大きな、あまりにも大きすぎる月が空に浮かんでいる。
月の光に照らされて浮かび上がるのは、観覧車やジェットコースターといった遊具施設だ。月明かりの遊園地。それが今回の『異界』の姿であった。
遊園地を行き交うのは、無数のシルエット。何故か月明かりを浴びてもシルエット以上の情報が伝わることのない人々が、さざめきと共にXの視界――ディスプレイの中を行きかっている。
そして、どこか調子外れのBGMを聞きながら、Xはその場に立ち尽くしていた。このきらびやかな光景を前にして、一体何を思うのだろう。私には想像もつかない。
やがてXは歩き出す。シルエットの人々の中で、唯一色と明確な形を持っているXを、しかし人々が見とがめることはない。もしくは彼らから見たらXも同じように見えているのかもしれない。
並ぶ遊具には目もくれず、Xはふらふらと歩いていく。影の人波を縫って歩いていると、突然、人々が群がっている場所を見つけた。よくよく見れば、奥にはステージが設えられており、やはりシルエット姿の何者かがその上に立っているのが、かろうじてわかる。
Xの声が、ステージの看板に書かれている文字列を読み取る。
「ヒーローショー……」
そこにいるのは、罪なき人々を脅かす悪の手先を懲らしめる、まさしく子供が夢見る正義の味方なのだろうが、ディスプレイに映るのはあくまでシルエットでしかなく、ステージに上っているどれがヒーローでどれが敵役なのかもわかったものではない。
Xはショーに集まる人々の輪から一歩離れた場所に立って、人々の頭の間からかろうじて見えるステージをぼんやりと眺める。響く音声は、ヒーローが今まさに敵に追いつめられていることを告げている。
その時、不意にXの視界がステージから足元に向けられる。見れば、Xの側に小さな子ども――と思しきシルエットが、Xの服の裾を掴んでいた。他の子どもたちは大人のシルエットと一緒にいるだけに、たった一人でいるというのは違和感が強い。それは現実もこの『異界』も変わらないようだった。
小さな指でXの服の裾を握りしめ、子どものシルエットは少年の声で言う。
「あの、僕のお父さんとお母さんを、知りませんか」
「いえ、知りませんが……、迷子ですか?」
「はい。はぐれてしまって」
少年は思ったよりもずっとしっかりした、落ち着いた口調で言った。きっとXは戸惑いの表情を浮かべたに違いないが、それでもすぐに少年の手を握って言った。
「誰かに、報せた方がいい、ですね。行きましょう」
「あっ、待ってください」
少年が、Xの手を引く。Xがそちらを見れば、シルエットの少年は躊躇いがちに、ステージを指さした。
「最後まで見てからでも、いいですか」
果たして、Xがどのような表情をしたのか私にはわからない。わからなかったけれど、もしかすると彼には珍しく笑ったのかもしれなかった。微かな笑みの気配を言葉に乗せて、言う。
「いいですよ。……ああ、これでは、よく見えませんよね」
Xは視線をぐっと下げて、少年に手で何かを指し示したようだった。少年はちょっと躊躇ったようだったが、恐る恐るXの肩に両足をかけて座ったのがわかった。Xはそのまま少年を肩車して持ち上げる。
「わ……っ」
頭上から少年の歓声が聞こえる。
「見えますか?」
「はい! ありがとう、ございます」
弾む声を聞きながら、Xもまたステージに目を向ける。音声は、追いつめられていたはずのヒーローが逆転し、敵に必殺技を放つところであった。その時、わずかにディスプレイの視界が狭まったのは、Xが目を細めたからに違いなかった。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、遊園地の『異界』に降り立ったXは、シルエットの少年と向かい合っていた。
「ありがとうございました、おじさん!」
少年の声は喜びに上ずったものであった。Xも感謝されるのはそう悪い気分でもなかったのだろう、「どういたしまして」と言う声は彼らしくもなく明るい。
「しかし、やはり、ご両親は見つかりませんね。係の人に、報せましょう」
Xがそう言ってその場を離れようとすると、少年が再びXの手を引いた。Xがそちらを見たところで、少年の表情は影になってしまっていて表情を判ずることはできない。ただ、俯いているのだろうということは、少年の仕草から何となくわかる。
「どうしましたか?」
Xはしゃがんで少年に視線を合わせる。少年は一拍の後に、ぽつりと言った。
「僕、捨てられたのかもしれません」
「え?」
「僕のお父さんとお母さん、本当のお父さんとお母さんじゃ、なくて」
だから、きっと、邪魔になってしまったのです、と。少年はぽつりぽつりと言葉を落とす。その声は今にも泣き出しそうで、Xの戸惑いがディスプレイからも伝わってくる。それはそうだろう、見ているだけのこちらも戸惑うくらいなのだから。
Xは、しばらく少年をじっと見つめていたようだったが、やがて少年の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「本当じゃないからといって、邪魔になっているとは、限りませんよ」
「そう、ですか?」
「もちろん、私は君のご両親を知らないので、本当のところはわかりません。けれど、確かめる前から、そう決めつけてしまうのは、おかしいのではないでしょうか。違いますか?」
普段になく、Xは饒舌であった。相手が年端のいかない子どもだということもあるのだろうが、彼がここまで丁寧に言葉を尽くそうとしているところを見るのは、めったにないことだ。
少年は、しばしXを見つめた――のだと、思う。シルエットの顔から読み取れる情報はあまりにも少ない。Xが少年の顔を覗き込むと、少年はXの手をぎゅっと強く握りしめて、言ったのだ。
「……邪魔じゃないと、いいな」
Xはその手を握り返すことで、少年の声に応えた。俯き気味だった少年の顔がぱっと上げられて、それからことさら明るい声で言った。
「おじさん、あと一か所だけ、付き合ってもらえますか?」
「いいですが……、どちらに?」
「僕、観覧車に乗りたいんです」
観覧車は遊園地の中心に位置していた。
大きな月を背景に浮かび上がって見える観覧車はあまりにも巨大だった。Xは影の少年を連れて、観覧車に乗りこむ。係員によって籠の扉が閉ざされて、ゆっくり、ゆっくりと視界が持ち上がっていく。
この『異界』には、どうやら遊園地しか存在しないらしく、色とりどりの明かりに満たされた遊園地の外はどこまでも広い闇が広がっている。それでも、少年は窓に張り付いて眼下に広がる光景を見つめている。
Xは眼下に広がる光景よりも、よっぽど影の少年に気を取られているようで、じっと少年の後ろ姿を見つめていた。すると、少年が窓の外を見つめたまま声を上げる。
「ありがとうございます、おじさん。楽しい思い出ができました」
「ならよかった。けど、一緒にいるのが、私でいいのでしょうか」
「いいんです。僕、おじさんに会えて、よかったです」
Xは、その言葉に一体何を思ったのだろう。不意に、少年の肩に手をかけた。少年がこちらを振り向く。
「おじさん?」
「私も、君に会えてよかったと、思います」
Xの片方の手が少年の肩から首へと移動する。少年がびくりと震えるのにも構わず、Xは少年の首筋をつぅと撫ぜる。
「君は、……ヒーローは、好きですか?」
「は、はい」
少年は、Xの手の動きに気を取られたのだろう、逡巡の後に頷いた。Xは少年の首から手を動かさないまま、少年をじっと見つめて質問を重ねていく。
「ヒーローになりたい、と、思ったことは、ありますか?」
「はい。なりたい、です」
「なら、どんなヒーローに、なりたいですか?」
私にはXの質問の意図がわからない。『異界』における判断は全てXに委ねられているとはいえ、今まではほとんどの場合、Xの行動の意図は明瞭であった。だからだろうか、妙に落ち着かない心地になる。自分は今、何を見せられているのだろう?
