無名夜行

迷宮のアザラシ

 その『異界』は、一言で表現するならば「迷宮」だった。
 今までにもロールプレイングゲームに登場するような地下迷宮や、『こちら側』の遊園地のアトラクションを思わせる迷路など、様々な『異界』の迷宮に挑んできたXであったが、今回の『異界』は確かに迷宮ながら、具体的に「どういうものか」と問われると説明が難しい。
 先ほどまで歩いてきたのは青白い氷壁に覆われた空間だった。その前は草花が生い茂る森で、それより前はビルとビルの隙間に伸びる細い道であった。進むにつれ変化する風景は、この『異界』の全容を掴ませない。
 とはいえ、見通すことを阻む高い壁に、方向感覚を失わせる複雑な通路という構造は共通している。Xも自分がどこから歩いてきたのかなど、もはや全く把握できていないに違いない。
 現在Xが歩いているのは、病院を思わせる白い廊下だった。目の前に現れた扉をくぐると、待合室を思わせる空間が広がり、座り心地のよさそうなソファが並べられていた。とはいえ、休憩するという頭はXにはないらしく、ソファを無視して部屋の奥に見える扉に向かって歩いていこうとした、その時。
 ディスプレイに映されたXの視界の端で、何かが動いた。
 耳を澄ませてみれば、スピーカーからもわずかに奇妙な音が聞こえている。今までこの『異界』でX以外の動くものを観測していなかっただけに、つい、こちらの背筋も伸びる。
 Xは足を止め、並ぶソファに視線を向ける。それ自体は何の変哲もないソファに見えるが、座面と座面の隙間で、何かがもぞもぞ蠢いている。
 それが何であるのか、すぐには判断がつかなかった。ふわふわの真っ白な毛に覆われた、耳のない丸い頭に、潤んだつぶらな目、犬のようなつやつやした黒い鼻。そして、先端に小さな爪を持つ、鰭の形をした短い前脚、に意識が及んだ時点でそれの正体をやっと理解する。
 アザラシだ。アザラシの幼獣。
 ソファの座面の隙間から上半身だけを出したアザラシが、前鰭で座面をぺちぺち叩きながら、Xを見上げて弱々しい鳴き声をあげている。
 Xは頭を下げてアザラシに顔を近づけ、しばしその黒々とした目と見つめ合った末に、呟く。
「アシカ?」
 どうやらXはアザラシとアシカの区別もつかないらしい。
「だって、オットセイ、じゃないよな……」
 オットセイでないのはわかるのにアザラシとアシカは一緒くたなのか。一体Xの中でどういう区分になっているのだろう。
 アザラシが抗議めいた声をあげる。Xに種類を間違われたのが不服だったのかもしれない。ここが『異界』である以上、『こちら側』のアザラシに似ているだけの全く別の生物である可能性の方が高いので、あくまで私がそう感じただけ、ではあるが。
 その間にも、アザラシはもぞもぞと体を動かし、前鰭を上下させ続けている。何かを訴えるような目つきを受けて、Xがわずかに首を傾げる。
「……出られないんですか?」
 アザラシはこくこくと頷く。どうやらXの言葉は理解しているらしい。……ということは、先ほどの抗議めいた声も、あながち私の思い込みというだけではなかったのかもしれない。
 アザラシの言葉無き要請に応え、Xは短い前脚の下に手を差し込んで無造作に持ち上げる。すると、座面と座面の間にすっかり挟まっていた後脚が露わになった。鰭状の後脚をわきわきと動かしながら、アザラシが喜びの声をあげる。
「もう、大丈夫ですね」
 Xがアザラシを床に下ろす。しかし、水場もない場所にアザラシを放置して問題ないのだろうか。何せアザラシは鰭脚類の中でもアシカほど器用には陸上を動けない。短い前脚は陸上を歩くための役には立たず、全身を蠕動させることでかろうじて陸上を移動する不自由極まりない生物、なわけで……。
 だが、次の瞬間、私は信じられないものを目にした。
 ぴんと背筋を伸ばし、床の上に「立つ」アザラシの姿を。
 どう考えても丸々とした身体を支えられると思えない鰭状の後脚ですっくと立ちあがったアザラシは、生物としての仕組みや、それ以前の物理法則やら何やらを完全に無視していた。
 そう、ここは『異界』なのだ。『異界』のアザラシに『こちら側』の常識は通用しない。そのことをすっかり失念していた。
「では、私は先に向かいますので、これで」
 驚く私と対照的に、Xは淡々と言い放つ。アシカとアザラシの区別ができないのと同じように、このアザラシのおかしさに全く気付いていないのかもしれない。何せ彼はXだ。Xに私の常識は通用しない、ということも今までの試行で散々思い知らされてきたではないか。
 かくしてXはアザラシを置いて一歩を踏み出す。私が与えたタスクに従い、この『異界』の観測を進めるために。
 すると、てちてち、という微かな音がスピーカーから聞こえてくる。Xが履くサンダルが立てる足音とは別の音。
 三歩進んだところで、てちてち、という音が止まないと気づいたらしいXが振り向く。
 見れば、アザラシが二足歩行していた。海を泳ぐために特化しているはずの後脚を必死に動かし、確かに「歩いている」のだ。立っているだけでもおかしいのに二足歩行まで可能だとは、『異界』のアザラシはどこまでも私の想像を超えてくる。
 ただ、何しろ鰭脚だ。その一歩は極めて小さく、一生懸命歩いているのだが、全然前には進まない。アザラシらしく床に転がって全身を蠕動させた方がよほど速度が出るのではないか。
 立ち止まったXが、こちらに向かって歩んでくるアザラシを見つめる。やがて、何とかXの側まで歩んできたアザラシが、Xを見上げた。潤んだ眼で、何かを必死に訴えかけている。
 小さく息をついたXは、その場にしゃがみ、アザラシに目線を合わせた。何せ、このアザラシは背筋を伸ばして立っていても身長はXの腰にも満たない。
「どうか、しましたか」
 アザラシは前脚を振って、鼻息荒く何かを語りかけてくる。しかしXがアザラシの言葉を解するわけもなく、首を傾げる。
「わからないですね。困ったな」
 すると、アザラシがぐいぐいXの胸に頭を押し付けてくる。前脚をぴょこんと持ち上げたその姿は、抱き上げてくれと親にせがむ幼児のように見える。
「連れて行け、と?」
 アザラシがぱっと顔を輝かせる。どうやら正解らしい。このアザラシがどこから来て、どうしてソファに嵌っていたのかはわからないが、あの歩幅では部屋を出るだけでも一苦労だ。人並みの歩幅を持つXに頼りたくなるのも、理解はできる。
 Xは「そうですか」と言って、もう一度アザラシを持ち上げる。今度はしっかり胸元に抱え上げ、アザラシの丸い体が腕から落ちないように固定する。
「苦しくない、ですか」
 見下ろす視界の中で、Xの腕に抱かれたアザラシが嬉しそうに頷く。そのきらきらとした目が何ともほほえましい。
「では、行きますよ」
 Xは声をかけて歩き出す。待合室らしき空間を抜ければ、今度は黒い壁の上に色とりどりの光の走る通路に出た。まだまだ迷宮は続きそうだ――と思ったところで、「ああ、そうそう」とXがアザラシを見下ろす。
「私は迷子なので、出口にたどり着けるかは、わかりませんよ」
 放たれた言葉に、アザラシが「えっ」という顔をした。


