風呂の歴史は『こちら側』でも地域や文化によって大きく異なっている。
キリスト教圏では裸体を他者に見せることを忌避する文化によって公衆浴場という施設が廃れた一方、中東では変わらず浴場が作られ続けた、だとか、ヨーロッパにおいて入浴の健康への有効性が認められ始めたのは十八世紀に入ってからであり、それ以前はむしろ入浴とは健康に害を及ぼすものと認識されていた、だとか、紐解いてみれば興味深い話に事欠かない。
我々日本人も歴史的に風呂好きと言われるが、行水の風習は古くから存在しているものの「温めた湯に浸かる」文化が一般的になったのがいつなのかははっきりしていないのだそうだ。ただ、人々が湯に浸かるようになったのは江戸時代あたりではないかという話で、実はそこまで極端に古い話ではないらしい。
また、湯に浸かるだけが入浴ではない。水を浴びる、蒸気を浴びる、体を清めるために何らかを「浴びる」あるいは「浸かる」ことが入浴の要件であり、故にその形態も多岐に渡るわけだ。
……と、「風呂」や「入浴」という言葉ひとつで『こちら側』ですらこれだけの差異があるのだから、『異界』の入浴事情が我々の想像のつかないものであってもまるで不思議はない。
しかし、どうもこの『異界』では、認識は我々の持つものと極端に乖離してはいなさそうだった。
Xは脱いだ服を丁寧に畳み、用意されていた籠に入れる。頼りない裸電球に照らされた脱衣所は狭く、壁に取り付けられた棚に籠が四つ置かれている。そのうちの一つには既に服が入っていたため、どうやら先客がいるらしい。
我々に観測されながら服を脱ぎ、風呂に入るということをXはどう考えているのか、ディスプレイ越しの挙動から窺い知ることはなかなかに難しい。
いや、多少は恥じらいというか、観測している我々――特に異性である私に対する気遣いのようなものはあるのかもしれない。腕から下のX自身の姿がまるで視界に映らないのは、そういう意識の表れではなかろうか。
ともあれ、客のために用意されているらしい手拭い一つを手に、Xは磨り硝子の嵌められた、湯殿に向けた戸を引いた。
――『異界』。
ここではないどこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手に入れた我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回の『異界』でまずディスプレイに映ったのは鬱蒼とした森だった。
植生からして、熱帯のジャングルといった様子ではなく、北国の深山といった風情。
『異界』の事物を『こちら側』の常識に照らし合わせて考えるのはナンセンスとはいえ、今までの『潜航』の傾向から、『こちら側』の環境に似て見える場所は『異界』においても見た目を裏切ることはそう多くない。多くない、というだけで実態が似ても似つかぬものであることも、もちろんありはするのだが。
光もほとんど差さない深い森ではあったが、しかし完全に閉ざされた森ではなさそうだ、ということは、かき分けられた藪と、地面に延びた獣道で判断できた。
獣道とはいったが、道の踏み固められ方といい、藪が高い位置で分かれていることといい、おそらくここを通っているのは四足の獣ではなく、Xと同様に二足で歩く何者か。
このような目の付け所も、Xの視界を通して初めて理解できるようになったことの一つだ。こちらが何を教えたわけでもないのだが、Xはその辺りの見極めが当初から妙に得意なのだった。
そして、その見立てが間違っていなかったことを示すかのように、奥から何者かが近づいてくる気配がして、やがて一人の男性が姿を現したのだった。
男性は、『こちら側』の人間とそう変わらぬ姿をしており、軽く頭を下げたXを不思議そうにしげしげと眺めてくる。
「随分と変わった格好だなあ、この辺では見ない顔だが……」
それはそうだろう、この『異界』においてXの姿形がそう不審なものではなかったとしても、こんな森を行くにしては軽装にすぎる。着古したトレーナーにズボン、荷物一つ持っておらず、足下に至っては裸足にサンダル履きなのだから。
それでも、この格好で数多の『異界』を巡ってきたXである、不審がられることにも慣れたもので、堂々と「迷いこんでしまって」と言い切った。確かに嘘ではない、Xは自分では降り立つ場所を選べないのだから。
幸いなことに、男性はことさらXの言葉を疑おうとはせず、来た方角とは逆方向を指す。
「この道を真っ直ぐ行けば、集落に出られるよ」
「ご親切に、ありがとうございます」
