャワーまでついている。その台所部分に置かれた棚の戸を無造作に引き、
南雲は、絶句した。
そこには、黄色い箱がいっぱいに詰まっていた。
カロリーメイト。
カロリーメイトだ。見間違えようもない。
チーズ味、フルーツ味、チョコレート味という、コンビニでおなじみのラインナップが、八束の病的な几帳面さをもって整然と並べられている。それ以外のものは、何一つ確認できない。
嫌な予感を感じながら、下の戸も開ける。
そこに詰まっていたのは各種サプリメントの詰まった容器。カロリーメイトでは足らない成分を摂取するためのものだろう、と理性では判断しつつも、南雲はただでさえ普段から消えない眉間の皺が、更に深まったのを実感する。
こう来ると、冷蔵庫の中身も想像はついてしまう。それでも、一縷の望みをかけて冷蔵庫の扉に手を掛けて、引く。
そこには、ペットボトルに入ったミネラルウォーターのみ、十本ほど詰め込まれていた。あと、この状態で何の意味があるのかもわからない、脱臭剤が一つ。
それを認識した南雲は、ついに膝をつき、頭を抱えて声を上げていた。
「うおああぁあぁ」
「な、南雲さん、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねえよ! これのどこが食事だ!」
南雲は普段の飄々とした態度をかなぐり捨てて叫ぶ。八束は、声を荒げる南雲を初めて目にした戸惑いを隠しもせず、目を白黒させながらも自分の考えを伝えることは忘れない。
「必須栄養価を摂取するという行為として、最も効率的な方法だと思いますが」
「違う! そうじゃない! 単なる栄養摂取なら点滴でも何でもいい、経口摂取である必要すらねえ! 食事ってのはなあ、食欲を満たしながら、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚全てを駆使して快楽を味わう、人間という種に与えられた至高の時間だ、それをおろそかにする奴は誰が許そうとこの俺が許さん!」
「南雲さんの怒りのツボがわかりません」
怯え半分、呆れ半分の八束の声が聞こえた気がしたが、無視して台所に立つ。もし食材が切れてたら、と思って持ってきた食材と調味料が役に立ちそうだ。こんな形で役に立つとは思いもしなかったが。
今まで相対したどの事件よりも南雲に動揺をもたらした棚と冷蔵庫は一旦忘れ――その前に、枕元に水のペットボトルは置いてやったが――ひとまず喉を通りやすいものを作ろう、と思いかけて重要なことに気づく。
「ねえ、八束……」
ほとんど答えは決まっているだろうが、一応、聞いておく。
「調理器具と食器もないってこと?」
「いえ、薬缶とマグカップはあります」
「それだけかよ」
振り返って、分厚い眼鏡越しに八束を睨むも、八束は南雲がどうして睨むのかも理解できていないようで、横になったままきょとんとしている。それを見て、南雲はいつになく胸の中が熱くなる感覚に襲われた。
――どうやら、俺はこいつに、食の何たるかを教えてやらねばならないようだ。
そうと決まれば即行動。部屋を飛び出し、隣から鍋と食器を借りて戻ってくる。南雲の知り合いでもある隣室の住人には、後でオリーブオイルを差し入れようと思う。オリーブオイルは万能だ。
さて、当然ながら炊飯器もないから、米から粥を炊く必要がある。鍋を火にかけて八束の様子を見れば、目を閉じて大人しくしていた。準備をしている間に眠ってしまったようで、すうすう息を立てている。
無防備な寝顔を晒してくれる程度には、信頼されているらしい。普段あれほど気を張っているのに、妙に危機感が薄いというか、何というか。南雲に変な気はないが、こうも無頓着だとつい心配になる――八束の横に座り込み、そんなことを考えずにはいられない。
ともあれ、粥が炊けた辺りでといた卵を混ぜ、食べやすいように薄く味をつける。味見した感じでは悪くないと思うが、八束の口に合ってくれるといい。そう、心から思う。
八束の肩を軽くゆすると、眠りは浅かったのか、すぐに目を覚まし南雲を大きな目で見つめてきた。つい目を逸らしながら、南雲は器によそった卵粥を差し出す。
「できたけど、食えそう?」
「おそらく」
南雲の手を借りて上体を起こした八束は、盆を膝の上に載せて、器を手に取る。レンゲですくった粥をふうふうと冷ましたあと、恐る恐る口に含む。一連の動作をじっと見守っていた南雲は、八束のどこか虚ろだった表情が、明るいものに変化したのを見て取った。
「これ、美味しいです」
「ならよかった」
「南雲さん、お料理も得意だったんですね」
南雲にとって、料理は手芸と同じく退屈な日々をやり過ごす工夫の一つだ。普段仕事場で嗜んでいる手芸と違い、今まで八束の前で披露する機会がなかっただけで。
どうやら、食欲が減退していても卵粥は喉を通るらしく、八束はゆっくり、しかし確かに粥を食していく。南雲もその様子を見て、内心胸を撫で下ろす。
半分ほど粥を胃の中に収めたところで、八束は小さく息をついて言う。
