――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、数多の並行世界。私がリーダーを務めるのは、無数に存在する『異界』を観測し『こちら側』との接点を探る、国家主導で秘密裏に進められているプロジェクトだ。
しかし、『異界』に赴くのは我々プロジェクトメンバーではなく『生きた探査機』、使い捨ての実験体として選ばれた死刑囚Xである。一般には世迷言でしかない『異界』の話にも動じず、二つ返事で実験動物扱いを受け入れた変わり者。そんなXを通して、我々は『異界』を知る。
問題は、現時点で観測できるのがXの「視覚」と「聴覚」のみであり、他の五感のデータが取得できないこと。故に、Xが手にする「それ」がどのような香りと味を伴うか、我々には決してわからない、ということ。
Xの視界と連動したディスプレイには白磁の茶器が映り、その中には透き通った茶色の液体が注がれている。傍目にはウーロン茶のように見えるが、当然『こちら側』のそれと同じとは思えず、固唾を飲んで見守るしかない。
「これは、何ですか?」
問いに対し、『こちら側』で言う中華の雰囲気の衣装を纏った女性は、笑顔で何事かを言ったが、私はその音を言葉として聞き取ることができなかった。Xも同様だったのだろう、首を傾げたのち、視線だけで辺りを見渡す。
そこは市場だった。夜空の下にあかあかと灯る照明。あちこちに掲げられる鮮やかな紅の看板に、色とりどりの線で書かれた不可思議な文字。どの文字も読めず、飛び交う言葉も理解はできない。ただ、姿かたちも様々な人々――「人」の形をしていない者もいる――に溢れており、彼らを呼び込む声が高らかに響き、活気があることは伝わってくる。
中でも目を引くのは、人々の頭の上に揺れる、何かだ。それもまた「文字」に見えた。ホログラムのように浮かぶそれが何を示しているのかは当然私にはわからない。強いて言えば、仮想空間上のアバターに表示されるハンドルネームのよう。案外、本当にそういう『異界』なのかもしれない。仮の名と姿を掲げ、一時の非日常を楽しむアトラクションめいた『異界』。
そんな賑やかな『異界』にて、Xは、店先で出された茶に向き合っている。『異界』のそれがXにとって毒でない保証はなく、事実今までも幾度となく痛い目を見ているXは、明らかな躊躇を見せていたが。
意を決したのか、ぐっと茶を飲み干す。
「あ、おいしい」
ならよかった。
無名夜行