無名夜行

ある日の潜航事例

 闇を映していたディスプレイが、不意に、明転する。
 ディスプレイ上に広がった白く曖昧な世界が、徐々に、像を結んでいく。それは――Xの視覚が差し込む光に慣れてきたということを示していた。
 そして、映し出されているものが、車のフロントガラス越しの交差点であることがはっきりすると同時に、ディスプレイ脇のスピーカーから声が聞こえてくる。
「お目覚めかな?」
 耳慣れない男性の声。Xの視線が、声の聞こえてきた運転席へと向けられる。ハンドルを握っているのは、セルフレームの眼鏡をかけた若い男性だった。小洒落たデザインのスーツを隙なく着こなしている、いわゆる伊達男といったところか。男性は長い指先でとんとんとハンドルを叩きながら、横目でちらりとXを見やる。
「珍しいね、仕事中に寝るなんて」
「……仕事、中?」
 Xは不思議そうな声で男性の言葉を鸚鵡返しにする。すると、男性は「おや」と今度は首を回して顔をこちらに向けてくる。人より少しばかり淡い色をした両眼が、Xを見やる。
「寝ぼけてる? まあ、仕方ないか。しばらく徹夜続きだったしねえ」
 男性もふあ、と欠伸をして、視線を交差点へと戻す。信号が赤から青へと変わろうとしていた。
「まあ、到着までまだかかるし、もう少し寝てていいよ」
 俺も早く寝たいなあ、などと言いながら、信号が青になるのと同時に男性の足がアクセルを踏む。がくん、という揺れがディスプレイ越しにも伝わって、車が急発進したことを窺わせる。Xは「うわっ」と声を上げて、彼には珍しく苦々しさを隠さずに言った。
「乱暴……」
「文句言うなら代わってよ。居眠り運転はごめんだけど」
 男性とXの二人を乗せた車はぐん、と速度を上げる。ディスプレイの隅に映るメーターを見る限り、法定速度――そこが『こちら側』と変わらぬ法を適用しているなら、だが――は守っているようだが、ディスプレイ越しに見ているだけの私の方が不安になってくる。
 Xはしばし男性の横顔を見つめていたが、やがて視線はサイドミラーへと向けられる。車の側面から後方を確認するための鏡には、ちらりと助手席に座るXの顔も映っている。
 それは、私の知っている――今、私の目の前に横たわっているXとは異なっていた。
 ミラーに映るそれがXであることは私にもわかる。ただ、白髪交じりであるはずの髪は黒々として、服装も襟がよれたスーツ姿。徹夜続きという言葉通り、目の下に隈が浮いて憔悴してはいるが、私の知るXよりも遥かに若々しい顔つきをしている。
 Xも私と同様に、『こちら側』との違いを確かめたのだろう。鏡越しによれた襟を正しながら、「なるほど?」と呟く。
「ここでは、そういう『設定』なんですね」
「何か言った?」
「いや」
 男性の問いかけに、Xはミラーから視線を外して首を振る。Xの視界を映す画面が、Xの表情を捉えることはないけれど。
「何でも、ないよ」
 そう言った声が、微かな笑みを含んでいるように聞こえたのは、気のせいだろうか。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 今回の『異界』は、私たちが存在する『こちら側』に限りなく近しく見える世界に見える。
 もちろん、そのような『異界』を今までに観測したことはある。それこそ、我々が歩んだ道と一歩だけずれた場所にある並行世界はいくらでもあってしかるべき、と私は考えている。
 そして、この『異界』は外部から紛れ込んだ異物であるXを、元より存在していたかのように扱っている。これも初めてのことではない。私は『異界』がXに与えてくる立場を『設定』と呼ぶが、今までもXは『設定』をたやすく飲み込み、まるで昔からそうであったかのように振る舞ってきたし、今回も、そうするに違いなかった。
