幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

月下のヒーロー
 大きな、あまりにも大きすぎる月が空に浮かんでいる。
 月の光に照らされて浮かび上がるのは、観覧車やジェットコースターといった遊具施設だ。月明かりの遊園地。それが今回の『異界』の姿であった。
 遊園地を行き交うのは、無数のシルエット。何故か月明かりを浴びてもシルエット以上の情報が伝わることのない人々が、さざめきと共にXの視界――ディスプレイの中を行きかっている。
 そして、どこか調子外れのBGMを聞きながら、Xはその場に立ち尽くしていた。このきらびやかな光景を前にして、一体何を思うのだろう。私には想像もつかない。
 やがてXは歩き出す。シルエットの人々の中で、唯一色と明確な形を持っているXを、しかし人々が見とがめることはない。もしくは彼らから見たらXも同じように見えているのかもしれない。
 並ぶ遊具には目もくれず、Xはふらふらと歩いていく。影の人波を縫って歩いていると、突然、人々が群がっている場所を見つけた。よくよく見れば、奥にはステージが設えられており、やはりシルエット姿の何者かがその上に立っているのが、かろうじてわかる。
 Xの声が、ステージの看板に書かれている文字列を読み取る。
「ヒーローショー……」
 そこにいるのは、罪なき人々を脅かす悪の手先を懲らしめる、まさしく子供が夢見る正義の味方なのだろうが、ディスプレイに映るのはあくまでシルエットでしかなく、ステージに上っているどれがヒーローでどれが敵役なのかもわかったものではない。
 Xはショーに集まる人々の輪から一歩離れた場所に立って、人々の頭の間からかろうじて見えるステージをぼんやりと眺める。響く音声は、ヒーローが今まさに敵に追いつめられていることを告げている。
 その時、不意にXの視界がステージから足元に向けられる。見れば、Xの側に小さな子ども――と思しきシルエットが、Xの服の裾を掴んでいた。他の子どもたちは大人のシルエットと一緒にいるだけに、たった一人でいるというのは違和感が強い。それは現実もこの『異界』も変わらないようだった。
 小さな指でXの服の裾を握りしめ、子どものシルエットは少年の声で言う。
「あの、僕のお父さんとお母さんを、知りませんか」
「いえ、知りませんが……、迷子ですか?」
「はい。はぐれてしまって」
 少年は思ったよりもずっとしっかりした、落ち着いた口調で言った。きっとXは戸惑いの表情を浮かべたに違いないが、それでもすぐに少年の手を握って言った。
「誰かに、報せた方がいい、ですね。行きましょう」
「あっ、待ってください」
 少年が、Xの手を引く。Xがそちらを見れば、シルエットの少年は躊躇いがちに、ステージを指さした。
「最後まで見てからでも、いいですか」
 果たして、Xがどのような表情をしたのか私にはわからない。わからなかったけれど、もしかすると彼には珍しく笑ったのかもしれなかった。微かな笑みの気配を言葉に乗せて、言う。
「いいですよ。……ああ、これでは、よく見えませんよね」
 Xは視線をぐっと下げて、少年に手で何かを指し示したようだった。少年はちょっと躊躇ったようだったが、恐る恐るXの肩に両足をかけて座ったのがわかった。Xはそのまま少年を肩車して持ち上げる。
「わ……っ」
 頭上から少年の歓声が聞こえる。
「見えますか?」
「はい! ありがとう、ございます」
 弾む声を聞きながら、Xもまたステージに目を向ける。音声は、追いつめられていたはずのヒーローが逆転し、敵に必殺技を放つところであった。その時、わずかにディスプレイの視界が狭まったのは、Xが目を細めたからに違いなかった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 そして、遊園地の『異界』に降り立ったXは、シルエットの少年と向かい合っていた。
「ありがとうございました、おじさん!」
