無名夜行

折ると祈るは似ている

 『異界』――ここではないいずこか。彼岸、伝承の土地、おとぎの国、あるいは無数に存在しうる並行世界。
 これは、「生きた探査機」たる死刑囚Xを『異界』に『潜航』させることにより、彼の目と耳を通して得られる情報を記録し分析することで、人の手の届かぬ場所とされてきた『異界』を知るためのプロジェクトである。
 
 
 紙を折り、形を作る。
 日本国における「折紙」と呼ばれる遊戯の歴史は古く、遊戯として広まった時期は判然としないものの、一五〇〇年代末から一六〇〇年代初頭あたりに描かれたとされる絵画の中には既に折紙の存在が確認されているという。
 また、儀式儀礼に紙を折って形作った工作物を用いる例は、それよりも遥かに以前、平安時代にこの国独自の和紙の製法が確立した辺りには存在したようだ。現在も神社の紙垂など、宗教的な意味合いを帯びた「紙」はそこここで見かけられる。
 儀式で使うものを折った紙で包むという行為も、遥か過去から現代に伝わるものの一つといえよう。例えば、祝儀袋などは武家によって定められた「折型礼法」なる礼法が元となっていたはずだ。
 とにかく、紙を折るという行為、そしてその行為により作られたものは我々の周囲に溢れている。あまりにもありふれていて、普段は意識に上ることもない程度には。その成り立ちや元々の意味こそ忘れ去られていても、それらは当たり前に我々と共にある。
 ただ、この『異界』においては、どうも『こちら側』よりもずっと「紙を折る」ことが儀式的行為として重んじられているらしい。
 私の前に置かれたディスプレイ――『異界』に『潜航』するXの視界を投影しているそれは、X自身の無骨な手を映している。決して大きくはなく、少し短めな五指を持つ骨張った手は、木製の机に置かれた推定二十センチ四方の正方形の紙の縁をなぞっていた。
「これを、折るんですか?」
 ディスプレイの横にあるスピーカーが、Xの低い声を伝えてくる。それと同時に視線が少しだけ持ち上がり、机を挟んで座る一人の女性が映る。『こちら側』全く別の理を持つはずの『異界』の事物を自分の知るものと照らし合わせるのはナンセンスだとはわかっているが、女性の纏っている衣装は白い小袖に緋袴、一言で言えば「巫女装束」というべきそれだった。
 女性はXの問いに対して鷹揚に頷いてみせる。
「ええ。どのような形でも構いませんよ。大切なのは、折るという行為を通して、この紙にあなたの魂の一部を分け与える、ということですので」
「魂の一部、ですか」
 Xの声が少しばかり不安の色を帯びる。
「それは、ええと……」
 言いかけて、口ごもる。Xは決して頭の回転が鈍い方ではないのだが、自分の考えていることを言語化するのを少しばかり苦手としている。
「その、私を構成する何かが、この紙に吸い取られて失われる、みたいな話ですか?」
 それでも、なるべく誤解の少ない表現を探そうとする努力を続ける辺りは、流石「生きた探査機」として数多の『異界』を目にしてきただけはある、といえよう。Xの不安は正しく女性にも伝わったのだろう、微笑みを深めて「いいえ」と首を振る。
「どちらかといえば『写し取る』という方が実情には近いかもしれませんね。あなたの小さな分身を形作る、そのような儀式であると思っていただければ」
「なるほど?」
 Xはそれだけを言って、改めて紙と向き合う。白い、正方形の紙。ディスプレイ越しに見てもただの紙のようにしか見えないが、Xはもう一度紙の縁をなぞってから、その角と角とを重ね合わせて三角形にする。
 ――珍しいですね、外つ国からのお客様ですか。
 ――今、ちょうど神と語らう儀式を行っている最中なのです。よろしければ、参加なされてはいかがでしょう。
 この『異界』に降りたったXの視界がまず映し出したのは、『こちら側』の神社の境内によく似た場所だった。立ち並ぶ木々の植生も『こちら側』のそれと大きく異なるようには見えず、唯一見知らぬものがあるとすれば、屋根の下にところ狭しと飾られた、色とりどりの折紙であった。様々な形が作られていて、一つとして同じものはない。
 そして、並ぶ折紙を眺めていたXに声をかけてきたのが、この女性だった。素直に「遠い場所から来た」と告げたXに対して、女性は嬉しそうに儀式への参加を促したのだった。
