無名夜行

花嫁に幸福を

 柔らかな木漏れ日が差し込む森の獣道を、Xはゆったりとした足取りで行く。静寂の中に、鳥や虫の気配だけが微かにXの聴覚を通して届く。
 Xは歩きながら、つい、と視線を少しだけ上に向ける。広葉樹の葉の間から覗く空は雲ひとつなく青く、よく晴れていることがわかる。
 果たして、この空を見てXが何を感じているのだろう。『異界』にいる間の、Xにとってはつかの間の自由ともいえる時間。この時間を、Xがどう捉えているのか私は知らない。私はXに問うこともなく、Xもまた必要以上を語ることはなかったから。
 その時、不意に木々の枝が擦れるような音が聞こえてきた。その音は徐々にこちらに近づいてきているようで、ふとXがそちらに目を向ける。
 すると。
「わ……っ!」
 ざん、と木々を揺らす音を立てて、Xの目の前に、人が飛び出してきたのだった。
 こちらを見て目をまん丸くしているのは、高校生くらいの年頃に見える少女だった。簡素な和服を纏った姿で、黒髪を結い上げている。どうも、この『異界』は少しばかり古い時代に似た世界のようだ。
「び……、っくりしたぁ。こんなところに人がいるなんて」
 少女は胸に手を当てる。ただ、Xも少女と同じくらい驚いているらしく、すぐには言葉を放つことができずにいるようだった。
 Xがぼうっとしている間、少女はじろじろと無遠慮にXの姿を眺めて、言う。
「おじさん、変な格好だねえ。でも、狸じゃあなさそうだし」
「狸、になった覚えはないですね」
 言いながら、Xは自分の姿を見直す。と言っても、Xの格好はいつもほとんど決まって無地のシャツに少し幅に余裕のあるデザインのズボンといった様子で、今日もそれは変わらない。
 少女はしばしそんなXをじっと見つめていたが、突然にっと歯を見せて笑った。
「ま、いいや! ね、せっかくだから、ちょっと付き合ってよ」
「……は?」
「話し相手になって、ってこと!」
 そう言って、少女はXの手を取る。Xが呆然としている間に、少女は軽々とした足取りで歩み出しながら掴んだ手を引くのだった。
 その手を振りほどくことも、できないわけではなかっただろう。けれど、Xはそうすることはせず、少女に任せることにしたらしい。少女はXを振り返り、つり上がり気味の目を細めて、愉快そうに笑うのだった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 Xが降り立った『異界』の森は、やがて開けて川へと辿り着く。今まで木々の葉の間から降り注いでいた光が今度は真っ直ぐにXの視界に飛び込んでくる。小川も太陽の光を照り返してきらきらと輝きながら流れている。
 Xをここまで連れてきた少女は、川の傍らに転がる岩に腰かけて、Xにも横に座るように、とぺちぺち岩を叩く。Xはそれに従って少女の横に座る。さらさらという水の流れる音が私の耳にもスピーカーを通して届く。
「うーん、本日は晴天なり! とってもよい日和だよ」
 言葉に反して、少女は不満げに唇を尖らせる。
「……晴天だと、何か、困るんです?」
「困る、ってわけじゃあないけど。どうせ、必ずその日は来るんだから」
 膝を抱えてぽつりと言った少女は、Xに視線を向けて口の端を持ち上げる。
「あたしね、これから結婚するの」
 その言葉はあまりにも唐突で、Xは一瞬どう答えるべきか悩んだのだろう。しばしの沈黙ののち、こくん、と首を傾げて言った。
「おめでとう、ございます?」
 語尾に疑問符がついていたのは、Xの戸惑いの表れだろう。少女はそんなXの反応が愉快だったのか、ふふ、と笑いを漏らす。
「ありがと。でもね、これがひとりでいられる最後の時間なんだ」
 少女のほっそりとした腕が天に向かって伸ばされる。少女の言う通り、本当にいい天気だ。Xの見上げる青い空を、鳥の影が横切っていく。
 そんな空に少女は一体何を思ったのだろう、目を細めてこう言うのだ。
「今日でさよなら、あたしの自由、ってね」
 自由。その言葉はXにはどう響いたのだろう。私からXの表情を見ることが叶わない以上、それを判断することはできない。ただ、Xは少しだけ声を低めてこう問いかけた。
「結婚が、嫌なんですか?」
 少女は「うーん」と言いながら伸ばしていた腕を下ろす。それから、Xの方に目を向けて軽く肩を竦めてみせるのだ。
「相手が嫌ってわけじゃあないよ。昔っから知ってる相手だしね。悪いことにはならない、とは思ってる」
 それでも、と。少女は続けるのだ。
「今もまだ想像できないんだよね。ここを離れて、誰かの元に嫁いでいくって感覚が。ずうっと、あたしはここにいて、好きに生きてきたからさ。でも、結婚したらそうはいかない」
 果たして彼女の言う「結婚」が私の想像するそれと全く同じかどうかはわからない。結婚という言葉が持つ重みは、こちら側の現実としても、時代や人によって大きく変わるものであるから。そして、少なくとも、目の前の彼女にとって「結婚」とはそれなりの重みを持っているものであることは、想像できた。
「だから、最後の時間くらいはわたしの好きにさせてくれ、って思ってさ。こうやって、知らないおじさんとお喋りに興じているわけ」
