無名夜行

ものは物語ることなく

「びっくりしました」
 それが、Xの率直な感想であった。
「まことに失礼しました。我々一同、まさか、生きた――と対面できるとは思わず」
「生きた……、ええと?」
「――です。あるいは、――や――とも言いますが、我々が、あなたのような存在を称する際の名前ですからね。あなたには、耳慣れないものかもしれません」
 そう語るのは、Xより遥かに背の高い生命体だった。あえて『こちら側』の生物にたとえるならば、タマムシが一番近いだろうか。見る角度によって色を変える美しい光沢をもつなめらかな背に対し、鈍い金色の胴体。三対の棘の生えた太い脚のうち、人体でいう「足」と思われる一対で立ちあがっており、Xの目を通して見る限り背丈は三メートルほどはあろう。
 しかし、『こちら側』の感覚でどれだけ異様な姿をしていようとも、この人物――「ひと」という言葉で表すべきかは議論の余地があるものの、現在の私の語彙では『異界』における「Xの言葉を解するもの」をそう称するしかない――はいたって紳士的であり、自分たちと全く異なる姿をしたXに驚きつつも、対等な存在として受け入れているようだった。
 それでも、Xが『異界』に降り立った瞬間は、どうなることかと思ったのだ。
 かろうじてそこにあるものが見える程度の、うすぼんやりとした灯りに照らされるのは、素材も定かではないつるりとした壁面と床。そこを歩くのは今はXとこの人物のみだが、当初はXを見つけた他の昆虫然とした人物が、羽音を思わせる音を立てたかと思うと、同じような姿の者たちがあちこちから現れ、Xに向かって押し寄せてきたのであった。
 己より遥かに巨大な生命体に囲まれる、という経験は私には未だかつてなく、故にディスプレイに映る光景から想像することしかできないが、いつでも自分をその脚一本で殺せるような存在を前にすれば、恐怖に身を震わせ、正常な思考を失ってもおかしくはあるまい。
 とはいえ、Xは数多の『異界』を経験してなお『潜航』を継続していられる『生きた探査機』だ。特段、恐怖も動揺も見せることはなく、ただ、己を囲む異形の人々に対して「こんにちは」と語り掛けたのだった。
 Xを金属質の複眼で見つめるもの、お互いの顔を見合わせるもの、時折漏れる羽音のような音以外に言葉のない、奇妙な沈黙。それを破ったのが、一歩Xの前に進み出て「通訳と案内」を買って出たこの人物であり、今、Xは彼の案内で広々とした回廊を歩いているのだった。
 時折、Xには解釈できない不可解な音が混ざる以外はごく丁寧に、言葉を選びながら説明してくれる彼は、上部の脚で壁面を指す。
「ここは、かつてこの世に存在した――の痕跡を記録する場なのです」
 Xの視線が壁面に向けられる。そこは今までの壁面と異なり透明な素材で作られており、その向こうが見通せる。回廊より明るい壁の向こうには、骨格標本が並べられていた。Xより大きなもの、小さなもの、太い骨に細い骨、個体差こそあるが、全体の形状はほとんど共通している。
「どう見ても人骨だな。見る限り『こちら側』のそれと、大きな違いはなさそうだ」
 私の後ろからディスプレイを覗き込むドクターの言葉に、「やっぱり」と頷く。Xもまた私たちと同じ感想だったのだろう、傍らの人物の、高い場所にある小さな頭部を見上げて、ぽつりと言う。
「つまり、私のような生物は、今現在は、この世界に存在しない、と」
「ええ。遠い昔に絶滅したとされています。事実、今まで我々の間でも観測した者はいません。あなたが『生き残り』であれば、歴史的な大発見だったのですが」
 既にXが「世界の外」から来たという話を聞かされている彼は、かくりと頭を落としてみせる。落胆、の仕草だったのかもしれないが、すぐに顔を上げて朗らかな声音で言う。
「既に失われているとはいえ、彼らがこの世に存在したのは事実です。故に、彼らの存在を、痕跡を、記録として留め、また、遺物を展示することにより知識を広め、彼らがここに生きていたことを忘れ去られぬよう試みているのです」
「なるほど」
 つまり、Xが立っているここは、一種の「博物館」ということだ。歴史や文化に関する資料を収集し、保管し、研究し、展示する場所。
 透明な壁の向こうには、衣服に靴、眼鏡、寝台や机、鏡など、『こちら側』の我々にとっては見慣れたそれらが、丁寧に飾られている。何らかの解説もついているようだが、Xの目で見る限り、それは虹色に煌めく塗料で書かれた意味不明な記号の羅列にしか見えなかった。
 観測する私からすれば何ら特別とも思えない――が、既にその作り手と使い手が失われた『異界』においては貴重な資料であろうそれらを眺め、通訳の解説を聞きながら、Xはぺたぺたとサンダルを鳴らして、長い長い回廊を歩いていく。
 やがて、回廊の行き止まりとひとつの扉が見えてきた。これもまた壁と同様につるりとした素材の、手をかけるべき場所もない、ただ周囲と色だけが違う、扉。
「こちらが、現在我々が所蔵している、最大の資料と言えるでしょう。どうぞ」
 そう、傍らの彼が言うと、扉は音もなく開き、その奥にあったものがXの視界に飛び込んでくる。
 それは、都市だった。
 一歩、サンダル履きの足で踏みだせば、透明な床の下に広がる風景は、地形や建物の配置こそ完全には一致していないが、『こちら側』の、しかも今まさに我々が暮らしている都市の航空写真と極めてよく似ている、と言っていい。
 だが、これは写真などではない。青空か、あるいはそれを模した天井か、それすらも定かではない空には、明るく輝く太陽。そこから降り注ぐ光を煌々と浴びて影を落とす、確かな実体のある都市であることは、Xの視界越しでも明らかだ。
 住むものが絶えて、滅びた都市――そのはずだが、立ち並ぶ家屋や背の高いビル、商業施設と思しき横長の建造物など、目に見える建物に何らかの破壊の痕跡はなく、広い敷地の公園は青々とした緑に覆われていて、街の中心には青々とした水面を湛えた川が横たわっている。廃墟というにはあまりにも整った街並みが、Xの視界いっぱいに広がっていたのだった。
 どうしてこの街は当時の姿そのままなのか。ここに住んでいた人々はどこに消えてしまったのか。そして、この『異界』における人類はどのように「絶滅」に至ったのか。私の頭の中にはいくらでも疑問符が浮かぶが、『こちら側』の私の声はXには届かない。ひとたび『異界』に『潜航』すれば、観測そのものは、どこまでも、Xに委ねられている。
 しばし、Xの深い呼吸の音だけがスピーカーから聞こえてきて、やがて。

