一連の『潜航』シーケンスの完了と同時に、ディスプレイが明転する。
ディスプレイの視界いっぱいに広がっていたのは、灰色の地面だった。
見渡す限り一面のグレイ。枯れ木や枯れ草一つ見えず、人や獣の足跡もなく、何ならちょっとした起伏すらなく、ただただ平坦な荒野。四方を見渡しても空と地面との境界線――地平線が見えるばかり。
だが、色を持たない地上とは対照的に、Xの目が見上げる空は色鮮やかだ。朝焼けを思わせる桃色から薄青へのグラデーションを描く空に浮かぶのは、大きさも色もとりどりの球体。自ら光を放つそれは、星のようでありながら、あるものは丸く、あるものは四角く、あるものは言葉通りの「星形」であったりと、形も一つとして同じものがない。
空に浮かぶ星々――『こちら側』の「星」と同じとは到底言えないが、他に指し示す言葉もないので仮に星と呼ぶことにする――は、それぞれがてんでばらばらに動いているようだった。一定の軌道を描くものもあれば、不規則な動き方をするものもいる。唯一、空の中心に輝く極めて巨大な球形の星だけが、不動を保っているように見えた。
その時、流れ星のごとく高速で横切っていた星が、別の軌道を描いていた星とぶつかって、弾き合った。刹那、一際まぶしい光と共に、こぼれ落ちた何かが地面に、否、そこに立っていたXに向かって落ちてくる。
Xはほとんど無意識だったのだろうが、降ってきた、こんぺいとうのような形の淡く光る結晶を掌で受け止めようとした。すると、掌に落ちた結晶が弾けて消えると同時に、
――ぽぉん。
と、ピアノの鍵盤を叩いたような音が、スピーカーから聞こえてきた。つまり、Xがそのような音を聞いた、ということで、それを認識して初めて、今までこの『異界』は奇妙なまでの静寂を保っていた、ということに思い至ったのだった。
風の音もなければ、生物の気配もなく。ただ、ただ、Xの呼吸の音だけが聞こえていた世界に、急に生まれた音。
しかし、それを皮切りにして、空からちらほらと何かが降り注いでくる。
雪のように落ちてくるそれらは、空を行く星々同様に様々な形や色をしており、そして、地面に触れるたびに弾けて消えるのだが、そのたびに。
――きぃん。
――とん。
――ぴゅう。
何一つ同じもののない「音」が、聞こえてくるのだ。
どうやら、この『異界』では、音が結晶になって降り注ぐという、『こちら側』からすれば不可思議としか言いようのない現象がまかり通っているらしかった。
――『異界』。
ここではないどこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手に入れた我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
特に、このような何の説明も得られない『異界』においては、Xの感覚だけが『異界』を知る手がかりになる。
直接の情報として得られるのは視覚と聴覚のみではあるが、Xは我々の運用している異界潜航装置の限界もよくよく理解している。故に、落ちてくる小さな結晶を無骨な掌で受け止め、こぼれる音色に耳を傾けて、ぽつりと呟いた。
「重さはありません。ただ、少しだけ、あたたかさを感じました」
独り言のように思われるそれは、ディスプレイとスピーカー越しに観測をしている我々への報告だ。ひとたび『異界』に潜ってしまえばXと我々の間で意思疎通は不可能だが、Xの声はXの聴覚を通して我々に届く。この特徴を利用し、『異界』の特徴の中でも視覚や聴覚に依存しない感覚を報告してくれるのだ。これは、何も私がそう命じたわけではなく、Xが自主的に始めたことのひとつ。
ひとつ、またひとつ、先ほどよりも勢いを増して降り注いでくる音の結晶を掌で拾っては、その感触を報告する。結晶に重さが感じられないのは共通しているが、どうも、結晶の形によって放つ音が変わるだけでなく、触れた瞬間の温度が異なって感じられるらしい。
また、これは私からも観測できることであったが、どうやら結晶の大きさに比例して、地面やXと接触して破裂する際の音が大きくなるようだ。
空の上で大きな星同士がぶつかったのか、Xの両手に収まるか収まらないかくらいの結晶が舞い降りてくる。それはXの手に触れた瞬間に、ぱぁん、という風船の破裂するような一際大きな音を立てて消え去った。
当初は音一つしなかった世界が、いつしか音に満ちていた。次から次へと降ってくる結晶は、破裂さえしなければきっと地面に積もっていたに違いない。代わりに、いくつもの音が重なり合った賑やかな音色をXの耳に届けているわけだが。
