無名夜行

デフラグメンテーション

「こんにちは、旅の方。我が社が誇る癒しの時間を体験してみませんか?」
 そんな胡散臭い呼びかけに、しかしXは律儀に足を止めた。『異界』の事物を可能な限り観測せよ、というタスクを愚直にこなすXは、もちろんかけられた声を無視することはない。
 声をかけてきた白衣姿の人物は、どうもXがこの『異界』の外側からやってきたことを把握しているようで、彼らにとって別世界の存在は、そう珍しくないものとみえた。
 そして、Xに「最新の休息施設」を体験してもらいたいのだという。忙しく働くあなたのために、短時間かつお手軽に心身をすっきりさせましょう、という宣伝文句なのだとか。
 見ての通り金銭などの対価となるものは全く持ち合わせていないのですが、と、ゆったりとしたズボンのポケットをわざわざひっくり返してみせるXに、白衣の人物は快活に笑ってみせた。
「対価など必要ありません、強いて言えばあなたの体験が未来のお客様への宣伝という対価になるでしょうか。例えば、あなたの目を通してこちらを覗いている皆々様とか、ね?」
 かくして、白衣の人物に案内されたXは、つるりとした白いカプセルの前に立つ。
 すると、傍目には継ぎ目ひとつないように見えたカプセルの一部が横にスライドし、その中身をXに見せる。
 表面と同じくつるりとした内側の壁が突き出して座面となった椅子が一つ。椅子の前には人の背丈ほどの鏡がひとつ。
「さあさあ、どうぞお入りください」
 どこからか親しげな声が呼びかけてくる。Xはぺたぺたとカプセルの壁面の感触を確かめながら、椅子に腰掛ける。
 鏡に映るのは、髪を短く刈った冴えない面構えの男性、つまりX自身の姿だ。
 Xはしばしきょろきょろと辺りを見渡していたが、やがて開いていた入り口が閉まり、狭いカプセルの中にXひとりが閉じ込められる形になる。上を見ても下を見ても明かりらしきものは見えないが、壁面そのものが発光しているのか、壁とXを映す鏡はXの視界を通してはっきりとディスプレイ越しに見て取れる。
「全身の力を抜いてください。深呼吸をしましょう。息を吸って、吐いて――」
 どこからか聞こえる声のとおりに、Xが深く息を吸って、吐く音がスピーカー越しに聞こえてきて。
 次の瞬間、鏡に映ったXの姿が、ばらばらになった。
 ばらばらになった、としか言いようがなかった。体を構成しているパーツのひとつひとつが指先一つくらいのサイズの立方体に分解されて、そうしてできあがった無数の欠片がふわふわと虚空に浮いているのだった。
 どの欠片がどのパーツを構成していたのかも、もはや定かではない。ただ、肌色だったり、茶色だったり、黒っぽかったりと、元のパーツの色を反映しているような感じはする。全体から見て割合の多めな渋いモスグリーンは、今日のトレーナーの色か。肉体だけではなく、着ていた服ごと分解されている、というのが何とも奇妙な感じではある。
 それを言ったら、もはや目に当たる箇所もなく、目から入力される刺激を視覚として処理する脳の存在だってすっかり分解されてしまっているはずなのに、鏡に映っているXの姿が今もなおディスプレイに投影され続けているのも奇妙ではあった。
 どう見ても異常な事態に、Xの意識体の引き上げも考えた、が、この状態で『こちら側』に引き上げて、正しく肉体に意識を収めることができるのか。この欠片一つでも不足すれば、Xが正しくXとして機能しなくなるのではないか?
 あまりにも想像を絶する事態が発生すると、人は思考が停止するものだ。引き上げるか否か、その判断すらまともに行えない私をよそに、ディスプレイの中のばらばらになったXには、さらなる変化が現れていた。
 無軌道に漂っているように見えた欠片のうち、一部が突然意思を持ったかのように動き始めたのだ。一つの欠片が元々Xの頭の頂点があったはずの場所に静止し、次々とそこに他の欠片が集まり、断面と断面が結びついて大きな欠片へと変じていく。
 その動きはどんどん加速していき、最初は短く刈った白髪交じりの髪を持つ頭、そして両目でちぐはぐな色をした目、取り立てて特徴のない鼻と口を形作り、無精髭の浮く顎の先まで組み立てられたかと思うと、太い首から肩にかけてのラインを描き、ばらばらだった欠片たちが瞬きのうちにXの姿を形作っていた。
 サンダルの足先までがすっかり形を取り戻したところで、鏡の中のXがぱちぱちと瞬きをして、視線を己の両手に落とす。問題なくその指先が動くことを確かめるように、握って開いてを繰り返す。
 ばらばらになって、元に戻った。言ってしまえばただそれだけなのだが、あまりにも衝撃的な現象だった。実際にそれを「経験した」Xは尚更のはずだ。
「今、体験いただいたのは、今までの形を一旦忘れていただき、あなたの本来あるべき形に組み直す、というプログラムです」
 呆然としているXに向けて、自信に満ちあふれた姿なき声が、説明を始める。
「長らく使用してきた心身は、不要な要素を多く取り込んでいるものです。それらは、身体や心の不調を引き起こすだけでなく、あなたという存在を必要以上に摩耗させます。その前に、一旦あなたの存在そのものを見直し、不要なものを取り除いて組み直すことが肝心です」
 言葉の意味を全て理解できるわけではない。あくまでXの耳にこう聞こえている、というだけで、この『異界』において、これらの言葉が『こちら側』と同じ意味を持っているとも限らない。
 ただ、ふと、デフラグ、という言葉が頭に浮かぶ。
 コンピューターのハードディスクドライブでは、断片化フラグメンテーションという現象が起こる。記憶領域内において、ひとつのデータがばらばらに点在する状態のことだ。このような状態に陥った場合、単一のデータであっても複数箇所を参照する必要が生まれ、その分ファイルアクセスが遅くなり、また物理的にも余分な動作が発生するため摩耗が進行する、というものだ。
 これを解消するのがデフラグメンテーション、通称デフラグと呼ばれる処理だ。記憶領域の中で、データと空き容量を連続的に再配置することで、断片化されていたデータを一つにまとめるというもの。
『異界』の事象を『こちら側』の知識にことさら当てはめようとするのはナンセンス。異界研究者の鉄則ではあるが、しかし、Xに起こった事象はあまりにも不可解にすぎて、つい、何とか自分の中に納得できる説明を求めたくなってしまう。そういう心の働きを、誰が否定できるというのか。
「いかがでしたか?」
 呆然と鏡の中の自分を見つめていたXに、語りかけてくる、姿なき声。それでやっと我に返ったのか、Xははっとして二、三度瞬きをする。一度分解されて再構成される、という経験など、そうそうできるものではない。
 今のXは、一体どのような気分なのだろう。思わず固唾を飲んで答えを待ってしまう私に対し、わずかに視線をあげたXの回答は、
「とても、すっきりしました」
 それはもう、いたって、簡素なものだった。
 Xがそれでいいなら問題ない、と言うべきなのか? どれだけ頭を捻ったところで、何が妥当かなど、私にわかりようもないのだが。


