どこまでも広がっているように見える色のない空間に、色も形もそれぞれの無数の扉が浮かんでいる。扉からは階段や道が立体的に交差しながら、あちこちへと無軌道に延びている。それらがどこに繋がっているか、一目で把握するのは困難であった。
ディスプレイいっぱいに広がる目が眩むような光景は、さながら、騙し絵のよう。
そんな不可思議な『異界』を己の目で見ているはずのXは、一体何を思っているのだろう。立ち尽くしたまま、微動だにしない。ディスプレイに映るXの視界に、かろうじて彼自身の瞬きの気配が伝わってくる、だけ。
「……X」
思わず漏れた私の声は、目の前の寝台に横たわるXの肉体の鼓膜を震わせてはいるかもしれないが、『異界』に存在するXに届くことはない。ひとたび『異界』に『潜航』した意識に対して『こちら側』の私たちが干渉する術はただ一つ、抜け殻の肉体と意識とを繋いでいる、目に見えない命綱を『こちら側』に向けて手繰り寄せることだけだ。
Xは動かない。観測することしかできない我々もまた、重たい沈黙を保ったまま、Xの感覚を伝えてくるディスプレイとスピーカーに、意識を向けることしかできない。
不意に、Xが視線を落とした。ゆるりと持ち上げた左の手を、顔に近づけて。おそらく、無造作に顔を拭ったのだと思う。一瞬だけディスプレイが暗転し、それからすぐに視界が戻ってくる。
目の前に広げた手には、血がべったりと付着していた。X自身が流した血であることは、私にもわかる。
それだけでは実体を持たない意識ではあるが、『異界』においてはかりそめの形を持つ。本来、意識と不可分である肉体の性質を、意識も自然と再現するものなのだ。だから、「血を流した」という現象もXの実感として確かに存在し、そこに伴うはずの感覚――例えば痛覚など――も付随しているに違いないのだ。
だが、Xは痛がるような素振りも見せず、じっと己の赤黒く染まった手を見つめる。
それから、ふ、と視線をあげた。めくるめく騙し絵の世界。何ひとつ『こちら側』に似ていない奇妙な空間をぐるりと見渡して。
「聞こえますか」
よく通る低い声が、Xの聴覚と接続されているスピーカーから聞こえてくる。
それが、『こちら側』にいる我々に向けた言葉であることは、わかった。
Xもまた、『異界』にいる以上『こちら側』で観測している我々に直接干渉することはできないが、己の声を耳に響かせることで、『こちら側』のスピーカーを通じて私たちへと伝えることはできる。不完全な、一方向のコミュニケーション。だが、我々にXの意志を伝えることのできる数少ない手段だ。
それが利用されるのは、ほとんどの場合、X自身が『潜航』の継続不能を判断したとき。
観測している我々が継続不能を判断することも多々あるが、我々とて『異界』におけるXの状態を一から十まで把握できるわけではない。X自身が継続不能だと思ったならば、それは観測の中止に値する。いくら使い捨てを想定しているとはいえ、『潜航』の経験を数多く積んだサンプルを簡単に切り捨てるのは我々も惜しい。
だから、今回もまた、継続不能の報告なのだろう。それならば、と命綱を引き上げる準備を開始した――その時だった。
「聞こえて、ますか」
もう一度、Xの声がスピーカー越しに響いて。
「どうか、『引き上げないでください』 」
耳を疑う言葉が、続いた。
私は、スタッフたちと目を見合わせた。視界の端で、ディスプレイが、Xの目を通した果てなき『異界』を映し出していた。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
そうして、本日の調査対象に選ばれた『異界』が、この騙し絵の世界だ。
事前調査で意識体が存在できうる環境であることを確かめ――意識が肉体と密接に関係している以上、極端に『こちら側』とかけ離れた環境に送り出すと、その瞬間に意識が「死」を認識してしまう危険性があるからだ――、潜航装置を通してXの意識を『異界』へと送り出す。そこまではいつも通りの手続き。
私がXに与えているタスクはただひとつ、「可能な限り『異界』を己の目と耳で観測すること」。ひとたび『潜航』を開始すれば、こちらから指示はできないため、『異界』における行動は全てXに委ねられる。
そして、今日に至るまで、Xはタスクを忠実にこなしてきた。今回だってそう、目が眩むような光景を前にしても動じることなく、目に見えるもの、耳に聞こえるものを私たちに届けることに専念していた。少なくとも、私からはそう見えていた。
Xの目の前に、「それ」が現れるまでは。
それは、我々と大きく変わらない姿をした――つまり、人間の女性に見えた。
『異界』の事柄にどれだけ『こちら側』の言葉を当てはめていいのかは未だ議論の余地がある上に、我々が観測できるのはあくまで「Xの視界」だ。Xがそれを人間の女性だと知覚しただけで、実態はまるで別のものかもしれないが、真相を我々が知ることはできない。
ともあれ、女である私の目からもとびきり優れた、「絶世の美女」と言うべき女性は、突如としてXの視界の中に現れた。虚空に縦横無尽に走る道、そのひとつを歩いていこうとした矢先のことだった。
どこから光が射しているかもわからない空間の中、いかなる仕組みか淡く七色に煌めいて見える、ゆるやかに波打つ長い髪。年齢などといった人間にあるべき情報が極めて判別しがたい、ただただ「美しい」という言葉だけが似合う、つくりものめいた顔。『こちら側』でいうある種の聖職者に近い、肌の露出がほとんどない、地味な色合いの服を纏っていたが、故にこそ覗く顔や手の磁器のような白さが強調されている。
それは『異界』そのものと同様に、認識した者を圧倒する力を持っていた。ディスプレイ越しにすらそう感じるのだから、直視したXはそれ以上のものを感じ取っていたに違いない。それでも、Xの視覚と聴覚に動揺らしきものは伝わってこない。今までもXが『異界』の事象に驚きや恐怖などといった反応を見せることは稀で、今回もその例に漏れなかった、というだけの話ではあるのだが。
そして、Xの視界の中に現れた女性は音もなく足を踏み出し、Xの方へと歩いてくる。揺れる長い髪は柔らかな輝きの尾を引き、形だけが「人間」に似ているだけに過ぎない、未知の存在であることを伝えてくる。
Xはこちらに向かってくる女性に対して「あの」と声をあげた。音一つ聞こえない空間において、その声はよく響いた。すると、女性は少しだけ微笑んで、白い肌の中でうっすらと赤く色づいた唇を動かした。
「愚かなひとですね。哀れなひと、と言った方がいいでしょうか」
スピーカーから響いてくる声は、どこまでも澄んだ、薄い硝子を鳴らしたかのごとき響きを帯びていた。
そして、Xが理解できる、つまり我々にも通じる言葉であった。
もちろん、これもXの知覚に依存する以上、本当に女性が日本語で喋りかけてきたと断定することはできない。わかるのは、この『異界』において、Xが用いている言語での意志疎通を図ることのできる相手だ、ということ。それだけだ。
Xはわずかの沈黙ののちに、口を開く。
「初めまして、のわりには、失礼なことを仰いますね」
よく通りはするものの、低い唸りを思わせる響きは、澄み渡る女性の声とは対照的だった。選ばれた言葉とは裏腹に、声に不快の色はなく、ただただ女性の言が「失礼」に当たることを指摘するだけの、彼らしい物言い。
それに対し、女性はもう一歩分距離を詰めながら、完璧な微笑みもそのままに歌うような声音で言うのだ。
「事実を述べただけです。あなたは哀れなひと。愚かしさゆえに、理を乱すものに心を惑わされたのでしょう。歪んだ理を、その身に、宿してしまったのでしょう」
「……何を、言っているんです?」
言葉は通じる。ひとつひとつの単語の意味を拾い上げることはできる。けれど、Xの戸惑いは妥当だとも思う。それがXを指した言葉であることがわかるだけで、私にも女性が何を言いたいのかは全く伝わってこない。
女性はいつの間にか互いの手が届くくらいの位置にまで近寄ってきていた。近くで見れば、更に非のつけどころがないとわかる顔。深い憐憫を湛えた微笑みは、まるで絵に描かれた聖母か何かのように見えなくもなかった。
その憐憫が、「自分」に向けられたものでない限りは。
女性はXが自分の話を理解していないことに気づいたのだろうか、「あら」と目を少しだけ見開いて、それから、笑みを深めた。
「あなたは、異なる世界から渡ってきた者でしょう? なら、わかるのではないですか、理を乱すということが。あらゆる世界を壊しかねない、悪しき行いのことが」
「わかりかねます。私は、ただ、この世界のことが知りたいだけで、何も、乱したり壊したりしたいわけでは……」
「いいえ、いいえ、あなたは知っています。知っていなければおかしいのです」
すう、と女性の白い右手がXに向けて伸ばされて、ディスプレイの端へと消える。もしかすると、Xの顔に触れたのかも、しれなかった。
「世界のあるべき形、それが理です。ひとつひとつの世界に、目には見えなくとも確かに存在しているもの。そして、その理を捻じ曲げて、身勝手にもあり得ない形に書き換える。そういう行為を、あなたたちの言葉では『魔法』と呼ぶのです。ご存知でしょう?」
魔法、と。Xの掠れた声が、わずかに、スピーカーから聞こえた。
――魔法。
それは、『異界』を観測する我々にとって、特に慎重に扱うべき言葉だ。
今までの『潜航』で、Xは『こちら側』では起こりえない数々の不可思議な現象に遭遇してきた。ただし、現象を観測した我々がそれに魔法という名前をつけたことはない。『こちら側』ではあり得ない現象も、その『異界』の中では当然のものであり、「起こりえないこと」を示す「魔法」という言葉は相応しくないからだ。
ただし、幾度にも渡る『潜航』の中で、魔法と呼ぶべきものが無かったとは言わない。
それは――『異界を渡る者』の持つ力だ。
我々は意識をこの世界に近しい『異界』と接続する、という形で限定的に『異界』を観測している。もし、人間を肉体ごと『異界』に送り込み、自由に『異界』を渡り歩く技術が確立されればこのプロジェクトも別のステージに至るのだろうが、今のところ実現には遠い。
だが、Xを通して『異界』を観測するようになって、はっきりした。我々がその方法を確立できていないだけで、『異界』を自由に渡り歩く者は存在する。それぞれの『異界』のルールに縛られることなく、まさしく魔法のような力を操る者たち。Xが接触したことのあるその人物の言葉を借りるなら、「魔女」と呼ばれる、ものが。
果たして、女性の言うそれが、私の知る魔女たちが操るものと同じものかはわからないが、『異界』と呼ばれる『こちら側』とは異なる場所でも、守られるべきルールがあるということは……、わからなくは、ない。そして、女の言う「魔法」とはそれぞれの世界が持つルールを逸脱し得るものを指すのだ、ということも。
Xが女の言葉をどう咀嚼したのかはわからない。私と同じような考えに達したのか否かを、ディスプレイとスピーカーから伝わる情報で判断することはできそうになかった。私にわかるのは、Xがそれきり沈黙していることだけだ。
女は憐れみを湛えた笑顔を浮かべ、何色とも言い切れない不思議な色の双眸でじっとXを見つめてみせる。
「どれだけ愚かで哀れであろうとも、あなたに罪はありません。しかし、理を乱し、世界を壊す魔法と、それを操る者の存在は、悪しきものなのです。許されざるものなのです」
小さな子供に言い含めるような、柔らかな言い方で。
「ですから、あなたに宿ってしまった魔法は……、除かれるべきなのです」
刹那。
ディスプレイに映し出されたXの視界が激しく揺れた。暗転。そして、スピーカーから聞こえてくるのは、押し殺し切れていない、Xの苦悶の声。
何が起こったのか、私にはわからなかったし、この場に居合わせたスタッフも誰一人理解しなかったに違いない。だが、一拍ののちにディスプレイが明転し、そこに映ったものを見て息を飲んだ。
暗転していた間の一瞬で、伸ばされていた女の手が、Xから離れていた。そして、そのしらじらとした細い指につままれていた、それは。
それは。
――血を滴らせる、眼球、だった。
「っ、う……っ」
その場に膝をついたのか、視線が先ほどより低い。激しく瞬きをしているのだろう、ディスプレイの映像がちらつき、言葉にならない呻き声が、スピーカーから漏れる。
「もう、大丈夫ですよ。あなたは、何も悪くありません。悪いのは、……あなたを惑わせたもの。それも、こうして、取り除かれました」
Xの乱れた息遣いと獣じみた唸りに、女の涼やかな声が混ざりこむ。女を見上げるXの激しくぶれる視界の中で、女の姿が少しずつ薄らいでいく。もちろん、その手の中にある眼球も、一緒に霞んでいく。
「これは、元よりあなたには必要のなかったものです。あってはいけなかった、もの」
ただ、ただ、硝子のような声が、耳に響く。
「これであなたも、正しく、間違うことなどなく、生きていくことが、」
「それを! 返せ!」
女の声を遮り、突如として意識の中に飛び込んできた声。
それがXの声だと気付いたときには、ディスプレイに映し出された女に向けて、Xの両腕が伸ばされていた。しかし、その腕は女に触れることもなく、空を切る。がくん、と視界が揺れて、視線が床へと落とされる。勢いあまってその場に倒れ込んだのだろう。
Xが顔をあげても、女の姿は、もう、見えなかった。