 私がXに与えているタスクはただ一つ、「 『異界』の事物を観測する」ということ。一度『異界』に潜ってしまえば、私たちの声はXには届かず、ディスプレイとスピーカーを通してXの見聞きしたことを把握することしかできない。故に、『異界』での行動は実際にはXに一任されている。
 Xは極めて生真面目な人物であり、私の与えたタスクを忠実に遂行しようとする。それが危険を伴うものでない限りは――時には危険を伴おうとも、『異界』の観測に徹するのである。故に、『異界』の文化に触れられる誘いはXにとってはありがたいものであったろう。その上で、念のため「外部の人間である私がいて神事の邪魔にはなりませんか」と問うたXに対し、女性は晴れやかな笑顔と共に告げたのだった。
 ――外つ国のお話は、我が神も好まれるものですから。
 かくして、Xは境内の建物に招かれ、言われるがままに紙と向き合うことになったのだった。
 Xは黙々と紙を折る。果たしてこれでXの何が紙に写し取られているのかは私にはさっぱりわからないが、角と角をきっちり合わせ、寸分のずれもないように、丁寧に折り目をつけていく。その手つきからもXの几帳面さというか、生来の真面目さがにじみ出すというものだ。
 やがて、単なる一枚の紙であったそれが、机の上に形を成す。
「鳥……、ですね」
「はい」
 ぴんと伸びた羽、嘴を持つ長い首に、尖った尻尾。
 Xの手で形作られたのは、純白の鶴だった。
 もっとも、Xが鶴の折り方くらいしか知らなかった可能性は高い。Xは『異界』において適切な行動を選び取る能力は極めて高いが、一方で妙にもの知らずなところがある。知る機会がなかったのか、あるいは単に興味を持ずに来たのか。複数の人間を手にかけた死刑囚である、ということ以外、彼の本当の名前も経歴も知らない私が正確な理由を知るわけもないのだが。
 女性は折り鶴を恭しく受け取ると、「こちらへ」とXを連れだって歩き出す。
 埃一つ落ちていない長い廊下を行く。奥からやってきた、抑えた声で語らう人々が横を行き過ぎていく。彼らも神事に参加した者たちなのだろうか。その表情は誰もがどこか晴れ晴れとしていた。果たしてこの廊下の先に何が待っているのか、どのような儀式が行われるのか、Xの目を通して見ているだけでも興味がかき立てられる。
 やがて辿り着いたのは、広い部屋だった。祭器と思しき見慣れぬ道具が置かれていて、ここにも、壁を埋めるように折紙が並べられていた。
 そして、部屋の天井には窓が設えられていて、雲一つない青空が見て取れる。その窓の直下に、四角く組まれた木の枠が置かれていて、その中には一体どのような仕組みなのか、白い光が煌々と輝いている。
 枠の前には、神主然とした男性が立っていて、Xに向けて頭を下げてきた。
「ようこそお出でくださいました。これより、儀式を執り行わせていただきます」
「よろしくお願いします」
 Xもまた、それに応えるように深々と頭を下げる。すると、男性は人なつこそうな笑みを浮かべて「楽にしていただいて構いませんよ」と言った。
「これから行う儀式は、この空の上におわす神様にあなたをご案内し、語らうものです。もちろん、我々は直接神様にお会いすることは敵いません、が、あなたの一部を神様の元に導く儀式を行うことで、神様はあなたを知り、言葉を交わすことができるのです。時には他愛ない対話であり、時には悩みの相談であり、時には誰にも話せないことの告白でもあるでしょう。神様はどのようなお話も聞き届け、あなたに応えてくれるでしょう」
「それが、こちらの折紙ですか」
 ええ、と頷いた男性は、女性が預かっていたXの折り鶴を受け取ると満足げに頷いた。
「素晴らしいですね。初めてこの儀式を行うとは思えないほど、よく折られていますね」
「ありがとうございます……?」
 よく折られている、というのは単なる折り方か、それとも折るという行為を通して込められたという「Xの魂」のことだったのか。どう受け止めていいのかXもわからなかったのだろう、その語尾には隠しきれない疑問符が滲んでいた。
 そのようなXの反応にも構わず、男性は折り鶴を手の上に載せ、Xに背を向けて枠の中に輝く白い光に向けて掲げる。
 男性が朗々と何か――それはXの聴覚を通す限り、私に意味のわかるものではなかった――を唱えると、枠の中の光がひときわ強く輝いた。
