「どけ、そこを通せ!」
声と共に、ディスプレイに映る視界ががくりと揺れた。突き飛ばされたのだ、と気づいたのは一拍後のことだった。
視界の主、Xの視線が己を突き飛ばして駆けていった人物に向けられる。道行く人を突き倒しながら走るその人物は、背中しか見えないが、背広を着ているのがわかる。首から上、頭に当たる部分は、四角い箱に見えるが……。
「大丈夫ですか?」
声をかけられて、Xは頷きとともに傍らで自分を支えてくれた人物に視線を戻した。目を合わせよう――としたのかもしれないが、本来「目」があるべきそこには、ただ、文字盤があるのみだ。十二の数字が書かれており、短針と長針が示しているのは、二時二十三分。午前か午後かは判然としないが、空の明るさを見る限り午後と考えるのが妥当だろうか。『異界』を『こちら側』の常識で考えてはならない、というのは前提としても、だ。
小屋の形をした木製の『時計』を首から上に載せたその人は、無い口から溜息を漏らして言う。
「すみません、痛かったでしょう。最近多いんですよね」
「いえ、大したことはありません。しかし、今のは?」
背広を着た人物は喚き声を上げながら駆けていく。そのほとんどは意味らしい意味をなしていなかったが……。
「俺がおかしいんじゃない、お前らの方がおかしいんだ」
そう、聞こえた気がした。
時計の頭を持つ通行人は、背広の人物を避けるように、道の脇に寄っていた。そして、揃いの制服を着た、これまた時計頭の屈強な人々が、道の向こうから駆け付けようとしていた。
「ああ、通報があったようですね。もう安心ですよ、お客様」
制服姿の時計頭によって、背広姿の時計頭が取り押さえられる。それでも、捕まっているその人はなおも手を逃れようと暴れ続けており、簡単に引っ立てられてたまるか、という執念を感じる。
「行きましょうか、お客様。見苦しいものをお見せして申し訳ありません」
傍らの人物が声をかけてくる。Xは、その人物の時計の顔を見上げて、それからもう一度、未だ抵抗を続ける背広姿の時計頭を見やって――言った。
「あの」
「何ですか?」
「随分、ものものしい様子ですが、あの方は、何か……、罪を犯したのですか?」
視線を戻しての問いに、傍らの時計頭は、「いえ」と重々しく首を横に振った。
「罪ではありませんよ。ただ、『治療』が必要なのです」
その文字盤は、辺りの時計たちと同様に、二時二十五分を指そうとしていた。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回、Xが降り立った『異界』は現在より少しばかり古い時代、産業革命前後の西洋の街並みを思わせた。『こちら側』のそれと違うのは、街の中心に巨大な――そう、天にも届くほどの巨大な時計塔が聳え立っていること、街のいたるところに時計が飾られていること、だ。大きさや形こそ違えど、その針は全て同じ時刻を指している。
そして何よりも『こちら側』と異なるのは、街を行き交う人々の姿だった。
確かに首から下は『こちら側』の人間と何も変わらないように見えるが、その首から上が、どこからどう見ても「時計」なのだった。街のあちこちに設置された時計と同じく、色や形はまちまちの、しかしどれもが同じ時刻を指す時計。Xだけがただ一人、『こちら側』の人間らしく、目と鼻と口を持つ頭を持って時計の街に存在していた。
とはいえ、Xのような存在が迷い込むことはこの『異界』には珍しくないらしく、Xは「客人」として歓待され、案内人を名乗る時計頭に連れられて街を歩いていた、その矢先での出来事だった。
Xが、案内人の言葉に首を傾げた……、ことがディスプレイの動きから伝わってくる。
「治療、ですか?」
「ええ。お客様の住まわれる土地では、病に侵された時にはどのような対処を取られますか?」
「病院に行き、医師の診断を受けて、治療を受ける……、のが、一般的ですね」
あえて、一般的、と言い添えて『こちら側』の常識を一言でくくろうとしない辺りに、Xの慎重な言葉選びを思わせる。案内人もその言葉には「そうですか」と時計頭を頷かせる。
「我々の街でも、それは変わりません。不調があれば、病院へ。しかし、時には本人は気づかなくとも病に侵されていることがあります。そして、その病は周囲へも害を及ぼす、恐ろしいものです」
「感染症、のようなものでしょうか」
「そうですね。先ほどの彼は、その病に侵されていたために、いち早い隔離と治療が必要だったのです」
「しかし、それは、……誰にでも、判別ができるもの、なのでしょうか」