それでも少年は、はきはきとXの質問に答える。
「強いヒーローになりたいです。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
少年の声は、どこまでも凛としていた。背筋をぴんと伸ばし、こちらに手を伸ばすXの視線を真っ直ぐに受け止めて。Xは果たしてそんな少年の言葉をどのように受け止めたのだろう。数拍の空隙ののちに、ぽつりと言った。
「やっぱり、そういうことか」
え、と。少年の不思議そうな声が聞こえた。Xはもう一度、丁寧に少年の首筋を撫ぜたかと思うとゆるりとその手を下ろして、言った。
「いつか、私を倒しに来てくださいね、未来のヒーロー」
「おじさん?」
少年の疑問符に、Xは答えなかった。そのまま、二人を乗せた籠は地面まで下りてゆく。係員が扉を開き、Xは少年の手を引いて籠を降りる。すると、少年がぱっと弾かれるように顔を上げた。
Xが少年の視線を追えば、二つのシルエットが、こちらに向けて駆けてくるところだった。その慌てふためいた様子は影しか見えなくても明らかだ。少年はそんな二人の影をじっと見つめたまま、言葉を落とす。
「お父さん、お母さん」
「ほら。君は、邪魔なんかじゃない」
うん、と頷いた少年の背を、Xはゆっくりと押した。少年は一歩、二歩と、両親の方へと歩いていく。母親が少年の名前を呼んだようだったが、それはよく聞こえなかった。否、Xが耳を塞いだのだと、一拍遅れて気づいた。
「……X?」
私の声はもちろんXには届かない。Xは耳を塞いだまま、きっぱりと言った。
「引き上げてください」
それは。Xが探索の限界を感じた時の呪文。私は刹那、迷った。まだ制限時間は半分以上残っており、この遊園地の探索は十分とはいえない。それに、何より、Xが危機に陥っているわけでもない。
それでも、Xは「引き上げてほしい」と望んでいる――。
「引き上げて」
結局、私はXの言葉を受け入れて、Xの意識を肉体へと引き上げる作業が始まる。Xの視界を移すディスプレイにノイズが走り、映像が途絶える寸前。両親と一緒になった影の少年がこちらを振り向いた、気がした。
引き上げ作業は問題なく終了し、Xは凪いだ表情で寝台の上に腰かけている。Xの表情から考えていることを正確に読み取るのは難しい。ただ、今回ばかりは、何故だろう、いつもと同じ表情のはずなのに、妙にちりちりとした気配を感じ取っている。
「X。……どうして引き上げを望んだの」
発言を許可した上での質問に、Xは視線だけをこちらに向けて、口を開く。
「どうしてでしょう。私にも、よくわかりません」
「何か変よ、X。あなたらしくもない」
「私、らしく?」
Xの目がわずかに見開かれる。はっきり言ってこれは私の失言だ。私が「らしさ」を語ることなどできやしない。連続殺人を犯した死刑囚である、ということ以外にXがどのような人間なのかを知らないまま「運用している」私には。
しかし、Xはことさら私を責めることもせず、視線を切って言う。
「そう、ですね。最低限の役目すら、こなせないようでは、サンプル失格ですね」
「そうは言っていないわ。ただ、あなたが探索を放棄するのは珍しいって話。あの少年に、何か思うことでもあった?」
Xの態度はあのシルエットの少年と出会ってから明らかにおかしくなったように見えたし、X自身それには自覚的だったのだろう。「そうですね」ともう一度言って、手で己の首をさする。あの少年にそうしてみせたように。
「結局、私は倒されずに、ここにいます」
「どういうこと?」
「ヒーローなんていない。……あの少年も、いつかは気づく日が来るのかなと」
それとも、気付かないまま走り続けてしまうのかな、と。
Xはそれだけを言って、口を噤んだ。
私はXの言いたいことを理解することはできない。Xは時折そういう側面を見せる。自らの言い分に自分自身で勝手に納得してしまう、ような。
だから、私は何もわからないまま、浮かび上がった問いを投げかけることしかできない。
「あなたにも、あの少年のように、ヒーローに憧れる頃があったの?」
「ええ。強いヒーローになりたかった。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
Xは少年の口ぶりを真似てそう言って――それから、表情をわずかに歪めた。
「だから。彼には、間違って欲しくないな、と、思っただけです」
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 08:57:01〔110日前〕 無名夜行 <5701文字> 編集
その『異界』に降り立った瞬間、無数の人影に取り囲まれた。
……否、それは正しくない、と一拍遅れて気付く。
Xを取り囲む人影は、皆が一様の姿をしていた上に、それがよく見覚えのある姿であったから。Xもすぐにそれに気づいたのか、ぽつり、と声を落とす。
「鏡、か……」
そう、鏡だ。周囲に張り巡らされた鏡が、Xの姿を複雑に映しこんでいることで、まるで「X自身」に取り囲まれているかのような錯覚をもたらしていた。
Xは目の前に立ちはだかる一枚の鏡に向けて手を伸ばす。鏡の中のXも手を伸ばす。短く刈りこまれた白髪交じりの髪に、実年齢より少し上に見える以外には特筆すべきところのない痩せた顔の男性。片目が見えていないがゆえか、わずかに焦点がずれている、ちぐはぐな色をした目が、ぼんやりと見つめ返してくる。その姿は、私が知る『こちら側』のXと何ら変わりがない。
ただ、眺めているうちにその姿が徐々に変化しているのに気づく。酷くゆっくりとした変化ではあるが、髪がわずかに伸び、白髪が減って行き、痩せていた顔も肉付きを取り戻して、若返っていくように見える。一方で、Xはその変化に気付いているのかいないのか、普段通りの表情を変えることはしなかった。
若返りと思える現象はそのまま続いていくかと思われたが、ある一点を境にまた元の姿へと戻っていく。どうも、ある一定期間のXの姿を行き来しているように見えた。もしかすると、今までの『異界』でもそうだったのかもしれないが、私には判断がつかない。
ともあれ、Xはしばらく鏡に映っている自分の姿を見つめていたが、不意に、その視界の隅で何かが動いた。Xが動いていないにもかかわらず、だ。Xもはっとしてそちらに視線を向けようとするが、何せこの無数の鏡だ、どちらの方向で何が動いたのかを正しく判断することができない。
Xはその場から動き出した。この『異界』の中で何が動いたのかを確かめようというのだろう。『異界』の規模を確かめること、『異界』で起こる現象をその目と耳で捉えることは私がXに与えたタスクだ。
だが、言葉にならない不安が胸の中にわだかまる。その予感が外れることを祈りながら、私はXの視界を映すディスプレイをじっと見据えていた。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
鏡の『異界』は果たしてどこまで広がっているのか、私には想像がつかない。もちろんXにしてもそうであろう。それでも、鏡と鏡の隙間を渡り歩きながら、時折視界の隅を動き回る「何か」を追いかける。
どこまでも、どこまでも続いていく、鏡張りの回廊。進んでいる方向も定かではなく、ゆるやかに姿を変え続ける自分自身を映し込みながら、手探りで歩き続ける。その時、また視界にXの動きとは別の動きをするものが横切った。だが、今までよりその影は随分近いのか、今までよりもずっと大きな姿で映りこんだ。
だから、追いかけているのが「何」なのか、私にもはっきりわかった。
「X……?」
私が呟いた、次の瞬間。
Xの視界が激しく揺さぶられた。何が起こったのか、と思う間もなくXが左に視線を向ける。Xの目を通してディスプレイに映し出されたのは、X自身――に見える何者か、であった。
何故それがXの鏡像でないとすぐにわかったのかと言えば、Xを見つめる「それ」の表情が、まるで普段のXのそれとは異なっていたからだ。その面に浮かんでいるのは、満面の笑み。晴れやかな笑顔と共に、Xの姿をした「それ」はXに向かって拳を振り上げる。
Xもただ一方的に殴られるだけではない。突き出された拳を片手で受け流し、自分もまた目の前の「それ」に殴りかかろうとする。しかしその一撃はまるで鏡映しのように、一瞬前の自分がそうしたのと同じく受け流されてしまう。
「あはは」
一、二歩下がり、Xと同じ顔をした「それ」が笑い声を漏らす。それも確かにXと同じ声だったけれど、Xがそんな風に笑ったところを私は見たことがない。
「やっと。やっと、俺にもツキが回ってきた」
その口からこぼれ落ちるのは、こちらにも通じる言葉。けれど、言っている意味がわからない。そう思っていると、「それ」は予備動作もなくぐん、と顔を近づけて、Xの肩を掴んで背後の鏡に押し付ける。がん、という激しい音はXの後頭部が鏡にぶつかった音だろう。
「なあ、代わってくれよ。……もう、こんなところにいるのは、まっぴらなんだよ!」
高らかに叫んだ「それ」は、Xをぎりぎりと鏡に押し付ける。すると、どのような仕組みによるものだろう、Xの体がじりじりと後ろに下がり始める。否、より正確に言うならば――背中にした鏡の中に、沈み込もうとしているのだ。
「今度はお前の番だ。俺の代わりに、囚われてくれ」
肩を押さえつけられたXは手足を動かしてもがくが、「それ」の手が離れることはなく、そのままXを鏡の中に押し込めようとする。
このまま続ければ、Xの意識体は完全に鏡に沈められてしまうだろう。その状態で引き上げが行えるのかも定かではない。これは、もう引き上げてしまった方がいい、と指示を出そうとした、その時だった。
「勝手な、ことを、言うな」
ぼそり、と。聞こえたその声がXのものであると、気付いたのは一拍の後。
がん、ともう一度大きな音が響いて、視界が激しく揺れた。一体何をしたのか、私には一瞬判断がつかなかったが、どうやら「それ」に勢いよく頭突きをしたらしいということが、額を押さえてふらふらと下がる「それ」を見てわかった。
「くそっ、石頭……っ!」
「仕事の、邪魔を、するな」
その声と同時に、Xは「それ」の顔目掛けて迷いなく拳を突き込んだ。Xと同じ顔が醜くひしゃげた、と思った次の瞬間、ぱりん、という硝子の割れる音が響いて、「それ」の姿がばらばらになったかと思うと消え去ってしまう。Xが足元を見れば、粉々に割れた鏡が落ちていて、Xの姿を無数に映しこんでいた。