深く頭を下げるXに、男性は「いやいや」と笑って返し、それから顔を上げたXに向かって言う。
「だが、そうだな、せっかくここまで来てるなら、ひとっ風呂浴びてからでもいいんじゃないか?」
突然の言葉に、Xが首を傾げたことは、ディスプレイの視界の揺れからも明らかだった。
「ひとっ風呂……、ですか?」
「それも知らないで迷い込んだのか、変わったお人だな。この道のすぐ先に、この辺じゃ有名な秘湯があるんだよ。俺もその帰りなんだがね」
「秘湯」
山奥の秘湯、とは『こちら側』にもよくある話だ。どうしてこんなところに、という温泉の話を聞くたびに、入るのはいいが、出て宿に帰りつく頃には温泉の効能も忘れるくらいに疲れ果ててしまうのではないか、と考えずにはいられない。
「昔っから万病に効くって言われてて、えらーい人が何人も足繁く通ったとか、なんとか」
「なるほど?」
真偽はともかく、『異界』の秘湯という言葉には、Xも興味を引かれたとみえる。『こちら側』の温泉にそこまでの効能を期待できるものは未だ発見されていないが、『異界』の湯ならば、言葉通りに「万病に効く」可能性だってある。
親切な男性に礼を言い、秘湯がある、という方向に足を進めようとした、その時だった。
「ああ、そうだ、大事なことを言い忘れてた」
と、男性がXを呼び止めたのだった。Xが振り向けば、先ほどまで親しげな笑みを浮かべていたその顔は、いたく真剣なものだった。
「絶対に、声を立てるなよ?」
かくして、Xは湯殿に足を踏み入れる。
突如としてぽつんと現れた脱衣所は粗末な木の小屋だったが、どうも、洞窟の入り口に建てられたものであったらしい。扉を開けば目の前に広がるのは巨大な岩盤を丸々くりぬいたかのような岩肌の床に壁、天井、そして岩を組み上げて作られた大きな湯船いっぱいに注がれている、温泉。
それだけならば、酷く暗い場所に思われるが、岩の隙間からどうどうと音を立てて流れ込んでいる乳白色の温泉そのものがうっすらと輝いており、また湯気と共に絶えず立ち上る光の粒子が、辺りを仄かに照らしているため、Xの目でも問題なく湯殿全体を見渡すことができる。
Xの視界に映っている範囲では空気が通るような場所は見当たらないが、しかし不思議と空気の流れはあるのか、湯気と光とは決して澱むことはなく、あちこちに流れているのがわかる。
ひたひたと湯船に近づけば、既にそこには先客がいた。輝く温泉に浸かる人影が、一人、二人、三人……。脱衣所にあった服は一人分と思われたが、では、一体この人影はどこから現れたのだろう?
そんな私の疑問符も、『異界』のXには届かない。あるいはXも既に気づいてはいるのかもしれないが、別段驚くような様子もなく、添えられていた木桶で湯をすくう。うっすらと輝く湯を浴びて、体を清める。
この湯に、どのような成分が含まれているのだろうか。『こちら側』では解明できないような、不可思議な何らかが人体に影響を及ぼすのだろうか。興味は尽きないが、何しろ『異界』の事象はXの目と耳で観測するしかなく、その子細を知ることは難しい。
ただ、Xの反応を見る限り、触れた瞬間に特別な効能を発揮するようなものではないらしい。二回、三回と湯をすくっては体にかける動作を淡々と繰り返す。『異界』でも当たり前のように入浴マナーを守ろうとするところに、Xの妙な律儀さがある。
そして、十分に体を清めたところで、やっと入浴に移る。先客たちの迷惑にならないようにそっと足を湯に浸し、ちょうどいい場所に落ち着いて、ゆっくりと全身を湯に沈める。
湯の中から見ても、先客たちは不思議と黒々とした影としてしかXの目に映らない。あるいは、向こうからもXの姿はそう見えているのかもしれない。そのシルエットうち一つが軽く会釈してみせ、Xもそれに応えたことだけは、私にもわかった。
どうどうと流れ込み、どこからか流れ出ている湯の音だけが響く。その音のおかげで「静寂」とは感じられないが、Xは言われた通りに沈黙を守り、先客もまた一言も発さない。どうやらこの場ではそれがルールなのだろうし、Xは「ルール」と呼ばれるものを、極めて厳格に守ろうとするところがある。
とはいえ、元より自ら話すことを苦手とするXにとって、沈黙はそう息苦しいものでもないのだろう。スピーカー越しに深く吐き出される息が伝わってくる。
Xにとって、こうして落ち着いて温泉に浸かるということ自体が、本来の自分からは遠い出来事であるに違いない。実際に、『こちら側』のXの肉体は研究室の寝台の上に横たわっていて、決して外界に接触することはない。定期的に入浴の時間は存在するというが、あくまでシャワーを浴びる程度のものであるあずで、ゆっくりと、時間も気にせず湯に浸かるなどということは夢のまた夢に違いない。