 Xは足元に置いてあった鞄を手に取り、その中に入っていたバインダーを取り上げる。開いてみれば、細かな文字が印字された書類が綴じられていた。Xの視線が書類の文字列を追い始める。
 そこに書かれていたのは、ある事件のあらましだった。
 連続猟奇殺人事件。一人の少女が全身の体液を抜かれた状態で殺されていたのを皮切りに、同様の事件が連続で四件。被害者に共通点は無いが、殺害の手口から同一犯による犯行とみて捜査が進められている――とのこと。
 書類の間には、いくつかの写真が収められていて、そのうちの一枚がディスプレイに映し出されたときには、流石に私も目を背けてしまった。言葉通りに「全身の体液が抜かれた」遺体。しかし、Xは目に焼き付けるかのごとく写真を真っ直ぐに見つめていた。
「何度見たって、ろくなこと書いてないでしょ。犯人の足取りは不明、殺害手法も不明、俺ら警察は何処までも後手後手、ってね」
 運転席の男性が軽い口調で言う。どうやら、この男性は警察官であるらしく、Xに与えられた『設定』も同様と考えてよさそうだ。Xは遺体の写真を見つめたまま、低い声を漏らす。
「……どれだけ、後手であろうとも。諦めていい、理由にはならない」
 Xの無骨な指が、凄惨な写真の表面をなぞる。男性も「それはそうだ」と笑って、横目でこちらを見やる。
「いつものことながら真面目だねえ。そんな肩肘張ってて疲れない?」
 一体男性がXを誰と認識しているのか私には判断できないが、男性の態度から、気安い間柄であることはわかる。親しい仕事仲間、といったところか。
 Xはにやにやと笑う男性を見やり、それから、
「前を見て、運転してくれ」
 と、溜息混じりに言った。
 
 
 それから、Xと運転席の男性が交わした言葉によると、今、この車が向かっているのは、近隣住民から事件の通報があった場所。もし同一犯による犯行であれば「五件目」となる事件現場のようだった。
 その中で男性が言葉にした地名は、私やスタッフが手元で検索しても出てくることはなかった。やはり『異界』は『異界』、風景こそ似通っていても、こちら側の地理とは異なるということだろう。
 男性が乱暴に操る車は、幹線道路から少し外れた住宅街を抜け、気づけば人気の無い細い道へと入り込んでいた。長くくねる道を進んでいくうちに、建物はいつしか姿を消して、茂る木々が太陽の光を遮っている。
「あとどのくらいで着くんだ?」
 Xが問うと、ハンドルを握り締めた男性が唇を開く。
「あと少しだよ」
 そうか、と呟いたXは、視線を窓の外に向ける。辺りは鬱蒼として薄暗く、ディスプレイ越しに見ているこちらは、帰り道のない森の中に迷い込んだような気分になる。
 Xはどのような気分で助手席に座っているのだろうか。私の届くことのない問いをXが感じ取ったのかはわからないが、不意に、Xの声がスピーカーから響いた。
「……まだ、少し、寝ぼけてるんだろうな。変なことを、言うかもしれないけど」
「なーに?」
「この事件は、人の仕業なのか?」
 Xの視線は、変わらず窓の外に向けられている。けれど、その言葉はいやにはっきりと私の耳に響いたし、それは運転席の男性も同様だっただろう。呆気に取られたのか、一拍の間をおいてから「何それ」と声をあげた。
「人の仕業じゃなかったら何の仕業だって?」
「さあ。けれど、人の手でこのような殺し方をするのは、不可能だ」
 Xは断言する。その言葉の強さに、背筋が冷える。
 このような瞬間に、私は、Xが紛うことなき「人殺し」であることを思い知らされるのだ。己の手で人を殺めてきた人間だからこその、確信に満ちた言葉。
 ただ、Xの本当の遍歴を知るよしもない男性は、呆れた調子で言うのだ。
「確かに、捜査でも検視でも大した情報は出なかったけどさ。それにしたって犯人が人じゃない、なんてのは」