Xはその鏡の残骸をサンダルの裏で踏みしめると、己の手を見る。右の拳が切れ、赤い血がぽたぽたと流れ落ちている。Xの体は意識だけの存在ではあるが、その辺りは現実と同じように再現される。もちろん、痛みだって感じているに違いないのだが、Xは痛みに顔をしかめることすらせず、ぴんと背筋を伸ばしてその場に立つ。
すると、今度は鏡像のひとつがゆらりと蠢いて、腕を伸ばしてくる。鏡から血まみれの右手が突き出てくるのを、Xは間一髪、一歩下がることで避ける。だが、その背後からも更に手がXを引き込もうとする。
「なあ」
「なあ、おっさん」
「代わってくれよ」
「俺の代わりに、ここに」
「なあ」
「なあ……!」
辺りを取り巻くXの鏡像の一つ一つが、いつの間にか壮絶な笑みを浮かべて、X自身とは異なる動きを始めていた。その全てがXを鏡の中に引き込もうと血のしたたる右腕を伸ばしており、もはやXの逃げ場はなくなっていた。
それでも、Xは全く動じることなく、――その言葉を、唱える。
「引き上げてください」
それは、『こちら側』にいる私たちに対する合図。Xの意識体を肉体へと「引き上げる」ための。私は、既にスタンバイを済ませていたスタッフを見渡し、指示を、下す。
「すぐに引き上げて!」
エンジニアとサポートの新人が異界潜航装置を操作することで、ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。そのノイズの最中に、声が、聞こえた。
「なあ。どうして、俺が、こんな目に、」
「お疲れ様、X」
引き上げ作業は無事に済み、Xの意識は『こちら側』の肉体に戻った。寝台の上に起き上がったXは自分の右手に傷がないことを確かめるように、握ったり開いたりを繰り返している。
「……まだ痛む?」
私の問いかけに対し、Xは浅く頷いた。意識体の痛覚は、肉体に戻ってからもある程度の時が経つまで残るようで、この辺りはもう少し研究の余地があると感じている。意識体と肉体の関係性は専門ではないが、Xの円滑な運用のためには理解しておく必要がある。
「それにしても、災難だったわね。鏡の中から襲われるなんて」
もちろん相手は『異界』だ。あれがただの鏡であるとも思えなかったし、事実として鏡の中から現れたXの姿をした何者かがXの前に立ちはだかることになった。あれが一体何者だったのかは、結局わからずじまいだったけれど――。
そう思っていると、Xと目が合った。Xが何かを言わんとしていることを察して、私はXに許可を出す。Xは、私が許可をしない限り口を開こうとしないから。
Xはしばし何かを考えるように視線を彷徨わせて、それから改めて私に視線を合わせて言った。
「あれは。私と同じようなもの、だったのでは、ないでしょうか」
「あなたと同じ……?」
「私と同じように、『異界』を渡るもの。もしくは、迷い込んだ、もの」
迷い込んだ。その言葉にほとんど反射的に唾を飲んでいた。そのような現象が無いとは思っていない。むしろ、Xのような例よりも、そちらの方が大多数だと思っている。
例えば――。
「例えば、神隠し、のように」
神隠し。人間がある日忽然と消え失せる現象。昔からそのような現象は神の手によって、こことは別の世界に連れ去られたことによるもの、と捉えられてきた。そして、それがあながち的外れでもないということを、我々異界研究者は知っている。
知っているからこそ、私はこうして研究を続けているのだから。
「あの、あなたと同じ姿をしていた相手は、神隠しに遭った人間、だった……?」
「かもしれない、という、だけですが」
私は何とも言えない気分になって、寝台の上のXを見下ろす。
――なあ。どうして、俺が、こんな目に、
最後に、ノイズに混じって聞こえた声。あれは、理不尽にもあの世界に迷い込んだまま抜け出すこともできなくなってしまった者の、魂の叫びだったのだろうか。
私は何も言えなくなってしまって黙り込む。Xは確かにこちらの指示をこなそうとして、その途上で実験続行が難しいと判断して引き上げを要求した。何一つ問題はない、実験結果としても上々だ。なのに、何が引っかかっているのだろう。
いや、わかっているのだ。私は――。
すると、Xがふと、口を開いた。
「……もし。あなたが、命じるならば」
Xの、少し焦点のずれた目がこちらをひたと見据える。
「もう一度『潜航』を行い、先ほどのあれと、代わってきますが」
「まさか」
つい、声を上げてしまう。一瞬でも頭の中をよぎってしまった可能性を否定するために。
「あなたにそのようなことを命じることはないわ。安心して、X」
そうですか、と言ってそれきりXは俯いて黙り込んだ。Xの考えていることは、私にはどうにもわからない。ただ、今ばかりはこちらの迷いを見透かされた気がして、胸が激しく鳴り響いているのがわかる。
「そう、そうよ」
これは、ほとんど自分に言い聞かせるように、口を開く。
「私たちの目的はあくまで『異界』の観測よ。……今は」
「……今は?」
Xがふ、と顔を上げて問いかけてくる。私は、その真っ直ぐな視線を受け止めようとして、それでも自然と目を細めずにはいられなかった。
「ええ。今は、まだ」
そう、まだ私たちにできることは限られていて。
けれど、いつかはその向こう側に手を伸ばすだろう。それがなるべく早いことを祈りながら、私は今日も『異界』を観測するのだ。
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 08:54:43〔110日前〕 無名夜行 <5287文字> 編集
寂れた無人駅に、夕日は沈まない。
Xは何をするでもなく、ぼんやりと駅のホームの椅子に腰掛けていた。
ここが単なる無人駅でないことは、全く読めない文字の書かれた看板と、長らくそうしていてもまるで沈む気配を見せない夕日で明らかだった。そもそも、この駅にはホームの外側が存在しない。改札の向こう側には、光ひとつ射さない闇がわだかまっているだけだったから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
かくして、スピーカーが捉えるのは静寂であり、ディスプレイに映る景色も『異界』に降り立った瞬間から何一つ変化しない。
ひとたび『異界』に潜ってしまうと、私の声はXには届かない。唯一こちらからできることといえば、Xの意識を『こちら側』に「引き上げる」ことだけだ。故に『異界』内での行動は完全にXに委ねられている。
Xは極めて従順に、我々があらかじめ指示しておいた『異界』探索の手順を踏んだ。すなわち、自分が踏み込んで問題ないと判断できた範囲の目視確認だ。すると、どうもこの無人駅――に極めて近しい風景を持つ『異界』――は、ホームしか存在しないことがわかったのであった。ホームの下にあるべき線路はやはり闇に包まれていて、Xは降りるのに躊躇し、結局やめた。賢明な判断だと思う。
故に、Xはそれ以上何をするでもなく、ぼんやりと変わることのない夕焼けを眺めているのであった。普段、地下の独房と我々の研究室を行き来するだけの生活を送っているXにとっては稀有な、遮るもののない空であったのかもしれなかった。
これ以上変化がないのならば、制限時間を待たずに引き上げてしまってもよいだろうか。そう思い始めた時、不意にスピーカーに音声が混ざった。
「来ませんね、電車」
Xの視界が空から地面に落ちて、それから横に移動した。見れば、いつの間にか隣の席に一人の女性が座っていた。そう、女性だ。『こちら側』の人間と何一つ変わったようには見えない、女性。
それに、意味のある言葉を放ったのは大事なことだ。意味の判別できる言葉を投げかけてくるということは、意思疎通ができるということであり、意思疎通ができるということは『異界』の解明に大きく寄与することになる。
Xもそれを察したのだろう、『こちら側』では許可が無ければ決して開かない唇を、己の意志で開く。
「……そう、ですね」
年のころは二十代の半ばから後半といったところだろうか。女性は柔らかそうな栗色の髪を揺らして、小首を傾げてみせる。
「どうかしましたか?」
こちらからXの表情は見えない。ディスプレイに映し出されるのはXの視界だからだ。ただ、Xがよほど不審な表情をしていたらしいということは、女性の態度から明らかであった。だが、Xはすぐに首を横に振って、「何でもありません」と言ったのだった。
「あなたも、電車を待っているのですか?」
Xはすぐに話題を変えた。もしくは元に戻した、と言うべきか。女性もそれ以上追及することなく、Xの話に応じた。
「ええ。どのくらい待つかは、わからないけれど」
「時刻表もありませんでしたね」
「時刻なんて意味をなさないですからね」
「ああ……、そうみたいですね」
夕日は、相変わらず空の果てに引っかかっている。風ひとつなく、雲ひとつなく、ただ、ただ、空が赤く染まっている。時刻など意味をなさない。なるほど、そうなのかもしれなかった。少なくともこの『異界』においては。
視線を女性に戻せば、女性は自らの腹に手を当てて、大切なものに触れるかのように撫でていた。Xの視線がじっとその指先に向けられる。ほっそりとした指先が少し膨らんで見えるそこを繰り返し撫ぜて――、女性が、顔を上げる。慌ててXは女性の手から視線を逸らし、低い声を漏らす。
「……すみません。不躾でした」
Xの言葉に対し、女性は「気にしないでください」と笑う。むしろ、嬉しそうですらあった。
「やっと、動いてるのがわかるようになってきたんです」
その中には、もうひとつの命がある、ということだ。Xはその女性をどのような気持ちで見つめているのだろう。私には想像もつかない。
そう、想像もつかないのだ。何人もの人間を手にかけてきたXが、新たに生まれるであろう命を前にどのようなことを思うのかなど……、想像できるはずもない。
しかし。
「無事、生まれるといいですね」
そう言ったXの声は、ひどく優しかった。
女性は、目を見開いてXを見た。そして、次の瞬間、その目からぽろりと涙が落ちたのだった。それに驚いたのはXもだろうが、女性自身も驚いたようで、慌てた様子で涙を拭った。
「あら、ごめんなさい、わたしったら」
それから、くしゃりと笑ってみせる。今にも泣き出しそうな笑い顔だった。
「嬉しい。ありがとう、ございます」