 少年の声は喜びに上ずったものであった。Xも感謝されるのはそう悪い気分でもなかったのだろう、「どういたしまして」と言う声は彼らしくもなく明るい。
「しかし、やはり、ご両親は見つかりませんね。係の人に、報せましょう」
 Xがそう言ってその場を離れようとすると、少年が再びXの手を引いた。Xがそちらを見たところで、少年の表情は影になってしまっていて表情を判ずることはできない。ただ、俯いているのだろうということは、少年の仕草から何となくわかる。
「どうしましたか?」
 Xはしゃがんで少年に視線を合わせる。少年は一拍の後に、ぽつりと言った。
「僕、捨てられたのかもしれません」
「え?」
「僕のお父さんとお母さん、本当のお父さんとお母さんじゃ、なくて」
 だから、きっと、邪魔になってしまったのです、と。少年はぽつりぽつりと言葉を落とす。その声は今にも泣き出しそうで、Xの戸惑いがディスプレイからも伝わってくる。それはそうだろう、見ているだけのこちらも戸惑うくらいなのだから。
 Xは、しばらく少年をじっと見つめていたようだったが、やがて少年の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「本当じゃないからといって、邪魔になっているとは、限りませんよ」
「そう、ですか?」
「もちろん、私は君のご両親を知らないので、本当のところはわかりません。けれど、確かめる前から、そう決めつけてしまうのは、おかしいのではないでしょうか。違いますか?」
 普段になく、Xは饒舌であった。相手が年端のいかない子どもだということもあるのだろうが、彼がここまで丁寧に言葉を尽くそうとしているところを見るのは、めったにないことだ。
 少年は、しばしXを見つめた――のだと、思う。シルエットの顔から読み取れる情報はあまりにも少ない。Xが少年の顔を覗き込むと、少年はXの手をぎゅっと強く握りしめて、言ったのだ。
「……邪魔じゃないと、いいな」
 Xはその手を握り返すことで、少年の声に応えた。俯き気味だった少年の顔がぱっと上げられて、それからことさら明るい声で言った。
「おじさん、あと一か所だけ、付き合ってもらえますか?」
「いいですが……、どちらに?」
「僕、観覧車に乗りたいんです」
 
 
 観覧車は遊園地の中心に位置していた。
 大きな月を背景に浮かび上がって見える観覧車はあまりにも巨大だった。Xは影の少年を連れて、観覧車に乗りこむ。係員によって籠の扉が閉ざされて、ゆっくり、ゆっくりと視界が持ち上がっていく。
 この『異界』には、どうやら遊園地しか存在しないらしく、色とりどりの明かりに満たされた遊園地の外はどこまでも広い闇が広がっている。それでも、少年は窓に張り付いて眼下に広がる光景を見つめている。
 Xは眼下に広がる光景よりも、よっぽど影の少年に気を取られているようで、じっと少年の後ろ姿を見つめていた。すると、少年が窓の外を見つめたまま声を上げる。
「ありがとうございます、おじさん。楽しい思い出ができました」
「ならよかった。けど、一緒にいるのが、私でいいのでしょうか」
「いいんです。僕、おじさんに会えて、よかったです」
 Xは、その言葉に一体何を思ったのだろう。不意に、少年の肩に手をかけた。少年がこちらを振り向く。
「おじさん?」
「私も、君に会えてよかったと、思います」
 Xの片方の手が少年の肩から首へと移動する。少年がびくりと震えるのにも構わず、Xは少年の首筋をつぅと撫ぜる。
「君は、……ヒーローは、好きですか?」
「は、はい」
 少年は、Xの手の動きに気を取られたのだろう、逡巡の後に頷いた。Xは少年の首から手を動かさないまま、少年をじっと見つめて質問を重ねていく。
「ヒーローになりたい、と、思ったことは、ありますか?」
「はい。なりたい、です」
「なら、どんなヒーローに、なりたいですか?」
 私にはXの質問の意図がわからない。『異界』における判断は全てXに委ねられているとはいえ、今まではほとんどの場合、Xの行動の意図は明瞭であった。だからだろうか、妙に落ち着かない心地になる。自分は今、何を見せられているのだろう?