けれど、わずかな煌めきの気配だけが残る虚空に向けて、Xは声を荒げるのだ。
「返せ! 返せよ! それは、……っ!」
その言葉は、最後まで紡がれることはなく。苦しげな呼吸の気配を最後に、沈黙が落ちる。
私が――この場にいる全員が、呆然と、ディスプレイを見つめていた。
結局、あの女の言動の意味は何一つ掴めなかった。はっきりしたのは、あのしらじらとした手で、Xの片目を抉った、ということだけ。
だが、何よりも私を驚かせたのは、Xが自ら声をあげて、女に食ってかかろうとした、ということだ。突如、理不尽に傷つけられたのだから激昂してしかるべき、という当然の感想と、「Xらしくない」という思いが混ざりあう。
そう、これまで我々が観測してきたXらしくは、ないのだ。
Xという人物について、私は仔細を知らない。知る必要がないから。個人の情報は、「生きた探査機」である異界潜航サンプルの運用には関係がない。我々からすれば、こちらの指示に従って『異界』を観測できる人物であれば、それだけでいい。
だから、私はXの本名も知らなければ、その出自も経歴も知らない。Xとの対話で得られた情報といえば、かつて、片手の指では数えきれない人を手にかけて、死刑を宣告されたということ。そのくらい。
そして、Xという人物は私の目から見る限り、穏和で冷静、そして極端に従順な人物だ。理屈では説明のできない出来事に直面し、死を覚悟したことだって一度や二度ではないはずだ。しかし、『潜航』を命じる我々に恨み事も弱音も吐き出すことなく、それどころか眉ひとつ動かさずに次の指示を求めるような――、そういう、人物。
サンプルとしては極めて扱いやすいが、気まぐれに「人として」のXを考えてみる時、それは異様さとして映る。何に対しても執着を見せず、こちらがひとたび命じれば己を擲つことも厭わないXの姿勢は、見ている側が不安になるほどの自我の欠如を感じさせる。振る舞いに見る穏やかさも、何を前にしても心を動かすだけの理由がない、ということだと考えていたし、スタッフたちも同様に認識していたはずだ。
だから、「片目を奪われた程度」で激昂するような人物ではない、と。私を含めたこの場の全員が思ったに、違いないのだ。
「リーダー、どうする? 観測、続ける? それとも引き上げる?」
エンジニアの声が、ぐるぐると巡り始めていた私の意識を現実に引き戻した。
Xは、その場に起き上がろうとしているところだった。沈黙はそのままに、ディスプレイに映し出された視界がゆっくりと持ちあがり、改めて無数の扉と道とで構成された騙し絵の『異界』を映し出す。激しい瞬きも止まったのか、視界は安定していた。
もう、視界内に動くものはない。女性はXの眼球を持ったままいずこかに消え、その影すらも見えない。
「……もう少しだけ、待ちましょう」
返せ、と叫ぶXの声が、耳の奥に響いていた。ほとんどのものに心を動かさなかった彼が垣間見せた、苛烈な感情の発露。それが『潜航』にどのような影響を及ぼすものなのか、私には想像もできなかったから。
せめて、ここからXがどう動くのか、そのくらいは、見届けたかったのだ。
かくして、我々は今、Xの言葉を聞いている。
「もう一度、言います。『引き上げないでください』 」
スピーカーから響く声は、まだ私の耳の奥に残る激しさなど嘘のように、静かだった。私が今まで聞いてきたそれと何一つ変わらない、異界潜航サンプルXの、声。
だが、その声が語る内容は、私の知るものではなかった。
「戻れない理由が、できました。私は、あの女を追いたいと思います」
取り戻さなければいけないのです、と。
付け加えた声は静かであったにもかかわらず、聞いているこちらがぞくりとするような気迫を帯びていた。つとめて冷静に振る舞ってみせているけれど、それが常のXとまるで異なるということだけは、察する。
「リーダー……」
新人が戸惑いをあらわにこちらを見つめてくる。見れば、彼だけでなく、他のスタッフたちも同様で、もちろん私とて例外なく戸惑っている。
今までの『潜航』でも、Xに害意を持つ相手がいなかったわけではない。そして、実際に傷つけられたことも一度や二度ではない。だが、Xが『潜航』の継続不能を判断し、自ら引き上げを求めることはあっても、傷つけられたことを理由に引き上げを拒否するのはこれが初めてだった。
それに――、抉られた側の目は、元より見えていないはずなのだ。
これは私がXをサンプルに選んだ時から既にそうで、こうして『潜航』中にディスプレイに映し出されているのも、Xの右目から得られる視界に限られている。つまり、意識の上でも左目は機能していない、ということに他ならない。
傍から見る限り多少の不便はあるようだが、当人がことさら困っているようには見えなかったから、「そういうもの」として我々が共通の認識としているだけの、特筆すべきでもない事柄。
以前、『異界』への『潜航』中にXの右腕が失われ、『こちら側』の肉体には影響が及んでいないにもかかわらず、右腕が全く動かなくなった、というケースはあった。意識体の機能を奪われるということは、肉体の機能を奪われることに等しい、ということを図らずも思い知らされることになった出来事だ。
だが、今回の場合は最初から機能していない側の目を奪われたのだから、それが現実に多大な影響を及ぼすとも考えづらかった。意識の上で体の一部を奪われた苦痛を覚えたとして、肉体から眼球が奪われたわけではないのだから、『こちら側』に戻って来さえすれば、『潜航』前と何も変わることはない――その、はずだ。
そのはず、だというのに。
「だから、絶対に、『引き上げないでください』。私が改めて、引き上げを望むまでは」
Xは。
「本来、このようなことを頼める立場ではない、ということも、わかっています」
虚空に、その場にはいない我々に向けて。
「それでも、お願いします」
いつになく張りつめた声で、言うのだ。
我々から『異界』のXの表情は見えない。目の前に横たわっている、何ら特徴らしい特徴を持たない、中年の男性に視線を落としてみる。意識を切り離したXの空っぽの肉体は、もちろん何を応えてくれるわけでもない。理解はしていても、つい、「冴えない」という形容が似合う顔を睨まずにはいられない。
しばし、寝台に横たわるXの胸が浅く上下しているのを眺めていたが、顔をあげてスタッフたちの視線を受け止める。プロジェクトの現場責任者は私なのだから、イレギュラーに対して指針を示すのも、私の役目。
「 『異界』との接続は、どのくらい続けられそう?」
「アンカーは安定してるから、このまま単純に接続を維持するだけなら『こちら側』の時間で少なくとも三日は問題ないと思うわね。でも……」
潜航装置を弄るエンジニアが露骨に躊躇いを見せる。それに一つ頷いてみせ、ディスプレイに目を戻す。
「長時間の『潜航』は未だ未知数。『異界』に留まる時間が延びれば延びるほどXの負担も大きくなるでしょうし、その間は我々も観測を続ける必要がある」
ディスプレイは先ほどの景色から少しも動いていない。Xはあれきり黙ったまま、身じろぎもしていないのだということが、わかる。
だから、私は。
「でも、これもいい機会だと思って、データを取らせてもらいましょう」
プロジェクトのリーダーとして、観測の継続を宣言する。
緊張の面持ちを浮かべるスタッフたちひとりひとりと視線を合わせ、意識して笑ってみせる。
「ただし、『異界』との接続が不安定になったり、『潜航』の継続不能が明らかになったりした時点で、引き上げを優先。Xの恨みは私が買うわ」
普段のX相手なら、「恨む」なんて言葉など使う必要もない。だが、先の剣幕を見る限り、今回ばかりは彼を裏切れば軋轢が生じてもおかしくない、と思わされる。もちろん、私がXの事情など気にする必要はない。Xは所詮使い捨ての「生きた探査機」に過ぎず、想定通りに働かなくなれば次のサンプルを探せばいい、それだけ。
だが、私はXがどれだけこのプロジェクトに寄与してきたのかを知っているし、できることならば、これからも『潜航』を続けてほしいと考えている。このように考えているのは、何も私一人ではないのだろう。サブリーダーが、苦笑を浮かべながら口を開く。
「そう言うな。恨まれるんなら俺たちも一緒だ。……もちろん、そうならないことを、願ってるがな」
「そうね。早いところ、Xが満足してくれればいいんだけど」
そう言ったところで、ディスプレイの視界に動きがあった。映し出された風景が流れ出す。Xが一歩を踏み出したのだ。
我々から『異界』のXにアプローチすることはできない以上、Xが観測の続行を理解したわけではないだろう。だが、我々が即座に引き上げを行わなかったことで、今この瞬間に『潜航』が終了することはない、と判断したに違いなかった。
ディスプレイから目を離さないまま、私はスタッフたちに指示を出す。
「今のうちに、分担を決めておきましょう。長時間の観測になる可能性が高い以上、観測者がいない時間を作るわけにはいかないから。それに、Xの肉体も逐次チェック、状態を維持していく必要があるわね。よろしく、皆」
ばらばらとした返事と共にスタッフたちが動き出す気配を感じながら、私は画面越しにXの見ている景色を見つめる。果たして、Xは目の前に広がっている無数の道のうち、何を選び取り、どこに向かっていこうとしているのだろう。
――終わりの見えない『潜航』が、始まる。
Xは足早に道をゆく。サンダル履きの足音は聞こえない。静寂に包まれた世界を、ただ、ただ、進んでいく。忽然と現れる階段を上り、目の前に現れた扉をくぐり、そこから延びる道を更に歩いていく。その足取りに迷いはないが、彼には向かうべき場所が――片目を奪い去ったあの女性の居場所がわかっているのだろうか。ディスプレイ越しに観測しているだけの私がそれを判断することはできない。
画面に映る世界は少しずつ風景を変えていこうとしていた。最初は扉ばかりが目についたが、進んでいくにつれ、扉は数を減らしていき、代わりに、大小さまざまな箱のようなものが虚空に浮かびはじめる。箱の材質はそれぞれだが、どれも側面が格子状になっているのが見て取れた。
そして、もう一つ、変化があったとすれば、今まで無音であった世界に、わずかな音が生まれたということだ。
Xも周囲の状況の変化に気付いたのか、足を止めた。そして、ゆっくりと視線を巡らせる。音の出所を探るかのように。
音はXの側に浮かんでいる、いくつかの箱の中から聞こえてきていた。箱の一つずつを注視してみれば、その内側で、影が蠢いているのが見える。すぐ側に浮かぶ、人ひとりがすっぽりと収まるくらいの大きさの箱を見やれば、格子の隙間から、酷く痩せた人間の腕らしきものが伸びていた。道に立つXにぎりぎり届かないくらいの位置で、枯れ枝のような指先が、虚空を掻く。
それと同時に、スピーカーから掠れてひび割れた声が聞こえてくる。
「出して、くれ」
こちらにも意味の取れる言葉。Xにも理解できただろう言葉。Xは伸ばされた手には触れないまま箱の中を覗き込む。中にいる者の姿はよく見えなかったが、少なくとも人らしい形をしているようには、見えた。
ひとつ、聞こえていた音が「言葉」だと認識できた途端、辺りの箱から響いていた微かな音がにわかに「言葉」として意識されるようになる。
「助けてくれ」
「あの女を出せ」
「ここから逃がして」
「呪ってやる」
「こんなところもう嫌だ」
「帰りたい」
どうやら、この箱一つ一つに何者かが入っているらしい。しかも、望んで入っているわけではなく――不本意に閉じ込められている。助けを求める声、呪詛を紡ぐ声、帰還を望む声。いくつもの声を浴びせかけられながら、Xはその場に立ち尽くす。
箱に対して何らかの行動を起こすわけでもなく、ただ、ただ、黙したままそれらの声を聞き続ける。
その時、不意に。
「何だ、珍しいな、アレ以外の奴がこんなところまで来るなんて」
辺りを支配する重たいざわめきを貫いて響く、声。Xの視線はその声が聞こえてきた方に向けられる。
声の出所は、Xから死角に位置していた、ひときわ小さな箱だった。両手で支えられる程度の大きさの箱から、しかし、声だけはいやにはっきりと聞こえてくる。
「おいおい、何て顔してんだ。アレに手ひどくやられたか?」
Xはその言葉には応えないまま、箱の中を覗き込む。細い格子の間から見えたのは、柔らかそうな黒い被毛を持つ、ちいさな動物だった。ぱっちりとしたつぶらな瞳が、こちらを見つめ返している。その顔立ちを『こちら側』の生物に例えるならば、ウサギに近い。けれど、耳の形はネコのようでもあり、そもそもウサギだとしたら明らかにおかしな位置から脚が生えていたりもする。
その、不可思議な獣が、私の知る動物にはあり得ない口の動かし方で言葉を放つ。
「なんとか言えよ、それとも俺の言葉がわからないクチか?」
「……いえ」
スピーカーから漏れる、低い声。
「聞こえていますし、言葉も、わかっていると、思います」
言葉ははっきりと聞こえるのに、ぼんやりとした響きを帯びたXの声。それを聞いた獣が、目をぱちりと瞬かせる。
「アンタ、どうしてこんなとこをうろついてんだ? 迷子っつーには厳つい顔してるが」
「人を、探しています」
Xがその言葉を放った途端、辺りを包むざわめきが深まった。けれど、Xは構う様子もなく、箱の中の獣を見つめ続ける。
「アレが『ヒト』に見えたのか、アンタは」
獣は愛嬌のある顔に似合わぬ、妙に人間じみた溜息をつきながら言う。