その時、スピーカーが不意に、遠くに響く踏切の音を捉えた。かん、かん、かん、という、聞きなれた音色。そして、ゆっくりと轟音が近づいてくる。それは、本来線路があるべき場所に続いている闇を切って現れた、数両編成の電車であった。車体は、夕焼けの色を切り取ったような、赤色だった。
女性が弾かれるように椅子から立ち上がるのを、Xはどこまでもぼんやりと見つめていた。女性は不思議そうにXを振り返る。
「あなたは乗らないんですか?」
「ええ。……いいんです、私は」
女性はその一言だけで納得したらしく、ホームに滑り込んだ電車に向けて歩き出す。電車の扉が開き、その中がちらりとXの視界に映り込んだ。他に客の姿はなく、扉はこの女性ただ一人のために開かれているように、見えた。
Xはゆるりと立ち上がり、電車に乗り込んだ女性を見た。女性は屈託のない笑顔を浮かべて、Xに手を振って――。
電車の扉が、閉じる。
Xは、窓越しに手を振り続ける女性に、手を振り返す。電車が動き出して、女性の姿が流れていって。電車が遥か先の闇に溶けていっても、Xは手を振り続けていた。
かくして、意識体の引き上げ作業は無事に済んだ。
いつも『異界』への『潜航』から帰還したときにはそうであるように、Xは忘我の表情で寝台の上に横たわっていた。体中に繋がれたコードを外されながら、ぼんやりと視線が虚空を彷徨っている。
もう少し休ませた方がよいかと思いながらも、気になった点があるために、Xの横に立って、彼を見下ろす。
「発言を許可するから、答えてくれる?」
「……何でしょうか」
Xの唇から、声が漏れた。低い声。先ほどまでスピーカーから聞こえていたそれ。
「ついていこうとは、思わなかったの?」
「乗ったら、戻れなくなりそうだと思いました」
Xの回答はどこまでも淡々としていた。Xはいつもそうだ、私への問いかけにほとんど感情を差し挟まない。
「それとも、乗っていった方が、よかったでしょうか」
「いいえ。それがあなたの判断なら、構わないわ」
確かに『潜航』時、Xに繋がっている命綱がどこまで保つかはわからない。あの電車に振り切られれば、Xは二度と肉体に戻らない可能性だってあった。『異界』に潜っている間の判断をXに委ねている以上、その判断に異を唱えることは私にはできないし、文句を言う気も毛頭ない。
その上で。
「それと、もう一つ聞いていいかしら」
もう一つ。聞いてみたいことがあったのだ。こちらは、私の単なる興味本位でしかないけれど。Xが否と言わないことはわかりきっていたから、そのまま問いかける。
「あなたは、最初あの女性を見て驚いたみたいね。どうして?」
「……それは」
Xは私を見上げて、ぽつりと言った。
「昔、死んだ知り合いに似ていると思った。それだけです」
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 08:50:35〔110日前〕 無名夜行 <3757文字> 編集
かん、かん、かん、と足音を立てて階段を上っていく。
足元から激しい罵声が聞こえてくるが、言葉を聞き取ることはできない。私の知識にも、我々のデータベースにもない不可思議な言語。ただ、それが「罵声」であることはわかるし、きっと階段を上っているXも理解しているはずだ。
Xはひたすらに目の前にある階段を上る。流石に息が切れてきているのがスピーカー越しに聞こえる息遣いでわかるが、速度を落とすことはない。速度を落とせば、追いつかれることがわかっているからだろう。きっと重くなりつつあるだろう足を、次の段へと持ち上げて、上へ。ただ、上へ。
階段は螺旋状になっていて、ぐるぐると同じ場所を回り続けているような錯覚に囚われる。それでいて、確実に追い詰められているのがわかるだけに、見ているだけしかできない私も手に汗を握ってしまう。
そう、Xは追い詰められているのだ。自分がどこに向かおうとしているのかもはっきりとはわからないまま、追われるままに走り続けている以上、いつかは必ず追いつかれるという確信がある。
どのくらい、そうしていただろう。
スピーカー越しの息遣いが更に激しくなってきたところで、目の前に金属製の扉が現れた。鍵はかかっていなかったようで、Xはその扉を勢いよく開く。
すると、ごう、という風の音と共に視界が開けた。
青い、青い、空。ただ、それがただの空でないことは、ディスプレイに映し出されたXの視界でわかる。青という色を映し出した巨大なドームの屋根が目の前から頭上にかけて広がっているのだった。
Xはふらりと一歩を踏み出す。そこには少し開けた空間があって、その周囲に落下防止のフェンスが取り付けてあった。屋上、らしい。Xはつかつかと奥のフェンスに向けて歩いていく。
どうやら完全に追い詰められたようだ、と思う間もなく、激しい足音と共に扉の向こうから不思議な形の制服を着た面々が現れる。彼らの手には思い思いの武器……、と思われるものが握られている。それは警棒のようなものであったり、長い槍のようなものであったり、銃にしては歪な何かであったりした。
その内の一人がXに向かって何かを叫ぶ。もちろん、何を言っているのかはわからないが、この状況を考えると、例えば投降を呼びかけるようなものだったのかもしれない。じり、じり、と包囲がXに近づいてくるのが、Xの視界越しにわかる。
Xは彼らを視界に捉えたまま後ろに下がった。そして、ちらりと背後に目をやる。もう、フェンスに手をついている状態で、後はない。制服の面々が何かを口々に叫ぶが、Xは腕の力だけでフェンスの上に乗る。
その瞬間、わっと声を上げて制服の面々が武器をかかげて駆け寄ってくる。明らかに殺意を漲らせている彼らを前にして、Xは。
「引き上げて、ください!」
それだけを言って、フェンスを蹴った。
ディスプレイに映し出されたXの視界が上下反転して、それから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、今回Xが降り立った『異界』は、巨大なドームに覆われた都市であった。
青すぎるほどに青い「空」に見下ろされた都市には、揃いの制服を着た人々が整然と行き交っていた。その人の流れに反して酷く静かで、スピーカーの異常を疑ったほどだ。
だが、その静寂はすぐに破られることになる。Xの姿を見つけた誰かが、甲高い悲鳴を上げたことで。
もちろんXはただ降り立っただけで何をしたわけでもない。それこそ、人に話しかけようとすらしていない段階の出来事だった。普段は必要に駆られて以外にめったに声を出さないXも「え?」と間抜けな声をあげたくらいだ。
だが、道行く人たちはXを見るなり怯えた顔を浮かべ、走り去っていくのだ。Xは自分が何かおかしいのか、とばかりに自分の姿を見直す。意識体のXの服装は、いつもその時に肉体が着ている服装であり、だぼっとしたトレーナーに幅広のつくりのズボンと、ラフではあるがそこまでおかしいとは思えないものだ。……もちろん、それは「私から見て」であり、この『異界』では通用しなかったのかもしれない。
事実として、Xの姿を見た人々はことごとく逃げ出し、それからまもなく、手に武器らしきものを持ったやはり制服姿の男性が近づいてきて、Xに何事かを語り掛けてきたのだ。
だが、相手の言っている言葉がわからない。スピーカーから聞こえてくる音声をデータベースにかけてみたが、現在データベースに収録されている言語には当てはまらない、不可思議な言語。もちろんXにも通じるはずはなく、困った様子で首を傾げることしかできない。
その直後、目の前の男性が武器を振り上げて、Xを打とうとしたのだった。
Xはほとんど反射的に男性を蹴り倒し――いつもぼんやりしている割に、こういう時の判断はやたらと早い――その場から逃げ出した。だが、Xが走っている間にもあちこちから悲鳴が聞こえ、武器を手にした追っ手は増えていくばかりで。
どれだけ必死に走っても追っ手を振り切れず、追い詰められた結果が、あれだ。
「それで、引き上げが失敗したらどうするつもりだったの?」
寝台に横たわったままのXがちらりとこちらを見て、わずかに首を傾げる。その表情は相変わらず凪いでいて、感情の動きを読み取ることはできない。
Xが「墜落した」と認識する直前にXの意識体を『異界』から引き上げ、肉体に戻すことに成功しているから、Xは今こうして私の声を聞いているけれど。もし墜落した衝撃を意識で受け止めていたら、果たしてどうなっていたことか。少なくとも、まともでいられなかったのは確実だろう。
そんな私の危惧など素知らぬ顔とばかりのXに、どうにも頭が痛くなる。
Xは自分の危機に対しての感覚が妙に鈍いところがある。今回は自分から引き上げを望んだが、こちらが強制的に引き上げを行うことも少なくない。そうしなければXの意識体が保たないと判断された時だ。しかし、『異界』ではありとあらゆることが起こりうるのだ、せめてもう少し自分を守ろうとしてくれないだろうか。
「引き上げを望むなら、せめてもう少し早くして。……X? 聞いてる?」
私の問いかけに対してXが頷く。Xの自己判断を認めている『異界』の中ではともかく、『こちら側』にいる間のXは私が許可しない限り声を上げようともしない。私はやれやれと首を振り、溜息をつかずにはいられない。こういう時ばかりは、Xの従順さがいやにもどかしく感じる。
「あなたが死んでも『次』を用意すればいい。あなたはそう思っているかもしれないけれど、あなたほどの適任者はなかなかいないのよ、X」
とはいえ、Xは死刑囚だ。いつかは必ず死ぬことが定められている。ただ、それまではできる限り我々に協力していてもらいたい、とも思うのだ。
果たして、そう望むことは私のわがままであろうか。否、わがままであっても構いはしない。元よりこの研究が私のわがままそのものなのだから、今更だ。
「さあ、今日はゆっくり休んで。相当消耗しているでしょう」
Xの全身に取り付けられていたコードが外される。Xはゆっくりと起き上がって、その、ちぐはぐな色をした――少しだけ焦点のずれた不思議な目でじっと私を見つめてくる。
「何?」
Xは首を横に振って、寝台から下りる。今日はその足取りもしっかりしているから、私が心配することもないのかもしれなかったが、念のためだ。
「X、発言を許可するわ。言いたいことは言って。どんな話でも、聞くことはできる」
すると、Xは少しだけ困ったような顔をして、その唇から、低い声が漏れる。
「必要とされるのは、悪い気分じゃない、と、思っただけです」
