No.1974, No.1973, No.1972, No.1971, No.1970, No.1969, No.1968[7件]
最近、ご飯はちゃんと食べてるけど、通勤だけで力尽きてしまって運動できてないのでよくない……。
夏休みは、せめてラジオ体操はちゃんとやりながら過ごしてゆきたいところ。
夏休みは、せめてラジオ体操はちゃんとやりながら過ごしてゆきたいところ。
ともあれ、あざらしは前々から言ってるとおり結構「舞台」というかステージの上だけで成立する話が好きなのはあり、作風的にも結構そういうとこはある。
『無名夜行』も演出の仕方はあるだろうけど、あれ、「私」たちプロジェクトメンバーは研究室から一歩も動いてない(たまに研究室の外の話あるけど)みたいなところが好きでやっている。
その一方で、その場から一歩も動かなくても果てのない『異界』を垣間見ることはできる・垣間見てしまえる、みたいなのをやりたくて無名夜行という形にしてるのかもなあ、みたいなこと!
閉ざされた空間に見えても、実際にはその広がりは無限大である、みたいなの、めちゃくちゃ好きなんだよなあ。
それこそ、視点一つ、立ち位置一つで、同じ空間でも別のものが見えてくるような。
そういうお話が書けたら嬉しいなあ~といつも思っている。
あざらしは母が比較的本を読む(特にややエンタメ寄りの小説を好む)、また演劇を好む(昔は自分も舞台に立ったりしてたはず)ひとなんだけど、その母が「四畳半だけの空間から一歩も動かなくても物語はおもしろく展開できる」みたいなことを言ってたのがめちゃくちゃ心に残っており、たぶんそれを今もなお胸に刻んでるところあるのかもしれないなあ……。
『無名夜行』も演出の仕方はあるだろうけど、あれ、「私」たちプロジェクトメンバーは研究室から一歩も動いてない(たまに研究室の外の話あるけど)みたいなところが好きでやっている。
その一方で、その場から一歩も動かなくても果てのない『異界』を垣間見ることはできる・垣間見てしまえる、みたいなのをやりたくて無名夜行という形にしてるのかもなあ、みたいなこと!
閉ざされた空間に見えても、実際にはその広がりは無限大である、みたいなの、めちゃくちゃ好きなんだよなあ。
それこそ、視点一つ、立ち位置一つで、同じ空間でも別のものが見えてくるような。
そういうお話が書けたら嬉しいなあ~といつも思っている。
あざらしは母が比較的本を読む(特にややエンタメ寄りの小説を好む)、また演劇を好む(昔は自分も舞台に立ったりしてたはず)ひとなんだけど、その母が「四畳半だけの空間から一歩も動かなくても物語はおもしろく展開できる」みたいなことを言ってたのがめちゃくちゃ心に残っており、たぶんそれを今もなお胸に刻んでるところあるのかもしれないなあ……。
一方でかいマホ(CoC『かいぶつたちとマホラカルト』)はやはりアニメーションって感じがするわよね~。
いやこれ握ってるのがモキバなのもあるかも……。存在が完全にフィクションみのある男……。
ただ、話の感じからしてもアニメーションの方が映えるだろな~というのは、ある!
ややデフォルメされてる話なのはあるかも? CoCという前提をきっちり生かしながらも、ちょっと現実離れした、痛快なトーンで統一がとれてるのがよいんだよな、かいマホ……。
それはそれとして生身の人がモキバを演じるなら、マジでなんかバイプレイヤー寄りの役者さんで、普段はむしろ目立たないタイプの役どころやってるひとがいいです!!!(力強く)
元々素顔だと人に紛れるタイプの男だからね、モキバ……。
いやこれ握ってるのがモキバなのもあるかも……。存在が完全にフィクションみのある男……。
ただ、話の感じからしてもアニメーションの方が映えるだろな~というのは、ある!
