「もし、そこの方」
Xは声をかけられて立ち止まる。声をかけてきたのは、二足で立ち、二本の腕を持つ人、つまり私たち「人間」と変わらない姿かたちをした人だった。辺りを行き交う人――それは本当に様々な姿かたちをしている――の中で、人間らしい人間を見つけるのはそれが初めてだった。
Xはぱちりと一つゆっくり瞬きして、その人を見やる。
「私ですか」
「そう、あなたですよ。よかった、言葉も通じるみたいですね」
この辺りでは言葉もほとんど通じなくて、と話しかけてきたその男性は言った。確かに、Xの聴覚を通して道行く人々の声を拾い上げてみても、私たちの知る言語で喋っている者はいなかった。
Xは改めて、その人と向き合う。Xの視覚で見る限り、三十代から四十代くらいに見える、黒髪の男性。長く伸ばした髪を後ろでまとめており、涼やかな目元でこちらを見つめていた。
「一つお聞きしたいのですが、私やあなたと同じような姿をした、少女を見かけませんでしたか」
「少女……、ですか?」
「ええ。帽子を被っていて、白い服を着ている、十歳くらいの少女です」
同じような姿の、と形容される以上、その少女もXや目の前の人と同じ「人間」の姿をしている、ということだろう。しかし、Xがこの『異界』に降り立ってから、そのような格好の少女を見かけた記憶は私には無い。
Xは「いえ」と首を横に振り、それから逆に問いかける。
「迷子ですか?」
「はい、はぐれてしまって。見知らぬ土地に加えて、言葉も通じないときたものですから。きっと、彼女も困っていると思います」
心底困り果てた調子で言う男性に、Xはきっと少なからず同情したに違いない。ほとんど間髪いれずにこう言ったのだから。
「私でよければ、お手伝いしますよ」
「本当ですか」
「一人より、二人の方が見つかる可能性は高いでしょうから」
Xは少女の特徴をもう少し詳しく聞いて、それから男性と待ち合わせの場所を決めた。このごみごみとした街の中でもよく目立つ不思議な形の塔の足元。
「日が沈む頃には、そこで落ち合いましょう」
黄みの強い緑の空には、二つのちいさな太陽が輝いている。太陽の位置からすると、日が沈むまでの時間は、さほど長いわけでもなさそうだった。
少女の足ではそう遠くには行っていないと思うのですが、という男性の言葉にXはひとつ頷いて、男性とは別の方角に歩き出す。全くちぐはぐな取り合わせの建物の立ち並ぶ街の中、形も色もとりどりの人々の間を歩いて行くのだ。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
二つの太陽はゆっくりと沈みつつある。Xは少女の姿を探して、大通りを抜けて細い道に入り込んでいた。大通りに少女の姿が見つからなかったからだ。どこに行ってしまったのだろうか、それとももうあの男性が少女を見つけているだろうか。
私がそんな風に思い始めた時、Xが道を曲がったところで、視界に白いワンピースが飛び込んできた。白いワンピースに麦わら帽子を目深に被った少女が、じっと、大きな窓――それは、どうやらショウウィンドウのようだった――と向き合っていたのだ。
その姿に、何か引っかかるものがある。……そう気付いた時には、Xが少女に話しかけていた。
「こんにちは。君の連れが、君のことを探していましたよ」
すると、少女はそれで初めてXの存在に気付いたのか、驚いてぴょんと跳ねたかと思うと、Xの方を向いた。その顔は大きな帽子の鍔でよく見えなかったけれど、口元が言葉を紡ぐ。
「いけない。全然気づいてなかった」
その声に。私は、背筋を撫ぜられるような感覚に囚われる。理由ははっきりしているけれど、それが今もなお確信に至らないまま、Xと少女のやりとりを聞くことしかできない。
「ありがとう。あの人はどこにいるかしら」
「待ち合わせを、していますから。そこで落ち合うことになっています」
「よかった。面白い場所だけれど、ずっとここにいるわけにもいかないものね」
そう言って、ショウウィンドウにほっそりとした手を触れる。Xがそこをのぞき込んでも、そこに並んでいるものが「何」であるのかはよくわからなかった。この『異界』に住まう人々が多種多様であるように、その人々が作り、使うものも当然多種多様で、我々『こちら側』の人間の感覚では計り知れないものなのであろう。