我々に観測されながら、である以上、心から落ち着くのは難しいとは思うが、それでもXにとってこの時間は「得がたい安らぎの時間」であるのかもしれない。
――などと益体もないことを考えていたその時、突如として脱衣所の方からばたばたと板を叩くような音や、男性二人が言い争うような声が聞こえてきた。
Xがそちらに視線を向けるのと同時に、脱衣所の扉が勢いよく開き、大柄な男性と小柄な男性がもつれるように湯殿に転がり込んでくる。そして、大柄な方の男性が唇を開く。
「おお、こいつが噂の癒やしの秘湯ってやつか!」
どうどうと響く湯の音すらかき消す大音声。Xも流石にこれには驚いたのか、ディスプレイの画面がわずかに震えた。
「だから、まずいですって、喋っちゃダメって言われたじゃないですか」
「そんなの古くさい連中が勝手に決めた決まり事だろうがよ、知るかってんだ。それにお前も構わず喋ってんじゃねえかよ」
大柄な男性に指摘され、そりゃあ、と小柄な男性も頭をかく。どうやらこの二人は「声を立てるな」というルールを聞かされてはいるようだが、特に守る気はさらさらないらしい。
確かに、この手のルールというものは、ほとんどの場合はその本来の意味すらも忘れ去られているか、仮に意味があったとしても、破ったところで何が起こるでもない。Xのように、言われたことを素直に飲み込み、何もかもを厳密に守ろうとする者の方が希有といえば、そうなのかもしれない。
だから、この突然の闖入者二人が言っていることも、理解できないわけではない、が。
「しかしすげーな、ぴかぴか光ってるけど、何が入ってんだ?」
岩肌にこだまする声量を下げるでもなく、大柄な男性がかけ湯すらもせずに湯の中に飛び込んでくる。ばしゃん、と水が激しく跳ねる音――と、同時に、湯気と光が一際強く立ち上ってXの視界を覆い尽くした。
それらが収まって視界が晴れたときには、大柄な男性の姿は、どこにもなかった。
「……へ?」
間の抜けた声は、まだ湯船の縁に立ち尽くしていた、小柄な男性のものだった。
今、何が起こった?
私には理解ができないし、流石にXにも理解できなかったに違いない。Xよりも一回りも二回りも大きな巨体が、突如としてかき消えるなどということが、まかり通る場なのか。しかし、小柄な男性の驚きようを見る限り、この『異界』においても極めて異様な現象であるらしい、ということは間違いなさそうだった。
そして、異様な現象はこれに留まることはなかった。
次の瞬間、小柄な男性の口を黒く薄い何かが覆った。それが何なのかは、Xの視界越しであるが故か、あるいは私の頭が追いついていない故か、判然としない。ただ、湯が放つ光によって生み出された「影」そのものが、質量を持って男性の口を塞いだように見えなくもなかった。
じたばたともがく男性の全身を、瞬く間に黒いものが覆っていく。そして、一呼吸終える頃には男性の姿はもはやかろうじて人の輪郭を取っているだけのシルエットと化していた。男性のシルエットは、どこか夢見るような足取りで湯の中に入ってきて、Xや他の人影を邪魔しないような位置まで進んでいくと、肩まで湯に浸かったまま、ぴくりとも動かなくなった。
いつの間にか二人の男性に注目していたらしい湯に浸かる他の人影も、その瞬間に興味を失ったかのように、めいめいの方を向いて動かなくなった。
結局のところ、何が起こったのかを理解することはできない。大柄の男性はどこに消えたのか、影の存在になった小柄な男性は、これからずっとここにいるのか。この人影たちも、同じような過程を辿って湯の中に引き込まれた者たちなのだろうか、と想像を巡らすことはできても、正解かどうかを知ることはない。
我々はいつだって、Xを通してしか『異界』を知ることはできないし、『異界』で起きた現象に明快な答えを与えられることもない。ただ、ただ、観測の結果得られた情報を蓄積する、それだけが今の我々にできることといえる。
Xの視線が、湯の中の人影から離れ、湯気と共に立ち上る光を追う。その視線に意味を見出すことは難しいし、きっと意味などなかっただろう。目の前で起こったことをことさら『こちら側』の物差しで解釈しない、あるがままに受け止める、そういうところがXにはある。そして、その姿勢こそが「生きた探査機」に何よりも欠かせないものでもある。
だから、目の前で人が消えようと、影になろうとも、「そういうもの」であると受け止めて。声もなく、これで最後になるかもしれない温泉を味わっていた。
無名夜行