ややデフォルメされてる話なのはあるかも? CoCという前提をきっちり生かしながらも、ちょっと現実離れした、痛快なトーンで統一がとれてるのがよいんだよな、かいマホ……。
それはそれとして生身の人がモキバを演じるなら、マジでなんかバイプレイヤー寄りの役者さんで、普段はむしろ目立たないタイプの役どころやってるひとがいいです!!!(力強く)
元々素顔だと人に紛れるタイプの男だからね、モキバ……。
そういえば、今はCoCの『庭師は何を口遊む』をやってるんだけど、あれもなんかあざらしの中では結構舞台のイメージがあるって話をしていた。
基本四人による会話劇、というか……。
以下ネタバレの話をする気はないけど多少シナリオに触れるので伏せてはおこう。
庭師、三年前の「相模原涼」という同僚の不可解な死から始まり、今もなおその事件を追い続けている、それぞれが一点突出型の能力を持つ特殊捜査班「零課」のはなし、なのだが~。
あざらし(PC1チーフ・鏑木)が、零課の執務室でがんがん話を展開させたこともあり(なんかめちゃくちゃ零課にいた時間が長くて、おそらくシナリオ想定の倍くらいの長さ執務室で過ごしてる)、なんか執務室のセットだけで成立する舞台のイメージなんだよな……。
いや、本編は結構がんがん捜査のためにいろんな場所に足を運んでるんだけどね! イメージがね!!
そんなわけで、本編とはちょっと離れるんだけど、零課の四人が時に執務室に訪れるNPC格とやり取りしながら、執務室から一歩も出ずにひとつの事件について話し合うような演劇やってほしいな~!!! となるのだった。
こう、ホワイトボードに下手くそな文字を書き殴りながら朗々と喋る鏑木とか、その鏑木にめちゃくちゃ鋭いツッコミ入れてく鏡さんとか、淡々とパソコンのキーボード叩きながらも話にはきっちり聞いてていい感じに鼻で笑ってくれる根林さんとか、話が停滞してくると引き出しからどら焼き出して一旦意識を逸らしてくれる犬見さんとか、見たすぎるのよ~~~~!
零課執務室のセットも見たいんだよな……。各人のデスク、めちゃくちゃキャラが出ると思っているため。鏑木は結構デスクの上はきれいな方、中身はまあまあカオス。
あと壁に鏑木宛に「焼肉禁止」「スルメ炙り禁止」って書かれてるのめちゃくちゃ見たい(与太じゃなかったのかそれ)。
これ、一番最近に見た舞台(海をゆく者)がやっぱり半地下のかわいいお部屋だけで成立してたのに由来してる気はするわね。
あとサマータイムマシン・ブルースもそういえば部室だけで完結してたね!!!
あざらし、結構場面転換・移動の描写のある舞台見てないんだよな~ということに気づきつつある。
そういう切り取られた空間に終始しながら、その外側の広がりを感じさせるような演出が好き、みたいなのは……ある!!
追記:
ついでなのであざらしのイメージする「舞台上の鏑木」の詳細な話をすると、こう、舞台が明るくなるときには既にそこにいて、なんなら執務室の掃除とかしててほしい。上手く動いてくれないルンバに威嚇しててほしい。なんなら威嚇しつつもルンバのためにものを片付けたりしててほしい。そこにばらばらと三人が集ってきて、ルンバに威嚇してる鏑木に呆れながらもすっと仕事に移行してゆく(鏑木もその時にはきちんと仕事に移る)、みたいな構図がずっと頭にある……。
そして一つの話が終わった時点で、即座に帰る(光速の定時退勤、なんなら気づいたら舞台から消えててほしい)鏡さん、それの後を追うように席を立つ根林さん、そして残る気満々の鏑木をおそるおそる気遣いながらも帰って行く犬見さん、ってなって、最後に一人だけ残された時点で初めて立ち上がり、扉の方につかつか歩いてって、一瞬だけ客席の方に視線を向けて扉の横のスイッチを消し、舞台が暗転する……、みたいな役割の人であってほしい。
そんな夢と希望だけがある。あくまであざらしの夢と希望だよ。本編の鏑木はそんなにかっこいい役どころではないよ。
でも、あざらしは、チーフとしての鏑木ってそういう存在であってほしいと思っているため……。
畳む
基本四人による会話劇、というか……。
以下ネタバレの話をする気はないけど多少シナリオに触れるので伏せてはおこう。
庭師、三年前の「相模原涼」という同僚の不可解な死から始まり、今もなおその事件を追い続けている、それぞれが一点突出型の能力を持つ特殊捜査班「零課」のはなし、なのだが~。
あざらし(PC1チーフ・鏑木)が、零課の執務室でがんがん話を展開させたこともあり(なんかめちゃくちゃ零課にいた時間が長くて、おそらくシナリオ想定の倍くらいの長さ執務室で過ごしてる)、なんか執務室のセットだけで成立する舞台のイメージなんだよな……。
いや、本編は結構がんがん捜査のためにいろんな場所に足を運んでるんだけどね! イメージがね!!
