視界は明るく、その中でのびのびと育つのは、様々な種類の植物だ。尖った葉を高く伸ばすものもあれば、丸い大きな葉をつけて光を遮っているものもある。そのどれもが、光をいっぱいに浴びて、生き生きと育っている。
Xが視界を下ろせば、サンダル履きの足が踏むのは地面一面を覆う芝生――いや、これは、芝生ではないのか。『異界』の事物を『こちら側』のものに喩えるのはナンセンスだとわかっていても、あえて喩えるならば「苔」のように見えた。Xのくるぶしまでを埋める、見るからに柔らかそうな苔だ。
これらの視覚情報から、今回Xが降り立ったのは、色鮮やかな森のように思われた。しかし『こちら側』の森と比較しても、今までXが観測してきた『異界』の森と比較しても、どうにも違和感がある。その理由はごくごく単純だ。
「……整い、すぎている?」
スピーカーから聞こえてくる、低く、押し殺されたXの声が語る通り、ディスプレイに映る緑は、一つ一つが意図的に配置されたもののように見えて仕方ないのだ。
大きな葉は地面を覆う苔の全てを覆わないようにまばらに影を落とし、尖った葉を伸ばすそれらは一塊にされていて、その足元には、小さく可憐な花を咲かせる別の植物が塊を成している。通常であれば複数の植物がお互いの生息圏を広げあう姿が見られるわけだが、Xの目に映るそれらは「ここからここまで」と目に見えない線を引かれているかの如く、混ざり合うこともなく、領域を犯すこともなく、どこまでも整然と葉を伸ばし花を咲かせている。
それに、もう一点、おかしなことがあるとすれば、この明るい森には植物以外の生物の気配がないということだ。
森という空間には、ほとんどの場合、多様な生態系が存在する。これは今までXが巡ってきた『異界』でもほとんど共通していた。『こちら側』の常識で『異界』を捉えることは必ずしも正しくないとはいえ、しかし見た目が似ていれば性質も似通うことが多いのも事実。
だが、ディスプレイに映るのはどこまでも植物のみで、木々の間を行く動物や鳥の気配もなければ、植物の生息範囲の拡大に寄与するはずの虫の気配もない。これは、あまりにも異様といえた。
しかし、Xの前にある植物が「作りもの」にも見えなくて、ディスプレイを眺めながら首を傾げていると、不意にディスプレイに映る世界が陰った。雲でもかかったのか、それとも。Xはその正体を確かめようと、視線を空に向けて――。
目が、合った。
そう、生い茂る葉の隙間から。見上げた空いっぱいに引き伸ばされた一対の目が、Xを見下ろしていたのだった。
* * *
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
かくして、私は呆然とディスプレイ越しの巨大な目を見つめていた。そして、呆然としているのはXも同様だったに違いない。時折ディスプレイがちらちらと暗くなる――つまりXが瞬きをする瞼の動き――だけで、声もないままに自分を見下ろす巨大な目を凝視している。
その、巨大な一対の目は、ゆっくりと瞼を閉じ、もう一度開いて。
「驚いたな。蓋を閉めるときには誰もいなかったと思ったんだが」
地を揺るがすような、しかし、妙にくぐもった声が、聞こえてきた。
私でも意味が判断できたところから考えるに、どうやらXの耳にそう聞こえた、ということらしい。『異界』の言語がことごとくXの母語である日本語だとは考えづらいのだが、Xを用いた『潜航』においては、言語による意思疎通が難なく可能なことがある。今回がまさしくその例といえよう。
「蓋、ですか……?」
自分より遥かに巨大な相手に語り掛けられたところで動じないXは、声の主が何者か、ではなく、言われた内容が何を意味しているのか、の確認から入ることにしたようだ。ひとたび『異界』に潜ってしまえば、『こちら側』からXにアプローチをかけることは不可能で、あらゆる判断がXに委ねられる。話題の選定もそうだ。
果たして、Xの言葉はこちらを見つめる両目の主に届いたらしい。「おや」という声と共に、もう一度瞬きを見せてから、言う。
「そう、蓋さ。君の上に見えているだろう?」
ディスプレイに映し出されたXの視界が、更にぐっと持ちあげられる。遥か上空に、影を落とす黒いものが浮かんでいるように見える。
いや、浮かんでいるわけではないのか。Xの視界を通さねば『異界』の事象を判断できない以上、断言することはできないが、観測している限り、どうも覗き込んでくる目とXとの間を硝子のような透明な壁が隔てているように見える。硝子の壁は曲面を描いて頭上にまで伸びており、その最も高い場所に黒いもの――蓋が据えられている、ような。
「それにしても、君は言葉が通じるんだね」
「はい、声は聞こえていますし、話している内容もわかります」
「売っている小人さんとは種類が違うのかな? 不思議なこともあるものだ」
――売っている?
