幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

夕焼けに待つ
 寂れた無人駅に、夕日は沈まない。
 Xは何をするでもなく、ぼんやりと駅のホームの椅子に腰掛けていた。
 ここが単なる無人駅でないことは、全く読めない文字の書かれた看板と、長らくそうしていてもまるで沈む気配を見せない夕日で明らかだった。そもそも、この駅にはホームの外側が存在しない。改札の向こう側には、光ひとつ射さない闇がわだかまっているだけだったから。
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 
 
 かくして、スピーカーが捉えるのは静寂であり、ディスプレイに映る景色も『異界』に降り立った瞬間から何一つ変化しない。
 ひとたび『異界』に潜ってしまうと、私の声はXには届かない。唯一こちらからできることといえば、Xの意識を『こちら側』に「引き上げる」ことだけだ。故に『異界』内での行動は完全にXに委ねられている。
 Xは極めて従順に、我々があらかじめ指示しておいた『異界』探索の手順を踏んだ。すなわち、自分が踏み込んで問題ないと判断できた範囲の目視確認だ。すると、どうもこの無人駅――に極めて近しい風景を持つ『異界』――は、ホームしか存在しないことがわかったのであった。ホームの下にあるべき線路はやはり闇に包まれていて、Xは降りるのに躊躇し、結局やめた。賢明な判断だと思う。
 故に、Xはそれ以上何をするでもなく、ぼんやりと変わることのない夕焼けを眺めているのであった。普段、地下の独房と我々の研究室を行き来するだけの生活を送っているXにとっては稀有な、遮るもののない空であったのかもしれなかった。
 これ以上変化がないのならば、制限時間を待たずに引き上げてしまってもよいだろうか。そう思い始めた時、不意にスピーカーに音声が混ざった。
「来ませんね、電車」
 Xの視界が空から地面に落ちて、それから横に移動した。見れば、いつの間にか隣の席に一人の女性が座っていた。そう、女性だ。『こちら側』の人間と何一つ変わったようには見えない、女性。
 それに、意味のある言葉を放ったのは大事なことだ。意味の判別できる言葉を投げかけてくるということは、意思疎通ができるということであり、意思疎通ができるということは『異界』の解明に大きく寄与することになる。
 Xもそれを察したのだろう、『こちら側』では許可が無ければ決して開かない唇を、己の意志で開く。
「……そう、ですね」
 年のころは二十代の半ばから後半といったところだろうか。女性は柔らかそうな栗色の髪を揺らして、小首を傾げてみせる。
「どうかしましたか?」
 こちらからXの表情は見えない。ディスプレイに映し出されるのはXの視界だからだ。ただ、Xがよほど不審な表情をしていたらしいということは、女性の態度から明らかであった。だが、Xはすぐに首を横に振って、「何でもありません」と言ったのだった。
「あなたも、電車を待っているのですか?」
 Xはすぐに話題を変えた。もしくは元に戻した、と言うべきか。女性もそれ以上追及することなく、Xの話に応じた。
「ええ。どのくらい待つかは、わからないけれど」
「時刻表もありませんでしたね」
「時刻なんて意味をなさないですからね」
「ああ……、そうみたいですね」
 夕日は、相変わらず空の果てに引っかかっている。風ひとつなく、雲ひとつなく、ただ、ただ、空が赤く染まっている。時刻など意味をなさない。なるほど、そうなのかもしれなかった。少なくともこの『異界』においては。
 視線を女性に戻せば、女性は自らの腹に手を当てて、大切なものに触れるかのように撫でていた。Xの視線がじっとその指先に向けられる。ほっそりとした指先が少し膨らんで見えるそこを繰り返し撫ぜて――、女性が、顔を上げる。慌ててXは女性の手から視線を逸らし、低い声を漏らす。
「……すみません。不躾でした」
 Xの言葉に対し、女性は「気にしないでください」と笑う。むしろ、嬉しそうですらあった。
「やっと、動いてるのがわかるようになってきたんです」
 その中には、もうひとつの命がある、ということだ。Xはその女性をどのような気持ちで見つめているのだろう。私には想像もつかない。
 そう、想像もつかないのだ。何人もの人間を手にかけてきたXが、新たに生まれるであろう命を前にどのようなことを思うのかなど……、想像できるはずもない。
 しかし。
「無事、生まれるといいですね」
 そう言ったXの声は、ひどく優しかった。
 女性は、目を見開いてXを見た。そして、次の瞬間、その目からぽろりと涙が落ちたのだった。それに驚いたのはXもだろうが、女性自身も驚いたようで、慌てた様子で涙を拭った。
「あら、ごめんなさい、わたしったら」
 それから、くしゃりと笑ってみせる。今にも泣き出しそうな笑い顔だった。
「嬉しい。ありがとう、ございます」
 その時、スピーカーが不意に、遠くに響く踏切の音を捉えた。かん、かん、かん、という、聞きなれた音色。そして、ゆっくりと轟音が近づいてくる。それは、本来線路があるべき場所に続いている闇を切って現れた、数両編成の電車であった。車体は、夕焼けの色を切り取ったような、赤色だった。
 女性が弾かれるように椅子から立ち上がるのを、Xはどこまでもぼんやりと見つめていた。女性は不思議そうにXを振り返る。
「あなたは乗らないんですか?」
「ええ。……いいんです、私は」
 女性はその一言だけで納得したらしく、ホームに滑り込んだ電車に向けて歩き出す。電車の扉が開き、その中がちらりとXの視界に映り込んだ。他に客の姿はなく、扉はこの女性ただ一人のために開かれているように、見えた。
 Xはゆるりと立ち上がり、電車に乗り込んだ女性を見た。女性は屈託のない笑顔を浮かべて、Xに手を振って――。
 電車の扉が、閉じる。
 Xは、窓越しに手を振り続ける女性に、手を振り返す。電車が動き出して、女性の姿が流れていって。電車が遥か先の闇に溶けていっても、Xは手を振り続けていた。
 
 
 かくして、意識体の引き上げ作業は無事に済んだ。
 いつも『異界』への『潜航』から帰還したときにはそうであるように、Xは忘我の表情で寝台の上に横たわっていた。体中に繋がれたコードを外されながら、ぼんやりと視線が虚空を彷徨っている。
 もう少し休ませた方がよいかと思いながらも、気になった点があるために、Xの横に立って、彼を見下ろす。
「発言を許可するから、答えてくれる?」
「……何でしょうか」
 Xの唇から、声が漏れた。低い声。先ほどまでスピーカーから聞こえていたそれ。
「ついていこうとは、思わなかったの?」
「乗ったら、戻れなくなりそうだと思いました」
 Xの回答はどこまでも淡々としていた。Xはいつもそうだ、私への問いかけにほとんど感情を差し挟まない。
「それとも、乗っていった方が、よかったでしょうか」
「いいえ。それがあなたの判断なら、構わないわ」
 確かに『潜航』時、Xに繋がっている命綱がどこまで保つかはわからない。あの電車に振り切られれば、Xは二度と肉体に戻らない可能性だってあった。『異界』に潜っている間の判断をXに委ねている以上、その判断に異を唱えることは私にはできないし、文句を言う気も毛頭ない。
 その上で。
「それと、もう一つ聞いていいかしら」
 もう一つ。聞いてみたいことがあったのだ。こちらは、私の単なる興味本位でしかないけれど。Xが否と言わないことはわかりきっていたから、そのまま問いかける。
「あなたは、最初あの女性を見て驚いたみたいね。どうして?」
「……それは」
 Xは私を見上げて、ぽつりと言った。
「昔、死んだ知り合いに似ていると思った。それだけです」

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