空を見上げれば、色とりどりの星たちは活発に動いて、何なら自らぶつかり合っているかのようにも見えた。これらが何なのか、Xの視界を通してしか『異界』を観測できない私にはわからないし、当然Xにもわかってはいなかったに違いない。
空の星々がぶつかり合い、音の結晶が降ってくる、という見解だってあくまで観測から導き出させる範囲の話に過ぎず、それが正しく事象を捉えた表現かもわからない。ただ、『こちら側』にはあり得ない光景である、それだけは確かだった。
しばし、不思議な光景に見とれていたが、Xの視界を観測していると、空の特に高い位置に位置しているらしい不動の巨星に、同じくらいの大きさの星が近づいているのがわかってきた。巨体に似合わぬ速度で近づいてきたそれは、他の小さな星々を弾き飛ばしながら――小さな音を次々に降らせながら――巨星に近づく。
そして、二つの巨星が、接触する。
その瞬間に音はない。しかし、その接触によって、音の結晶が生まれる。
空にあってもわかる、極めて巨大な結晶だった。今まで降ってきたものとは比較にすらならないほどの大きさで、それこそ他の星一つくらいはあるのではないか。
その、巨大すぎる結晶が、地面に、そこに立つXに向かって落ちてくる。
速度は他の結晶と変わらず、そう速いものではない。そして、触れたところで重さはないのだから、Xが押しつぶされるということもないだろう。
だが、「結晶の大きさと音量は比例する」ということは、だ。
Xの視界に光が満ちる。天の星々を覆わんばかりの、輝く結晶が迫ってくる。今からどれだけ走って逃げたところで、結晶に触れてしまうか、結晶の音を聞いてしまうことは間違いなかった。
――故に。
「引き上げて、ください」
「引き上げて!」
Xと私の判断は同時で、私の言葉を合図に潜航装置に張り付いていたメンバーが引き上げのシーケンスを走らせる。
その間も、Xは目をそらすことなく迫る結晶を見据えていた。Xの意識が『異界』から引きずり出され、ディスプレイが暗転する、その時まで。
引き上げシーケンスは成功、Xの意識は『こちら側』に横たわる肉体に戻ってくる。
寝台の上で、Xがゆっくりと瞼を開く。少しだけ左右の色が違う目が、覗き込む私を捉えた。
「気分は問題ないかしら」
私の問いかけに、Xは一つ頷く。この手続きによって、Xの聴覚も正常に働いていることに安堵する。
現状の試行形態では、肉体そのものを『異界』に持って行くことはできないし、意識体のみを投射することで肉体の損耗を防ぐと言い換えることもできる。しかし、意識体がダメージを受けたと認識すれば、肉体側にも異常が発生することは、事前のシミュレーションでも明らかであったし、実際の『潜航』の中でもそのような現象は幾度も発生している。
だから、無事にXが戻ってきてくれてよかったと思う。
もし、あの結晶が破裂した瞬間に、Xがあの場にいたら――。
「発言を許可するわ。……念のため確認をするけれど、引き上げを望んだ理由は何かしら?」
何も責めるつもりはない、Xに言われなくともこちらがそうしたのだから。ただ、Xが何を思って引き上げを望んだのかは、確認しておく必要がある。Xの視覚と聴覚は共有できても、Xの思考が共有できるわけではない。
Xはしばし言葉を選ぶように視線を虚空に彷徨わせてから、改めて私に視線を戻し、存外はっきりとした声で言った。
「あの、巨大な結晶は、危険だと判断しました。もし、あれが破裂したら、間違いなく聴覚がやられていたでしょうし、極端な話、ショック死も、考えられました」
そこで、一旦言葉を切って、少しだけ躊躇いがちに言ったのだった。
「……、そうなれば、以降の『潜航』にも問題が生じます、から」
その躊躇いの理由は、言われなくとも伝わった。Xは、あくまで「使い捨て」の異界潜航サンプルだ。つまり、仮にXの聴覚が使い物にならなくなれば、次のサンプルを選出すればいい。そのような立場である自分が「以降」のことを語るなどおこがましい、そんなことを考えているに違いない。
Xは己の立場をよくよく理解している。ともすれば、運用する側である私以上に。
だから、Xの不安を少しでも拭えるように、私は笑みを見せる。
「いい判断よ、X。あなたのように、的確に判断して行動できるサンプルは、そうそういるものじゃない」
そう、自分の死の可能性を前に、凍り付くでもなく、恐慌に陥るでもなく、ただただ自分が「正しい」と思う手段を冷静に選択できる人間など、そうそういやしないのだ。
だから、私はXを手放す気などさらさらない。……ということなのだが、Xは理解しないだろうし、それでいいとも思っている。
それこそが、我々のあるべき距離感というものだ。
無名夜行