「そのツラ見る限り、アレにやられたんだろ。目玉一つで済んでるところを見ると、アンタ自身には興味が無かったみたいだが」
「あなたがアレと呼んでいるのは、あの、白い、女ですか」
「まあ、確かに白いな。女にも見える。……だが、アレを探してどうするつもりだ?」
「目を、返してもらいます」
「無理だ、諦めろ」
Xの言葉を、獣は切って捨てた。獣の表情は人間のそれとは異なり、正確に推し量ることはできそうにないが、声音が多分の呆れを含んでいることは私にも判断できた。
「帰った方が身のためだ。せっかく見逃されたんだ、これ以上アレに関わるべきじゃない」
「何故?」
「次はアンタが『こう』なるからだよ」
言って、獣は妙に多い脚の一本で格子に触れてみせる。
「アレは、アレ自身が信じている『ルール』が全てだ。アンタ自身はルールに抵触していなかったから解放されたんだろうが、アンタがアレに歯向かおうってんなら、容赦する理由もなくなる」
それこそ、捕まるだけじゃ済まされないかもしれないな、と獣は言い放つ。
確かに、あの女性は、憐れみの微笑みを浮かべたまま、指先ひとつでXの目を抉り取ってみせた。どう見ても『こちら側』の常識が通用しない相手であり、そしてXはあの女性独自の、我々には理解できない判断基準に照らして「見逃された」だけなのだろう。
もし、あの女性の意向に逆らうならば、次はない。獣はそう警告しているのだ。
だが、Xは。
「だから、何だというのです?」
「は?」
「どうして、それで……、諦めることが、できる?」
「アンタ、俺の話聞いてたか? たかが目玉一つだろ?」
「 『たかが』――?」
ぽつりと声を落としたXは、果たしてどのような表情をしていたのだろう。箱の中の獣が、びくりと震える。
「おい……、何で、そんな顔」
「取り返すまで、帰らない。諦めて帰る理由がありません」
Xの声は静かで、淡々としていて、それだけならば私が普段から観測しているXと何も変わらない。だが、その言葉は獣の忠告が全く耳に入っていないことを示している。いや、耳には入っているのだろうが――言葉通り、Xにとっては引き返す理由にはならない、ということなのだろう。
Xの言葉を受けて、獣は二の句が継げなくなったのか、押し黙る。Xはしばし箱の中の獣をじっと見つめていたが、やがて視線を外した。箱の浮かぶ空間の中にも、細い道は真っ直ぐに延びている。まだ、ここから「先」があるということだ。
声をかけてきた獣が口を噤んだ以上、立ち止まっている理由もない。Xは足を踏み出そうとして……、「待てよ」という獣の声に制される。
「どこに行こうとしてるのか、わかってんのか」
「知っているわけでは、ありませんが」
乾いた血がこびりついたままの手が、視界に入る。汚れた手が握られて、ほとんど呟きとしか取れない声がスピーカーから零れ落ちる。
「この先に『ある』ことなら、わかりますから」
失われた眼球の在処など、通常ならばわかるはずもない。もしくは、とっくに失われていたとしても、おかしくはない。だが、Xの声には妙な確信が籠っていた。常日頃から誤魔化しや嘘と無縁のXが、あえて「ある」と断言するからには、私には観測できない何らかの感覚で左目の存在を感じ取っているのかもしれなかった。
「それでは。先を急ぐので――」
「ほんと強情だな、アンタ。まあ、そう言うならもう止めないけどよ」
獣の声が、視界の外から聞こえてきて。
「先に行くなら、俺を連れてく気はないか?」
その言葉を受けて、Xは獣の方に視線を戻した。獣は小さな箱の中から愛らしい顔をXに向け、けれど顔に似合わぬ調子で言うのだ。
「アンタはアレのことを何も知らないときた。きっと、ここのことだってろくに知らずに迷い込んだんだろ。俺はアンタの知らないことを教えられるし、アレのいる場所だって想像はつく。役に立つぜ、アレに会おうってんなら、尚更な」
「……それで、あなたには、何の得があるのです?」
Xの言葉に、獣は「はは」と愉快そうに笑う。
「俺もアレに用がある。そうでなくとも、こんな変わりばえのしない場所にいるのはこりごりだ。それだけの話。アンタの邪魔にはならねえよ」
どうだ、悪い話じゃないだろう、と。あっけらかんとした獣の言葉を受けて、Xは何を考えていたのだろう。しばしの沈黙ののち、Xの声がスピーカーから聞こえてくる。
「わかりました。協力を願います」
「よしよし、いい返事だ。じゃあ、早速ここから」
獣の言葉を聞き終わるよりも先に、Xの手が獣の入った箱に伸ばされる。何かに繋がれているわけでもなく、ただ虚空に浮かんでいただけの箱は、あっけなくXの両手の中に収まった。どのくらいの重さを感じているのか、どのような手触りなのか、私が知ることはできない。ただ、Xは手の中の箱に視線を落として、
突然、箱を激しく上下に振った。
「あばばばばばばばばばば」
中の獣からしたらたまったものではなかっただろう。言葉になっていない声が箱の中から聞こえてくるが、Xは意にも介さず箱を振り続け、やがてぴたりと手を止めて、ぽつりと言った。
「開きませんね」
「今ので開くとでも思ってたの!? アンタ頭大丈夫か!?」
獣がぎゃーぎゃー訴える声が聞こえるが、Xはその言葉もろくに聞いていないのか、箱を手の中でぐるりと回して、言う。
「蓋も、継ぎ目も、ないですね」
「せめて、それを先に確かめてほしかったよ」
もっともだ。見ている私の方まで呆れた溜息を漏らしてしまう。Xの奇行もあるが、対する獣が比較的気さくな調子でいるからだろう、先ほどまで漂っていた緊張感は随分薄れた気がする。
それでも、Xはあくまで淡々としていて、箱を見えている方の目に近づける。格子の向こうの獣は目をぱちくりさせてこちらを見つめ返す。
「どうすれば、開きますか」
「さあな、内側からは絶対に無理なことだけはわかるが。散々試したからな」
「そうですか。ではこのまま失礼します」
Xはさらりと言い放ち、両手で箱を抱えて歩き出す。獣が「おい」と慌てた様子で声をかけてくるが、Xはもう手の中の箱に視線を落とすこともない。
「せめて、もうちょっと、こう、開けてみようとする努力を見せて……」
「では、もう少し強く振ってみますか」
「ごめん俺が悪かったからやめてくれ」
わかりました、と答えるXの表情を私が窺うことはできないが、彼自身はいたって真剣に言っているのだということは、何となくわかってしまう。獣も同じ結論に至ったのだろう、ディスプレイの外側から溜息混じりの声をかけてくる。
「アンタ、イカれてるよ」
「よく言われます」
Xが道を進み始めれば、辺りに漂う大小いくつもの箱の中から聞こえていた声が、にわかに数と音量を増す。
「どうしてそいつだけ」
「私も連れて行って」
「ここから、どうか」
「助けて」
「助けて」
「助けて」
だが、Xがそちらに目を向けることは、もう、ない。彼の意識は、既に目の前に延びている道にのみ向けられているようだった。足早に箱と箱の間を抜け、ただ、ひたすらに前へ。
「呼ばれてるぞ」
「聞こえています。けれど、私の手で持てるものには、限りがありますから。無理なことは、できません」
ひゅう、と、そんな口の作りをしていないはずの獣が口笛を吹く音が聞こえた。明らかなからかいの態度に晒されてもXは動じることなく、前へ前へと足を進めながら言う。
「ここにある箱には、全て、誰かが入ってるんですね。そして、一度入ったものは出ることはできない」
「そうだよ」
「つまり、牢獄、ですか」
「ああ」
牢獄。――Xにも縁深いもの、と言ってしまえばそうだ。Xはこのプロジェクトに参加するまでは、否、参加している今ですら、普段は刑務官としか接することのない独房で暮らしている。いつだって変化のない、そして、その命が終わる時まで変わることはないだろう、牢獄だ。
普通の感覚ならば、嫌にもなるだろう。今、手の中にいる獣のように。だが、Xは少なくとも我々の前で、己の境遇に対する呪詛を吐いたことは一度もない。「当然のこと」と言うことはあったとしても。
そんな私の思考とは無関係に、獣の言葉は続いていく。
「アレの気に障る奴を、その存在が尽き果てるまで封じるもの、って言やいいのかな。死ぬまでの刑。下手すりゃ死ぬよりも苦しい刑。俺も、奴らも、何をしたわけでもないのにな」
「……あの女は、『理を乱す』と言っていました。理を乱し、世界を壊すと」
「アレの言うことを真に受けんなよ。アンタだって、別に何をしたわけでもないのに、片目を取られたんだろ。そういうことだ」
「私は、」
Xは言いかけて、けれど、その続きが言葉になることはなかった。
何をしたわけでもない、といえばそう。この場所で何か罪を犯したわけではない。あの女も「あなたに罪はありません」と言っていたはずだ。つまり、X自身に非があったわけではない――はずだ。何故Xの目が奪われなければならなかったのかは、未だに理解できていないが。
ただ、きっと、Xには思うところがあったのだろう。「何もしていない」という言葉に。「罪はない」という言葉に。
Xは罪人だ。私たちの法に照らすなら、どうしようもなく。死に値する程度の。
そして、Xもその事実を認め、刑が執行されるまでの時を生きている。
だから、『異界』のルールを侵してはいないとわかっていても、言葉に詰まったのだろう。己の過去から現在までを俯瞰して、「何もしていない」とは、口が裂けても言えなかったに違いなかった。
獣はXが言葉を飲み込んだことをことさら追及することはなく、代わりに別の話題を振ってきた。
「しかし、アンタも物好きだよな、わざわざこんな目に遭いたいってんだから。手前の目玉がそんなに大切なのか?」
Xは歩き続ける。もはや、手の中の獣にも、周りに浮かぶ箱にも構う素振りを見せない。それでも、獣の言葉を無視することはせず、一拍の呼吸を置いて、律儀に答えるのだった。
「私には、いくらでも代わりはいますが、あの目は、ただ、ひとつ、なので」
――ここは世界の交差点なのだ、と。
箱の中の獣は唐突に言った。
獣の入った箱を小脇に抱えたXは、ひたすらに道を歩いていた。
その間に、ディスプレイに映る景色は、更に変化を見せていた。最初が無数の扉のある空間、次が牢獄らしき箱の浮かぶ空間、そして目に映る箱が数を減らし、箱の中から響く「助けて」の声も聞こえなくなったころには、辺りには何も見えず、ただ幾重にも複雑に交差する細い道だけが残された。
光が射しているようには見えないが、不思議とそれらを視覚で捉えることには困らない。そんな不可思議な空間を言葉少なに歩いていた……、そんな矢先のことだった。
「交差点」
Xは獣の言葉を鸚鵡返しにする。その響きを確かめるかのように。
「そう、交差点。アンタがどんな世界の出かは知らんが、ここにいる以上は、世界を渡ってきたってことだろ」
そうですね、とXが獣の言葉を肯定する。Xの視界に獣の姿が映ることはないが、獣がふん、と息をついたのはスピーカーから聞こえる音で察する。
「普通、世界同士には関連性はなく、てんでばらばらに生まれたり消えたりしてる。だが、何もかもが無軌道に存在してるわけじゃない。ごく稀にだが、世界と世界を繋ぐ場所、異なるいくつもの世界を観測できる世界っつーのが生まれる」
「それが、ここ、というわけですか」
「ああ。だから、俺やアンタみたいな、世界を渡る力を持つ連中から見れば、いくつもの世界に繋がる道や扉があるように見えるってわけ。ここまでは、わかるな?」
「……はい、一応、何となくは」
「頼りないな。アンタ、ほんとに何も知らないんだな」
「私は、指示された『異界』に潜るだけで、自分で、渡っているわけでは、ないので」
どこか呆れた調子の獣の言葉を受けて、Xはぽつぽつと言葉を落とす。すると、獣は「ほう」と不思議そうに言った。
「そうか、まるで匂いがしないとは思ったが、アンタ自身に力があるわけじゃない、ってことか。そりゃ、アレも興味を失うわけだ」
それに、アンタから延びてる「それ」が何かも、やっとわかった、と。
さらりと放たれた獣の言葉に、驚いたのは観測している私の方だった。
「その紐が、アンタのいる世界とアンタを繋いでるんだな。アンタは、誰かさんに命令されてここに落とされてるが、いつでもその紐を伝って、元の場所に帰ることはできる。そうだろ?」
この獣には、Xの視覚では捉えられない「命綱」が見えているのだ。Xはゆっくり右目を瞬いたようだった。ディスプレイの映像が一瞬だけ暗くなる。
「紐が、見えるんですか」
「ぼんやりな。けど、ほんと変わってんな、アンタ。そんな渡り方する奴、見たことないぜ」
「そういうもの、なんですか」
「そういうものなんだ。世界を渡る奴なんて、元の世界に居場所がないから渡り歩くんだしな。片足を元の世界に置いたまま別の世界を垣間見るなんて、思いついた奴の顔が見てみたいよ」
それとも、この紐を手繰ればそいつの顔も見られるのかな。そう言った獣の声はいたって愉快そうだった。
Xから伸びる命綱の端を握る私は、心臓の鼓動が早まるのを感じていた。『異界』の者から、X越しに『異界』を観測する我々の存在を察知されたのはこれが初めてではないが、そのたびにどきりとするのだ。
我々はXを通さなければ『異界』の事物を観測できない。『異界』の事物に干渉するなんて、できやしない。だが、『異界』に生きる者が持つルールは、我々のルールとは違う。もしかすると、Xを通して、もしくは命綱を伝って――『こちら側』に、直接干渉してくることだって、あるのではないか?