「馬鹿げている。そうだな。そうかも、しれない」
 そうそう、と運転席の男性があっけらかんと笑う。Xの言葉を真に受けていないことは明らかだったが、Xも真剣に受け止められるとは思っていなかったのだろう、それ以上何を言うこともなく、変わりばえのしない景色をじっと眺め続けている。
 不意に男性が言った。
「でもさ。もし、もしも、犯人が人以外の何かだったとして。そしたら、俺たちはどうすりゃいいんだろうな?」
「どういう意味?」
「だって、警察は人を捕まえることはできても、何だかよくわからないもんを捕まえるなんて想定してないわけじゃん? 正直、そんなもんに出くわしたら、俺ならまともに相手する自信ないなあ」
 男性の言葉はあくまで軽く、場を繋ぐための冗談であることは明らかだった。まともな答えは期待していないことが、声の調子から伝わってくる。
 だが、Xは。
「相手が何であろうと、変わらないさ」
 低く唸るように、言う。
「それが、人を害するものであれば、しかるべき対応を取るのが仕事だ。これ以上、誰かが傷つくことのないように。何かが失われることがないように」
 それは、先ほどの断言と同じくらいの強さをもって、私の耳に届いた。
 ――私は、時々Xがよくわからなくなる。
 Xは今に至るまで幾人もの人間を殺害してきたとされている。それが事実であることは当人も認めている。
 その一方で、Xはあまりにも真っ当なことを、何のてらいもなく口にすることがある。誰かが傷つくことの無いように。何かが失われることがないように。その言葉が単に与えられた『設定』に合わせたつくりごと、であるとは思えなかったのだ。
 こういう時、私はXが何を思ってここにいるのか、未だに知らないままでいるのだと突きつけられる。
 当然、知ったところで何が変わるでもなく、Xは私たちプロジェクトメンバーにとって単なる『生きた探査機』でしかないわけだが、それでも、興味はある。
 ともあれ、Xの言葉を受けた男性は「ほんと、真面目だなあ」と笑い声混じりに言う。
「結局、いつも通り、ってことか」
 本当は、この『異界』に初めて訪れたXに「いつも通り」なんてものは何一つないはずで、Xもその言葉に応えることはなかった。応える代わりに、サイドミラーに半分ほど映り込んだ自分の顔をちらりと見て、その唇が真一文字に引き締められていることを、確かめたようだった。
 
 
 男性の言葉通り、それから目的地に到着するまで、さして時間はかからなかった。
 森に囲まれた細い道が尽きたところで、車が急停止する。がくん、という衝撃が画面越しにも伝わってくる。Xはわずかに目を細めて、運転席を睨む。
「下手くそ」
「嫌なら途中で運転を代わるべきだったね」
 男性は少しも悪びれたふうでもなく、鼻歌交じりに車を降りてゆく。Xは小さな溜息をついて、助手席のドアを開けた。ざあ、という風に木々が鳴る音がスピーカーを通して響く。
「ここから、森に入って少ししたところで遺体を見つけたって通報があったわけよ」
「なるほど?」
 Xは辺りを見回す。時刻の上では昼間であるはずなのに、既に日が沈みつつあるかのような薄暗い森が広がっているが、他に特別意識を引くようなものはない。少なくとも、私はそう感じた。Xがどう思ったのかまでは、Xの感覚を伝えるディスプレイとスピーカーだけでは判ずることはできない。
 やがて、Xの視線が森の奥へと続く獣道を捉える。
「道はこっちかな」
 多分ね、という男性の応えを受けて、Xは獣道を進み始める。後ろから「ちょっとくらい休憩させてよ」という文句とともに、男性の足音が追いかけてくる。
 そうして、しばらく会話は絶えた。黙々と歩いていくXに、男性もかける言葉がなくなったのだろうか。ディスプレイは鬱蒼と茂る木々を映し出し、二つ分の足音だけがスピーカーから聞こえてくる。