「こんなに温かなご飯を作ってもらうのも初めてです。何だか、ほっとしますね」
いつになく柔らかく微笑む八束だったが、その言葉は南雲の中に小さな不安を抱かせる。南雲は八束の背景を全く知らない。どのような生まれ育ちで、どうして警察官になろうと思い立ち、果てにこんな閑職に回されたのかも、何もかも、何もかも。
とはいえ。
「ほっとしたなら何よりだ」
それを追及するのは今ではない。美味しそうに粥を食べる八束の頭を軽く小突き、コンロの上の鍋を指す。
「多めに作っといたから、夜と明日の朝は温めて食べてね。毎食、薬はきちんと飲むこと。もし俺が帰った後に具合が悪くなったら、隣の部屋に声をかけろよ、小林には事情話しとくから」
てきぱきと指示を加えると、八束は深々と頷いてから、ぼそりと呟く。
「南雲さん、いつもこのくらいしっかり働いてくれると嬉しいんですけど」
「やだよめんどくさい」
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#時計うさぎの不在証明
●番外編:なぐもさん
「おはようございます、なぐもさん!」
八束結は、明るい挨拶の声をかけて、席につく。目の前の席から返事はないが、いつになく満足げな表情でパソコンの電源を入れる。
南雲彰は、そんな八束を、どこか遠い目で見つめていた。
「そうだ、なぐもさん。今日は来る途中で、猫の集会を見たんですよ。なぐもさんも、一緒に見られればよかったんですけど……」
返事はなくとも、八束は楽しげに前の席に話しかけ続ける。しばらくその様子を黙って眺めていた南雲も、やがて見ていられなくなり、ソファの上に体を起こして、八束に声をかける。
「あのさあ、八束」
「何ですか、南雲さんだった人」
「だった人……」
南雲は、隈の浮いた目で、自分の席にでんと鎮座ましましている「なぐもさん」――巨大アザラシのぬいぐるみを睨んだ。
そのぬいぐるみは、本来、南雲が抱き枕として作ったものだ。八束の身長くらいある規格外の大きさと、すべすべふわふわな触り心地が特徴的な、最高傑作と自負している。
だが、その最高傑作が、何故か自分の席に座って、しかも自分として扱われているのは、さすがに解せない。
もちろん、理由はわかっていないわけじゃないのだが。
八束はつんとした表情で立ち上がると、南雲の席の横に立ち、つぶらな瞳をしているぬいぐるみの頭をふわふわと撫でてみせる。
「いつもソファでごろごろしながら人に仕事押し付けるダメな人より、こちらの方がわたしの先輩としてふさわしいと確信しています」
「そいつは、そこにいるだけで、仕事してくれるわけじゃないだろ……?」
「確かに何もしませんが、大人しく席に座っているだけでも、南雲さんだった人よりはずっと真面目だと思います」
「ごめん、俺が悪かったから、せめて『だった人』は外して」
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#時計うさぎの不在証明
●appendix / about Gale Windward
ゲイル・ウインドワード! 素晴らしいよ、彼は! どれだけボクが腕を磨いても、不要な部分を削り落としていったとしても、きっと全力の彼には敵わない。彼は、紛れもなく、飛ぶために生まれた生物だ。偶然、人の姿を取って生まれてしまっただけで、ね。
君は知らない? 彼の飛ぶ姿を間近で見たことがない? それは人生を十割損していると言ってもいいよ! つまり生きてる価値がないね! そのくらい、彼の飛ぶ姿は――美しいんだ。ああ、どんな言葉も彼を形容するには足りない。単なる美辞麗句じゃあ意味がない。彼が『エアリエル』の翼を広げた瞬間、ボクの目に見えていた世界がどれだけ狭いものか、気づかされたんだ。ああ、この魄霧の海はあまりにも広く、それでいて彼はその全てをもってしても満足しないだろう。いつか、ボクらの遥か頭上を覆う天蓋にも辿り着いて、そこすらも突き抜けてしまうかのごとき飛翔。翅翼艇の機能をもってしても逆らいきれないありとあらゆる物理法則も、彼にとっては何の障害にもならない。吹き荒れる嵐ですら、ゲイルにとっては祝福と歓喜の歌声でしかないんだ。本当にそういう風に「聞こえる」んだよ、それが彼の能力の一つだからね。
もちろん、彼が自由に飛べるのは相棒の存在があるからだ。オズと共に在ってこそ、ゲイルは全力で飛べる。誰よりも速く、誰よりも高く、霧の海を駆けてゆくことができるんだ。何の憂いもなく、何の迷いもなく、ただ歓喜の声をあげながら――。
えっ、そういうことが聞きたいんじゃない?
……ゲイルの、人となりの評価?
ボク、前から思ってたんだけど。あれの頭の中、脳味噌の代わりに東方の豆腐とかいう白くてぷるぷるしたやつが入ってるって、絶対。
(語り手 トレヴァー・トラヴァース)
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#談話室の飛ばない探偵たち