――『異界』。
ここではないどこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手に入れた我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
……の、だが。
「Xの反応が途絶えた?」
まさか、という思いの問いかけに、エンジニアは重々しく頷いた。
「確かに『潜航』のシーケンスは正常終了してるし、命綱が切れた様子もない。でも、Xの意識体のトレースができないの」
異界潜航装置のコンソールを覗き込めば、無数のエラーログが吐き出されている。私とてログの読み方くらいはわかるが、そもそも「読む」よりも先にエラーの文字列が次々に現れては押し流されていくのだからまるで読めたものじゃない。
「潜航装置の故障……?」
「あってはならないことだけど、可能性は否定できない。ひとまず何が起こったかの特定を進めるわ」
「オーケイ、解析を続けて。ドクター、Xの生体反応は?」
「こっちは問題ない。今のところ命綱が切れてないのは間違いないだろう」
装置に繋げられているXの肉体を診ながらドクターがきっぱりと言う。『異界』に『潜航』するのは意識のみで肉体は『こちら側』に残されているわけだが、仮に『異界』で意識が死を認識した、あるいは意識と肉体のリンク――命綱が切れたならば、肉体にも即座に何らかの異常が発生する、というのがエンジニアとドクター共通の見解だ。故に、ドクターが保証するなら、エンジニアの言うとおりXの意識体は問題なく『異界』に『潜航』しているが、「追う」ことができなくなっている、ということだ。
Xの視覚と聴覚に繋がるディスプレイとスピーカーはどちらも沈黙している。今まで一度も経験したことがない事態であるだけに、研究室に詰める全員が張り詰めた顔をしている。
当初から『異界』への『潜航』の危険性は理解はしていたつもりだった。だからこそ、「使い捨て」の探査機として死刑囚を異界潜航サンプルにする方針で進めているのだ。ここでXが使い物にならなくなれば、次のサンプルを選出する。それだけの話ではあるのだが、異界潜航装置そのものに異常があるとなれば以降の『潜航』もあったものではないのだから、原因の特定は急ぐべきだ。
それに、お互いにあえて言葉にはしないが、極めて「使い勝手のよい」生きた探査機たるXを手放すのはあまりに惜しい。そんな思いがゼロであるといえばもちろん嘘になる。
このような事態の中、私に何ができるわけでもない、というのが最も歯がゆい。プロジェクトリーダーたる私の役割はこの場における意思決定であるわけだが、異界潜航装置に関わることであるならば、唯一装置の全容を把握しているエンジニアに頼らざるを得ない。
すると、エンジニアと一緒にログを追っていた新人が「あ?」と間抜けな声を上げた。
「ちょっと待ってください、これ、何のログっすかね」
「え? あっ何これ? そういうことぉ!?」
エンジニアも素っ頓狂な声を上げる。それから、しばし目にも止まらぬスピードで装置に接続されたキーボードを叩き始める。
「何かわかったんですか?」
青い顔をして胃を押さえていた――こういう事態でなくても常に胃痛に苦しめられているといえばそうだが――監査官が問いかけると、エンジニアがキーボードを叩きながら甲高い声を上げる。
「なるほどねぇ、こりゃ事前のデータ取得じゃわかんないわけだわ!」
異界潜航装置は、『異界』への扉を開いた時点でXが存在可能かどうかのチェックを行うようにプログラムされている。送り出された先が海の底や宇宙空間など、人体が耐えられないような空間に放り出されれば、いくら意識体であれど即座に「死」を認識する。そのような観測以前の事故を防ぐためにエンジニアが組み込んだ措置だ。
今回の『異界』はXの『潜航』に問題ない、と判断されたはずだったのだが、そこに問題があったのだろうか?
しかし、私の想像に反してエンジニアは大きく息をついて、胸を撫でおろしたのだった。
「これならすぐ問題は解消するわね。ほっとしたわ、装置の異常じゃなくてよかったぁ」
「おい、わかるように説明してくれないか。俺たちの頭に問題ない範囲でいいから」
エンジニアと新人の後ろで様子を伺っていたサブリーダーが眉間にしわを寄せる。すると、エンジニアが手を止めてサブリーダーと私を振り返って苦笑する。
「んー、今回の『異界』がそういう『異界』だった、ってだけ」
「どういうことだ?」
「なんて言えばいいのかな、今のXは『異界』に立ってるけど、Xの周囲の情報が確定してないっていうか……、っと、おっけー、『足りた』わね」
その言葉と同時に、今までまるで反応のなかったディスプレイがぱっと明転する。それと同時にスピーカーが捉えたのは、声、声、声。
いや、それは果たして「声」と言うべきなのか。確かに一つひとつは人の声ではあるのだが、あまりにも多くの人間が同時にしゃべっていて、一体何を喋っているのかは判然としない。もはや「唸り」あるいは音が織りなす「波」と言うべきそのただ中に、Xは立たされていた。
「ここは……?」
かろうじて、スピーカーがX自身の低い声を捉える。
ディスプレイに映るのは、単なる白い空間だ。天地も左右も定かではないが、Xは確かにそこに「いる」ようで、下に向けられた視界に、X自身のサンダル履きの足が映っている。
その時、Xの耳に、ぽーん、という声とは別の音声が響き、ディスプレイ越しの視界の中に赤いハートマークが点る。すると、瞬きのうちにXの足下に半透明の床が生まれた。
どうにも不可解な状況だが、エンジニアが横から解説を加えてくる。
「今回の『異界』は、どうも『世界を現在進行形で作ってる何者か』がいる。で、そいつが、Xの周りの状況を描いてくれないとXはそれを認識できない、って仕組みみたい」
つまり――今まではXが『異界』そのものを認識できていなかった、ということか。確かに『潜航』はできていたが、観測者たるXが『異界』を捉えていなければ、観測も何もあったものではない、ということだ。
「で、どうもその『何者か』は、聞こえてくる声からリクエストを受けることでXの立たされてる場所を描いてるみたい。その指示が足りてXの周囲が描かれたことで、初めてXは『異界』を認識できた」
「このマークは、リクエストの合図ってことかしら」
「そうみたいね。どういう仕組みなのかはさっぱりだけど、装置のログがそう言ってんだからそうなんでしょうね」
と、エンジニアが首を傾げる。
再び光るハートマーク、次いで光るのは緑色の矢印のマーク。
それは、どこぞのソーシャル・ネットワーキング・サービスで使われている「好意的な評価」だったり「共有」だったりのマークとよく似ていた。あるいは根は同じものなのかもしれない。『異界』とは、それこそ『こちら側』と分岐した果ての並行世界であったりもするのだから。
そして、この空間を満たしている無数の声は、もしかすると『こちら側』ではインターネットを介した文字列として処理される、サービス利用者の「投稿」のようなもの、なのかもしれない。
もちろんこれらはあくまで『こちら側』の知識を元にした想像であり、何一つこの『異界』の理がはっきりしていない以上は、単なる妄想でしかないわけだが。
一つ、また一つ、不思議な光が点るたびに、その光に応じるかのように描きこまれていく『異界』の光景。その意味をXが知るとは思えないが、床が生まれ、賑やかな色彩の空が生まれ、踏みしめた床から道が生える。
刻一刻と変化していく風景を見渡しながら、Xは無数の声に満ちた『異界』の、はじめの一歩を踏み出す。
無名夜行