 そして、数分ほど足を進めたところで。不意に――視界が開けた。
 突如として現れた、ぽっかりと木々が生えていない空間。いつの間にか雲が太陽を隠していたのか、日差しはなかったが、それでも今まで歩んできた場所より遥かに明るい場所。
 そこに、何かが落ちていた。
 否、画面に映し出された瞬間、私の目がそれを正しく認識できなかっただけで、Xはすぐに何であるのか察したに違いなかった。息を呑む音と共に駆け寄る。
 それは、服を纏ったミイラのように見えた。
 車の中で見た写真同様の、体液を抜かれ、骨に皮がまとわりついた遺体。Xは遺体の傍らに膝をつき、じっと観察する。目に見える範囲では、服の上から心臓を貫くような痕跡以外に目立った損傷はなく、ただ、ただ、体中から水分が根こそぎ奪われたような、異様な姿形をしている。
 それと同時に、妙な既視感を覚える。その既視感の正体にも私よりXの方が早く思い至ったようで、「そうか」という低い呟きがスピーカーから漏れる。
 次の瞬間、ディスプレイに映し出されているXの視界が激しく揺さぶられた。Xが地面に倒れこんで転がったのだ、と私が理解するのと、影のようなものがXの視界の片隅をよぎり、地面に突き刺さったのはほとんど同時だった。
 地面に突き刺さったのは漆黒の刃だった。もし、Xがその場に膝をついたままであったならば、間違いなくXの体を貫いていただろう。
 そして。
「あれ。避けられちゃったか。……やっぱ、気づいてた?」
 あっけらかんとした声が、降ってくる。
 Xは地面に転がったまま、そちらに視線を向ける。視線の先には、先ほどまでXと語らっていた男性が微笑を浮かべて立っていた。唯一、先ほどまでと違うのは、だらりと垂れ下がったスーツの袖から伸びているのが、人の手ではなく、Xの横に突き刺さる刀を思わせる黒い刃であったということ。
 そんな、明らかに尋常ならざる状況にあっても、Xはあくまで落ち着き払っていて。
「いや。気づいていた、わけじゃない」
 言って、男性から目を離さぬままにゆっくり体を起こす。男性はその間、動こうとはしなかった。穏やかな微笑みのまま、Xを見下ろしていただけで。
「違和感はあったけど、気づいては、いなかった。これを、見るまでは」
 上体を完全に起こしたところで、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、Xの視線が転がった遺体へと向けられて……、私の既視感が、確かなものに変わる。
 遺体は、目の前の男性と全く同じ格好をしていたのだ。セルフレームの眼鏡、小洒落たスーツによく磨かれた革靴。元の形が判然としない骨と皮だけになっても、その遺体が男同様に、人より少しばかり長い手足をしていることだってわかる。
「君が『何』なのかはわからない、が。おそらく、この遺体を作って『成り代わった』んだろうな、と思った」
 男性は微笑みを苦笑に変えて、大げさに肩を竦めてみせる。
「一瞬でそれだけの判断をして、こちらをちらりとも見ずに避けるんだもんなあ。実は、頭の後ろに目玉ついてたりしない?」
「ついてるように、見えるか?」
「冗談だよ。でも、本当にすごいと思ってるんだ。どうやら『俺』はとても優秀な相棒を持ったみたいだ」
 この「俺」という言葉は、果たして今喋っている男性本人を指していたのか、既に命を奪われた、Xの傍らに転がる遺体を指していたのか。
「……相棒、か」
 ぽつり、落とされたXの声から彼の感情を判断することは、私にはできない。けれど、わずかにその声は掠れていた。
 Xがいる位置に、本来なら誰がいたのだろう。どうしてXがこのような『設定』を与えられたのだろう。そんなことを考えずにはいられない。『異界』に一定の法則などないと、今までの『潜航』で思い知らされているというのに。
