無名夜行

書を焼くものは

 燃える焚き火から、灰色の煙が立ち上っていた。
 ばさり、と音を立てて、一冊の本が焚き火に投げ込まれる。紙に火が点けば、燃え上がるのは一瞬のことだった。
 一冊、もう一冊、と地面に積んだ本をくべていた男性が、視線に気づいたのだろう、顔を上げてこちら――Xを見た。
「こんにちは」
 男性は美しい顔立ちをしているが、白い頬は煤で汚れている。Xを見ているようで、ここではない遥か遠くを見ているかのような目が特徴的だった。
「こんにちは」
 スピーカー越しに、Xの低い声が聞こえると同時に、男性に向けて歩み寄ったらしい。一歩分、距離が縮まったのがディスプレイから見て取れる。
「何を、しているのですか?」
「本を焼いているのさ」
 言いながら、男性は手にした本をもう一冊焚き火に投げ込む。煌びやかな装飾を施された表紙を持つ分厚い本であったが、それが炎に包まれようとも気にした様子もない。
 いや、その横顔からは、晴れやかさすらも感じられる。
「これらは、何の本ですか」
 置かれた本に視線を向けても、躍る文字は私も知らないもの。我々が保持しているデータベースに照合をかけても『こちら側』には存在しない文字、という結果が出るに違いない。『異界』では、言葉が通じているようでも『こちら側』とはまるで異なる言語を使っている、と考えられることが数多く、今回もその例に漏れないといえよう。
 男がまた、本を取り上げる。
「これはこの国の歴史の本だね。こちらが先代の王が記した遠征の記録の本。他にも色々さ」
「どれもこれも、大切な記録に、思われますが」
 それでも焼くのですね、と言うXは、どこか不思議そうであった。私のような「本の虫」と呼ぶべき人種は、本が火にかけられる様子を見るだけで背筋がぞくりとするが、Xの声は男性を責めるでもなく、ただ純粋な「不思議」を表明していた。
 だから、だろうか。男性もXに対しては警戒を見せずに、口元の微笑みを深めてみせる。
「君は、大切だと思うかい?」
「そうですね。人の記憶は、絶対ではありません。時に擦り切れ、時には嘘をつきます。当人にその気が無くとも」
 Xは、ぽつぽつと言葉を重ねていく。
 記憶とは極めてあやふやで、容易に変質する。存在しない記憶を「あった」かのように植え付けることがそう難しくないことは、既にいくつもの実験により証明されていたはずだ。
「だから、記録というものがある、と考えます。単に記すだけでは記憶と変わりませんが、それが他者に見られ、確かめられることで記録となる。そして、記録した当人が失われても、記録は残り続ける。後から、過去を、確かめることができる」
 それは、当事者の内側にしかない「記憶」とは全く性質が異なるものであり、人が人と共に生きる社会では無くてはならない手続きでしょう、とXは言う。
 Xは基本言葉少なだが、このような「知識」に属する分野に言及する際は、意外なほどの饒舌さを発揮することがある。我々の前で口を閉ざしているのは、あくまで彼自身が「求められない限り語らない」を徹底しているからに過ぎない、ということを改めて思い知らされる。
 男性は、Xの言葉のひとつひとつに小さく顎を引き、Xが語り終えたところで「そうだね」と一際深く頷いてみせた。
「記録がなければ、過去から現在までを繋ぐことはできない。……だからこそ」
 焼かねばならないんだ、と、男性はきっぱり言い切った。
「それは、どういうことですか」
「ここまで来た君ならば、わかるだろう。この国は、根深い病に冒されている」
 語る男性に、Xが返したのは沈黙だったが、男性の言いたいことはXにも理解はできていたはずだ。Xの視界を映すディスプレイ越しに観測しているに過ぎない私にだって、その言葉の意味がわかるのだから。
「我が国は土地に恵まれていなくてね。代々の王は国外から恵みを奪うことで発展してきた。彼らは英雄と呼ばれ、国民は誰もが英雄たる王を信奉していた。だが、徐々に外の国々も力をつけ、攻め入るのも難しくなり、国も民も疲弊していった。今となっては、都市は機能を失い、見ての通り、王城に残る兵もごく僅かとなってしまった」
 そう、Xが立っているのはこの国の「王城」であるはずの場所だった。石造りの立派な城ではあったが、酷くがらんとしていて、汚れも雨漏りも全てがそのまま放置されており、ろくに人の手が入っていないということは一目でわかった。
 人の姿の見えない回廊を歩んで辿り着いた、野放図に育つ木々や草花に囲まれた中庭で、焚き火に本を投げ込んでいたのがこの男性だった。
「これまで、どうすることも、できなかったのですか」
 Xに、男性は肩を竦める。
「私なりに手は尽くしたよ。だが、無理だ。国に力が無いのもあるが、何より、民こそが過去にしがみついていてね。いつか英雄たる王が現れ、かつての恵みと栄光を取り戻すだろう、と」
 それは、と言いかけた口を閉じるX。自分が言っていいことではない、と考えたに違いない。ただ、「都合のいい考えだ」という感想は私だって抱く。とはいえ、状況を正しく評価できない程度には彼らの世界と視野は狭く、同時に我々とて我々の物差しでしか物事を判断できない以上、別の世界に生きる彼らに何を言えるわけでもない。
 かくして、男性は、積んだ本を次々火にくべていく。
「だから、過去を一回焼き尽くさねばならないんだ。記録が失われれば、誰も、過去を確かめられなくなる」
 かつて恵みをもたらした英雄も。遠い日の栄光も。全て、全て、炎が葬ってくれる。
 そう、男性は言った。
「しかし、それは、必ずしも全てが失われることを、意味しないのでは?」
 Xの言うとおり、記録は何も書物の形を取るとは限らない。文字を持たない民族の間では、過去の事物が口伝という形で綿々と語り継がれていることだって数多い。
 しかし、男性は首を横に振る。
「君の故郷では違うかもしれないが、少なくとも『ここ』では、記録は書物の形を取る。記憶を書物に記すことで、人の頭の中から切り離された記録が『事実』として初めて成立する」
 だから、と。
 男性は、地面の上に無造作に置いてあった最後の一冊を取り上げる。今まで火にくべられていた本よりも新しく見える、革張りの表紙に書かれた文字は、もちろん読めない、が――。
「これは、当代の王について記した書物の、最後の一冊でね。これで、この国に『王』がいた事実は完全に消失する」
 そこから先のことは誰にもわからない、と、男性は笑う。
 もちろん、Xも、私も、知ることはできないだろう。『異界』への『潜航』はどこまでも一期一会、一つの『異界』に留まれる時間には制限があり、二度同じ『異界』に潜ることは難しい。
 故に、この男性の行動の帰結を知ることはない、が。
「では、旅の方」
 男性の目が、Xを向く。
「さようならだ」
 最後の一冊が、炎の中に投じられたその瞬間、男性の姿がかき消えた。
 燃えさかる炎の中で、当代の王が「いた」記録だけが、ただ煙を立ち上らせていた。
 