 すると、男性の手の上に載せられていたXの折り鶴が、まるで本物の鳥であるかのようにふわりと舞い上がり、光の中へと吸い込まれていく。
 折り鶴を飲み込んだ光が明滅する。次の瞬間、光の中から飛び出したのは、火を身のうちに宿したかのような紅に輝く鳥だった。激しく燃えさかる炎、というよりは埋火を思わせる静かな赤。音もなく翼を羽ばたかせ、火の粉を散らす。
 そのシルエットは鶴、ではなかった。傍目には白鳥のようであり、しかし白鳥より小柄なそれは、ぐるりと天井を一周巡った後に、空に向けて開かれた窓から真っ直ぐに飛び立っていく。
 紅の鳥が見えなくなり、ちら、ちら、と残されていた火の粉も姿を消して。
 それでも、Xは窓を見つめていた。ディスプレイに映るのがXの視界である以上、Xにはもう何も見えていないはずなのだが、呆然とそこを凝視していて。
 すると、しん、と黙り込んでいたスピーカーが、何かノイズのような音を漏らし始める。最初こそ小さな、それこそ気のせいとも思われるような音だったが、やがて耳をつんざくほどの大きな音となって私の鼓膜を震わせる。
「これ、装置の異常じゃなくて?」
 と、思わず異界潜航装置を振り向くと、装置に張り付いてコンソールのログを睨んでいたエンジニアが首を横に振る。
「装置の異常じゃないわ、『Xが聞いてる』音なのは間違いない!」
 その甲高い声もほとんどノイズに飲み込まれていたが、それでもエンジニアが言いたいことは何とか伝わった。
 ――これが、神の声だとでもいうのか?
 私には、ノイズとしか聞こえないそれを聞き届けているXは、一体何を思っているのだろう。ディスプレイは変わらず天井の窓とその向こうの空しか映していない。
 ノイズに満たされていた時間は、時計を見る限り五分に満たなかっただろうか。しかし永遠にも思われたな騒音は、突如として止み、それと同時にXの視線が落とされる。
 気づけば木の枠の中で輝いていた光も消えていて、その中心に、Xが折った折り鶴が落ちていた。何事もなかったかのように……、いや、違う。
 白い紙で折られていたはずの折り鶴は、天に向かって飛び去った鳥と同じ、埋火の赤に染まっていた。
 男性が枠の中に手を伸ばし、折り鶴を両手で拾い上げてXに向き直る。
「これで儀式は終了です。……神様と、お話はできましたか?」
 Xがひとつ、ふたつ、ゆっくり瞬きしたのがディスプレイの明滅でわかった。
 それから、一呼吸を置いて。
「……はい」
 掠れた声だった。Xが実際に「話をしていた」時間も決して『こちら側』の時間の経過と異なっていたわけではないはずだ。しかし、その声は、酷く長い時を経たかのような喉の渇きと疲れを帯びているように聞こえた。
 男性がXに向けて赤く染まった折り鶴を差し出す。Xが、恐る恐るといった様子で手を伸ばし、もはや動くこともない鳥を掌の上に載せる。
「どのような話をしていたかは、聞いてはならない規則です。しかし、この語らいがあなたにとって有意義な時間であったなら嬉しく思います」
「有意義でした。……とても」
 Xは何も見ていなかった。Xは何も意味のある言葉を聞いてはいなかった。ディスプレイとスピーカーは、観測している我々に情報を与えてはくれなかった。
 しかし、Xは確実に「誰かと何かを語らっていた」のだと。その言葉ではっきりとわかってしまう。
 一体Xは何を経験したのだろう?
 もちろん、戻ってきたXから聞き取るつもりではあるが、それはあくまでXの言葉で伝えられる範囲のものでしかなく、視覚や聴覚から直接得られる情報とはやはり質が変わってしまう。Xが嘘をつかないとも限らず――Xが嘘も誤魔化しも苦手としているのは我々の共通認識ではあるが――、記録として有効なものとは言いがたい。
 それでも、私は聞かずにはいられないだろう。それは『異界』を観測する私の義務であり、それ以上にXという人物が今の出来事をどう「語るのか」が何より気になるということでもある。
 ひとつ、深呼吸の気配がスピーカーから伝わってくる。
 無骨な手の上の赤い鳥。それをしばし見つめたXは、瞼を伏せる。
 闇に閉ざされたディスプレイ。その中に、ぽつりと、声。
「 『君の幸せを祈る』、なんて」
 それは、その場にいる人には聞こえないくらいに押し殺した、しかしXの聴覚に繋がるスピーカーは確かに捉えていた、吐き捨てるような声。
「今更だ」