巨大な筒状の容器から、うっすら虹色に煌めく不定形の物質が吸い出される。その状態では何ともつかない物質は、機械によって引き伸ばされることで細い繊維となり、それらの繊維が撚り合わされることでひとつの糸になる。
機械によって生み出された虹色の糸は糸巻きに巻き取られていき、ひとつの糸巻きが満ちると別の機械に吸い込まれる。その機械が具体的に何をしているのかはわからないが、二つ目の機械の先にはいくつもの細いレーンが用意されていて、それぞれのレーンに選り分けられた糸が流れていく。
そうして無数のレーンの先に用意されている刃を持つ機械が、特定のペースで糸を切断し、切断された糸が更に奥にある管に次々と吸い込まれていく。
その、一連の様子を、Xはじっと見つめていた。
飽きもせずに。
――『異界』。
ここではないどこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手に入れた我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
「退屈ではありませんか?」
スピーカーから、機械の立てる規則正しい音とは異なる「声」が聞こえてきて、Xは機械から視線をずらし、背後に立っていた一人の若い女性に向けた。女性は作業服に身を包んでおり、おそらくこの工場の作業員なのだろう、ということは想像がついた。
Xは、ワンテンポ遅れて返答する。
「いえ。とても、興味深いと、思います」
「こういう機械、お好きなのですか」
「そうですね。……機能的なものは、好ましいと、思います」
Xが立っているのは、一連の機械が見下ろせる、天井から吊り下げられた通路の上だった。『異界』に降り立ったときに別の女性作業員から声をかけられ、「見学者」としてここに案内されたのだった。
世界は無数に存在し、その姿もそれぞれである。そして、我々が観測できる『異界』はあくまでXの目と耳が捉えたもののみである――異界潜航装置の仕組み上当然のことではあるのだが、『こちら側』の工場機械とそう変わらないそれらの変わり映えのしない動きを延々と見せられていると、流石にちょっと見ているこちらが眠くなる。
しかし、Xにとってこの単調な動きと音色は心地よいものであるらしく、Xの視線はまた機械に戻された。
「これは、……糸を、作っているのですか?」
「はい。元々は私たちが手作業で作っていたのですが、需要が高まったことで、私たちの手では限界になってしまって。それで、このように」
「なるほど」
確かにどこからどう見ても糸の生産なのだが、この糸が「何」からできていて、どこへ行こうとしているのかはいくら機械を見ていてもわからない。あくまでこの場に存在するのは、糸を作り、選り分け、切断する機械でしかない。
規則正しい音色に耳を傾けていたのかもしれない、しばしの沈黙の後、Xは再び口を開いた。
「この糸は、何に使われるんですか?」
「申し訳ありません、それは機密事項でして」
「そうですか。しかし、それだけ大事なもの、ということですね」
機密、というのはそういうことだ。Xがここ以外の場所に案内されていないのも、これ以上のものを見せるわけにはいかない、という意図があるのかもしれない。
大事なもの、という言葉に作業着の女性は深く頷いてみせる。
「なので、当初は機械に任せると言ったところ、周囲から猛反発を受けました。手の温もりや手作りだからこその揺らぎ、そういうものが失われるのではないか、と。それは、提供先の信頼を損ねることになるのではないか、と」
「……しかし、それは、手を動かさない者の考えでしょう」
女性の言葉に、Xは改めて女性に向き直り、ゆっくりと、しかし妙に熱のこもった言い方で言う。
「機械だから温もりがない、なんてことは、無いと思うのです。……手を、動かしていたあなた方が、顧客のためになる、と実行に移した、それ自体に意味があると考えます」
それは、確かに顧客への「思い」であり、伝わる「温もり」ではないでしょうか、と。いつになく饒舌にXは言う。
Xは我々の前では許可しない限り口を開かないが、ひとたび口を開けば決して無口というわけではない。が、このように己の意見をはっきりと言葉にするのは極めて珍しい。
そして、女性もXの言葉を意外に思ったのだろう、目をぱちぱちさせて、それから嬉しそうに微笑んでみせた。