それはきっと、貴重かつ重要なデータになるだろう。ただし、それは我々に何の問題も生じなかった場合に限る。例えば、この獣が我々に害を及ぼす可能性だって、零とは言えない。『異界』の者に干渉されて、『こちら側』の我々が無事でいられる保証はどこにもないのだ。
だが、Xの興味は私とはもう少し別のところにあったらしい。わずかに言葉を選ぶような間があり、それから、言った。
「元の世界に、居場所がない、というのは?」
「世界のルールを破る奴の末路なんて、大体そうだってこと。アレの言葉を借りれば、理を乱し、世界を壊すもの」
「魔法。……そう、あの女は言っていましたが」
「そう。俺や、あの檻の中にいた連中は、誰もが多かれ少なかれ魔法を持って生まれて、魔法を理由に元の世界から追い出された。そうして、世界を放浪する魔女になった」
魔女。その言葉で呼ばれる者が、世界を渡る者である、という我々の認識はどうやらさほど遠いものでもなかったらしい。Xもまた、「魔女」と獣の言葉を繰り返してから、言葉を紡ぐ。
「つまり、あなたは魔女であり、魔法を使って……、元いた世界を壊すようなことをした、ということですか?」
「そんな大それたことはしてねえよ。言っただろ、何をしたわけでもない、って」
Xは黙り込む。その沈黙を受け取った獣は「あっ、信じてないな?」と声を上げる。
「アンタ、魔法ってもんをよくわかってないだろ。魔法っていうのは、その世界の法則から外れた力ってことだ。良いも悪いもない、ただ、『外れてる』だけの力。そんで、俺の場合は生まれつきそういう力があった。アンタはそれが悪だと思うか?」
獣の問いに、Xは答えなかった。ただ、一旦足を止めて小脇に抱えていた箱を手に持ち直し、中の獣を視界に入れた。獣は愛玩動物を思わせる顔をXに向け、器用に口を動かす。
「そもそも、世界を渡るってことだって、世界のルールを破る、ってことだ。ほとんどの世界は閉じているべきものであり、『外側』を認識するってこと自体、あり得ないこと、ルールからの逸脱だ。アンタの世界だって、そうじゃないのか?」
――それは、そうなのかもしれない。
獣の言う『世界』という概念を私が正しく理解しているとはいえない。だから、何もかもを「そう」と言い切ることはできないけれど、私たちのしていることが、『こちら側』のルールから逸脱しているということは、わかる。
「つまり、アンタだって自分の世界のルールを侵してるってわけだ。アンタ自身に魔法がなくても、アンタは十分に俺と同類ってわけ」
世界は閉ざされている。時折、綻びが発生することはあっても、それはあくまで一時のこと。故にこそ、『こちら側』では、異なる世界――『異界』の存在など、あり得ないものとして扱われている。
そう考えてみると、我々のしていることも、一種の「魔法」と言えるのかも、しれない。
「とにかく、実際には何もしてなくたって、魔法を持ってるってだけで、世界から追い出されることだってあるってこった。ま、嫌な顔されながら留まるよりは、飛び出しちまった方が互いにせいせいするってもんだが」
「……それで、あなたは、世界を渡っているうちに、この場所にたどりついた」
「そう。色んな世界に足をかけられる場所は、世界を渡る俺らには都合がいい。時には他の魔女とすれ違って、言葉を交わすことだってある。そういう居心地のいい場所だったんだよ、――アレが、住み着くまでは」
アレ。Xの目を抉った、明らかに人間ではあり得ない女性。Xは片方だけの目でじっと獣を見下ろしながら、ぽつりと問う。
「あの女は、一体、何者なのです?」
「アレも、あえて定義するなら魔女だ。魔法を使うもの。世界を渡るもの。だが、アレが俺らと違うのは、アレは自分の力を『世界を守る』ものだと信じ込んでるってとこだ」
「世界を、守る……?」
「そう。魔女を狩る魔女。魔法が世界を壊す可能性があるなら、魔法を操る魔女を狩りつくせば、それぞれの世界を脅かすものはいなくなる、そう信じて疑ってない、イカれたやつだよ」
自分が使ってるのだって魔法だってのにな、と獣は小さな口を歪ませる。声色から察するに、皮肉げに笑ったのかもしれなかった。私には、愛くるしい獣の表情を正しく見分けることはできそうになかったが。
「そして、あなたは、他の魔女たちと同じように、あの女に捕まっていた、ということですか」
正確には今も捕まってるがな、と獣は黒い毛に包まれた脚を四本ほど格子の隙間から出してみせる。Xはウサギに似た顔に反して肉球のある脚がにぎにぎ動くのを見ながら、ぽつりと呟く。
「しかし、魔女を狩るといっても……、殺すわけでは、ないのですね」
殺す。別に、その言葉を選んだことに深い意味はないだろう。だが、私はXの口からその言葉を聞くたびに背筋に冷たいものを感じるのだ。Xはそれが容易く出来る人間なのだという、普段は頭の片隅にも上らない事実を、ことさら意識せずにはいられなくて。
対する、Xのことなど知らぬ獣は、格子の間から脚を出したりしまったりしながら言う。
「アレだって、殺せるなら殺したいだろうよ。だが、魔法ってのは厄介なもんでな。魔女を殺したときが、一番ヤバいんだよ」
「ヤバい、というのは?」
Xの声にわずかな怪訝の色が混ざる。獣は首をこくんと傾げてみせる。
「魔女っつーのは、魔法という中身の入った風船みたいなもんだ。わかるか、風船」
「風船は、わかります。空気を入れて膨らませた、もの」
「そうだ。風船はほっとけばいつか萎むだろ。それと同じで魔女にも寿命はある。魔法の力は徐々に衰え、魔女は魔法を失うのと同時に死ぬ。だが、膨らんだ状態の風船を針でつついたら、どうなる」
「破裂、します」
「そう、そして、中に詰まった魔法は、辺りにまき散らされる。操る者がいない以上、それが、どんな形になるかは誰にもわからん。大体の場合は、とんでもない災厄となる」
魔女を殺した際にもたらされる、魔法の暴走。無差別の災厄。それは、魔女自身が操る魔法よりもよほど世界を壊しかねないものである、ということか。
「なるほど。だから、殺すのではなく、閉じ込めて弱らせる、というわけですか。暴発した魔法が、世界に害を及ぼさないように」
「そう。それに、アンタの目が奪われるだけで潰されなかったのも、きっと、同じことだ」
Xは失われた目に触れようとするかのように、片手を持ち上げて顔に近づける。それで何が変わるわけでないにせよ、無意識にそうせずにはいられなかったのだろう。
小さな檻の中の獣は、大きな目をぱちりと瞬かせて言う。
「アンタ自身は魔女じゃないんだろうが、アンタの目には魔法が宿ってた。だから、アレはアンタから目を奪った。そういうことだろ?」
Xはその言葉を肯定も否定もしなかった。黙りこくったまま、獣を見つめ続けるだけ。
私は、Xの出自も、経歴も知らない。だが、そういえば一度だけ。『潜航』の中で初めて魔女と呼ばれる存在と出会った際、彼女は言っていたはずだ。
『あなたから、他の女の匂いがするから。妬かれたら面倒だもの』
当時はその意味を理解できずにいたが、もし、Xが我々と出会う以前に、未知の魔女と出会っており、その魔女の手によって、左目に何らかの魔法を宿されていたというならば説明はつく。
もちろん、これは私の憶測に過ぎない。そして、これが憶測に過ぎない以上、Xが何故己の片目に執着を見せるのかも、わからないままだ。ただ、魔女狩りだというあの女の手で奪われたという現実がある以上、Xの左目が尋常のものでないのは間違いない。
しばらく沈黙を守っていたXだったが、やがて、口を開く。
「あなたの言葉が正しければ、あの目は、簡単には壊せないものである。……つまり、取り返すのに猶予はあるということですね」
「まあ、そうだけどよ。アレに追いついたとして、どうやって取り返す気だよ。アレに説得が通じると思うか?」
「それは、その時考えます」
アンタなあ、と獣が呆れるが、Xはそれを意に介した様子もなく、再び箱を抱えなおす。獣の姿が視界から見えなくなり、Xの視線は伸びる道へと戻される。
すると、視界の外から、獣の声だけが、スピーカーから聞こえてくる。
「本当にわかってんのか? アンタは、十分、殺される可能性があるってことだぞ」
――そう。
この獣の話が真実だとすれば、魔女狩りの魔女が、獣や他の魔女を殺さずに幽閉しているのは、殺した際に問題が生じるから、というだけに他ならない。
魔法を宿していたという左目を奪われた以上、今のXは魔法を持たない。そして、あの女がXを不都合な存在であると判断した場合、幽閉などというまどろっこしいことをする理由はないのだ。魔法を持たない者は、殺したところで、世界を傷つけることはない。己にとって邪魔な存在が一人消える。それだけ。
Xとて馬鹿ではないのだ、獣の言葉が理解できていないわけではあるまい。実際に、Xは獣にこう返すのだ。
「殺される。そうかもしれませんね」
「死んだらそれまでだぜ。怖くないのか?」
怖くないのか。その問いかけに対しては、Xがわずかに息を漏らす音が聞こえた。もしかすると……、笑ったのかも、しれなかった。
「いつ死ぬか、という予想がつくだけでも、幾分気は楽ですね」
それは。いつか必ず来る死を予告されながら、今もなお生きながらえているXしか理解しえない感覚であったに違いない。獣はXの言葉を聞いて、大げさな溜息を漏らして。
「アンタ、やっぱおかしいよ。下手すりゃアレよりもずっと、な」
そう、呟いたのだった。
ディスプレイと潜航装置を監視している新人の大あくびが目に入る。室内の時計を見れば、『潜航』の開始から十三時間が経過しようとしていた。研究室の窓は分厚いブラインドで遮られているため外を窺うことはできないが、普段ならばXはとうに地下の独房に戻り、我々も本日の仕事を終えてそれぞれの時間を過ごしていた、はずだ。
だが、今もなおXの肉体は寝台に横たえられ、意識は未だ『異界』の中。『潜航』が終了するまで、我々もまた、この場から離れることはできない。
スタッフの間で交代で休憩を取るようにはしているが、私は休憩中も研究室から離れる気になれなくて、普段は研究室への持ち込みを禁じている食品――コンビニで買ってきた惣菜パンを齧りつつディスプレイを眺めていた。『潜航』の間私にできることは、データを正しく収集できているか確認する以外には、そのくらいしかないのだが。
「……リーダー、ずっと怖い顔してますよ」
ふと、声とともに視界の中に何かが飛び込んでくる。それが紙パック入りのカフェオレであると認識できたところで、それを目の前に翳してきた監査官を見上げる。
「いつも飲んでるの、これでしたよね。買い出しついでに買ってきましたよ」
監査官は、肩書通りにプロジェクトの監査が役目であり、つまり正しい意味でのスタッフではない。しかし、元より人員が著しく不足しているプロジェクトであるため、彼の厚意に甘えて交代要員に加えている程度には、頼れるメンバーの一人である。
「ありがとう、助かるわ」
「こちらに提出するレポートが終わらないことはあっても、『潜航』で残るのは初めてでしょう。リーダーも適度に休んでくださいね」
「ええ。……でも」
カフェオレの口にストローを刺しながら、ディスプレイに目を戻す。色のない風景が、一定の速度で動いている。Xは今もなお、歩き続けている。
「Xが行動を続けている以上は、どうしても、気になっちゃってね」
ディスプレイに映るのが道だけになってから、変化に乏しく、見ている側が退屈なのは否定できない。だが、どれだけこの瞬間が退屈でも『異界』は『異界』であり、我々にとっては未知の場所であり、いつ、何が起きるかわからない。いつXを引き上げるべき状況になるか不明である以上、観測を絶やすわけにはいかないのだ。