それだけを言ったXは私に向けて深々と一礼して。扉の前で待っていた刑務官に連れられて研究室を出て行った。
私はXが横たわっていた寝台に寄りかかり、もう一つ、溜息をつく。
Xの思考はいつだって私にはよくわからない。Xは当初から多くを語らない人物であって、それは今に至っても変わらない。発言を許可したところで、ぽつぽつと応答する程度で――それのどこまでが彼の本心なのかも、わかりはしないのだ。
そう、青い空に向けて迷わず踏み切った瞬間の心の内だって。
もちろん、わかる必要などないのかもしれない。Xは我々にとってのサンプル、実験動物でありそれ以上でも以下でもないのだから。
それでも、どこか胸の中に引っかかるものを感じて、私はXが消えていった扉をじっと見つめていた。応えが返ってこないことは、わかりきっているのに。
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 08:46:23〔110日前〕 無名夜行 <4125文字> 編集
部屋の真ん中に男性の死体が転がっている。
死因は背中からナイフで一突き。ナイフは心臓にまで達していたらしく、ほとんど抵抗の痕跡もない。
そして、Xの前には五人の男性が立っている。それぞれがXを睨み、何か言いたげにしている。実際のところ、言いたいことはいくらでもあるのではないだろうか、と私は思う。それでも黙っているのは、それがこの『異界』のルールだから、なのだろうか。
Xの横に立つ、帽子を目深に被った少年が言う。
「さあ、名探偵」
この『名探偵』というのが、どうやらXのことらしい。Xは黙りこくったまま、その場に立ち尽くしている。
「事件当時、現場にいたのがこの五人です。一人ずつ、証言を聞いていきましょう。もし犯人でないのなら、正しい証言をするでしょうが……、この状況です、犯人は『必ず』嘘をつくでしょう」
少年は『必ず』という言葉を強調した。Xは相変わらず何も反応を示さない。そんなXに少年は帽子のつばを上げて怪訝な視線を向けたが、怪訝に思っているのはXも同じなのではないだろうか。
何せ、この部屋に降り立った瞬間にはこの状況だったのだから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
……そして、今回の『異界』が、これだ。
舞台は洋館の一室。窓は雨戸まで閉じられており、天井の明かりが煌々と部屋の中を照らし出している。
用意された死体は一つ。容疑者は五人。
五人は、少年の指示に従って一人ずつ発言していく。その一言一言は酷く短く、簡潔なもので。その一言ずつを少年は手元の手帳に書きとっていく。
一人目のアルファ曰く、「俺はずっとチャーリーと一緒にいたんだ、俺もチャーリーも犯人なわけがない」。
二人目のブラボー曰く、「犯人は、アルファ、チャーリー、デルタの中にいるはずです」。
三人目のチャーリー曰く、「エコーは犯人ではない……」。
四人目のデルタ曰く、「アルファ、チャーリー、エコーはずっと僕から見えるところにいたから、犯人ではないよ」。
五人目のエコー曰く、「私は知っている。アルファかブラボーのどちらかが犯人だ」。
一人が口を開いている間は、他の面々は堅く口を閉じている。まるで、そうすることが当然であるかのように。
五人の話を聞き終わった時点で、少年は再びXに向き直る。
「名探偵。……誰が犯人なのか、わかりますか?」
Xは相変わらずぼんやりとした調子で、すぐに答えることはなかった。だからだろうか、少年も、そこに待っている男性たちも、苛立ちの表情を見せつつあった。何か一つでも間違えれば、こちらがもう一つの死体になるのではないか、そんな気配に見ているこちらの方がはらはらしてくる。
やっと口を開いたXの一言は、
「なんだ」
――だった。
目を見開く少年と男性たち。Xは少年の手から手帳をひょいと取り上げ、ごくごく淡々と言葉を紡ぐ。
「単純な、論理パズル、ですね」
論理パズル。問題から論理的に考えていくことで、必ずひとつの正答を導くことのできるパズルのことだ。
「犯人が『必ず』嘘をついていて、不足ない情報が揃っていれば、簡単です」
Xは手にしていた手帳を閉じて、男性たちと正対する。
「犯人は――」
Xの目がある一点に留まった、その時。ふ、と「その男性」が動いた。その手にナイフが握られているのを目にして、思わず私は引き上げを指示しかけるが、それよりも先にXが動いていた。
手にしていた手帳を投げ出し、流れるような動きで突き出されるナイフの軌道から体を逸らし、そのまま腕を掴み取る。そして、次の瞬間には自分より遥かに大きな体を床に叩きつけていた。
「ぐ……っ!」
呻き声をあげたその人物の手から飛んだナイフが床に落ち、それをXの爪先が手の届かぬ位置に蹴り飛ばす。これ以上抵抗されないよう、腕を極めた形で静止したXは、顔を上げる。すると、少年がぱちぱちと小さな手を叩く音がスピーカーから響いてきた。
「お見事な解決です、名探偵。……さあ、お帰りはあちらです」
少年は慇懃な調子で手を扉の方に示す。そういえば、こんな扉は直前までこの部屋に存在しただろうか? 存在しなかった気がする。ここが『異界』である以上、『こちら側』のルールが通用しないのはいつものことだ。
Xはもう組み伏せた男性が動かないとみて腕から手を離し、少年に向き直る。
「ひとつ、質問して、よいですか」
「何でしょう?」
「もし、今、私が刺されていたら。もしくは、正答を出すのに失敗していたら。どうなっていた、のでしょうか」
少年は、軽く肩を竦めて、視線をついと横に向ける。
そこには、――一つの死体が、転がっていた。
Xの引き上げ作業に異常はなし。
肉体に意識体を収め、起き上がったXと向き合う。
「しかし、あなたが『名探偵』とはね」
Xは連続殺人の罪で死刑を言い渡された、正真正銘の「犯人」だ。何とも皮肉な話ではないか。
「発言を許可するわ。今回の『異界』について、あなたの所感を聞かせてくれる?」
私の言葉に、Xは少しだけ考えるような仕草をした後に、ゆっくりと口を開いた。
「『必ず』嘘をつくなら、もしくは『必ず』嘘をつかないなら、いいのですが。……実際には、人は恣意的に嘘をつきます。もしくは、嘘だとわからないままに、嘘をつくことも、ありますよね」
Xが言わんとしていることがわからなくて、私は首を傾げてしまう。Xも自分が何を言おうとしているのかよくわかっていないのか、「あー」と彼には珍しく意味のない声を出してから言った。
「世の中、先ほどの『異界』のように、もう少しシンプルならいいなと、思ったんです。もし、そうだったなら」
「そうだったなら?」
「……私は、ここまで、罪を犯さずに、済んだのかもしれない、なんて」
私は。
Xが何故、こうなってしまうまで罪を重ねてしまったのかを、知らない。
Xはこうなるまでに――片手の指では数えきれないだけの人数を殺害するまでにどれだけの嘘をついてきたのだろう。そして、その中で暴かれた嘘と暴かれなかった嘘はどれだけあったのだろう。私には、想像することもできずにいる。
私の沈黙をどう受け取ったのか、Xは目を細め、俯いて首を横に振った。
「冗談ですよ」
――ただ、一つだけはっきりしているのは。
「冗談というのは嘘ね」
「……わかりますか」
「あなた、嘘は下手そうだもの。冗談もね」
なるほど、と。そう言ったXは、ほんの少しだけ……、笑ったようにも、見えた。
by admin. ⌚2024年7月31日(水) 10:16:44〔113日前〕 無名夜行 <3283文字> 編集
Xの瞼が開かれる。
目の前に広がっていたのは、人でごった返す交差点だった。辺りを見回してみれば、交差点の只中に立ち尽くしていたのだと気付く。立ち尽くすXの肩に誰かがぶつかって、舌打ちと共に早足に歩き去っていく。
そうしているうちに、横断歩道の向こう側にある歩行者用信号がちかちかと点滅し、Xは慌てて交差点を渡りきる。次の瞬間には信号が赤に変わり、一瞬前まで人が歩いていたそこを車がものすごいスピードで通過し始める。スピーカーから響く、トラックが目の前を走り抜ける轟音。
Xの視界を映し出すディスプレイは、広い道の向こうにビルが立ち並ぶ風景を切り取っている。どこかに似ているようで、それでいて私の知る土地ではない。スタッフには『こちら側』の風景との同定を進めるように指示し、視線をディスプレイに戻す。
Xは、しばしぼんやりと走り去る車を見つめていたが、やがて動き出した。とはいえあてがあるわけでもないらしく、どこか頼りない足取りで、人波の只中を行く。その「人」も我々の知る人と何一つ変わらず、周りから聞こえる声も我々の知っている言葉で。
ここが本当に『異界』なのかと、疑うほどの『異界』であった。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
ただ、今回の『異界』はその言葉から想像される風景とはまた異なる光景を我々に見せていた。極めて『こちら側』によく似た景色。けれど、それはXの肉体から離れた意識体が見ている光景だということは間違いないことだった。
Xは人の流れに揉まれるようにしながら歩いていく。歩いても歩いても風景はさほど変わりなく、ビル群とごった返す大勢の人。車道には無数の車が行き交っており、その誰もが自分の目的のために動いているのだろう、異質なはずのXには見向きもしない。もしくはXが異質に見えていないのか。この世界のありさまからすると、後者の可能性が高いとは思う。
あらかじめXに我々が課している指示は、「できるかぎり自分の目と耳で『異界』の状況を確かめる」ことであり、Xはいつも従順に私たちの指示を果たそうとする。今もそうで、歩きながらも絶えず辺りを見回すことで『異界』の風景を私たちに伝えている。
もちろん、『こちら側』によく似た『異界』は極端に珍しいものではない。むしろ、我々からアクセスできる『異界』にはそのような『異界』の方が多いかもしれない。並行世界、それは『こちら側』に最も近い『異界』である、というのが我々の間における通説だ。
ただ、『こちら側』と「よく似ている」だけで、何かが異なる可能性は否定できない。注視する必要はあるだろう。
――と、思った、その時であった。
突然、スピーカーからサイレンが鳴り響いた。消防車のそれに似ていたが、遥かに圧のある音の合間に、女性の声が繰り返し告げる内容は、このようなものであった。