「綺麗な、景色ですね」

 低く穏やかな声が、静かな空間によく響いた。


     *   *   *


「面白い博物館だったわね。私たちも、恐竜をはじめ、絶滅した生物の化石や標本を博物館で目にすることはあるけど……」
「興味深い展示で、見ごたえがある、よい博物館でした」
「そうね。Xは、『こちら側』では博物館に行くことはあったのかしら」
「ええ。学生のころは、よく」
「少し意外。特によく行った博物館は?」
「家の近くにある、小さな、博物館が、好きで。地域の歴史や、発掘されたもの、当時の生活で使われたものを、展示していたことは、覚えています。でも、何より」
「何より?」
「静かで、私を咎める人も、いなかったので。それが、心地よかったのだと、思います」
「その気持ちは、何となくわかるかも。私も、学校が居心地悪くて、図書館や博物館に入り浸ってたこと、あったから」
「……そう、ですか」
「意外?」
「少し。私より、……ずっと、上手くやってきたのだろう、と、思っていたので」
「そうでもないわ、生きるのはへたくそな方。上手なら、研究者なんてやってない」
「なるほど?」
「でも、私たちが滅ぶときがきたら、他の誰かが、『異界』の彼らのように、私たちの痕跡を記録してくれるといいとは思ってる。良きも悪しきも、ありのまま。都合の悪いことを葬ることのないように」
「そうですね。次の『誰か』は、人類ほど、愚かではないことを、祈ります」
「Xって、ちょこちょこ人類には辛辣よね」