そんなわけで、本編とはちょっと離れるんだけど、零課の四人が時に執務室に訪れるNPC格とやり取りしながら、執務室から一歩も出ずにひとつの事件について話し合うような演劇やってほしいな~!!! となるのだった。
こう、ホワイトボードに下手くそな文字を書き殴りながら朗々と喋る鏑木とか、その鏑木にめちゃくちゃ鋭いツッコミ入れてく鏡さんとか、淡々とパソコンのキーボード叩きながらも話にはきっちり聞いてていい感じに鼻で笑ってくれる根林さんとか、話が停滞してくると引き出しからどら焼き出して一旦意識を逸らしてくれる犬見さんとか、見たすぎるのよ~~~~!
零課執務室のセットも見たいんだよな……。各人のデスク、めちゃくちゃキャラが出ると思っているため。鏑木は結構デスクの上はきれいな方、中身はまあまあカオス。
あと壁に鏑木宛に「焼肉禁止」「スルメ炙り禁止」って書かれてるのめちゃくちゃ見たい(与太じゃなかったのかそれ)。
これ、一番最近に見た舞台(海をゆく者)がやっぱり半地下のかわいいお部屋だけで成立してたのに由来してる気はするわね。
あとサマータイムマシン・ブルースもそういえば部室だけで完結してたね!!!
あざらし、結構場面転換・移動の描写のある舞台見てないんだよな~ということに気づきつつある。
そういう切り取られた空間に終始しながら、その外側の広がりを感じさせるような演出が好き、みたいなのは……ある!!
追記:
ついでなのであざらしのイメージする「舞台上の鏑木」の詳細な話をすると、こう、舞台が明るくなるときには既にそこにいて、なんなら執務室の掃除とかしててほしい。上手く動いてくれないルンバに威嚇しててほしい。なんなら威嚇しつつもルンバのためにものを片付けたりしててほしい。そこにばらばらと三人が集ってきて、ルンバに威嚇してる鏑木に呆れながらもすっと仕事に移行してゆく(鏑木もその時にはきちんと仕事に移る)、みたいな構図がずっと頭にある……。
そして一つの話が終わった時点で、即座に帰る(光速の定時退勤、なんなら気づいたら舞台から消えててほしい)鏡さん、それの後を追うように席を立つ根林さん、そして残る気満々の鏑木をおそるおそる気遣いながらも帰って行く犬見さん、ってなって、最後に一人だけ残された時点で初めて立ち上がり、扉の方につかつか歩いてって、一瞬だけ客席の方に視線を向けて扉の横のスイッチを消し、舞台が暗転する……、みたいな役割の人であってほしい。
そんな夢と希望だけがある。あくまであざらしの夢と希望だよ。本編の鏑木はそんなにかっこいい役どころではないよ。
でも、あざらしは、チーフとしての鏑木ってそういう存在であってほしいと思っているため……。
畳む
舞台、演じること、なるものについてあざらしは結構思いを馳せずにはいられないのかもしれないなあ~。ということを、つらつらと思う。
人よりも舞台の演劇見てはいない(全く見てない人より見てる気はするが)のはあるんで見当違いかもしれないけど、でも、画面で見るそれとその場で見るそれにはやっぱり明らかな情報量の違いがあるよなあ、とかそういうの。
なんとなく、画面越しだと、それが実在の人によって演じられてるとしても明らかにこの世界と切り離されてると感じられるけど、演じられるその場に自分が居合わせることで舞台上の異世界と自分が立ってる場所がひととき地続きになるというか。
なんか、自分がいるその場所も含めて異世界につれてってもらえる感覚? といえばいいのか?
あと、カーテンコールの瞬間に、ふっと「こちら側」に引き上げられる感じがほんとにね~好きで~。登場人物が役者さんに戻るとともに見てる側も現実を認識する……感じ!
あのカーテンコールの手触り、もちろん映像でも感じはするんだけど、本当に生の舞台だとめちゃくちゃ顕著に味わえるというか。
あのカーテンコールの瞬間で夢から覚める、みたいな感覚を味わいたくて舞台見に行ってるとこもあるかも……。
四月馬鹿達の宴の舞台の情報を見るべく劇団のアカウントフォローしてるんだけど、こう、役者さんが登場人物を演じるということをめちゃくちゃ噛みしめてしまうのだよな。
今そのときだけは彼らがそこにいる、ということ。架空であるはずの彼らが質量を持った存在として舞台の上にひととき存在するということ……。
どんな話でももちろんそうなんだけど、やっぱり、描かれたもの、が人の形を得る・人の肉体を借りるということについて思いを馳せずにはいられないよ~!