Xの声に怪訝そうな響きが混ざる。本人に自覚がないままに病に侵される、とはいうが、適当な理由で病人と認定されて捕まってはたまらない。
しかし、案内人は「もちろんです」とXの言葉を力強く肯定する。
「その病は目にすればわかるのですよ、病に侵された当人以外は」
「……?」
Xの視線が案内人から、ついに抵抗むなしくがっちり拘束された背広姿の時計頭に向けられる。そして「あ」と声を上げた。私もそれから一拍遅れて、違和感に気づく。
「時計が」
案内人の頭を成している時計と――街中に満ちている時計と、別の時刻を指している。
「そうです。この街は、あちらの大時計が全ての基準となっております。我々もまた、あの大時計が示す朝に目覚め、夜に眠り、日々の時を刻むことで、秩序を保っています」
しかし、病に侵されてしまえば、何もかもが狂ってしまう、と案内人は言う。
「深刻な病です。すべての基準がずれていき、足並みを揃えられなくなる。誰よりも早く動こうとしたり、ひどくルーズになったり、人によっては、ほとんど動きを止めてしまう」
そういえば、私の部屋にある目覚まし時計のひとつはほんの少しだけ針が速く動くらしく、日々そのずれが大きくなっていることを思い出す。当初はほんの一秒にも満たないずれが、気づいたら五分のずれになっていた。この「病」も、そういうもの、なのかもしれなかった。
「何より、侵された当人は、そんな自分の時計が一番正しいと思い込む。周囲の時計こそが狂っているのだと。果てには、街の中心の大時計こそがおかしいのだと。そんなことはあり得ないというのに」
背広姿の時計頭が、頭から布をかぶせられ、制服姿の時計頭に引きずられるように連れられていく。それは、Xの感想と同様に「患者」より「逮捕された容疑者」の様相であり、この『異界』においては時計の狂いが他の何よりも許されざることなのだ、ということがありありとわかる。
「故にこそ、治療が必要なのです。正しい時を生きられるように。狂った時計が、また他の誰かの時計を狂わせないように」
感染症、というXの言葉に頷いていた以上は、他の誰かにも影響を及ぼすものであるのだろう。故にこそ隔離と治療が必要なのだ、ということ。
「治療を受ければ、もとに戻るのですね」
「ええ、適切な治療を受けさえすれば、すぐにでも正常な時を刻めるようになりますよ。自分が何故狂った時間を生きていたのかも忘れて、普段通りの生活に戻れます」
この『異界』ではそれが常識であるということだが、わずか、胸の奥に引っかかるものを感じずにはいられない。それは『こちら側』の常識で生きているからこそ、なのかもしれないが……。
「なるほど」
なるほど。それは、Xの口癖だ。口癖であるから、本当に納得しているかどうかを量ることは難しい。しかし、今の声音は、常よりずっと、納得に満ちているように思えた。
「いいですね。『狂っている』ことが一目でわかる、なんて。治療を受ければ、社会に『戻れる』、なんて」
私も――。
それ以上の言葉はXの口からは出なかった。ただ、Xが、『こちら側』において殺人という罪を犯し続けた存在であることを、今更ながらに思い出してぞくりとする。
「理想的な、仕組みです」
* * *
「そういえば、Xは、時間にはきっちりしてる感じがするわよね」
「そう、でしょうか」
「何となく、寝坊や遅刻とは縁遠そう、と思ってるのだけど」
「それは、確かに、そうです」
「意識していることとか、あるのかしら。もし、時間を守るコツがあるなら教えてほしいわ。私、昔から、時間にルーズすぎるって、よくサブリーダーに怒られてて」
「しかし、あなたが遅れているところも、見たことない、ですが」
「目覚まし時計、三つくらいかけてるし、それでも目が覚めなくて家族に起こしてもらってるし、更に定時連絡がなかったら、絶対二度寝してる、ってメンバーにモーニングコールしてもらってるから……」
「……なるほど?」
「一応、直そうという気持ちはあるのよ? だから、Xが心がけてることがあるなら、知りたいなって思って」
「意識しているわけでもないので、何ともですが……。自分を理解して、対策を取っているだけでも、十二分ではないですか?」
「そうかしら?」
「その、私の、昔の知り合いに、……本当に、本当に、信じられないくらい、めちゃくちゃルーズなやつが、いまして」
「あなたがそんなに強調するなんて、本当にルーズだったのね……」
「本人は全く気にしていなくて、待ち合わせ場所で二、三時間待つこともザラで、電話ももちろん通じず、私は、私は……」
「苦労してきたことは、よーくわかったわ」
無名夜行