それに――単純に、気になるのだ。
Xが何を思い、いつ辿り着くかも定かではない道を歩み続けているのか。
「X、まだ休みませんね」
「意識体は疲労を感じない……、ってことは、ないわよね」
「五感はありますし、痛覚だってある。もちろん疲労だってするでしょう。X自身がそれを『認識していない』のであれば別ですが、意識的にできることではありません」
「……ただ、極端な精神状態にある時は、本来感じるべきものを感じられなくなることも、あるわよね」
一口、カフェオレを啜る。ミルクと砂糖の多い、かろうじてコーヒーの香りだけが感じられる甘ったるい味わい。けれど、私はこの味が好きであったし、思考が鈍りかねない状況の時に、この甘さはよく効くと思っている。
監査官が、眉を顰めて言う。
「つまり、リーダーは、Xが冷静でないと?」
「少なくとも、正常ではないと思っているわ。Xがどうして見えもしない片目に思い入れているのかは、定かではないけれど。ずっと冷静さを欠いているのは、そうだと思う」
目が奪われた、あの瞬間。常のXであれば即座に引き上げを求めただろう。未知の、なおかつ害意を持つ相手に出会った際、その場で解決方法が見いだせないと判断できた場合、まずXは退くことを選択する。その適切な判断の積み重ねが、Xを今に至るまで生かしてきた。
だから、今回のケースは明らかに「例外」だと私は考える。
「それでも――Xを、引き上げないんですね」
缶コーヒーの蓋を開けながら、監査官の口からこぼれた言葉に、私はただ、苦笑を返すことしかできない。
「恨まれるのが怖いんですか?」
「まさか。確かにそれが理由でXに『潜航』を拒否されたら困っちゃうけど、困るだけでもある。Xの言葉を借りるなら、『代わりはいる』。そうでしょう?」
Xほどの従順で使い勝手のいいサンプルを、他の死刑囚の中から探し出すのは難しいだろう。Xを見出せたのは、本当に、単なる偶然に過ぎない。だから「困る」のは確かだが、次のサンプルを用意する可能性自体は、いつだって頭の片隅に置いている。
「なら、どうして。長時間の『潜航』のデータが取りたい、というだけなら、プロジェクト全体で準備をして行った方がよっぽどデータとしては確実ですよ」
「そうね。だから、私は今回の判断に合理的な説明を持たない。ただ、『興味があった』だけよ。……冷静じゃないXが、何を見て、聞いて、どのような判断を下すのか」
「悪趣味ですね」
「今更だわ。ここにいる全員、悪趣味の権化のようなものでしょう」
我々プロジェクトメンバーは皆、程度こそ差があるにせよ、表向きには夢物語とされる『異界』などというものに囚われている。そして、いつかの死を定められているとはいえ、今この瞬間に生きている人間を実験動物として、何が待つかもわからぬ『異界』へと送り込み、データを収集する。
それが悪趣味と言わずして、何と言おうか。
監査官は「それもそうですね」と軽く肩をすくめて、缶コーヒーに口をつける。
「リーダーも、適当なところで休んでくださいよ」
「ええ。……あと少ししたら、仮眠を取ろうと思ってる」
スピーカーは沈黙を守り、ディスプレイは変化の乏しい風景を映し続けている。Xの足は同じ速度を維持したまま、私たちには判断できない何かに導かれるように、背を押されるように、前へ――前へ。
それを、ただ、見つめることしかできないことに、もどかしさを感じながら。
カフェオレを、もう一口。
何をしてようと、何をしてなかろうと、等しく時間は経過していく。
割り当てられた部屋で仮眠を取り、研究室に戻ってきたときにも、状況は大きく変化してはいなかった。
私がいない間、観測を担当していた新人の言では、Xは相変わらず立ち止まる様子もなく歩き続け、時折、一緒にいる獣のいびきのような音が聞こえていたという。
暢気なものだ、と思わなくもないけれど、これはXの方が異常なのだろう。時間の感覚が麻痺しているのか、身体の感覚が麻痺しているのか、もしくはそのいずれもか。ともあれ、このまま続けさせれば意識体とはいえ消耗は確実だ。
ディスプレイに映る景色を見れば、いつの間にか幾重にも重なり合いながら延びていた道も視界から消え、一本だけの道が、色のない空間に真っ直ぐ延びている。見ているこちらの方が心細さを覚える、光景。けれど、Xはきっと何の感慨も抱いていないに違いない。細く頼りない道を、ひたすらに歩き続けている。
「……ふあ」
スピーカーから、獣のあくびが聞こえてくる。Xは抱えた箱にちらりと視線を向けて、それからすぐに視線を前に戻した、が。
「アンタもそろそろ、休んだらどうだ?」
獣の声が、奇しくも私の思いを代弁していた。だが、Xは返事をせず、歩調を緩めることもしなかった。
「自分で言ったんだぜ、まだ猶予はあるって。少し足を止めたところで、結果は変わることじゃない」
「しかし」
「いいから休めって。アレが棲む場所までは、まだ結構あるぞ」
アレに殺されるならともかく、辿り着きもしないで力尽きるのは流石にアンタの本意じゃないだろう、という獣の言葉には、Xも否定の材料を持たなかったのだろう。その場に立ち止まったことで、動き続けていたディスプレイの景色も静止する。
「息をつくにはちょいと殺風景すぎるが、どこもこんなもんだからな」
獣の言葉を聞きながら、Xはその場に座り込み、獣の入った箱を置く。箱の中から、獣の多すぎる脚がひょこひょこと覗く。
「それにしたって、これだけの時間動き続けるなんて、まともじゃないぞ。大丈夫か?」
「特に、疲労は感じていませんが。飢えや渇きも、特には」
「そう思い込んでるだけだろ。アンタ、今、めちゃくちゃ顔色悪いぞ」
鏡を見せてやりたいよ、と獣がぶちぶちと漏らす。ディスプレイの映像がXの主観である以上、我々もXの顔色を察することはできないため、獣の反応を通すことでしかXの状態を確かめることはできない。
意識体であるXは、おそらく言葉の通り、肉体に依存している空腹や渇きなどは感じていない。だが、消耗を無視することはできないのだ。単純に、これだけの時間覚醒しているだけでも負担になるというのに、それに加えて絶えず行動を続けていたのだから。
「魔法も持たない奴にしちゃよくやる、とは思うけどな」
「あなたは……、疲れや飢えは感じないのですか」
「ただ生きるだけなら、どうとでもなる。アンタ、アレがいちいち捕まえた奴に飯やらなにやらを与えるタマに見えたか?」
それはそうですね、とXも獣の言葉に頷いてみせる。私も同じ感想だ。あの空間に漂っていた牢獄は、もはや顧みられることもなく、放置されているだけなのだろう。内側に封じた魔女たちが滅びるその時まで。
「だが、例えば俺だって、疲れたと思った時にぐっすり寝たいし、美味いものを腹いっぱい食えれば嬉しい。そういう感覚を、忘れたくはないしな」
「忘れたく、ない……」
「魔女ってのもピンキリでな、その手の感覚を完全に削ぎ落しちまった奴もいるし、しがみついてるやつもいる。前者がアレで、後者が俺」
確かに、Xの目を通して見たあの女性は、生物というよりも物体、もっと言うならば「現象」のようにすら感じられたことを思い出す。それに対して、この獣の言動は随分人間くさい。視点であるXがそう受け取っているだけの可能性はあるが、同じように魔法に関わる存在であっても、在り方には大きな違いがあるということ、なのかもしれなかった。
「せっかく生きてんだ、生きてるからできること、感じられることを満喫したい。俺はそう思ってるってこった。……アンタは、そうじゃないのかもしれないが」
「そんなこと、ありませんよ」
「そうか? 俺は、アンタが一刻も早く死にたがってるようにしか見えないよ」
死にたがっている。その言葉には、私もどきりとさせられる。
そう、Xは時折、呼吸をするような容易さで己を捨てようとする。基本的に我々の命令に忠実で、『異界』の探査というタスクを確実に果たしてきたXだが、時に己の命をひどく軽く扱っているような一面を見せるのだ。
『いつ死ぬか、という予想がつくだけでも、幾分気は楽ですね』
そう言ってのけてしまえるだけの、いつか来る死に対する覚悟、もしくは生に対する諦めがXを支配している、といえばそうなのかもしれない。
だが、その一方で。
「死にたがっているつもりは、ないですよ」
Xは、いたって真剣な声で言うのだ。
「死んでしまえば、何にもならないと思っているので。今、生きている以上は、すべきことに力を使いたいと思っています」
「……そこに、アンタの意志はあるのか?」
「そうすると決めたのは私です」
獣の問いに対し、Xの言葉は酷く決然としていた。
獣は箱の中で、やれやれとばかりに首を振る。
「まあ、アンタの考えにどうこう言うつもりはないさ。ただ、死にたがってるつもりがないなら、今は俺の言う通りにしろ。……目、取り返すんだろ」
そのためにも、少しでも寝ておけ、と。獣は言う。
「思考が休まってなきゃ、いざって時の判断が鈍る。別にそれで後悔していいってんなら、止めないがな」
「いえ。……それは、そうですね」
――後悔は、したくないですから。
Xの声は何かを噛みしめるような響きを帯びていた。
私はXの言葉に込められた思いを把握できない。それができるほど、Xという人物のことを理解しているわけではない。ただ、これまでもいくつもの過ちを重ねてきて、その結果として死を定められているXが、今この時に「後悔をしたくない」と思っているという事実が、妙に胸を軋ませる。
「よし、そうと決まったならとっとと寝とけ。寝てる間のことは心配すんな、何かあったらすぐ呼ぶ」
獣の言葉に頷いて返したXは、その場に横になったようだった。今までの足取りの感じから判断するに、決して柔らかな道ではなさそうであったから、寝心地はかなり悪いはずだ。しかし、いちいち不平を唱えるXでもない。
横倒しになった視界で、置かれた箱の中から獣がこちらを見つめている。愛くるしい顔つきの中で、つぶらな目を細めて。
「おやすみ」
その言葉を受けて、ディスプレイは闇に閉ざされた。
Xが意識を手放した以上、我々の観測も中断だ。もちろん、いつXが目覚めるかわからない以上は気を緩めるわけにもいかないが、それでも、少しばかり息をつける。
ふと、視線をディスプレイから離せば、寝台の上に横たえられたXの体が目に入った。意識と切り離された空っぽの肉体には、潜航装置から延びるコードの他に、常にはない点滴の管が繋がれている。
「肉体の状態はどう?」
Xの心身の状態をチェックする役目を負うドクターが、軽く肩を竦めてみせる。
「今のところ体調に大きな変化はない。しかし、意識が切り離されたままである以上、水分や栄養を供給していても、徐々に衰弱はしていくだろうな」
「そう。Xが戻ってきた後が心配ね」
当人は、仮に肉体が弱っていたとしても気にも留めない――少なくとも、我々に対してはそのような素振りをするだろうことも想像はつくが、だからこそ、懸念点は少ない方がいい、そういうことだ。
「出来る限り弱らせないように処置は続けて。……いつ戻ってくるかわからない、けどね」
「ああ。いけ好かない奴だが、手を尽くさん理由はない」
ドクターの言葉に頷きを返しながら立ち上がる。寝台に横たわるXに近づいてみても、もちろん意識を持たない肉体だけのXは反応をしない。普段より幾分か血の気を失って見える顔は、私の目からは、安らかに眠っているように見えた。
あの獣は、まだ先があると言っていた。それがどれほど続くか、我々が知ることはできない。そして、目指す場所に辿り着いたとして、Xが目的を果たせるとは限らない。
それでも、私は観測を続ける。最初の時点で彼を止めなかった責任も、何もかもを飲み込んで、観測を続けていく。
