『一六五大橋の土産話 史上最低の無理心中』(URN(骨壺)/宮沢 原始人さま)https://urn.booth.pm/items/6200376「歓楽街でホストと風俗嬢がトラブルになり借金を残して心中するかんじの現代伝奇風ホラー」と説明があるんですけれども、確かにそうだけど……そうだけど……!?ってなるの本当にアオリが上手いな~と唸ってしまいます。史上最低の無理心中、最初から最後まで読めば言葉通りではあり、けれどもその「無理心中」に至るまでのストロングO太郎の有様、彼と「彼女」がたどった経緯と、まさしく物語の中では異様な「エキストラステージ」である最終話、でもそれが彼にとっては必要であったこと。何よりもこれが「喜劇」と銘打たれている、ということ……。唸り続けています。以下ぼんやりと取りとめもなく感想。続きを読む宮沢さんのお話は読んでいてどうにもひりひりする、何なら直接的に心に踏み入ってくるような、柔らかなところ、あるいは後ろ暗いところを暴き立てる側面がありながら、エンターテインメントでもあるというところが本当にすごいと思っていて。故にこそ心惹かれる、覗かずにはいられない、そして自分自身にも何かを突き付けられる、そういうところがあるな……と思っています。一六五という街の猥雑な賑やかさ、乱痴気騒ぎの雰囲気、常にハレとケが入り混じっている感じというか、その境界線があやふやな感じにひとつの「舞台」を感じます。まさしく心中劇の「舞台」であり、儀式の場でもある、ような。そもそも舞台ってどこか儀式と結びついているものだものなぁ、みたいな感慨……。そんな、その舞台の上の人間たちにとっては日常となってしまっている乱痴気騒ぎの中で、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ばらばらであったさみしい人たちが手を取り合った感じ、きっとほとんどの人にとっては忘れ去られてしまうようなもの(それこそストロングO太郎があの末路をたどったように……)、でも、その瞬間は確かにあったんだ、ということに思いを馳せます。全てが全て「どうにかなる」わけなんてなくて、でも、そこには足掻いたひとがいて、その足掻きを受け止めたひとがいて、そんなこと知らないけど、でもふと、そこに手を伸ばしたひとがいて。いろんな人たちがちょっとずつ絡み合って、あの物語が出来上がっているということ、そこには確かに一抹の煌めきのようなものがあるのだよなあ……、みたいなことを、延々と思っています。喜劇、喜劇であるな……。お筏ちゃんがそうであったように、ストロングO太郎もまた、それを「悲劇」にはしないということ。できない、なのか、しない、なのか、それは正直あざらしには判別しかねるけど、でもエキストラステージで舞台に立ち、全てをぶちまけて、その果てに笑いを得たこと、それが彼にとって必要だったということ、それを思うんですよね……。あと二色刷りになるところが、「お筏ちゃん」の登場した瞬間からお筏ちゃんを葬るところまでであるところが最高すぎて延々と噛み締めてしまいます。あの時点で「こちらがわ」と「あちらがわ」の境界線を踏み越えたというか、正しくは境界線を踏み越えようとする中間地点でとどまっている感じ、物語中でも言及されていた、事物の超自然的見当識喪失の只中にある感覚というか……。ハレの舞台であり、それ自体がひとつの異界であり、お筏ちゃんという存在に支配されている場であり、それをぶち破って現実に引き戻す(あるいは引きずりおろす)までの手続き。漫画、という形であるからこそ、それも紙に印刷された本であるからこその壮絶さというか……。迫力が直に伝わってくる感じが、本当にすごいなと思うのです。(もちろん電子書籍でも全然可能だとは思うのですが、紙の感じ、印刷として載せられた粒子の感じというか……、「手触り」も含めての感触だなあ、と紙の本を好むあざらしは思います)畳む#同人誌感想 2024.11.20(Wed) 20:16:59 読み物 edit
https://urn.booth.pm/items/6200376
「歓楽街でホストと風俗嬢がトラブルになり借金を残して心中するかんじの現代伝奇風ホラー」と説明があるんですけれども、確かにそうだけど……そうだけど……!?ってなるの本当にアオリが上手いな~と唸ってしまいます。
史上最低の無理心中、最初から最後まで読めば言葉通りではあり、けれどもその「無理心中」に至るまでのストロングO太郎の有様、彼と「彼女」がたどった経緯と、まさしく物語の中では異様な「エキストラステージ」である最終話、でもそれが彼にとっては必要であったこと。
何よりもこれが「喜劇」と銘打たれている、ということ……。唸り続けています。
以下ぼんやりと取りとめもなく感想。
宮沢さんのお話は読んでいてどうにもひりひりする、何なら直接的に心に踏み入ってくるような、柔らかなところ、あるいは後ろ暗いところを暴き立てる側面がありながら、エンターテインメントでもあるというところが本当にすごいと思っていて。故にこそ心惹かれる、覗かずにはいられない、そして自分自身にも何かを突き付けられる、そういうところがあるな……と思っています。
一六五という街の猥雑な賑やかさ、乱痴気騒ぎの雰囲気、常にハレとケが入り混じっている感じというか、その境界線があやふやな感じにひとつの「舞台」を感じます。まさしく心中劇の「舞台」であり、儀式の場でもある、ような。そもそも舞台ってどこか儀式と結びついているものだものなぁ、みたいな感慨……。
そんな、その舞台の上の人間たちにとっては日常となってしまっている乱痴気騒ぎの中で、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ばらばらであったさみしい人たちが手を取り合った感じ、きっとほとんどの人にとっては忘れ去られてしまうようなもの(それこそストロングO太郎があの末路をたどったように……)、でも、その瞬間は確かにあったんだ、ということに思いを馳せます。
全てが全て「どうにかなる」わけなんてなくて、でも、そこには足掻いたひとがいて、その足掻きを受け止めたひとがいて、そんなこと知らないけど、でもふと、そこに手を伸ばしたひとがいて。
いろんな人たちがちょっとずつ絡み合って、あの物語が出来上がっているということ、そこには確かに一抹の煌めきのようなものがあるのだよなあ……、みたいなことを、延々と思っています。
喜劇、喜劇であるな……。お筏ちゃんがそうであったように、ストロングO太郎もまた、それを「悲劇」にはしないということ。できない、なのか、しない、なのか、それは正直あざらしには判別しかねるけど、でもエキストラステージで舞台に立ち、全てをぶちまけて、その果てに笑いを得たこと、それが彼にとって必要だったということ、それを思うんですよね……。
あと二色刷りになるところが、「お筏ちゃん」の登場した瞬間からお筏ちゃんを葬るところまでであるところが最高すぎて延々と噛み締めてしまいます。
あの時点で「こちらがわ」と「あちらがわ」の境界線を踏み越えたというか、正しくは境界線を踏み越えようとする中間地点でとどまっている感じ、物語中でも言及されていた、事物の超自然的見当識喪失の只中にある感覚というか……。
ハレの舞台であり、それ自体がひとつの異界であり、お筏ちゃんという存在に支配されている場であり、それをぶち破って現実に引き戻す(あるいは引きずりおろす)までの手続き。
漫画、という形であるからこそ、それも紙に印刷された本であるからこその壮絶さというか……。迫力が直に伝わってくる感じが、本当にすごいなと思うのです。
(もちろん電子書籍でも全然可能だとは思うのですが、紙の感じ、印刷として載せられた粒子の感じというか……、「手触り」も含めての感触だなあ、と紙の本を好むあざらしは思います)
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