無名夜行

終点にしてはじまり

「そうか、あなたも旅をしている、と」
 Xのたどたどしい説明を聞いて、男性は得心がいったとばかりに頷いた。
 年の頃はXと同じくらいかどうか。ぼさぼさの髪に伸びっぱなしの髭、土埃にまみれて元の色もわからない、すり切れた服。それは、Xの目の前の男性が辿ってきた「旅」が過酷なものであったことを、ありありと示していた。
 その一方で、Xはといえば――。
「しかし、旅人……、にしては、随分と軽装のようだが」
「よく言われます。信じていただけないのも、わかります」
 当然の疑念にも慣れたものである。慣れていいものかどうかは置いておいて。
 今日も今日とてXは、身体のラインを隠すぶかぶかのトレーナーに動きを阻害しないズボン、そして裸足にサンダルを突っかけた姿だ。Xの肉体と接続された異界潜航装置は『こちら側』の姿をいつだって完璧に『異界』に再現してみせる。Xが自身を「そういう姿である」と強く認識している、ということでもあるらしいが。
 そんな、見るからに「旅人」にはほど遠い、しかし実際には遥かに遠い『こちら側』から『異界』を垣間見る旅を続けるXは、男性に向けて言う。
「それにしても、ここは、一体どのような施設なのです?」
 ぐるり、とディスプレイに映るXの視界が巡る。
 磨き抜かれた床、窓一つないつるりとした壁面、一体何が光っているのかもわからないが、不思議と明るい天井。Xの目を通す限り『こちら側』の何にも似ていない、広々とした空間に、Xと男性の二人きり。男性とXが一歩を踏み出すたびに床に残る靴跡だけが、そこに「生きたもの」の気配を感じさせる。
 男性は「そうだな」と少し考えるような素振りを見せて、それから静かに言った。
「ここが『何』なのかは我々にもわからないのだ。我々も、迫る『災厄』から逃れ続けて、偶然この場所を見つけたに過ぎない」
「 『災厄』――というのは、先ほどの?」
「そう。我々の知る都市など、人の住める場所は全てあれに飲み込まれたからな。そして、他に逃げ場もないということも、わかっている」
 故に、と。男性は一旦言葉を切って、Xを見る。
 その目は酷く穏やかで、そして、どうしようもない諦観を示しているようにも、見えて。
「我々は、ここを『終点ターミナル』と呼んでいる」
 