命綱の片端を握ったまま、今は眠りに落ちたXの目覚めを、待つ。
結局、Xの睡眠時間は『こちら側』の時計で三時間程度だった。
あれだけの時間、連続で活動していたのだから、その程度の休息で疲労が回復するとは思えなかったし、それは画面の中に映し出された獣も同様だったのだろう。体を起こしたXを見上げながら、怪訝そうな声音で言ったのだった。
「もういいのか?」
はい、と短く返事をしたXに対し、獣は口元を歪ませる。
「アンタ、返事だけはいいけど何ひとつ信用できないな」
「睡眠は時間より質ですから」
Xの言葉はどこまでも一般論であり、本当にそう思っているのかどうかはさっぱりわからない。獣も私と全く同じ感想を抱いたに違いなかった。何度目かになるかもわからない溜息をついてみせる。
「まあ、アンタがそう言うならそういうことにしておく。さっきよりは随分マシな顔してるしな」
「そうですか。自分の顔は見えないので、よくわかりませんが」
「顔、洗うか拭くかはした方がいいとは思うけどな。酷いぞ、血」
「……ああ」
今気づいた、とばかりのXの声。確かに、顔を拭った時にべったりと手に血が付着していたのだから、顔にも血が付着したままと考えるのが妥当だ。
Xは今もなお赤黒く血のこびりついた手で、もう一度顔に触れながら、言う。
「洗う場所もありませんから。別に、あなた以外の誰が見ているわけでもありませんし」
「そりゃそうだが、見ている俺は不安になるよ」
「出血はとうに止まってますから。問題はありません」
「そうじゃなくて、そう言い切るアンタの人格に不安があるってことだ」
獣の呆れ声を沈黙で受け流し、Xは獣の入った箱を持ち上げる。
ここから先もまだ道は続いている。魔女狩りの魔女と顔を合わせるまでには、あとどのくらいかかるのだろうか。Xは……、不安を覚えることは、ないのだろうか。
どれだけ思ったところで、仮に声に出してみたところで、Xに私の声は届かない。Xは獣の入った箱を抱えて、道の先に視線を向ける。ただ、ただ、真っ直ぐに伸びているだけの道。色のないがらんとした世界に消失していくように見える、道。
「まだ、目の気配は感じるな?」
「はい。遠ざかってはいないとも、思います。この道を行けば、きっと」
「見失ってないからこそ、アンタには道に見えてるんだろうな。アレの居場所に繋がった、道に」
「あなたには、見えていない?」
「アレの場所は感じ取れるが、アンタの言う道は見えてないな。まあ、アンタさえ見えてりゃ問題ないさ。進んでけば、いつかは必ず辿り着く」
獣はそれだけを言って、ふわ、とあくびをした。先ほどまでも、時折寝息やいびきが聞こえたりしていたので、Xが歩いている間は暇を持て余し、ほとんどの時間を眠って過ごしているのだろう。
Xは抱えた箱に視線を落として、平坦な声で言う。
「いいですよ、寝ていても」
「そうする。アレに近づきゃ、嫌でもわかるだろうしな」
じゃ、おやすみ、と言い残して獣は黙った。Xは道に視線を戻し、一歩を踏み出す。
それからは、またひたすらに変化のない時間が過ぎていった。もはやどれだけ進んでも辺りの風景は何一つ変わらずに、色のない空虚だけが一面に広がっている。Xが「歩いている」という事実だけが、かろうじて前に進んでいることを認識させてくれる、だけで。
この景色を延々と見せられているだけでも気が滅入る。どれだけ進んでも変わらない景色というのは、心をすり減らすにも十分だ。
それでも、Xは弱音一つ吐かずに歩み続ける。それが己に課せられた責務であるかのように。今回ばかりは誰の命令でもなく、X自身の意志でそうしているはずなのに、観測している私はそう思わずにはいられない。
その時、不意に、スピーカーからXの声が響いた。
「聞こえてますか」
それが、観測している『こちら側』の我々に向けた言葉であることに気付くまでに、一拍の時を要した。
もちろん、私がXに言葉を返すことはできず、Xも返事がないことは了解しているはずだ。その上で、ほとんど独り言のように、しかし己に語り掛けるにしてはいやに明瞭な発声で言う。
「まだ、観測は続いていますか。……どのくらい時間が経ったのかも、定かではないですが」
画面を見る限り、Xは一定のペースで歩き続けているようだ。歩きながら、我々に向けて言葉を投げかけてくる。
「今も観測しているなら、わがままを聞いてくださり、感謝しています。目的を果たしたら必ず戻ります」
それから、と。Xの、元より低めの声が、更に深い色を帯びる。
「こうは言いましたが、私は、失敗するかもしれない。その時は、きっとそちらも何らかの判断を下すのでしょう。だから、これも、どこまでも私のわがままですが」
一呼吸の間を置いて、Xは、静かに言う。
「私が失敗したら、その時は、……切り捨ててほしい」
それは。
命綱を、切れということ。
Xの意識を、この『異界』に置き去りにしろということ。
つまるところ、『こちら側』におけるXの死を意味する。
もちろん、Xが言う「失敗」とは、目的を果たせないこと。己の目を取り戻せないこと。つまり、魔女狩りの魔女と顔を合わせた上で、交渉に失敗することを意味する。その時点でXが生きていない可能性は十二分にあるから、どちらにせよ死を意味しているといえば、そう。
ただ、あえて我々に向けてこう言ったということは、「失敗と判断したとしても、引き上げるな」ということなのだろう。
「どうか、お願いします」
「それは……、約束できないわ、X」
私の声は届かないと頭でわかっていても、声を上げずにはいられなかった。
約束などできない。そもそもXの言葉に従う理由もない。Xの希望は出来る限り叶えたいと思っているが、それはあくまでプロジェクトを円滑に進めるための方策で、異界潜航サンプルを長く使い続けるための手段に過ぎない。
だから、いくら「お願い」されたとしても、私はきっと引き上げを命じる。それがXの意に反すると理解したところで、私のやることは変わらない。異界潜航サンプルを『異界』に送り込み、引き上げ、データを取る。それがこのプロジェクトの使命なのだから。
「お願いします。……なんて」
そして――それは、きっとXもわかっているのだ。
「私が言っても、仕方ないとは、思いますが」
わかった上で、叶わぬわがままを言っている。それだけの話。
私がそのわがままを聞き入れるわけにはいかない。そもそも、Xの希望を受け入れて『潜航』を続けさせていることが正しい判断だったのかも、疑問が残る。
だが、普段、「異界潜航サンプルを続けること」以外の希望を持たないXが、堪え切れなかった感情と共に吐き出したわがままに、感じるものが無いかったと言ったら、嘘だ。
だから、せめて、プロジェクトのリーダーとして、もしくはそれ以前の「私」という個人として、Xの無事を祈る。
迷いなく歩みを進めるXが、目的を果たすことを、祈るのだ。
「 『潜航』を続行します」
Xの声は、その宣言を最後に途絶えた。
私は知らず、両の手を握りしめていることに気付いた。全身にかかっていた力を抜いて、息をつく。
ディスプレイに――Xの目に映る道がどこまで続いているのか、私はまだ、知らないままだ。
栄養ドリンクの味は嫌いではない。健康によいのか悪いのかは定かではないが、体に効いている感じはするし、その「感じ」が大事なのだと思うことにして、一気に飲み干す。
スタッフがデスクの上に並べている瓶の横に、空になった瓶を加える。瓶も後でまとめて処分しなければならないな、と思いながら、ディスプレイに視線を戻す。
イレギュラーな『潜航』は、三日目を迎えようとしていた。
いくら代わる代わる観測をしているとはいえ、目を離せないという状況が続いていると、我々の疲労も蓄積していく。私も、時折スタッフに断って仮眠を取ったり休憩を入れたりはしているが、どうにも体が重く感じられて仕方ない。
獣に声をかけられてから、数時間に一回程度の休憩を取るようになったとはいえ、ひたすらに歩き続けているXが異常であることが、よくわかる。
あくびを連発する新人を目の端に捉えながら、なおも変化のない画面を眺めていると、不意に、画面の中に何かが映りこんだような気がして、思わず目を擦る。こちらの目がおかしくなったのか、と思ったのだ。
だが、ディスプレイが映りこんだ何かを中心に捉えたことで、Xがそれを目で追ったことがわかる。私の見間違いではなく、これはXの視覚が得た情報であるらしい。
ディスプレイに映っていたのは、虚空に浮かぶ……、硝子玉を思わせる透明な球体だった。ただし、それが単なる硝子の球体でないことは、内側に込められた様々な色の光を見ればわかる。
「あれは?」
ぽつりと落とされた、Xの声。それに対して、画面には映らない獣が返す。
「アンタの目と同じだよ。魔法がこもった物体」
Xは歩を進めていく。硝子玉が視界から外れたと思うと、今度は「何」とも判別できない枯れ枝のような物体や、香水瓶を思わせる精緻な紋様の刻まれた容器、真っ赤な刀身を持つ巨大な刃物、その他、様々な物品が虚空に無造作に浮かべられているのがディスプレイから判断できるようになる。
「これらも牢獄の魔女と同様に、魔法の力を失うまで、この場に留め置かれているということですか」
「そう、アレの戦利品コレクションだ」
ならば、とXは歩みのペースを上げる。辺りに漂ういくつもの興味深い物品には目もくれず、ただ、ただ、前へ歩んでいく。今までの強行軍で疲弊していないわけがないというのに、その足取りは歩みというよりほとんど駆け足に近かった。
新たなものが視界に入ったと思えばすぐに消え、を目まぐるしく繰り返していくうちに、Xの視界の中央に映ったのは……、小さな、点。それが、Xの視線と同じ高さに浮かんでいる眼球だと判別できたのは、それに向けてXが無造作に手を伸ばした時だった。
「よせ、手を出すな!」
獣の鋭い警告、だが、どうやら一拍遅かった。
Xの手が眼球に触れるか触れないか、という位置で固まる。いや、いつの間にかXの手首が、しらじらとした手に握られている。X自身の無骨な手とは対照的な、つくりもののごとき繊細さに満ちたしなやかな指。けれどそれはXの手首をしっかと握って離そうとしない。
「……何故、このようなものを、求めるのです?」
囁くような、それでいて妙によく響く、硝子を思わせる女の声が、スピーカーから聞こえてくる。Xの視界が、目の前の眼球から離されて――自分の片腕を掴む、いやに白い肌の女性へと、向けられる。
画面越しに目にするだけでも圧倒的な存在感を誇る魔女狩りの魔女が、感情らしきものを映さない人形じみた顔を、Xに向けている。いくつもの色を湛えた瞳が、じっと、こちらを見つめている。ディスプレイ越しに、自分が見られているような錯覚に陥るほどに。
「これは、悪しきもの。理を乱すもの。世界を壊すもの。わかるでしょう、手にしてよいものでは、ありません」
ひとつ、ひとつ。物分かりのよくない相手に、噛んで含めるような、声音。
女性はXの手首を握りしめたまま、聖母の微笑みを浮かべてみせる。
「帰りましょう、あなたのあるべき場所に。このようなもののことは、忘れて――」
「これは、私のものです」
女性の言葉を、Xはきっぱりと切って捨てた。ディスプレイに映る女性の目がわずかに見開かれる。その、ごく小さな動揺の色に気付いているのかいないのか、Xは、彼には珍しい、激しい語調で言い募る。
「理も世界も知ったことじゃない。悪しきもの? だから何だっていうんです。私にわかるのは、あなたが、私のものを奪ったということ。私の、一番大切なものを、勝手に奪い取ったということだけです」
――それは、罪ではないのですか?