     *   *   *


「興味深い体験でした」
「それはそうでしょうね。こちらは気が気じゃなかったけど」
「心配を、おかけしました」
「ばらばらになっている間も、意識はあったのよね? どのような感覚だったのかしら」
「確かに、意識は、ありました。ばらばらになった自分も、視認していました。ただ、見ていたことは記憶しているのですが、思考は、ほとんど、働いていなかったように思います。形が戻ってきて初めて、自分の状態を、正しく把握できてきた、ような」
「と、いうことは、見た目には姿形が分解されているように見えていたけれど、意識を含めて分解されていた、あるいはあの『異界』で言われていた通り、あなたの『存在』そのものを分解していたのかもしれないわね……」
「痛みだったり、息苦しかったり、といった感覚は全くありませんでした。ばらばらになった瞬間の感覚は皆無でしたが、組み立てが進むにつれて、妙に頭がすっきりして、体が軽くなったような感覚がありました」
「今も、その感覚は残っているのかしら」
「はい。『異界』にいた時ほどではありませんが、いつになく、心身が軽い感じがします」
「新手のリラクゼーションって言葉は正しかったってことね」
「いつか、あの『異界』を訪れる機会が来たら、是非試してみていただきたいです」
「確かにとても効果的な宣伝ね。あなたに『是非』とまで言わせるもの、今までの『異界』にもなかなかなかったもの。……ただ」
「ただ?」
「仮にその時が来たとしても、ちょっと、いえ、かなり、勇気がいるけれど」
「その気持ちは、理解はします」