「ありがとうございます、きっと、そう言っていただけると、姉妹たちも喜びます」
女性は視線を眼下の機械――その傍らに立っている、また別の女性に向ける。目深に帽子を被り、流れていく糸の様子をじっと見つめ、時折流れる糸を取り除いているその人は、どうやら彼女の「姉妹」であるらしかった。
……あるいは、最初にXを案内した女性も、今は姿が見えないが彼女の「姉妹」なのかもしれない。そんな想像が脳裏をよぎる。
糸を扱う機械は巨大だが、生きたものの気配はこの場にいるXと説明してくれている女性、そして機械の傍らにいる女性の気配しかない。ただただ、糸が生み出され、選り分けられ、切断される。それだけの動きが延々と繰り返される中で。
Xはそれきり口を閉ざし、一連の動きをただただ観測していた。
かくして、タイムリミットと共に、Xの意識が『異界』から『こちら側』に引き上げられる。
本当に、最初から最後まで、時折質疑応答を挟みながらも工場機械を眺めているだけで、それ以上に何が起こるわけでもなかった。
淡々と生み出され、どこかに消えていく糸の姿がディスプレイを眺め続けた私の目にも焼き付いてしまっている。何なら新人に至っては机に突っ伏して寝ていたところを、サブリーダーに叩き起こされている。
もちろん、『異界』では『潜航』するまで何が起こるかはわからず、つまり何も起こらないこともあり、ただ景色を眺めるばかりのケースだって今までに存在はしたのだが……。
「X、発言を許可するけれど、今回の『異界』、何か感想はある?」
「……感想、ですか」
寝台の上に上体を起こしたXが、低い声で言う。
「いい、仕事ぶりでした。自動化された工程は、気持ちがよいものです」
普段通りの無表情、淡々とした口ぶりではあるが、その目はいつになくきらきらと輝いて見える。退屈な時間を過ごした我々の一方で、Xはいたくあの機械が気に入っていたようだ。
「あなたが、あの手の機械を好むのは意外だったわね……」
いや、明確な「好み」を表明するのは意外だったが、Xの好み自体は理解できなくもないのだ。
彼がとにかく「目的において最も効果的な手段」を好むということは、今までの『潜航』でも散々思い知らされてきた。基本的にはいたって善良で不毛な争いを嫌う人格だが、しかし場合によっては躊躇いなく「非道」とも受け取れる手段を選択できる、そういうところがXにはある。
故に、今回のような、必要に駆られて導入された量産化の機械はXの趣味に極めて合致しているということなのだろう。あと、単純に機械の挙動を眺めているのが好き、というのもありそうだ。最適化された動作は、確かに心地よいものだ。……それを、延々と眺めていられる精神はXに特有なものだと思うが。
「しかし、あれは、結局、何に使われるもの、だったのでしょう」
Xがぽつぽつと言葉を落としながら、ほんの少しだけ、首を傾げてみせる。糸の行方は機密事項なのだ、と『異界』の女性は言っていたが――。
「実は、心当たりが、無いわけじゃないんだけど……」
「わかる、のですか?」
「Xは知らないかもしれないけど、『こちら側』に、有名な伝承があるのよ。糸の形で我々の運命を決める『運命の三女神』というのだけど」
ギリシア神話のモイラ、あるいはローマ神話のパルカと呼ばれる三姉妹の女神。
彼女たちは「糸を紡ぐ」 「糸を計る」そして「糸を切る」ことで人の寿命を定めるといわれ、「運命の三女神」と呼ばれている。
かの『異界』の機械も、不可思議な物質を糸の形に紡ぎ上げ、それを無数のレーンに分類した後に、決まった長さで断ち切るという三つの工程で成り立っていた。そして、あの場には、「姉妹」であるらしい三人の女性しかいなかった。
当然ながら、『異界』の事象が全て『こちら側』の論理で説明できるとは思っていないが、同時に『こちら側』の伝承が『異界』と一致する事象は、今までの『潜航』でも幾度も確認されてきた。
「つまり、あの糸は、私たちの寿命、だったと?」
「そう。もしかすると、世界の人口増加に伴って、手作業じゃ足りなくなってしまったのかもしれないわね」
そうして、彼女たちの手に余る我々人間の命は、今や延々と動き続けるあの機械に託されている――。
しかし、これもあくまで私の想像にすぎず、我々はどこまでもXの目と耳で観測した内容からしか『異界』を知ることはできない、ということを思い知るばかりなのだった。
無名夜行