Xの言葉は、問いかけの形こそ取ってはいたが、明白に女性を糾弾していた。罪を犯しているのはそちらの方だと、告げていた。
だが、女性がその顔に浮かべてみせたのは……、Xの目を奪った時と同じ、深い憐憫。
「そうですか。あなたは……、既に、心までも侵されてしまっているのですね。魔法に、魅入られてしまっている。それは、とても悲しいことです。あなたは、あまりにも哀れで、愚かで、」
女性の言葉が終わるよりも前に、ディスプレイに映るXの視界が激しく揺さぶられた。
「救えない、ひと」
硝子を鳴らしたような声と、Xの押し殺した呻き声が同時に聞こえた。視界が安定した時には、目の前にいたはずの女性の姿が遠ざかっていた。否、女性が遠ざかったのではなく、女性の手によってXの方が虚空に投げ飛ばされたのだ。
それでも、片手に抱えていた獣の入った箱は手放さなかったらしい。深い、深い、呆れを込めた「馬鹿だな」という声が、スピーカーから漏れる。
「話をつけるんじゃなかったのか、喧嘩売ってどうする」
「話が通じる相手でもないと、思ったので」
「俺は、仮に話が通じても同じことを言った、に賭けるぜ」
獣の言葉に、Xはわずかな呼吸の音色で答えた。もしかすると、それが彼なりの、精一杯の笑いだったのかもしれない。
「ま、悪くない啖呵だったとは思うぞ」
「ありがとうございます」
「……とはいえ、絶体絶命だな、お互いに。どうする?」
獣の問いかけに、Xは答えなかった。
ここまで目に映っていた道もいつの間にか消え、上下も左右も定かではない空間に浮かぶXは、同じく虚空に漂う女性を片方だけの目で見据えている。
女性の、淡い光を帯びているように見える髪が、ふわりと波打つ。その姿は、一言で表すなら「神々しい」という言葉が相応しいだろうか。面には柔らかな憐れみの色を浮かべながらも、一目でわかる、人にあらざる存在の凄みに満ちていた。
そして、女性の白い指がゆっくり持ち上げられて、Xを指し示す。
「あなたも世界を壊す存在になり得る以上、私の手で救えないならば、滅びてもらうしかありません」
そうですか、と。Xはあくまで淡々とした調子で言い放つ。向けられた指先を見据えたまま、身じろぎもせずに。もしくは、虚空に浮かんだ状態では、思うように動けないのかもしれなかった。
「リーダー、引き上げるか?」
サブリーダーの囁きかける声が、意識の中に滑り込んでくる。そうだ、今引き上げなければ、Xの意識体が女性によって殺され――『こちら側』に残された肉体もまた、物言わぬ屍になることは確実だ。
だが、その時、頭の中に不意に蘇る、Xの声。
『私が失敗したら、その時は、……切り捨ててほしい』
何ひとつ願いなど持たないと思われていたXの、切実な、声。
『どうか、お願いします』
彼の、本来叶うはずもない「願い」は、しかし、ほんの一拍分、私の判断を鈍らせた。
その一拍だけで、ディスプレイの向こう側で事態は動いていた。動いてしまった。
女性の指先から放たれた閃光が、私の前にあるディスプレイを、つまりはXの視界を真っ白に焼く。
音はなかった。スピーカーから、女性の声も、獣の声も、もちろんX自身の声も聞こえることがないまま、我々はただ、白一色に焼き付いたディスプレイを呆然と見つめることしかできない。
――これで、終わりなのか?
私は呆然とディスプレイを見つめることしかできない。
判断を誤った、という確信があった。一呼吸分の躊躇いがなければ、女性が動く前にXを引き上げることもできたはずだ。
恨まれても構わない、仮に、戻ってきたXが我々の命令を拒むようになってもその時だ。そう、考えていたはずだというのに、何という体たらく。
この場に居合わせたスタッフたちの間にも、言葉はなく。
研究室の中に流れた重苦しい沈黙は、しかし。
「……アンタ、なぁ」
突然、スピーカーから聞こえてきた、呆れかえった声によって、破られた。
ディスプレイは依然として白く焼き付いたままだが、言葉を失った我々の間に響くのは、唸り声を伴いながら、耳の奥の奥まで染みわたる不思議な声音。
「普通、人を、盾にするか?」
画面が、ぼんやりと世界の輪郭を取り戻し始める。だが、私には画面に映るものが何なのか、すぐには判別することはできなかった。一瞬前までXの視線の先にいた女性の輪郭は見えず、代わりに、がらんとしていたはずの空間を、黒い何かが埋め尽くしている。
ぱちぱちと画面がちらつく。瞼を閉じて開く、瞬きの気配。そして、スピーカーから流れてくる、
「そんなつもりは、なかったんですが」
Xの、ごくごく、落ち着き払った声。
「いーや、絶対盾にしただろ。アレの魔法、俺で受け止めようとしただろ」
スピーカー越しの妙に気の抜けたやり取りに、私は思わず傍らのサブリーダーと顔を見合わせてしまう。
その間にも、ぼやけていた画面はゆっくりと焦点を結んでいく。Xの目の前にそびえる黒い塊、それが、つややかな黒い毛並みを持つ背中であることも、わかってくる。黒い毛に覆われた山の如き「何か」が、ゆっくりと動き出し、尖った耳を持つ頭をぐるうりと巡らせる。
黒い毛の中でひときわ赤く輝く、あまりに大きな、しかし妙につぶらな双眸が、Xを見据える。巨大な瞳の中に映る歪んだ姿のXは、血に汚れた、ひどくやつれた顔で――片方だけの目を、細めてみせるのだ。
「 『これ』を盾にしたのは事実ですが。意外と、簡単に壊れるんですね」
Xが視界の中に己の手を映す。その手には、おそらく獣を収めていた檻の一部と思しき、壊れた格子が握られていた。それも、端からさらさらと空気に溶けていき、すぐにXの手の中から消えてしまったが。
「魔法をもってしても開けない牢獄なら、それだけ丈夫なのかと思ったんですが」
案外そうでもないのですかね、とXはあくまで淡々と言ってのけるのだ。Xを映しこんだ巨大な目がぱちりと瞬いて、その下にある裂けた口が、滑らかに動く。
「まかり間違ってたら死んでたってのに、出てくる感想がそれか。アンタ、ほんとにイカれてるよ」
「……どうも?」
「褒めてねえよ」
放たれる不思議な響きの声が、一瞬前までXが手にした檻の中に納まっていた、小さな黒い獣と同じ声であったことに、やっと理解が及んだ。
どうやら、女性が魔法を放ってXを消し去ろうとしたその瞬間、Xは咄嗟の判断で、檻を盾にすることを試みたらしい。その結果として、獣を収めていた檻は壊れ、獣は檻の外へと放たれた。そういうことなのだろう。
しかし、今、ディスプレイに映るそれは、両手で抱えられるほどの檻に収まっていたとは到底思えない、視界全体を埋め尽くすほどの巨躯。私の知る『こちら側』の動物には在り得ざる、一目では数えきれない数の太い脚が、虚空をゆるゆると掻いている。
「だが、結果論とはいえ、悪くはないな」
獣は裂けた口の端を持ち上げると、Xから視線を外して、顔を正面に戻す。
「アンタのおかげで、外の空気を吸えたわけだし、な」
調子のいい声と共に、画面一面に映る獣が無数の脚を曲げ、巨体には似合わぬしなやかな動きで跳躍する。こちらが息を吸う間もなく、獣は虚空に浮かぶ女性に飛び掛かっていた。しかし、女性の姿は獣がその一点に辿り着くよりも前に掻き消え、次の瞬間には全く別の場所に移動していた。
Xがその姿をゆっくりと目で追えば、色のない世界の中、柔らかな光を纏った女性は、獣を見据えて白い顔を歪めていた。それは、女性が初めて見せた、激しい負の感情。おそらくは、憎悪。
それに対して、Xに横顔を見せた獣は、人間のそれとは異なる顔で、けれど――獰猛に笑っているのだということだけは、私にもはっきりとわかった。
「逃げるなよ、つれないな」
「……まだ、消えていなかったのですね」
「そりゃあ、あんなつまらない場所で飢え死ぬ趣味はないからな」
女性の冷ややかな言葉を受けて、獣の口が裂ける。人ならざる笑みを、深めてゆく。
「悪しきもの。世界を食らうもの。あまねく世界に、存在すべきではない、もの」
もはや女性の意識はXには向けられていなかった。
「あなたは、封じられていなければならない。何もかもが朽ち果てるその時まで」
その柔らかそうな唇から放たれる冷たい声は、どこまでも獣に向けられたものだ。
持ち上げられた女性の指先が強い光を帯びる。Xの目にはそのように見える魔法の気配が、渦となって獣に襲い掛かろうとする。
だが――。
獣が動く。体のあちこちから生えた脚をしならせ、女性の放った光に真正面からぶつかりに行き……、端から裂けて開いた顎で受け止める。音もなく、光が獣の口の中に吸い込まれ、獣は何事もなかったかのように口を閉ざしてしまう。
ごくり、と獣の喉が鳴る。その巨体を覆う黒い毛がざわりと波打ったかと思うと、画面の中に映る巨体が更に一回り大きくなったように、見えた。
画面の端に映る女性の表情が凍る。それでも、獣に向けて更に光を放つ。それはきっと、Xが受け止めようものなら存在そのものが消滅する、正真正銘の魔法であったに違いない。だが、そのことごとくは獣の開かれた口の中に吸い込まれ、本来の効力をXの目に示すことはない。
そして、女性の魔法を飲み込むたびに獣の姿は膨らんでいく。たたでさえXの視界を埋めていた体が、今やXが首を大きく曲げなければその尖った耳の先を見ることができないほどの大きさに変じていた。
異形の獣は多くの脚を蠢かせて、女性に向けて進んでいく。画面の中で、女性の口が動く。だが、何と言ったのか、Xには聞き取れなかったに違いない。スピーカーからは、硝子が鳴るような音が漏れた、だけだった。
「うるせえな」
唸り声を交えた、獣の声が響き渡る。
大きな踏み込みで、獣が女性に肉薄する。女性は獣から逃れようと思ったのだろう、魔法を放つ手を止めて、身を翻そうとした、が。
一際大きく開かれた獣の口の中に、女性の体が飲み込まれる方が先だった。
飲み込まれる瞬間、女性から、何らかの言葉が放たれることはなかった。Xの耳にわずかな硝子の響きすら残さないまま、女性は真っ赤な口の中に消えてしまったのだった。
獣は数度の咀嚼の後に顎を持ち上げ、口の中のものを飲み下す。喉が動く。一瞬前までそこにいたはずの女性だったものが、獣の喉を通っていくのを、想像する。
かくして、あまりにもあっけなく、Xの目を奪った魔女狩りの魔女は消えた。
その場には更にもう一段階体を膨らませた獣と、それを凝視するXが残される。静まり返った空間に、獣の息遣いだけが、スピーカーから聞こえてくる。Xはひとつ、ふたつ、ゆっくりと瞬きをした後に、「あの」と口を開いた。
「美味しいんですか、それ」
「不味いよ。腹が減ってなきゃ、好き好んで食いたくはなかったよ」
どこかずれた問いかけに対する獣の答えを受け、Xは「はあ」という、何とも言えない声を返す。もしかすると、Xも何と言っていいものかわからなかったのかもしれない。目の前で起こったことを、一息では飲み込み切れなかった可能性は高い。私がそうであるように。
すると、獣が顔をこちらに――Xに向けたかと思うと、いくつもの脚をばらばらに動かしながら、ゆったりと虚空を歩んでくる。Xはもう一度瞬きをして、獣を見上げる。Xの目の前までやってきた獣は身を低くして、ほとんど腹ばいになるような姿勢になったかと思うと、脚の一本を伸ばしてくる。
その脚で軽く触れられるだけでも、Xの体は簡単に潰されるだろう。そう思わされる程度に巨大な脚は、私の想像に反してXに触れることはなく、目の前で止まった。
「ほら」
獣の指の先端に、何かが載せられている。よくよく見れば、それは女性と接触した際に見失ったと思われた、Xの眼球だった。白目に、我々のそれよりも幾分か淡い、琥珀色の虹彩。Xから切り離されていても、不思議とこちらをじっと見つめているかのよう。
「ずっと、こいつを追ってたんだろ。もう失くすなよ」
獣の大きな目が、Xを見つめている。Xは呆然と獣の目と己の目を交互に見てから、そっと獣の指先から眼球を取り上げた。
「……ありがとうございます」
Xの礼を聞いて、獣は笑ったようだった。呼吸の中に、くくっという響きが混ざる。
「アレよりもずっと美味そうな匂いはするが、食ったらそれこそアンタに殺されそうだからな」
「私があなたを殺すよりも先に、食べられておしまいですよ」
「は、とんでもなく不味そうな上に、内側から腹を破られそうな気がするよ」
つまり、アンタのようなまともじゃない奴は、相手にしないに限るってことだ。
そう言って、獣は裂けた口の端を持ち上げて笑顔になった。
Xは何も答えないまま、視線を、己の手の上に向ける。手のひらに載せた眼球は、何を語るわけでもない。それでも、Xはこれのために知らない『異界』を延々と歩いてきて、己の身を危険に晒してきたのだ。
「しかし、そいつ、魔法を感じはするが、アンタに使えるものじゃないんじゃないか」
「そうですよ。目として使い物にならなければ、魔法だって使えない」