 
 ――『異界』。
 ここではないどこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手に入れた我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 今回Xが降り立ったのは、荒野のただ中だった。異界潜航装置はサンプルが生存可能な『異界』のみを選定するが、しかしその『異界』が実際にどういう場所であるかはX自身が観測しなければわからない仕組みだ。
 だから、降り立ったその瞬間は生存可能だとしても、生存し続けて、、、、いられる環境であるかは保証されない。
 大気の組成、重力、また気候といった条件は整っているようだが、Xの視覚と聴覚を信じる限り、そこには人一人おらず、それどころか生物の気配もない。このような場所でただの人間でしかないXが生き延びていけるかといえば、答えは否だ。
 ただ、数多の『異界』をその身一つで渡り歩いてきたXには、どうやらディスプレイを眺めているしかない私とは全く別のものが見えているらしい。しばしぼんやりと辺りを見渡していたXが、急に身を屈めて地面に顔を寄せたのだ。
「……、足跡、あと、車輪の跡」
 おそらく『こちら側』の我々に伝えるための、Xの声。言われてみれば、砂に覆われてほとんど形を失ってこそいるが、自然に刻まれたものではない痕跡が、確かに地面に残されていた。
 そして、改めて顔を上げたところで、気づく。私が気づいたのだからXも気づいたに違いない。どんよりとした雲に覆われた空の、地平線近くが、何やら奇妙な色に染まっていることに。
 それは「色」と言っていいのだろうか。黒ではなく白でもない。だからといって赤や青、黄色といった、明確な色彩を持っているわけでもない。ただ、虹色の渦のように見えるそれが、じわじわと地平線を浸食し、こちらに向けて広がりつつあるのが見えたのだった。
 虹色の渦に見えるそれの正体を、ディスプレイ越しの視界だけで判断するのは不可能だ。そもそも『異界』において『こちら側』の理は通用しないのだから。ただ、それが「触れてはならないもの」で「恐ろしいもの」であるのは、何故か不思議と確信できた。
 Xもまた、私とそう変わらない感覚を抱いたのだろう。渦に近づくのではなく遠ざかるべく、地面の痕跡を辿って歩き出す。サンダル履きの足では歩きづらいにもほどがあると思うのだが、その足取りはいつだって力強い。
 そして、歩いて、歩いて、歩き続けて、やがて変わり映えしない風景の中に真っ白な卵を思わせる何かが現れ――、それが、ドーム状の建築物だと気づいたところで、そこから現れた男性がXに声をかけてきて、今に至るというわけだ。
 終点。『災厄』と名付けられた虹色の渦に飲まれゆくだけの世界において、かろうじて残された人々が辿り着いた最後の場所。
 しかし、その言葉を聞いたXはまた別のことを考えたようだった。
「ターミナル……、ここは、駅なのですか?」
「駅?」
「私の住む土地では、ターミナル、とは、ある種の駅を指す言葉なのですが……」
 Xの言は『こちら側』の常識としては間違っていない。ただ、Xは言葉の由来を知らないからこういう言動になる、ということもわかる。
 そもそもターミナル――terminalは「終点」を意味する言葉だ。また「端末」 「端子」、あるいは医療分野における「末期」を意味したりもする。要は連続するものの終端、末端を示す言葉なのだ。
 Xが想像するターミナルとは、交通機関や路線が集中している巨大な駅なのだろうが、これはつまり「様々な路線の終着点」、ということだ。日本におけるターミナル駅は路線の中間点であったりもするのでわかりづらいが、本来そこは「終点」にして「始点」だからこそターミナルと呼ばれている。
 男性はXの言葉の意味がわからなかったのか、不思議そうにぱちぱちと瞬きをしていた。おそらく、この『異界』でターミナルという言葉にそのような意味はないのだろう。Xも自分が頓珍漢なことを言ったと気づいたのか、「すみません」と謝り、次の言葉を唇に乗せかけた、が。
「おい、すごいぞ!」
 突如として奥の開きっぱなしの扉から現れた痩身の男性が、大声を上げる。案内をしてくれていた男性が「どうした?」とそちらを見やり、Xの視線もまたそちらに流れていく。
 どれだけ慌てて来たのか、ぜいぜいと喉を鳴らしながら肩で息をする痩身の彼が、ぎらぎらとした目を二人に向けてくる。
「奥の扉がやっと開いたんだ、それで、中に……、とにかく来てくれ!」
「わかった。旅人さんは……」
「私も行きます。何があるのか、気になります」
 こちらを窺う案内人の男性に、Xは頷いてみせる。これはX自身の好奇心もあるのだろうが、単純に私が「可能な限り『異界』の事物を観測せよ」というタスクを課しているというのが一番の理由だろう。私が知る限り、Xは極めて生真面目な人物であったから。
 男性は「なら、ついてきてくれ」とXの一歩前を歩き出す。ほとんど駆けるような速度で広間を抜け、通路を抜けて、更にその奥へ。通路の終わりに位置している一際巨大な白い扉には人一人がぎりぎり入れるくらいの隙間が開いており、その奥から、何らかの光が漏れている。
 そして、先にその奥に向かった男性が、驚嘆というべき声を上げたのが、わかった。
 Xも一拍遅れて扉の向こうに足を踏み入れて、そして、「それ」を目にして低く唸った。
 一言で言うなら、それは棚だった。見上げるほどに高い壁面全体を覆っている巨大な棚。それぞれが二メートルから三メートルくらいの高さと幅で仕切られているように見えた。
 だが、Xや男性が驚いたのは、その棚の大きさではなく、棚の中身であったに違いない。
 棚の中に見えるのは、色とりどりの景色だった。一つの棚の中身は深々と降り積もる雪に覆われた森であり、一つは青い空の下に遥かに広がる草原であり、一つは『こちら側』によく似た車や人の行き交う交差点であった。
 棚の中に広がる無数の景色には何一つ同じものはなかったが、唯一共通していることがあるとすれば、中心に人ひとりが通れるくらいの道が敷かれており、その道は棚の奥へと続いているらしい、ということだ。
 一体それがどこに続いているのかは、もちろんここで見ているだけではわからない。それでも、この場とはまた別の場所に導いてくれる道である、ということは、直感的に理解できる。できてしまう。
 Xが、「なるほど」と呟く。
「ターミナル、ですね」
 そう、今回ばかりはXの言うとおりだ。これこそが未知の場所に向かって伸びる、無数の道を集めたターミナル駅に他ならない。
 Xの傍らで固まっていた男性が、その言葉で我に返ったようにXの方に目を向けてくる。
「ここが、終点じゃ、なかったのか」
「あるいは、ここが始点なのかもしれません」
 終点にして、始点である。
 男性とXの言葉は奇しくもターミナル駅の性質を正しく物語っていた。
 きっと、ここからも男性たちの逃避行は続くのだろう。『災厄』と呼ばれる虹色の渦がこの不思議なターミナルを飲み込んだ後、男性たちの来た道までも浸食するのかはわからない。Xの観測にはタイムリミットがあり、ずっとこの『異界』に留まっていることはできないから。
 それでも、このターミナルから彼らの旅は新たな始まりを迎え、彼らと別れたあともXの旅は続いていくのだ。
 そう、いつかは必ず来る、終点に向けて。