 
   *   *   *
 
 
「本を焼く、という行為を実際に見せられるとぞっとするものね。『こちら側』とは随分趣が異なってはいたとはいえ、ね」
「焚書、という言葉もあります、よね」
「ええ。焚書という言葉は『焚書坑儒』という、古代中国の秦代に起こった思想弾圧から来ているのだけど、書物を焼き捨てることで文化や思想を否定する、一種の見せしめね。書物の公開処刑、なんて言い方もあるくらい」
「一九三三年、ナチス・ドイツで焚書が行われた、という話は、私も、記憶しています」
「この前も思ったけど、第二次大戦前後くらいから急に歴史的な話ができるようになるのよね、あなた」
「それより前になると、……その、イメージが、しづらくて」
「でも、学生時代に歴史は一通り学んでいるのよね?」
「はい。学んだ当時は問題なく記憶していたと思います。社会科の試験は得意でした」
「あなたって本来、ものを覚えること自体は得意そうだものね」
「ただ、ほとんど、すぐ忘れてしまって」
「それって、自分にとって、必要だと感じたものとそれ以外を無意識に分別して、整理しているのかも。最適化、と言い換えてもいいのかもしれない。情報を絞って、思考をクリアにする、ってことだものね」
「…………」
「どうしたの、X?」
「いえ、私の、忘れっぽさを、肯定的に受け止められたのは、初めてだったので。少し、驚いた、だけです」