 男性が袖を引くことで、黒い刃が地面から引き抜かれて。
「でも、もしかすると、気づかないほうが、幸せだったんじゃないかな。死ぬ瞬間を、知らずに済んだんだから」
 刃の切っ先が、Xに向けられる。
 男性は舌なめずりをして、その場に座り込んだままのXに狙いを定める。
「君の血はどんな味がするのかな。楽しみだ」
 いくら『異界』にいるXが意識だけの存在だからといって、『異界』で意識の死を迎えれば、肉体は意識を持たない空っぽの物体になってしまう。つまるところ――『こちら側』の死に等しい。
 故に、私はスタッフたちに引き上げの準備を命じる。『異界』に『潜航』したXに対し、唯一私たちにできる干渉。目には見えない命綱を手繰り、Xの意識を一瞬で『こちら側』の肉体に引き戻す手続き。
 いつもの通りなら、この状況からX自身が引き上げを求めてもおかしくなかったし、そうでなくとも次の瞬間には私が指示するつもりだった。
 その、つもりだった。
 刹那、画面がわずかにぶれて、何かが弾けるような軽い音と共に、男性の額に小さな穴が開いた。
「……え?」
 間の抜けた男性の声が、薄く開かれた唇から漏れる。
 いつの間にか、ディスプレイにはXの腕が映りこんでいて、手には一丁の拳銃が握られていた。その銃口は真っ直ぐに男を向いている。
 そうだ、今のXは警察官という『設定』なのだ。銃を持っていたとしても、何らおかしくはない。
 続けざまに、四回の破裂音。至近距離からの発砲を受けた男性の体が踊るように跳ね、仰向けに倒れる。男性の腕から生えた黒い刃の先端もXから逸れて、あらぬ方向に突き刺さる。
 それを視界の中心に捉えたまま、Xは弾を撃ち尽くした銃を投げ捨てる、が。
 次の瞬間、Xの頬を黒い刃が掠めた。見れば、男性の体から伸びた黒い刃は一本ではなかった。男性の体のあちこちから、ところどころが折れ曲がった刃が生え、そのうちのいくつかは仰向けに倒れていた男性の体を不自然に支えて、無理やり起き上がらせた。その姿はさながら蜘蛛のようであった。
 そして、Xに撃たれた銃創から黒い……、血とはまた異なる液体を流す男性が、明らかに生者のそれではない顔を、向ける。
「やだ、なあ。相棒の顔程度じゃ、君を、躊躇わせることも、できないんだ」
 放たれる声も、軋み、耳障りな音を響かせながら。
 みるみるうちに男性の顔が刃と同じ、黒く硬質な、のっぺりとしたものに変わっていく。男性の肉体もまたかろうじて残っていた人としてのシルエットを失い、黒い刃を生やした異形へと。
 だが、異形と化してもXの与えた傷は塞がったわけではないらしく、刃の隙間から液体を垂れ流しており、木の葉に覆われた地面がどす黒く染まっていく。その姿は、満身創痍と言ってもよかったのかもしれない。
「血を、分けてくれないか。血だ、血を、どうか」
 地面に座った姿勢のまま、じりじり距離を取ろうとしていたXに、黒い影を引きながら異形がずるりと迫る。生まれかけていた距離が一気に縮まり、異形は刃を振り上げる。その仕草は先ほどと比べると酷く重たげなものだったが、それでも、Xの首を刈り取るには十分なものに見えた。
「早く引き上げを、」
 言いかけた私の声は、再びの破裂音に遮られた。
 今度の音は続けざまに五回。画面の中の異形が、今度こそ軋んだ断末魔を上げ、黒い刃が力なく地面に落ち、蜘蛛じみた体が地面に崩れ落ちる。
 Xは、銃を握り締めていた手を下ろす。だが、先ほどXが投げ捨てた銃はまだ視界の片隅に落ちたままで――。
「何で。どこから」
 黒い体液を垂れ流し、地面にへばりつくような姿勢になった異形が、ぎりぎりと戸惑いの声を上げる。Xは意に介さず、急に異形への興味を失ったかのように、つい、と視線を逸らし――自分の背後へと向ける。
「借りたよ」