     *   *   *


「不思議な、アシカ、でしたね」
「あれはアザラシというのよ、X」
「アザラシ……?」
「そう」
「アザラシとアシカって、違うんですか?」
「随分と初歩的な質問が来たわね」
「確か、フクロウとミミズクは、生物的には、どちらもフクロウだとか、なんとか。ワシとタカも、大きさの違いでしかないとか。そういうもの、では、ないんですか」
「それは知ってるのね。あなたって、何を知ってて何を知らないのか、全然わからないわね……」
「アザラシの見分け方は、教わったことが、なかった、ので」
「そんなに難しくないわよ。ぱっと見てわかる部分だけでも、前脚が長くて上体を起こして陸上を移動できるのがアシカ。前脚が短くて這って移動するのがアザラシ。前脚の鰭をオールのように使って泳ぐアシカに対して、アザラシの前脚は方向を定めるのに使う程度で、後脚の鰭を左右交互に動かして水を掴んで泳ぐの。あとは、耳たぶがあるのがアシカ、ないのがアザラシね」
「なるほど。鰭があれば、アシカ、というわけでは、ない……」
「つまり、あなたの中ではアザラシもトドもセイウチも全部アシカだったのね?」
「でも、オットセイは、違う、と思います」
「オットセイはアシカ科だから、アザラシよりはよっぽどアシカに近いわよ」
「……そう、なんですか?」
「私は、あなたの中の分類がどうなってるのかが知りたいわ……」