どうにも状況がわからないが、この巨大な目を持つ何者かから見ると、Xは「小人」であるらしい。確かにここまでの違いがあると、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』におけるガリヴァーとリリパット国の住民、あるいはブロブディンナグ国の住民とガリヴァーとの対比を思わせる。巨人と小人。フィクションの中でしか描かれえないような事象が、『異界』では当たり前のように起こる。
巨人は穏やかな、しかしどうしても体の大きさの違いから、びりびりとスピーカーを鳴らす音量で言う。
「小人さんは、一体どこから来たんだい?」
「どこ、と言われましても……」
Xは言葉に詰まるような素振りを見せる。Xは幾多の『異界』に送り込まれ、時には命の危険にさらされても、なお『潜航』を続けてる極めて優秀な「生きた探査機」だ。ただし、数少ない欠点のひとつとして、極端に口下手なところが挙げられる。別に、特別無口というわけではなく、話すことを忌避しているわけでもなく、単純に「適切な言葉を選ぶのに異様に時間がかかる」ということらしく、これがコミュニケーションの難と取られることは数多い。
今回の話し相手はそれなりに根気のある人物であるらしく、Xが必死に言葉を選んでいる間、言葉を差しはさむこともなく、巨大な目を瞬かせながらじっと待ってくれている。
やがて、スピーカーからX自身の音声が聞こえてくる。
「その、私は、旅人、でして。あちこちを旅して回っているのです」
「へえ、小人さんってどれも店で栽培されてるものかと思ったけど、旅をする種類もいるんだな」
この『異界』における小人とは栽培されるものなのか。売っていたり、栽培されていたり、どうも私――あるいは『こちら側』に住まう者が思う「ひと」の扱いとは異なるということだけは間違いなさそうだ。
「だけど、どうやってここに入り込んだんだい? 蓋を開けた形跡はなかったけど」
「私自身では、行き先を、選べなくて。私も、気づいたらここにいたのです」
――なので、『どうやって』という質問には、答えかねます。Xはそこまでを言って、一旦黙った。
そう、Xは「生きた探査機」であり、『潜航』する『異界』のことを知っているわけではない。あらかじめXが生存可能な環境であるかどうかのチェックは行うが、事前に判明するのは無機質なデータだけであり、その『異界』がどのような場所であるかは、Xの意識を『潜航』させなければ我々にすらわからないのだ。
硝子の壁の向こうにいる巨人は「ふむふむ」と興味深そうにXの話を聞いていたが、やがて目を細めて笑みをみせた。
「どういう仕組みかはわかんないけれど、外から来た旅人さんだというなら、こういう『森』を見るのも初めてかな」
「そうですね。とても、明るく、綺麗な森だと思います」
「そうかい?」
巨人の声が弾み、更に音量を上げたのがわかる。
スピーカーの音量はこちらで調整できるが、Xの聴覚はこの大音声をそのまま聞き取っているはずで、戻ってきた後の聴覚が心配だ。意識だけで『潜航』している以上は鼓膜に直接の影響はないはずだが、意識体が感じ取った異常は、肉体にも何らかの形で反映される。後程、
そんな私の不安をよそに、ディスプレイの中の巨人はうきうきとした調子で言う。
「初めて作ってみたんだけどね、気に入ってもらえたならよかったよ」
「作った?」
「そう、最近流行ってるからね。お店で材料を買ってきて、試してみようと思ったんだ。本当は中に詰める小人さんも欲しかったんだけど、小人は維持が難しいから、最初は植物だけで試すといいって聞いてね」