それでも、いいんです。そう言って、Xは無造作にその眼球を持ち上げて、顔に近づける。本来ならばそんな手続きで目が元に戻るはずもないが、ここは『こちら側』とは異なる理に支配された『異界』、しかも魔法などという在り得ざるものに満ちている。Xが手を下ろした時には、手の中の眼球は消えていた。きっと、空になっていた眼窩に収まったのだろう。元よりこの画面はXの左目の視界を映さない以上、正しくXの体の一部に戻ったのかはわからないままだが。
「まあ、アンタがそうまで思い入れる理由はわからんが、事情は人それぞれだからな。俺がどうこう言うもんでもない」
獣は溜息混じりに言って、伏せていた体を持ち上げる。
「さ、用が終わったならとっとと帰った方がいいぜ。魔女でもない奴が、こんなとこに長居するもんでもない」
「あなたは?」
「俺はまだ腹が減ってるからな。言っただろ、食わなくてもそう簡単に死にゃしないが、美味いものを腹いっぱい食えれば嬉しいってさ」
ちょうど、ここには、アレが集めた美味そうなもんが揃っているしな。
そう言った獣の口がうっすらと開かれ、真っ赤な舌で口の周りを舐めてみせる。
美味そうなもん、と獣の言葉を鸚鵡返しにしたXは、辺りを見渡す。虚空に浮かぶのは、獣があの女性の「戦利品コレクション」だと言った、魔法の力がこもっているという物品の数々だ。管理者である女性を失った今、どうやら、それらは獣にとっての食事でしかないようだった。
「何でも食べるんですね」
「おうよ、美味そうならな。それくらいしか楽しみがないってのもある」
「なるほど?」
「わかってない顔してんな。いい加減なこと言うもんじゃないぞ」
獣の指摘に、私も思わず口元を緩めてしまった。Xの「なるほど」には、本当にわかっているときと、わかっていないくせに口癖のように放たれる時の二種類があって、今のは絶対に後者だったからだ。
それでも、Xは「わかっていますよ」と獣に向かって言うのだ。
「あなたのそれとは違うかもしれませんが、食べることが楽しみなのはわかります。……最近は」
最近は。
Xを知らない獣には、その言葉に込められた機微は伝わらなかっただろう。私とて、前提を知らなかったら聞き流していたに違いない。
今の私は、かつてのXが、食を含めた生活を「日々消化すべき事柄」としか考えていなかったことを知っている。それは刑が執行されるまでに己に課せられた義務であり、それ以上でも以下でもないと考えていたことを。
だが、最近は――このプロジェクトに参加するようになってからは、少しだけ意識が変わったらしい、ということも、知っている。
Xは、我々の命令に従い、命をかけて『異界』に潜る日々に対し、我々の想定とは別の何かを見出しているに違いなかった。それは、平易に言ってしまえば「やりがい」と表現できるだろう、何か。
だからと言うべきか、Xはこう続けるのだ。
「話をしているうちに、空腹を思い出した気がします。それに、わがままを言って困らせてしまったままなので、そろそろ帰ろうと思います」
「その、紐の先にいる奴のことか」
「はい。紐、まだ、繋がっていますか」
Xの言葉を、獣は「ああ」と肯定する。もしかすると、Xはその答えにほっとしたのかもしれなかった。スピーカーから深く息をつく音が聞こえたのは、気のせいではなかったと思う。
「切れないうちにとっとと帰れよ、迷子になっても俺は責任とらんぞ」
「そうですね。……ありがとうございました、助かりました」
画面が揺れ、Xがわずかに頭を下げた。改めて顔をあげたXに向けて、獣は威容に似合わぬ、妙に愛嬌を残した顔を歪めてみせた。
「別に助けたつもりはないし、アンタも別に俺を助けたかったわけじゃないだろ。お互い様ってこった」
脚のひとつを持ち上げ、ひらひらと振る。その仕草は、人とは似ても似つかぬ異形でありながら妙に人間臭かった。それを言えば、当初から相当に人間らしい語り口をしていたわけだが。
Xはゆっくりと一つ、瞬きをして。それから、獣のつぶらな目を見据えて言うのだ。
「それでも、私は助けられたと思ったので。ありがとうございます」
獣はぎょっとしたように目を見開いて、それから大げさに溜息をついた。
「そうかい。なら、せいぜい俺に感謝し崇め奉ることだな」
そう言って笑ってみせる獣に対して、Xは果たして笑みを返したのだろうか。私にはわからないし、多分わからなくてよいのだろう。それはXだけが知っていればいい、それだけの話。
「それでは、これで」
「ああ、じゃあな」
あっさりとした別れの言葉を交わせば、ディスプレイの画面が暗転し、獣の姿が見えなくなる。Xが瞼を閉じたのだった。
そして、スピーカーからは、『こちら側』に向けて呼びかける、Xの声。
「……聞こえていますか」
かくして。
「引き上げてください」
三日に及んだ『潜航』が、終わりを告げる。
我々の目には見えない命綱が引き上げられ、『異界』にいたXの意識が『こちら側』の肉体と同期する。もちろん、それだって私の目に見えるわけではなく、ただ、潜航装置の画面に、引き上げが成功したことを示す無味乾燥な文字列が表示された、という意味合いでしかない。
だから、実際には、Xが瞼を開くまで、安心することはできなかったのだが。
研究室の灯りが眩しかったのか、瞼を開いたXはわずかに眉を顰めて、目を細めた。それから何度か激しく瞬きをして、やっと、私の存在に気付いたのか、横になったまま顔だけをこちらに向けた。
「お疲れ様、X。発言を許可するわ。……気分は、どう?」
私の問いに、Xは乾いた唇をわずかに動かし、小さく咳き込んだ。それはそうだ、三日も意識がなかったのだ、肉体全体の渇きはかろうじて補えていても、喉は乾ききっているに違いない。
ただでさえ衰弱している上に、肉体と意識との感覚の違いに戸惑っているらしく、体を動かすのも難儀している様子のXの肩をドクターが支え、上体を起こさせる。水の入ったペットボトルを口元に近づければ、ほんの一口だけ水を口に含んで、飲み下して。
それから、もう一度、何かを言おうとしたようだったが、唇から漏れた掠れた声は、私には言葉として届かなかった。
「何? ゆっくりでいいわよ、焦らないで」
Xはドクターに支えられた姿勢のまま、私を見る。片目が見えていないが故の、焦点のずれた視線。よくよく見れば左右で色が違うことがわかる目。それを見返しながら、Xの言葉を待つ。
ひとつ、ふたつ、浅い呼吸を経て、Xは、やっと声らしい声を放った。
「……すみません、勝手な行動を、取りました」
「そうね、二度目は無いと嬉しいわ。ここまで長時間の『潜航』なんてまるで想定していなかったから、こっちも色々と困ってしまったし」
素直な感想を言葉にすると、Xは少しだけ驚いたような表情を浮かべて、言った。
「責めないんですね」
「あなたに非があるとは言えないから。『潜航』中の判断をあなたに委ねたのは私で、あなたは『潜航』を続行するという判断を下した、それだけといえば、そう」
「しかし……」
「むしろ、この場合、あなたが私情を差し挟む可能性を考えようとしなかった我々の方に非があるわ。以降の『潜航』の在り方を考える必要はあるけれど、それは我々の問題であって、あなたの問題ではない」
Xは黙った。そのやつれた面に表情らしい表情はなかったが、納得していないのはわかる。Xは露骨に感情を表出するタイプではないが、それでも、何とはなしに伝わってくるものはあるものだ。
だから、私は一つ呼吸を置いてから、付け加える。
「……というのが、プロジェクトリーダーとしての建前だけど。私個人としては、あなたがわがままを言ったことに驚いた。驚いたし、興味が湧いたのよ」
結局のところ、これはどこまでも、私の個人的な感情に過ぎないのだ。
「私は、あなたが我を失うほどの出来事の顛末を見てみたかった。単なる興味本位だと思ってくれればいいわ」
私の言葉を、Xはどう受け止めたのだろう。ゆっくりと瞼を下ろし、改めて開いてから、ぽつりと言った。
「興味本位、ですか」
「ええ、気分を害したかしら」
「いいえ、少し、意外だっただけです。興味が他の事柄より優先されたことが」
「もちろん、それ以外にも『潜航』を中断させなかった理由はいくつかあるけど。でも、あなたが私情を優先させたように、私も己の興味を優先させた」
すると、Xの唇からは長い長い息が漏れ、ほとんど呟くように言った。
「お互い様、ということですね」
「そういうこと」
では、そういうことだと思っておきます、と。Xはほんの少しだけ唇の端を持ち上げたようだった。Xはいつだって笑うのが下手だ。かろうじて「笑ったのではないか」と推測できる程度に、顔を引きつらせるだけ。
本来、「お互い様」などという言葉は我々の間には相応しくない、といえばそう。我々の関係は対等ではない。互いに我を通したという事実があっても、それが等価になることはありえない――Xはきっと、そんなことを思って、笑おうとしたのだろう。
いつだって、Xの方が私よりもよほど己の立場を理解している。我々に利用される異界潜航サンプルに過ぎないと思い極め、そう在ろうと振る舞う。
だから、私もプロジェクトのリーダーとして、告げる。
「後で詳しく話を聞かせてもらうことになると思うけど、今は休むことに専念して。回復を待って、以降の『潜航』を行うわ」
ここしばらくの計画は少し崩れてしまったが、長時間の『潜航』に関するデータが取れた分で帳消しにできればいい、と思っている。
これで話は終わりである、と判断したドクターが、Xの体を再び寝台の上に横たえる。Xが自分で動けるようになるまでは、今から独房に戻すより、このまま状態を見ていたほうがいいだろう。スタッフたちに以降の指示をしようとしたとき、依然としてXが私を見上げていることに気付いた。
「どうしたの?」
我々の方から発言を禁じているつもりはないのだが、Xは私が水を向けない限り、積極的に語り掛けてくることはない。だから、私が問いかけたことで、初めてXも口を開く気になったのだろう、掠れた低い声で言う。
「私は……、続けて、いいのですか」
「辞めろと言った覚えはないわ。もちろん、今回のようなことが毎回だと困ってしまうけど、あなたに限ってそれはないと思ってる」
何よりも、異界潜航サンプル抜きではこのプロジェクトは成り立たないのだ、Xには万全でいてもらう必要がある。今から代わりを用意するよりは、まだ、ここにいるXを使った方が確実だというのは、我々プロジェクトメンバーの総意だ。
私を見つめるXは、眩しそうに目を細める。
「随分、信用するんですね」
「信用されたくなかった?」
いえ、と。Xは言葉を選ぶようにわずかに間を開けて、それから言った。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
私は意識して浮かべた笑みをもって、Xの言葉を受けとめる。
Xは我々からすれば使い捨ても辞さない「生きた探査機」に過ぎない。ただし、使い捨てを想定したサンプルを長く使い続けているのは、Xが絶えず我々の期待に応え続けてきたからであり、その事実の積み重ねこそが、代えがたい価値だ。
少なくとも、今までの経験がなければ、今回のような事態を受け入れることはなかっただろう。つまるところ、一回限りの例外を許容できる程度には、Xを信用している。そういうこと。
もちろん、色々と聞きたいことがないと言えば嘘になる。Xが我を忘れるほどの怒りを見せた理由も、Xにとって本来の機能を失った左目がどのような意味を持つのかも、何もかも、何もかも、私にはわからないままだったから。
だが、その一方で、彼の内心を知るべきなのかと頭の片隅が囁く。
Xは、私が聞けば、彼なりの言葉で答えようとするだろう。私の「命令」に逆らうという頭は、Xには無いようだから。
だからこそ、私は慎重にならざるを得ない。それらが、Xにとって極めて個人的な事情であろうことが想像できるだけに、ことさら暴きたてることにどれだけの意味があるのか、とも思うのだ。
サンプルの背景を知れば知るほど、相手が自分と変わらぬ人間であることを認識させられる。その上、一度知ってしまったことは、知らなかったことにはできないのだ。
「とにかく、ゆっくり休んで、心身を回復させるのが先。話はそれからよ」
そうして私は、今はまだ、目を塞いでいることを選ぶ。
Xは私の内心など知らず、もう一度浅く頷いて、目を閉じる。X自身にも使えない魔法を宿しているという左目も、瞼の下に消える。
「……では、お言葉に甘えて、少し、休ませてもらいます」
「ええ、是非そうして」
「おやすみなさい、――さん」
眠りに落ちてゆく前に、掠れた声で続けられた、私の名前。
それに対して、私は、いつも。
「おやすみ、X」
未だ、彼の名前すらも知らないことを、思うのだ。
無名夜行