『第三種危険生物が接近中。市民の皆様、慌てずに避難行動を行ってください』
……その意味を理解するよりも先に、ディスプレイに映る世界が一変した。
人々が急にうねるように一方向に向けて流れ出したのだ。その流れに乗り遅れる形になったXは、辺りの罵声や悲鳴を聞きながら、その場に取り残される。車の流れもいつの間にか止まっていて、車から降りた人々が「避難」と呼ぶべき行動を始めていた。
そして、波が引くように人の姿が街から消える。否、それでも完全に消えているわけではなかった。Xと同じように取り残された人間がぽつぽつと辺りに見えていて、Xはそのうちの一人――歩道の端に腰を抜かして倒れていた、年配の女性の腕を取る。
「大丈夫ですか?」
Xは女性の体を支えて立たせてやる。女性は震えながらも、何とか自分の足で立ち上がってXに礼を言う。
「ありがとう、助かったよ。さあ、早く逃げようじゃないか」
「逃げるって、何からですか?」
Xの言葉に、腰の曲がった女性はちいさな目を丸くしてXを見上げた。
「……お兄さん、何処から来たんだい? 怪獣を知らないなんて」
「怪獣?」
あまりに現実味のない言葉――確かにここは自分の生きている「現実」とは別の世界なのだが――にXが間の抜けた声を上げたとき、上空を何かがよぎったのが、道路に落ちる影でわかった。鳥ではない。鳥にしては巨大すぎる、何か。
「ああ、早く逃げるんだよ!」
女性が慌ててXの手を引く。Xは女性の身体を支えて、足並みを揃えて進んでいく。少し進んだところに「避難所」と書かれた分厚い扉の建造物が存在しており、その扉を開いたところで女性は立ち止まった。
「本当にありがとうよ。さあ、入ろう」
「いえ」
Xは首を横に振った。
私がXの顔を見ることはできない。私が観測することができるのは、Xの「視界」だけだからだ。けれど、何となくわかった。Xは、うっすらと、唇を歪めたのだろう、と。
「まだ、外に数人、残っていました」
「ちょっと、お兄さん!」
呼び止める声にも構わず、そっと、女性の肩を押して避難所の中に導いてから、Xは扉を閉める。
そして、駆け出す。次に倒れていたのは若い男性だった。あの怒涛の人波の中で怪我をしたのか、片足を押さえて道路の上に倒れ込んでいる。
「立てますか。手をこちらに」
「お、おう……、ありがとう」
膝をつき、男性の手を引いて、肩にかけさせる。そして、男性の体重を体全体に乗せるようにして立ち上がる。
「避難所はすぐそこですから。頑張ってください」
Xは彼には珍しく、ことさら明るい声で言った。男性を不安にさせないように、だろう。だが、男性は怯えた顔を隠しもせずに辺りをきょろきょろと見渡している。
先ほどから、スピーカーにはサイレンの音の中に奇妙な音が混ざるようになっていた。それが何なのかわからぬままに男性を引きずりながら歩いていると、一際大きな影が地面に落ちたのが、見て、とれた。
「き、来た!」
男性が悲鳴を放つ。Xが見上げれば、ビル群に切り取られた青い空を背景に、翼を持った、蜥蜴めいた生物――怪獣と呼ばれていたそれ――がまっすぐこちらに向かって落ちてくるのがわかった。
それは人ひとりなど簡単に飲み込めるほどに大きな口を開く。サイレンに混ざっていた異音と共に、ぼたぼたと口から涎が地面に落ちる。それは酸を含んでいるのか、落ちた場所から白い煙が立つ。
「ひえ……っ」
「せめて、建物の中まで逃げれば……!」
Xは男性を抱えなおして走り出す。だが、足を怪我した男性を連れてでは、どうしたって速度は出ない。建物の入り口まであと数歩というところで、Xが振り返る。既に怪獣は目の前にまで迫り、二人に向けて爪のついた腕を振り上げていて――。
「引き上げて!」
私の命令と、その腕が振り下ろされるのはほとんど同時だった。
ディスプレイとスピーカーにノイズが走り、それから。
結論から言えば、引き上げは問題なく成功した。
Xの意識は『異界』から肉体と意識体を繋ぐ命綱によって無事に引き上げられた。意識体にダメージがなかったことも、エンジニアとドクターによって確認されている。ぎりぎり私の指示が間に合ったということだ。
「X」
Xは寝台の上に腰かけ、俯いたまま沈思している。もしくは何かを言おうとして、ただ「許可されていない」から発言しないだけなのかもしれなかった。Xは、私が許可するまで発言をしない。別にこれは私が指示したわけではなく、長い囚人生活で身についた「処世術」であるらしかった。
その上で私は、正直これを口に出していいものか迷ったが、しかし率直に伝えた方がいいと判断し、口を開く。
「あなたが助けても助けなくても、おそらくあの人は助からなかったわ」
Xがぱっと顔を上げる。言葉にしなくても、その目に非難の色が混ざっているのは私にもわかった。とはいえ、Xにしても、自分がやろうとしていたことの意味がわからないわけでもなかったのだろう、すぐにまた俯いた。
「発言を許可するわ。言いたいことがあれば言っていいのよ」
私の言葉に、Xは俯いたまま低い声で呟いた。
「わかっては、います。あれでは、私も、彼も、助かりませんでした」
「わかっていても、手を離さなかったわね」
Xもわかっていたはずだ。もし、怪獣を目視した時点で手を離していれば。あの男性を見捨てて逃げていれば。Xだけ逃げ延びることは、不可能ではなかったはずだ。
それでも。
「見捨てられません」
Xはきっぱりと言い切ってみせるのだ。
「それが、無駄なことになろうとも。そうせずには、いられませんでした」
「そう」
こういうやり取りをするたびに、私は、Xという人物がわからなくなる。
その手で多くの人を殺してきながら、同じ手で人を救おうとする。そうすることに何一つ疑いも迷いも無いということ自体がXの異常性なのかもしれなかった。
ただ、私はそういうXのことを、おそらく不愉快には思っていないのだと思う。
だからだろうか。ほとんど無意識に、
「……あなたは、正しいことをしたわ」
そんな言葉が口をついて出て。
Xはきょとんと目を見開いて、それからほんの少しだけ、強張った表情を緩めて言った。
「そうだと、いいですね」
by admin. ⌚2024年7月30日(火) 05:57:50〔114日前〕 無名夜行 <4387文字> 編集
闇に包まれた森の中、柔らかな明かりがあちこちに灯っている。
Xの嗅覚を我々が共有することはできないが、おそらく植物特有の香りを捉えているに違いない。いつかは嗅覚も再現できるようになればいい、とは思うが、エンジニアの意向により後回しになり続けていることを思う。
そんな暗い空間で、鳥のような頭の、しらじらとした二足歩行の生物が腕に当たる部分に不思議な光の入ったランプを提げ、ゆっくりと一方向に向けて歩いていく。その只中に『潜航』したXは、鳥頭の生物たちが歩いていく方向を見つめていた。
すると、ディスプレイに映し出されているXの視界が少し下がる。見れば、一般的にさして高いとはいえないXの背丈よりも頭ひとつふたつほど低い背丈の鳥頭が、ひとつのランプをXに差し出していた。
「……私に?」
Xの唇から、低い声が漏れたのがスピーカー越しに聞こえた。鳥頭は、意味の取れない音のようなものを立てて、ランプをぐいとXに押し付けてくる。熱は感じないらしく、Xは腹でランプを受け止めて、恐る恐るといった様子でそれを手にする。
一体どのような仕組みで光っているのだろう、ディスプレイに映し出された情報だけで察することはできない。そして間近で見ているXにも判断できなかったに違いない、目の前にかざしてみたり、軽く振ってみたりするが、光は消えることなく柔らかく辺りを照らし続けている。
Xは少し逡巡してから、ランプを片手に一歩を踏み出す。枝と下草を踏む音がスピーカーからわずかに響く。
ざわざわと、人ではないものの声にならないざわめきに満ちた『異界』において、Xは一点に向けて歩き出す。鳥頭の生物たちが、向かう先へ。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今日の『異界』は闇に包まれた深い森。完全な暗闇ではなく、辺りに灯る不思議な明かりが道を示している。Xも踏み固められたそこを歩き続ける。周囲の鳥頭の生物たちは歩くXを物珍しそうに見上げたり、もしくはXなど存在しないかのように他の鳥頭とぺちゃくちゃ知らない言葉で喋り続けていたりと、反応は様々だ。
Xは周囲の歩幅に合わせるように、ゆっくりとしたペースで足を進める。森の景色はいたって単調で、辺りを取り巻く闇は深い。それでも、Xと鳥頭たちが手にしたランプの明かりが決して道を見失わせない。幾重にも重なり合う影が、足下で揺れているのをディスプレイ越しに見るともなしに眺める。
ざわり、ざわり。Xを取り巻く鳥頭の行進は続いていく。どこまでも、どこまでも。Xの他に「ひと」らしきものは見えず、ただただ皆一様に見えるしらじらとした鳥頭だけが暗闇に揺れている。
一体、この行進はいつまで続くのだろう。『異界』にいるXに我々の声は届かない。できることは、目には見えない命綱を手繰ってXを『こちら側』に引き上げることだけだ。故に、『異界』において全ての行動はXの判断に委ねられている。『潜航』の制限時間内は、Xが引き上げを合図しない限り――もしくはこちらで緊急事態だと判断しない限り、引き上げは行われない。そして、Xはまだこの行進を続ける気であるらしい。
ゆっくりと、行列は動いていく。もしくは、動いているようで静止しているのか。そう錯覚するくらい、変わり映えのない風景。辺りを取り巻く鳥頭たちが皆同じ顔をしているのも、そう思わせる要因かもしれない。
その時、不意にこちらを見上げていた鳥頭が、嘴を開いた。そこから零れ落ちるのは声と表現していいのかもわからない音の羅列。それに対して、Xはランプを翳したままぽつりと声を落とす。
「 」
それは。
私には、言葉とは到底思えない、音の羅列。
次の瞬間、Xも自らが何を言ったのか気付いたのだろう。口を自らの手で押さえようとした……が、ディスプレイに映りこんだその手が妙にしらじらとした、そう、目の前でこちらを見上げる鳥頭と同じ指をしていたことに、気付く。
Xの声が、スピーカー越しに響く。
「 、 」
だが、それはどうにも意味をなさなくて、私の背筋にも冷たいものが伝う。
ああ、そうだ、私もおかしいと思ったのだ。
目の前の――そして周囲の鳥頭は、こんなに大きかっただろうか?
それとも、『Xが縮んでいる』のか?