ただ、一つだけ。ショウウィンドウに並ぶ用途不明のものの中で、目に留まるものがあった。それは我々のような人間を象った、人形、であった。子どものころに与えられた記憶のある、着せ替え人形によく似ていた。少女の姿をしたそれが二つ、手を繋いで立っていたのである。その姿は目の前の少女に何となく似ているような気がして……、それと同時に、普段は意識的に蓋をしている記憶が開きかける感覚に陥る。
Xに呼びかけたい。けれど、私の声は『異界』にいるXには届かないのだ。Xはショウウィンドウから視線を切って、少女に手を差し伸べる。少女はじっとその手を見つめてから、ちょっとだけ首を傾げて問いかけてくる。
「……実は、あなたが人さらいだってことはない?」
「信じてもらわないことには。あなたの、連れの特徴でも言えばいいでしょうか?」
「いいえ、いいわ。何だか、あなたは大丈夫そうだって思うもの」
ふふ、と笑みを漏らした少女は、Xの無骨な手にちいさな手を重ねる。その手が離れないように指を絡めながら、Xは少女を観察し続ける。少女は片手で帽子を深くかぶり直し、「どうしたの?」と問いかけてくる。
「いいえ。あなたが、誰かに似ているな、と思いまして」
「そう? 実はどこかで会ったことあるかしら?」
ふわりと白いワンピースを翻し、大通りに向けて歩き出しながら、少女はXを振り返る。
「さあ、案内してくださいな」
「よかった。無事だったかい?」
先に待ち合わせ場所についていたらしい、少女の姿を見た男性はぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる。少女は小さく笑いながら言う。
「大げさ。大丈夫、ちょっと寄り道してただけ」
そして、男性がXに向けてぺこぺこと頭を下げる。
「ありがとうございました。助かりました」
「いいえ。……少しでも力になれたなら、幸いです」
Xも男性につられるように頭を下げる。少女はそんなXと男性とを交互に見やって、それからXの手を離して男性の方に駆け寄る。白いワンピースの裾がディスプレイの中で跳ねる。
「それじゃあ、もう行くのかしら?」
「ああ。ここでの用事は済んだからね」
男性の言葉に、少女も頷いてみせる。少女の手を握った男性は、Xの方を見やって、己の胸に手を当てる。
「それでは、我々はこれで失礼します。本当に、ありがとうございました」
少女も、Xに顔を向けて、目深に被っていた帽子の鍔を持ち上げて。
「探してくれてありがとう」
Xは――そして、私は。その顔をはっきりと見た。
その顔は。私がよく知っている顔をしていた。頭の中をよぎっていた予感の通りに。
Xもまた、その顔に思うところがあったのだろう、一瞬息を飲むような気配と共に、声を漏らす。
「君は――」
「X、呼び止めて」
思わず、言葉が唇から零れ落ちる。スタッフたちが視界の隅で異様な顔をするけれど、構ってなどいられなかった。身を乗り出して、聞こえないとわかっていても、声を。
「お願い、X」
けれど、少女はXの声など聞こえていなかったのかもしれない。一瞬持ち上げていた帽子の鍔を下ろしなおすと、
「さよなら」
とだけ言って、靴の踵を鳴らす。その瞬間、少女と男性の姿がたちまち空気の中に溶けて消えてしまった。Xが手を伸ばすも、その手は虚空をかくだけ。もう、二人の気配は周囲を行く人々の中にはないのだということだけが、はっきりしていた。
「リーダー。一体何が……?」
潜航装置に張り付く新人が語り掛けてくる。私はそれに応えることはできなかった。唇に走る痛みに、唇を噛んでいたことに一拍遅れて気づく。
ああ、ここまで来ておいて、私は今、何もできなかったのだ。
Xが引き上げを望んでいる声を意識の端で聞きながら、私はもう一度唇を噛む。あの、懐かしい顔が目の奥に焼き付いて離れないまま。
Xの意識が肉体に戻ってくる。
手錠を嵌められた手の指先が、何かを求めるかのごとく空を切って。それから、目を開く。焦点の曖昧な視線が天井辺りを彷徨い、そしてこちらに向けられる。
その視線が何かを訴えかけているように見えて、息が詰まりそうになる。Xはきっと、もう、気付いている。Xという人物は、どこまでもぼんやりしているようで、妙に鋭いところがあるから。
