「はー、最近、体がすごいぼきぼき言うのよね」
「あ、リーダーもですか。俺もっすよ」
「やっぱりきちんと動かないとだめね、って何こっち見てるの、X」
発言を許可すると、Xは困ったような顔をしながらも、口を開く。
「いえ。皆さん、私より若いのにな、と」
「やっぱり何も言わないで。悲しくなってくるから」
研究の日々とは、かくも運動不足に陥るものである。そして、長らく狭苦しい独房暮らしを続けているはずのXがなんでそんなに元気なのか聞きたい。日々の筋トレ、と返されるのはわかりきっているので、あえて問うまでもないが。
ともあれ、そんな無駄口を叩くのはここまで。
「では、今日の『潜航』を開始するわよ」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回の『異界』は、果ての見えない青い空と青い水面、その真ん中に走る白い道という不思議な光景から始まった。道の上に立つXが水面を覗き込めば、透明度の高い水の中に色とりどりの魚が泳いでいて、ディスプレイ越しでも目を楽しませてくれる。
Xはしばらく水面を覗いていたが、やがて我に返ったのか道を歩き出す。ほう、と感嘆の息を漏らしながら。普段感情らしい感情をほとんど表さない彼でも、この果てしなく続く青の世界には何か思うところがあったようだ。我々もまたディスプレイに釘付けになっていたのだから、この『異界』の光景に魅入られていたということだが。
歩いているうちに、果てが無いように見えた道の先に建造物のようなものが見えてくる。近寄ってみれば、それは硝子のような不思議な材質で出来た城であった。
西洋の宮殿を思わせる作りの建物に足を踏み入れると、外から入りこむ日の光を複雑に反射する天井と壁が煌めき、これまた幻のような世界を私たちに見せることになった。けれど、Xを迎えたのはそれだけではなかった。
「あら、こんにちは、旅人さん?」
不意にスピーカーから聞こえてきた、声。Xがそちらを見れば、黒い帽子に黒いドレスを纏った女が、階段の上から手を振っていた。
この女は『異界』を探索している間に目にしたことがある。己を「魔女」と名乗った女であり、どうやら『異界』を渡り歩く不思議な力を持っているらしい。Xももちろん忘れていなかったようで、ぺこりと一礼してから言った。
「奇遇ですね。今回は、どのようなご用で?」
「ここに、お宝があるって聞いてね。旅人さんは?」
「ええと、散歩、でしょうか」
もちろん「探査」という大目的はあるが、Xの実感としてはそんなものだろう。特に今回は今のところ目に見えた危険があるわけでもないので、尚更だ。魔女は「ふふ」と笑みを浮かべて言う。
「随分暢気なのね。なら、宝探しに付き合わない? お宝の半分は分けてあげるわよ」
「分けてもらっても、持ち帰れませんよ」
「あら、そうなの? でも手伝ってくれないかしら。全然見つからなくて困っているの」
「喜んで」
魔女はXの簡潔な答えに満足したのか、こつこつとヒールの足音を立てながら階段を下りてくる。そして、Xの前に立つと凛とした声をあげる。
「言い伝えではね、漆黒の天鵞絨に無数の宝石が自ら煌めく、最高のお宝。誰にも奪うことはできない、って言われてるみたい」
「誰にも、奪うことができない……」
「そうやって言われたら、欲しくなっちゃうでしょう?」
にっと白い歯を見せて女は笑う。対してXはどのような表情を浮かべたのだろう、Xの視界を映すディスプレイからは判断できなかった。
かくして、宝探しが始まった。
城の部屋を一つずつ覗いてみるけれど、そもそも何かを隠せるような場所があるようにも見えない、がらんとした空間が存在するだけ。
そんな不毛な探索をどのくらい続けていただろう、Xと魔女は順繰りに部屋を見て回った結果、結局城の屋上まで辿り着いてしまった。
青かった空は朱色を混ぜてやがて夜になり、大粒の星々が頭上に輝きはじめる。城を取り巻く水面は仄かに輝き、ぴちゃりと魚が跳ねるのが影として映し出された。
「漆黒の天鵞絨に、無数の宝石が、自ら煌めく」
空を見上げたXがぽつりと呟いたことで、魔女がはっとこちらを見た。それから、はー、と溜息をついて、屋上の欄干に寄りかかる。
「なるほど、『誰にも奪うことはできない』ってわけね」
「魔女なんですし、空の一つでも、奪ってみたらどうですか」
「言うわね。悪いけどそんな力はないわよ、魔女は神様じゃない」
そういうものですか、とぼんやり言うXの額をつついて、魔女はあっけらかんと笑う。
「まあ、いい運動になったわ。付き合ってくれてありがと」
「いえ。私も、いいものを、見せていただきました」
きっと、魔女と一緒に探索をしようと思わなければ、わざわざ夜まで待つことなくこちら側に戻ってきていただろうから。魔女はそんなXに笑みを投げかけて、言う。
「それじゃ、私は行くわ。またどこかで会いましょう、旅人さん」
Xはそれに答えなかった。けれど、魔女はそれでも別に構わなかったらしい。欄干を飛び越えて、そのままその姿は夜の闇に溶けて消えた。Xはひらりと手を振って、もう一度空を見上げる。きらきらと煌めく星々を見つめて、それから、ぽつりと言った。
「引き上げてください」
引き上げ作業は何事もなく終了。肉体に戻ってきたXはいつも通りぼんやりと寝台の上に腰かけている。私は、Xに発言を許可した上で聞いてみることにした。
「今日の『散歩』はどうだったかしら」
「いい運動になったと思います。意識の上で、ですが」
それと、と。珍しく付け加えたXは、わずかに表情を歪めて言った。
「皆さんも、健康のために、散歩でもしたらどうですか? 私と違って、自由の身なんですから」
全くもって否定できない。Xの言葉に、私はただ、深い溜息をもって返した。
無名夜行