 それでも少年は、はきはきとXの質問に答える。
「強いヒーローになりたいです。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
 少年の声は、どこまでも凛としていた。背筋をぴんと伸ばし、こちらに手を伸ばすXの視線を真っ直ぐに受け止めて。Xは果たしてそんな少年の言葉をどのように受け止めたのだろう。数拍の空隙ののちに、ぽつりと言った。
「やっぱり、そういうことか」
 え、と。少年の不思議そうな声が聞こえた。Xはもう一度、丁寧に少年の首筋を撫ぜたかと思うとゆるりとその手を下ろして、言った。
「いつか、私を倒しに来てくださいね、未来のヒーロー」
「おじさん?」
 少年の疑問符に、Xは答えなかった。そのまま、二人を乗せた籠は地面まで下りてゆく。係員が扉を開き、Xは少年の手を引いて籠を降りる。すると、少年がぱっと弾かれるように顔を上げた。
 Xが少年の視線を追えば、二つのシルエットが、こちらに向けて駆けてくるところだった。その慌てふためいた様子は影しか見えなくても明らかだ。少年はそんな二人の影をじっと見つめたまま、言葉を落とす。
「お父さん、お母さん」
「ほら。君は、邪魔なんかじゃない」
 うん、と頷いた少年の背を、Xはゆっくりと押した。少年は一歩、二歩と、両親の方へと歩いていく。母親が少年の名前を呼んだようだったが、それはよく聞こえなかった。否、Xが耳を塞いだのだと、一拍遅れて気づいた。
「……X?」
 私の声はもちろんXには届かない。Xは耳を塞いだまま、きっぱりと言った。
「引き上げてください」
 それは。Xが探索の限界を感じた時の呪文。私は刹那、迷った。まだ制限時間は半分以上残っており、この遊園地の探索は十分とはいえない。それに、何より、Xが危機に陥っているわけでもない。
 それでも、Xは「引き上げてほしい」と望んでいる――。
「引き上げて」
 結局、私はXの言葉を受け入れて、Xの意識を肉体へと引き上げる作業が始まる。Xの視界を移すディスプレイにノイズが走り、映像が途絶える寸前。両親と一緒になった影の少年がこちらを振り向いた、気がした。
 
 
 引き上げ作業は問題なく終了し、Xは凪いだ表情で寝台の上に腰かけている。Xの表情から考えていることを正確に読み取るのは難しい。ただ、今回ばかりは、何故だろう、いつもと同じ表情のはずなのに、妙にちりちりとした気配を感じ取っている。
「X。……どうして引き上げを望んだの」
 発言を許可した上での質問に、Xは視線だけをこちらに向けて、口を開く。
「どうしてでしょう。私にも、よくわかりません」
「何か変よ、X。あなたらしくもない」
「私、らしく?」
 Xの目がわずかに見開かれる。はっきり言ってこれは私の失言だ。私が「らしさ」を語ることなどできやしない。連続殺人を犯した死刑囚である、ということ以外にXがどのような人間なのかを知らないまま「運用している」私には。
 しかし、Xはことさら私を責めることもせず、視線を切って言う。
「そう、ですね。最低限の役目すら、こなせないようでは、サンプル失格ですね」
「そうは言っていないわ。ただ、あなたが探索を放棄するのは珍しいって話。あの少年に、何か思うことでもあった?」
 Xの態度はあのシルエットの少年と出会ってから明らかにおかしくなったように見えたし、X自身それには自覚的だったのだろう。「そうですね」ともう一度言って、手で己の首をさする。あの少年にそうしてみせたように。
「結局、私は倒されずに、ここにいます」
「どういうこと?」
「ヒーローなんていない。……あの少年も、いつかは気づく日が来るのかなと」
 それとも、気付かないまま走り続けてしまうのかな、と。
 Xはそれだけを言って、口を噤んだ。
 私はXの言いたいことを理解することはできない。Xは時折そういう側面を見せる。自らの言い分に自分自身で勝手に納得してしまう、ような。
 だから、私は何もわからないまま、浮かび上がった問いを投げかけることしかできない。
「あなたにも、あの少年のように、ヒーローに憧れる頃があったの?」
「ええ。強いヒーローになりたかった。どんな悪にも負けない、強い、強いヒーローに」
 Xは少年の口ぶりを真似てそう言って――それから、表情をわずかに歪めた。
「だから。彼には、間違って欲しくないな、と、思っただけです」

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