ただ、それで黙り続けているわけにもいかない。これからのためにも、私は、Xに語らないといけないのだ。
「発言を、許可するわ」
Xは一つ頷きを返し、身を起こしながら言う。
「あなたも、見ましたよね。あの、少女を」
「見たわ。あなたは、どう思った?」
「似ている、と思いました。……そう、あなたにです」
Xは少女に「誰かに似ている」と言った。その時には気付かなかったけれど、あの少女の顔をきちんと見た瞬間に気付いたのだろう。そうだ、あの少女はあまりにも「私」に似ていたのだ。もっと正確に言うなら、幼い頃の私に。
「他人の空似、というわけでも、なさそうですね」
Xの言葉は確信に満ちていた。Xに完全に見透かされてしまうくらいには、動揺しきっているらしい。それも仕方のないことなのだとは思う。どれだけ私がこの時を待ち望んできたのかを、Xは知らないはずだから。
深呼吸を一つ。ともすれば逸りそうになる心を落ち着けて、言う。
「あれは。……私のきょうだいじゃないかと思ってる」
「きょうだい、ですか?」
「ええ。双子の妹」
ふたごの、とXが私の言葉を繰り返す。疑問符と共に。それも当然だ、あの少女は今の私とは年齢が離れすぎてしまっている。けれど、Xならわかると信じて言葉を紡ぐ。
「 『異界』はこちらとは時間の流れが異なることがある、というのはあなたも経験したはずでしょう」
「はい。しかし、……どうして」
「 『神隠し』よ。二十年以上前、私の目の前で、あの子は消えた」
その時のことは、今でもはっきりと覚えている。誰も、私の言葉を信じなかったことも。当然だ、目の前で消えただなんて、説明されたところで信じられるはずもない。
妹はその後「行方不明」として捜査の対象になったけれど、結局二十年と少しが経過した今も見つかっていない。当然だ、『こちら側』にはいないのだから。
「あなたは」
Xはぽつりと言葉を落とす。その表情は相変わらず凪いでいて、感情らしいものを読み取ることはできなかったけれど。
「妹さんを探すために、この、研究を?」
「ええ。その他にも色々と理由はあるけれど、最初のきっかけはそれ」
私はその時から『異界』の存在を信じるようになった。そして、私と同じような経験を持つ師の下につき、この研究を推し進めてきた。ここにいるスタッフたちも、多かれ少なかれ、私と似たような経験から『異界』に触れた者たちだ。
「 『異界』に『潜航』する技術は確立できつつある。こうして、消えたはずの人間に出会うことだって、できた」
「けれど、まだ、……向こうにあるものを『引き上げる』ことは、できないのでは?」
Xとてただ漫然と潜航実験を繰り返しているわけではなく、我々に「できること」と「できないこと」も把握しつつある。私はその言葉に一つ頷いて、言葉を続ける。
「今は、まだね。けれど、次の段階に進めるための準備は続けている。つまり、『異界』のものに接触し、『こちら側』に反映させるための」
日々の試行は決して無駄にはなっていない。積み重ねられたデータは、『異界』を確実に手の届く場所に近づけつつある。私は、寝台の上からこちらを見上げるXを見つめて、笑う。
「それが叶うのも、あなたが取得してくれたデータのおかげよ。ありがとう、X」
Xは目を丸くして、それから、ほんの少しだけ表情を緩めた。……本当に、ほんの少しだけ、だけれども。Xは私の前ではほとんど表情を動かさない。果たして元からそうだったのか、この場でだけそうなのかはわからない、けれど。
「そして、これからも。その時が来るまでは、あなたに協力してもらうわ」
「はい」
Xの応えに、躊躇いなどない。いつもそうであるように、きっとこれからも、Xは従順なサンプルであり続けてくれるだろう。そう、Xにとっての「その時」が来るまでは。
いつしか、Xがそこにいるのが当然であるように感じてしまっていたけれど。それはなかなかに得難いものだと再認識する。
そして、Xの従順さに甘えて、もう一つだけ、わがままを言うならば。
「それと、一つお願いがあるの」
「何ですか?」
「もし、以降の『異界』であの子に出会うようなことがあれば。今までの事情を聞いたうえで、片割れが心配していたと伝えてくれる?」
Xはぱちりと目を一つ瞬かせて、それから、穏やかな表情のまま言った。
「もちろんです」
無名夜行