Xは足を止めた。すると、同時に鳥頭たちの行列も足を止める。そして、今までこちらに無関心であったはずの無機質な目が、一斉にXに向けられるのを、見た。見てしまった。
ざわり。Xを取り巻く輪が、一歩、狭まる。その間にも、Xの目の前に翳した手が形を変えていく。もしくは、Xの全身が、姿を――。
「……っ、『引き上げて』、『ください』!」
それは、今度こそ私たちにもはっきりとわかる言葉で放たれた、Xの合図だった。
私は場のスタッフたちを見渡して、準備が完了していることを確かめて命じる。
「すぐに引き上げて!」
目には見えない命綱が巻き上げられる。ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。
「引き上げシーケンス、クリア」
「意識体、肉体への帰還を確認」
スタッフの声が聞こえるのとほとんど同時に、寝台に横たわっているXの体がびくりと跳ね、ぱくぱくと口を開いて二、三回深く呼吸をしたところでやっと我に返ったのだろう、ゆっくりと瞼を開く。
繋がれていたコードが外され、スタッフたちの視線を受けながら、Xはもう一度深呼吸をして上体を起こす。手錠に繋がれた両手を握って、開いて。その手の感触を確かめているように、見えた。
「大丈夫?」
イエスとノーで答えられる質問に対しては、Xは首の一振りで答えられるが、私の問いかけに対してXはどちらとも答えはしなかった。ただ、寝台の上に腰かけてぼんやりと自分の手を見つめ続けている。
「X」
彼のサンプルとしての記号を呼びかけたところで、Xはやっと顔を上げた。
「発言を許可するわ。何があったの?」
「……はい。と言っても、私にも、何が起こったのかは、わかりません。『見ての通り』だとしか、言いようがなく」
見ての通り。
確かに私もディスプレイの上で、Xの形が変わろうとしていたのを目にした。意識体とはいえ、Xにとっては自らの肉体が変容するのと同じ感覚を伴っていたに違いない。故に、『こちら側』の肉体と意識が合一した今、その感覚の差異に戸惑っているようにも見えた。
「そう。私たちは得られたデータの解析を行うわ。その間、あなたはゆっくり休んで」
他のサンプルを選出してもよいが、Xほどの従順なサンプルはそういない、というのが我々プロジェクトメンバーの共通見解だ。故に、Xが我を失うようなことは、可能な限り避けたいところだった。
Xはひとつ頷くと寝台から下りようとして、足を床についたところで激しい音を立てて倒れ込んだ。X自身、自分が何故倒れたのかわからなかったのか、目を見開いてぱちぱちと激しく瞬きしている。
まだ、意識と肉体との感覚が一致していないのかもしれない。私はXの前に膝をつき、手錠に繋がれた手に触れる。
「……大丈夫じゃなさそうね。立てる?」
Xの手が、探るように、確かめるように、私の手を握る。その手が思ったよりもずっと温かくて、思わずXを見つめてしまう。Xは私の手を頼りに立ち上がろうとするが、思ったように動けないのかもぞもぞと床の上を這うばかり。
「リーダー、ここは俺たちが」
スタッフが二人がかりでXの体を支えたことで、Xの手が私から離れた。Xは不思議そうに目を瞬かせていたが、やっと足の感覚を取り戻したのか、自分の足で立ち上がることができたようで、頼りない足取りながらも一歩ずつ歩みを進める。
そして、研究室の入口で待っていた刑務官が、Xの腕をほとんど捻るように取り上げる。Xは慣れ切ってしまっているのか、顔色一つ変えなかったけれど。
「行くぞ」
Xは刑務官に引きずられるようにして、研究室を後にする。その際に、何か言葉を残すことはしなかった。元より、許可されなければ口の一つも利こうとしないのだから、当然とも言えたが。
私は、つい、先ほどXに触れた手を握って、開く。Xがそうしていたように。
そうすることで、何が変わるわけでもない。そういえば、自分からXの体に触れたのはこれが初めてだったのだと、気付いただけで。
by admin. ⌚2024年7月30日(火) 05:57:21〔114日前〕 無名夜行 <4014文字> 編集
寝台の上に横たわるXの体がびくりと跳ねる。
「Xの生体反応は?」
問いかけに対し、医療スタッフたるドクターの「問題ない」という答えに安堵する。元より「使い捨て」のサンプルなのだから死なれても問題にならないとはいえ、上への言い訳には苦労するし、Xと同等以上の良質なサンプルを選出するのも億劫だ。
Xの肉体のあちこちから延びるコードは、研究室の中央に鎮座まします潜航装置に繋がっている。そして、潜航装置に接続されたディスプレイには、Xが「見ている」はずの光景が映し出されている――はずなのだが、映し出されている風景は暗闇に包まれていて、光ひとつ見えない。スピーカーから音声も届いてこない。
接続異常だろうか、とスタッフ一同で首を傾げるが、全く同じ条件下で前回は『異界』の光景が確かに映し出されていたのだ、単なる異常とも考えづらい。
故に私はスタッフたちに命じる。
「続けて」
――『異界』。
ここではないいずこか、|此岸《しがん》に対する|彼岸《ひがん》、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
しかし――。
びくり、びくりと、打ちあげられた魚のように、不随意にXの体が跳ね続ける。
……これは、まずいかもしれない。
横たわったままのXの唇から漏れ出すのは、低い呻き。それはすぐに咆哮に変わった。画面は依然暗く、音声も聞こえないまま。だが、それを「『異界』に潜っているXが感じ続けている」のだとしたら。
スタッフたちが顔を見合わせ、そして私を見る。Xを『こちら側』に引き戻すかどうかは私の判断一つだ。今日の『潜航』は極めて短時間になってしまったが、この状態を続けても何も情報は得られないと判断し、命令を下す。
「終了よ。引き上げて」
私の言葉はすぐに行動へと移される。Xの意識は目には見えない『異界』から『こちら側』へ、これもまた目には見えない命綱によって引き上げられる。この命綱は肉体と意識とを結びつけているもので、まだXが「生きている」証左でもある。
「引き上げを完了」
「意識体、肉体への帰還を確認」
潜航装置を操作するスタッフの声と同時にXはもう一度びくりと震え、それからゆっくりと閉じていた瞼を開き、眩しそうに目を細めてみせた。
「気分はどう?」
私の問いに、Xは応える代わりに目を瞬いてみせた。先ほどまで鬼気迫る表情で叫んでいたとは思えない、穏やかで凪いだ顔をしていた。
そして、天井辺りを彷徨っていたXの目の焦点が私に合わせられる。どうも、何か言いたげにこちらを見上げるXだったが、その唇は開かない。そこまで来て、やっと「私の許可」を待っているのだと気づいた。Xはこのプロジェクトにおいて極めて従順なサンプルだ。従順すぎるほどに。
「発言を許可するわ。状況を報告してくれる?」
はい、と。掠れた声が漏れた。
「……何も、見えません、でした」
「そうみたいね。こちらからも何も見えなかった」
「何も見えず、聞こえず、自分の手足が、どこにあるのかも、わからなくて」
取り付けられたコードを外されながら、Xはぼんやりと虚空に視線をやって、言う。
「そうしているうちに、声を上げても、自分の声が聞こえなくなりました。……いえ、声だけではなくて。あったはずの、手足の感覚もなくなってきて、自分が散り散りになるような感覚に、襲われて」
微かに、Xの肩が震えたのがわかった。それでも、Xはそれ以上の動揺を面に出すことなく、上体を起こして私を見上げるのだ。
「申し訳ありません。……それ以上のことは、わからなくて」
「いいのよ。今回の『異界』はあなたに耐えられるものではなかったということがわかっただけでも十分」
そして、それはほとんどの人間に耐えられるものではない、ということでもある。心もとない命綱ひとつで『異界』を潜り抜いてきたXの感覚は確かだと私は思っている。そのXがここまで怯えた様子を見せるのは、今までになかったことだ。
ただ、Xがわずかに震えたのは何も『異界』の恐怖に呑まれたから、というだけでもなさそうだった。
「どうかしたの?」
Xは「いえ」と首を横に振り、それから、思い直したのか目を伏せて言う。
「死、という感覚は、ああいう感じなのかな、と、思いまして」
「さあ。それとも、聞いてみる? いつか会えるかもしれないわよ、あなたが殺してきた人たちにも」
此岸と彼岸、長らく空想のものと考えられてきた土地、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが『異界』なのだとするならば、「『こちら側』で失われたもの」と出会う可能性だって零ではない、というのが我々の仮説だ。
しかし、Xは私をじっと見上げて、それからゆるゆると首を振った。
「考えたくは、ないですね」
「それは、どういう意味で?」
「死の向こう側は、無でないと。殺した意味が、なくなってしまいます」
ぽつり、と。落とした言葉は冷え冷えとしていて、私の背筋までぞくりとする。
Xは殺人に対する罪悪感を完全に欠いている、というのが周囲の評価であり、私もその評価は間違ってはいないのだろうと思う。だから、どれだけ私に従順であろうともその手首には今もなお手錠が嵌められているし、いつか必ず死という名の刑が下される。
この『異界』への旅とて、死と隣り合わせの非人道な実験だ。最初から私はXにそう言い聞かせている。
それを理解していながら、今日もXは穏やかに、淡々と言葉を続ける。
「そう、死とは、あの暗闇のように、何もかもが散り散りになって、闇に溶けて、二度と浮かび上がれないようで、あってほしいなと。思いまして」
その言葉は、どこか憧れのような感情を抱いているようにも聞こえて。
私は目を細めてXを見やる。
「あなたに、そんな安らかな終わりが来ると思う?」
私の問いかけに、Xはこくん、と首を傾げて。
「まさか」
と、うっすら口元を歪めた。
by admin. ⌚2024年7月30日(火) 05:53:44〔114日前〕 無名夜行 <3007文字> 編集
その『異界』は、全てが影でできていた。
黄昏時を思わせる空を背景に、立ち並ぶ建物は全てがのっぺりとした影の色。道行く人々も全て影で描かれており、それが幻なのか実体なのかも定かではない。