人よりも舞台の演劇見てはいない(全く見てない人より見てる気はするが)のはあるんで見当違いかもしれないけど、でも、画面で見るそれとその場で見るそれにはやっぱり明らかな情報量の違いがあるよなあ、とかそういうの。
なんとなく、画面越しだと、それが実在の人によって演じられてるとしても明らかにこの世界と切り離されてると感じられるけど、演じられるその場に自分が居合わせることで舞台上の異世界と自分が立ってる場所がひととき地続きになるというか。
なんか、自分がいるその場所も含めて異世界につれてってもらえる感覚? といえばいいのか?
あと、カーテンコールの瞬間に、ふっと「こちら側」に引き上げられる感じがほんとにね~好きで~。登場人物が役者さんに戻るとともに見てる側も現実を認識する……感じ!
あのカーテンコールの手触り、もちろん映像でも感じはするんだけど、本当に生の舞台だとめちゃくちゃ顕著に味わえるというか。
あのカーテンコールの瞬間で夢から覚める、みたいな感覚を味わいたくて舞台見に行ってるとこもあるかも……。
四月馬鹿達の宴の舞台の情報を見るべく劇団のアカウントフォローしてるんだけど、こう、役者さんが登場人物を演じるということをめちゃくちゃ噛みしめてしまうのだよな。
今そのときだけは彼らがそこにいる、ということ。架空であるはずの彼らが質量を持った存在として舞台の上にひととき存在するということ……。
どんな話でももちろんそうなんだけど、やっぱり、描かれたもの、が人の形を得る・人の肉体を借りるということについて思いを馳せずにはいられないよ~!
たぶん……平気! 朝は平熱!!
明日は夜卓なので今日はきちんと寝る~~~~。
土曜日に新規卓なのでそろそろ差分を準備。モキバモキバ。
九月からの卓の立ち絵もそろそろ準備。動物描けるかな~?(なんでそんなキャラクターにしたんだ)
あと8月末に1件〆切があるので忘れないこと!
とまあ、タスクは見えてはいるんだがアニメーション描くの楽しくてずっとアニメーションのこと考えちゃってるわね。
やっぱり描いたものがぐりぐり動くのって、浪漫があるよ~!!
(ほんとはもっと時短しながらいろいろやるべきだけど、でもやっぱ描いた枚数が直接動きに結びつくの、楽しいんだよなあ!)
明日は夜卓なので今日はきちんと寝る~~~~。
土曜日に新規卓なのでそろそろ差分を準備。モキバモキバ。
九月からの卓の立ち絵もそろそろ準備。動物描けるかな~?(なんでそんなキャラクターにしたんだ)
あと8月末に1件〆切があるので忘れないこと!
とまあ、タスクは見えてはいるんだがアニメーション描くの楽しくてずっとアニメーションのこと考えちゃってるわね。
やっぱり描いたものがぐりぐり動くのって、浪漫があるよ~!!
(ほんとはもっと時短しながらいろいろやるべきだけど、でもやっぱ描いた枚数が直接動きに結びつくの、楽しいんだよなあ!)
あるいは、物語中で許されないことをした相手を排除する、ということについて。
あざらしはなんか常に死は救い……、とまでは言わないが、しかし死んだ当人にとっては「無」以上でも以下でもないと思ってるため、まったく罰として機能してないんだよな~ということについてぽやぽや考えている。
だから基本的に死をもって決着させる、ということはあんまりしない方かな~。
無名夜行のXの死が定まってるのも、あれはXの罪に対する罰というよりは社会的にそうあれかしとされてるからそう、でしかなく、Xの罪に対して与えられるべき本質的な対処(それは必ずしも明確な「罰」ではないのだと思う)は、むしろ死刑とは別の部分なのだと考えている。
……みたいなところ、あるのかもなあ~。
だから、結果的に待ってるのは死なのかもしれないんだけど、あざらしの中で重要なのって、罪を犯した何者かになんらかの働きかけをすること、あるいらその何者か自身が働きかけを行うこと、なのかな……。ぽやぽや。
ミストノーツはまあまあ決着=いずれかの死なんだけど、これは罪とか罰とかではなくてそういう命のやりとりの場なのでそうなる、みたいなところだな、そういえば……。
だからまあ、結局はその場の共通認識がどうであるか、に依存するのだと思うし、そこには罪のあるなしとは全く関係ない儀式的な何らかが働いてるな、あざらしの場合。
同じ世界でも、例えばはらわたの後日談(まだ書いてないやつ)は、その決着後にレイニータワーがあるように、やはり場を形成してるひとの持ってる認識によるのだよなあ……。