 彼女から見ての「知らないおじさん」であるXは、しばらく黙って少女の話を聞いていたが、彼女の言葉が途絶えたところで、不意に声を落とした。
「結婚を控えたお嬢さんが、知らない男と二人きりなんて、あまり好ましい状況ではないのでは?」
「えっ、それ自分で言う?」
 少女は腹を抱えてけらけらと笑う。笑いながら、Xに言葉を投げかけてくるのだ。
「それともおじさん、あたしのこと、連れ去ってくれたりするわけ?」
 ――どこか、遠くへ。
 その言葉は夢見るようであり、それでいて酷く切実な響きを帯びているように思えた。そして、実際に、ここではないどこか遠くからやってきたXは、しかし、首を横に振って言うのだ。
「申し訳ありませんが、ご期待には、添えません」
「期待もしてないから大丈夫。おじさん、真面目だねえ」
 愉快さ半分、呆れ半分といった調子で笑う少女は、岩の上に立ち上がる。
「ま、いいんだ。それより、おじさんは結婚はしてないの?」
「その手の縁が、なかったもので」
 結婚の経験に限らず、きっと、Xにも人並みの人間関係とそれに伴う経験があったはずなのだ、とその言葉で思い至る。これも、私が問わず、Xが語らなかったことの一つだ。
 その上で、Xは少女を見上げて言うのだ。
「なので、私が言えることなど、ほとんど、ありませんが」
 ぽつ、ぽつと。単語を選ぶようにしながら、Xは少女に向けて言葉を紡いでいく。
「想像できないことは、いつだって、恐ろしいものです。けれど、経験してみると、案外、どうってことなかったりはしますよ」
「それ、もしかして、励ましてくれてる?」
「一応、そのつもりです」
「下手くそだねえ」
 Xの言葉にばっさりとした評価を下しつつ、それでも少女はおかしそうに笑っていた。眩しそうに目を細め、空を見上げて、笑うのだ。
「うん、でも、少しすっきりした。ありがとね、おじさん」
 あと、ここであたしと喋ったことは内緒だからね、と薄い唇の前に人差し指を立てる。こんなことを言っていたなんて先方に知られたら気まずいにもほどがある、と。
 その時、遠くから声が聞こえてきた。誰かを呼ぶような、響き。少女は森の方を振り返り、ぺろりと舌を出す。
「おっと、時間切れかな。そろそろ行かなきゃだ」
 音もなく岩から飛び降りた少女は、そばに生えている木の枝を折りとり、指の中でくるりと一回転させる。すると、ただの木の枝だったそれは一本の簪に変わる。それで黒髪を纏めなおし、身を翻す。
 ――その瞬間、少女の纏っていた簡素な服が、豪奢な白装束へと変化した。
 きっと、Xは目を丸くしたに違いない。私も少なからず驚いた。少女の顔にはいつの間にか丁寧な化粧が施され、傍目に見る限りそれは確かに「花嫁姿」であった。
「それじゃあね、おじさん」
 重そうな花嫁衣裳にも構わず、身軽な動きで少女は森へと駆けていく。Xはその背中に手を伸ばしたが、少女は振り向いて笑うだけで、それ以上何を言うこともなく木々の間へと身を滑り込ませ、Xの視界から消えてしまう。
 ただ一人取り残されたXは、伸ばした手を下ろした。小さな溜息の声が微かに聞こえてくる。そこに含まれた感情までは伝わってこなかったけれど。
 しばらく、Xはそのまま岩の上に留まっていた。流れる川を見るともなしに見ていると、不意にぽつりと視界に雨が落ちた。
 見上げてみれば、空は変わらず雲ひとつなく晴れ続けている。けれど、辺りに視線を向けると、雨粒が落ちているのがわかる。ぽつ、ぽつ、と地面に円を描いていたそれは、やがて本格的な雨へと変わっていく。
 すると、雨の音に混ざって不思議な音が聞こえてきた。鈴の音、だろうか。Xの視線が音の鳴る方に向けられる。すると、鬱蒼と生い茂っていた森の木々が、自ら譲るように道を開いていくのが目に入る。
 そして、木々の間から現れたのは赤い傘を差した人々だった。それぞれが立派な着物を纏い、傘の下で荷物を担いでいる。彼らはそこにいるXの存在になど気付いていないとばかりに、ゆっくりとした足取りで川の前にまでやってくると、川の上を滑るように歩き、向こう岸へと渡っていく。
 鈴の音に合わせて、川の上を赤い傘の行列が続いていく。やがて、森の中から姿を現したのは、赤い傘を差した白装束の花嫁――あの少女であった。
 花嫁の少女だけは、そこにいるXに目を留めて。その前を通り過ぎる時に、少しだけ笑いかけてきた。その表情は、先ほどまでの無邪気なものでなく、どこか含みをこめた、大人びた笑みであった。
 果たして、Xはその笑顔にどのような表情で返したのだろうか。私にはわからない。
 ただ、
「……幸せに」
 そう呟くXの声だけが、低く、しかし確かにスピーカーを通して聞こえた。
 少女は少しだけ目を見張ったけれど、すぐに笑みを取り戻して、ほんの少しだけ唇を動かした。その声は私には聞こえなかったけれど、きっと、礼の言葉だったのではないだろうか。
 少女もまた川の上を渡って向こう岸へと消えていく。Xはそれを雨に塗れそぼりながら見送る。
 晴れ空に、雨。
 そのような異様な天候を、確か――。
「狐の、嫁入りか……」
 そう、そんな風に呼ぶのであったか。
 少女を送っていく嫁入り行列が完全に川を渡って見えなくなるまで。Xはそこに腰かけたまま、雨の中に揺れる赤い傘をじっと見つめ続けていた。