Xはその中の一人に語り掛けようとしたが、立ち止まりすらしない。次の人も、そのまた次の人も。Xの声が聞こえていないどころか姿すら見えていないのか、すっとXの前を行き過ぎて、道の先を行く影に混ざって消えていってしまうのであった。
これにはXも途方に暮れたのか、そばにあった街灯に寄りかかる。街灯の柱は凹凸も感じられない質感ながら、Xの体重を受け止めてそこにあり続けている。
空はゆるやかに色を変え始めていた。赤みを帯びたそれから、闇へ。すると、シルエットの街灯からどういう仕組みかはわからないが柔らかな光が放たれる。いくつかの影は闇に紛れ、いくつかの影は街灯の明かりに浮かび上がる。空に星はなく、建物と同じようにのっぺりとした闇だけがそこにある。
そんな中で、Xだけが影に紛れることなく、立体感を持った「人」としてそこにあるようだった。Xは自分の目の前に手を翳し、その存在感を確かめる。『異界』によっては、自分の存在までもが『異界』に侵食されるようなこともあるから。
いつの間にか人影も絶えていて、辺りは酷く静かになっていた。いや、元から静かではあったのだ。影の人々に声や足音はなかったから。ただ、動くものが視界に見えなくなったことで、聴覚以外の部分が「静かだ」と感じ取っていた。
その時、不意にディスプレイの端で何かが動いたように見えた。Xもそれに気づいたのか、そちらに視線を向けて――目を見開く。
ゆっくりとこちらに向かって歩んでくるのは、影の人ではなく、Xと同じような「人」だった。闇に溶け込むようなドレスを身に纏い、尖った帽子の下から同じ色の黒髪を伸ばした女性は、高らかにヒールの足音を響かせながらこちらに歩んできて、人形のような白い面に笑みを浮かべた。
「あら、ごきげんよう。こんなところで『ひと』に会うなんて、久しぶりね」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そして、『異界』――今まさに私がディスプレイ越しに見ている影絵の街において、Xの行動はX自身に委ねられている。故に、この、女性に見える『異界』の存在に対して、Xがどういう行動を起こすのかを観測しなければならない。
Xは女性をしばし観察していたようだが、やがて口を開く。
「ごきげんよう。私や、あなたのような『ひと』は珍しいのです?」
「あら、あなた、知らないでここにいるの?」
「初めて訪れた場所です。……ここについては、何も知らなくて」
発見した『異界』に対して、事前にXが「存在できる」場所かどうかのチェックは行うが――場所が海の底や空の上だったとしたら、いくら意識体とはいえそれを「現実」と判断した脳が焼き付きかねない――、それ以上の観測はXの『潜航』を待つことになる。故に、常にXは「どこかもわからない」場所に潜ることになる。
けれど、女性はそんなXの言葉を「信じられない」という顔で聞いて、それからくすくすと笑ってみせる。
「随分行き当たりばったりなのね」
「そうかも、しれません」
「それでも世界を渡ることができるんだから、私と同じで、普通の人ではないわよね。あなた、何者なのかしら?」
「何者、と言われても。そう言うあなたこそ、何者ですか?」
逆に問い返されて、女性は「あら」と笑みを深める。
「わからない? それとも『わからないようなところ』から来たのかしら?」
女性は黒いドレスの裾を翻してみせる。先が尖った帽子の色も闇に溶けそうな黒。それらが意味するところを、私はおとぎ話の中でしか知らない。街灯の明かりの中で、闇を切り取ったような女性の姿をしばしぼんやり眺めていたXは、ぽつりと答えた。
「……『魔女』、ですか?」
それは、まさしく私の頭の中に浮かんだ言葉とそっくり同じものだった。女性はその答えを聞いて、満足そうに頷いてみせる。
「魔女を見るのは初めて? おとぎ話だけの存在だと思ってた?」
否、おとぎ話というのは現実の側面を切り取っている。神隠しが現実のものであるように、魔女の存在もまた、古くから語られ続けているだけの理由があるはずだ。そして、こうして『異界』を渡り歩く存在がXの他に存在するのは当然だとも思う。それでも、実際に目にすると驚きが勝るというものだ。
「取得できるだけの情報を取得して」
スタッフに指示を下して、私はディスプレイとスピーカーに集中する。
Xは女性の言葉に少しだけ首を傾げてみせながら、言う。
「おとぎ話だけではない、とは思っていましたよ。ずっと」
「そう。まあいいわ、それであなたはどうやって世界を渡ってきたのかしら。その口ぶりだと、わからずに迷い込んだってわけではなさそうだし」
「……そういう、装置があるんです。まだ、実験段階ですが」
わずかな逡巡は、自分の状況を語っていいものか迷ったことによるものだろう。私は禁じてはいないけれど、それは「語る機会がない」と思っていたからだ。これからはその可能性を考慮する必要があるだろう。
ともあれ、魔女だという女性は「へえ」と目を見開いて、驚きの表情を作ってみせる。
「ひとの世も進んだものね。魔法でもなく、こんな場所まで辿り着けるなんて」
「ここが、どのような場所か、ご存知なのですか?」
「ええ、もちろん」
魔女は帽子の位置を直してみせながら、すらすらと言葉を紡いでいく。それは、どこか歌うようですらあった。
「ここは世界の影。どこかにひとつの世界があるなら、必ずその世界には影が落ちる。光と影、表と裏、現と夢、そういう関係と言えばいいかしら。だから、表側の存在であるあなたとこの世界の者たちが交わることはないわ」
「……なるほど?」
今のは絶対に理解していない時の「なるほど」だな、と私にはわかった。Xはわかったような顔をしながら時々さっぱり何もわかっていないことがある。魔女にもそれが伝わったのか、顔に浮かんでいた笑みが苦笑に変わる。
「あなた、何だかとぼけた人ね」
「そうですかね」
Xは相変わらずのぼんやりした調子で、見ているこちらが気勢を削がれてしまう。その時、スピーカーから聞えてくる音声に猫の鳴き声が混ざった。ディスプレイをよくよく見てみれば、影になっていた部分からそこに溶け込みそうな黒猫がひょこりと光の中に歩み出したところだった。Xの視線も、魔女の視線もその黒猫へと移される。
「あら、もう行かなきゃだわ」
「どちらへ?」
「こことは、別の世界へ。これでも忙しい身なの」
魔女はにこりと微笑み、足元までやってきた猫をよいしょ、と抱え上げる。それから、Xに向き直って言う。
「そうね。別れる前にひとつ、魔法をかけてあげる。あなたの道行きを、祝福する魔法」
と、言って、魔女は一歩Xに近づくように踏み出して。空いた片手をこちらに差し出し、Xの顔の辺りに持ち上げて……、すぐに、引っ込める。魔女の整った顔が少しだけ歪められて、それから何かを納得したような表情に変わる。
「と、思ったけど、やめておくわ」
「何故?」
「あなたから、他の女の匂いがするから。妬かれたら面倒だもの」
「他の女の匂い、ですか……?」
Xが不思議そうな声を上げるけれど、魔女は自分の中で納得できる答えを既に見つけているのだろう。それ以上言及することはなく、黒いドレスを翻してXに背を向け、ちらりとこちらを振り向いてみせる。
「それじゃあね、旅人さん。また、どこかの世界で会えたら嬉しいわ」
それも妬かれてしまうかしら、なんて付け加えて。魔女は猫を抱いたまま、街灯の明かりの外、闇の中に溶けていく。ヒールの高らかな足音と共に、にゃーん、という鳴き声が響いて……、やがて、それも遠ざかっていった。
Xは魔女の気配が完全に消えるまで、彼女が消えていった方向をじっと見つめていた。影の世界には静寂が戻り、Xの呼吸の音だけがスピーカーからわずかに漏れ聞こえるだけだった。
結局、影の『異界』ではそれ以上の収穫はなかった。
「お疲れ様、X」
自分の肉体に戻ってきたXは感覚を確かめるように手首や足首をぶらぶらさせていたが、私が声をかけるとこちらに焦点のずれた視線を向けてきた。
「今回の『潜航』は面白いものが見られたわね。魔女……、世界を渡る者と出会えたのは大きな一歩だと思うわ」
そう、『異界』そのものからの収穫はともかく、世界を渡る存在を観測できたのは確かな収穫であったと言えるだろう。魔女だと言っていた彼女についてもう少し知ることができれば、『異界』への『潜航』の効率化や、新たな『潜航』方法の確立に繋がっていくのではないだろうか。
「けれど、彼女、別れ際に気になることを言っていたわね」
魔女はXに魔法をかけようとした。曰く「道行きを祝福する魔法」。けれど、その途中で突然「他の女の匂いがする」という奇妙な理由でやめてしまったのだった。正直に言えば、魔女の魔法というものをこの目で確かめたくはあった。Xにどのような影響が出るかはわからなかったが、元よりそういうイレギュラーな影響も加味した上でXを異界潜航サンプルとして運用しているのだから。
果たしてあの時、魔女はXから何を感じ取ったのだろう?
「発言を許可するわ。心当たりはある?」
「……今は、あなたくらいしか、付き合いはありません」
それはそうだ。このプロジェクトで現状Xと直接付き合っている「女」は私一人だ。男女比に他意はなく、偶然この場に集まったスタッフがそう、というだけなのだが。
だが、別にXに魔法をかけようとも何をしようとも「妬く」ような関係性ではない。むしろいくらでもやってくれていい、とすら思っているのだから。だとしたら、もう一つ質問を加えてみることにする。
「あなた、『今は』って言ったけど、過去に何かあった?」
「大したことでは、ないですよ」
「大したことかを決めるのは私であって、あなたではないわ」
それはそうですね、とXは少し俯き加減に、彼には珍しくどこか苦いものを噛みしめるような面持ちになって、言う。
「いましたよ、一人。……思いを寄せる、ひとが」
常日頃から、心を動かすということに縁遠そうなXが「思いを寄せる」という言葉を使ったことに驚きを覚えずにはいられなかった。もちろん、その人生のうち、思いを寄せた人の一人や二人いてもおかしくない、とは思うのだが――。
「つまり、そのひとに妬かれるということ?」
「ありえませんよ」
私の仮定を、Xはばさりと切り捨てた。それから、手錠をしたままの手で顔を覆って、けれど私が思うよりもずっとはっきりとした声で、こう、言った。
「彼女は、もう、どこにも、いませんから」