そういうことか。巨人の言葉で、やっと、Xが置かれている状況を把握することができた。
「これ、テラリウムなのね……?」
ある種の生物を、容器の中で栽培・飼育する技術。水中の生物を扱うアクアリウムに対し、陸上の生物を扱うものをテラリウムというが、一般的にアクアリウムという言葉が「水族館」といった施設をイメージさせるのに対し、テラリウムといわれてまず思い浮かぶのは、卓上に置けるくらいの硝子の容器の中に再現された、観賞用の小さな庭や森ではなかろうか。
どうやらこの『異界』ではテラリウムが流行っており、この巨人も流行りに乗って、自分の手で挑戦してみようとしたに違いない。
小さな空間で完結する、瓶詰めの森。
整然とし過ぎているという印象も、観賞向けであるというなら納得がいく。適度に光を取り込み、それぞれの植物がお互いを邪魔することなく、外から見て美しく見えるように。そう考えて作られている以上は、自然の森と比較して「整いすぎている」という印象を受けるのも当然だ。
そして、そんな作り物の森に忽然と迷い込んでいたのが、この『異界』においては「小人」同然のXであったというわけだ。
Xも、果たしてこの説明で己の置かれた状況をある程度は把握したのだろう。
「なるほど」
そう応える声には、合点がいったという響きが確かに感じられた。
瓶の外の巨人は嬉しそうに両の目を微笑みの形にしながら言う。
「旅の小人さんに気に入ってもらえたなら、自信がつくよ。小人さんは、ずっとここにいてくれるのかな」
「いえ、申し訳ありませんが、私は、時間が来たら、元の場所に戻る決まりなのです」
それは残念だ、と巨人は声のトーンを下げはしたが、しかし元々が突然瓶の中に現れた「旅の小人」であるがゆえに、そこまでの落胆はなかったに違いない。すぐに気を取り直したらしく、陽気な声で問いかけてくる。
「蓋が閉まっていても、出られるのかな? 開けておいた方がいいかい?」
「入る時も、出る時も、支障はありません。お気遣いなく」
Xの意識を『異界』に送り込んでいる異界潜航装置は、Xの肉体と意識の間に結ばれた見えないリンク――命綱を引くことで、意識を『異界』から『こちら側』に引き上げることができる仕組みになっている。距離も時間も関係なく、もちろん、蓋を閉められた硝子瓶の中からでも、問題なく引き上げることが可能だ。
なお、命綱、というのはあくまで比喩で、実際にはキーボードを通した入力一つで行われる一連のシーケンスであるわけだが。
それならよかった、とほっと胸をなでおろした様子の巨人に対し。
「しかし――、今この時だけ、とはいえ」
ぽつり、落とされたXの声は、感情の揺れ動きをほとんど見せない彼には珍しく、深刻な響きを帯びていた。
ただでさえ大きな目を見開くディスプレイの中の巨人と同様に、私もまた目を見開かずにはいられなかった。一体、何を言い出そうとしているのか、と思っていたら。
「……私の存在で、せっかくの景観を損ねては、いないでしょうか?」
その言葉には、思わず「は?」と声を出さずにはいられなかった。視界の隅に映っていたスタッフたちが噴き出すのも至極当然といえよう。だが、Xがいたって真面目にそう思っていることは、そのごくごく真剣な口ぶりからも明らかだ。
いや、確かに、Xは観賞用とするにはあまりに冴えない面構えをした、いがぐり頭の中年男性であるわけだが、しかし、すぐに『こちら側』に引き上げられる身で、そんなことに気を遣ってどうするのか。
スピーカーから響く巨人の笑い声を聞きながら、私は、溜息交じりに額を押さえるのだった。