 そこには、異形に命を奪われた男性の遺体があった。そのスーツの胸元がいつの間にか開かれていることに、その下から銃を収めるためのベルトが覗いていることに、気づく。
 Xは、異形から距離を取ろうとじりじり下がっていたのではなく、遺体から銃を抜き取るつもりだったのだと、やっと気づいた。服や靴がそのままであった以上、銃もそのまま放置されているであろうと判断したのだろう。
「なんで。どうして」
 異形はその事実に気づいていないのだろう。徐々に、声から力が失われていくのがわかる。Xは異形には目もくれずに、もはや物言わぬ遺体に向けて語りかける。
「助けられなくてごめん。本物の相棒じゃなくて、ごめん」
 無骨な手が、遺体の顔の上にかざされる。
「さよなら」
 もう、異形の声は聞こえなかった。Xは瞼を閉じる。ディスプレイが闇を映し――。
「引き上げてください」
 というXの声だけが、聞こえた。
 
  
 寝台の上のXがうっすらと目を開く。
 己の意識と肉体との一致を確かめるかのように、手錠に繋がれた手を握っては開くを繰り返す。そんなXの体のあちこちに付けられたコードを、スタッフと手分けして取り外しながら、Xに声をかけてみる。
「引き上げ完了。発言を許可するわ。……気分はどう?」
 Xはぱちりと一つ瞬きして、私を少しだけ焦点のずれた目で見る。
「特に、問題は、ありません」
 と、先ほどまでスピーカーから聞こえていた声で答えた。その調子がはあまりにも普段通りで、先ほどまで命の危険に晒されたながら、銃を撃っていた人物と同じとはにわかに信じられない。
 いつもそうだ、Xはほとんど感情らしいものを見せない。最近は時折冗談のようなことを言うこともあったが、それだって我々に合わせて言っているようなところがあった。そんなXがこの『異界』への『潜航』に対してどんな思いを抱いているのかなど、わかるはずもない。そして、わかる必要もないのだ。
 ない、けれど。私はつい、上体を起こすXに対して言葉を続けてしまう。
「今回は、随分危ないところだったと思うけど。あの化物と対峙したとき、あなた、何を考えていたの?」
「銃の作りは、『こちら側』と一緒でよかった、と思いました」
 Xはいたって淡々とした調子で言う。ただ、その中にわずかな棘のようなものを感じた気がして、重ねて問う。
「怒ってるのかしら」
「怒っている? 私が?」
 そんなことは、と言いかけたXが口ごもり、視線を下げる。両手を繋ぐ手錠の辺りを眺めながら、ぽつり、ぽつりと続けた。
「古い知り合いに、似ていた、ので」
「 『異界』のあの男性が?」
 異形に成り変わられていた男性と。実際にはXが『潜航』する前に既に命を失っていたらしい男性と。
 Xは私の言葉に一つ頷く。
「つい、重ねていたのだと、思います」
 その視線が、手錠で繋がれた己の手に落とされる。無骨な手。先ほどの『異界』で、迷わず銃を握りしめた手。
「私は、彼に、何もしてやることが、できなかった」
 それは今さっきの話なのか、それとも「古い」話なのか。Xはそれ以上は語らないまま、瞼を閉じる。理不尽に命を奪われた、「何もしてやることができなかった」男性に対して、祈りを捧げるかのように。
 けれど、私は知っている。Xは決して死者の冥福を祈らない。死は死であり、それ以外のものではあり得ないというのが殺人者としてのXの持論だ。だからこれはきっと、不甲斐ない自分に対する怒りを抑えるための儀式のようなものなのだと、思う。
 私はXがわからない。引金を引くことを躊躇わない一方で、時折、強い情のようなものを滲ませる。一体何が彼を動かしているのか、いつだって理解できない。
 そんな私の戸惑いを、Xは察したのかもしれない。瞼を開いて、私を見上げて。
「全部、過ぎた話ですから。お気になさらず」
 そう言って、わずかに口の端を歪めるのだった。