十月三十一日、ハロウィン。
果たして、その詳細な由来を知る者はどれだけいるだろう。何せ日本人は、祭りや行事を好むわりに、由来や意味にはまるで頓着しないところがある。
しかし、我々のような『異界』に挑む者にとっては、ハロウィンは重要な意味を持つ。
十月三十一日とは秋と冬との境目であり、霊界の扉が開かれ、死者の霊が行き来する日とされている。つまり『こちら側』と『異界』との境界が薄まる特異日の一つなのだ。この特異日はいくつか存在し、例えば日本なら「彼岸」と称される春分・秋分前後や、「盆」と呼ばれる旧暦七月十五日前後などが『異界』との接触に適した日として古くから語り継がれてきた。
かくして、Xが降り立った『異界』もまた、この瞬間最も『こちら側』との境界が薄くなっている『異界』の一つであった。
Xの目を通してディスプレイに映し出される風景は、『こちら側』の光景とそう変わらない、玄関に明かりをつけた家々の立ち並ぶ夜の街並みだった。玄関口を飾り付けるカボチャを顔の形にくりぬいた提灯――ジャック・オー・ランタン――や、蝙蝠や蜘蛛の巣をモチーフとしたオーナメント、そして通りを談笑しながら行き交うお化けや魔女に仮装した人々の姿。
その時、Xの聴覚と接続されたスピーカーが、声を捉える。
「トリック・オア・トリート!」
ディスプレイの視線が下げられる。すると、頭から白いシーツを被った子供と、カボチャ頭に黒いマントを羽織った子供がXの袖を引いていた。
Xはひとつ、ゆっくりと瞬きをしてから、言う。
「ええと? 何、でしょうか」
そうだった、Xはハロウィンという祝祭の基礎知識すら覚束ないのだ。それがハロウィンの決まり文句だとは理解していても、何を意味しているのかはわからない程度の知識。
すると、子供たちはXの袖を引きながら口々に言う。
「おじさん、何も知らないの?」
「お菓子くれないとイタズラするぞ、ってこと!」
ああ、とXはやっと得心がいった、とばかりの声を漏らして空っぽの両手を示す。
「しかし、この通り、お菓子の持ち合わせはないのです」
子供たちはその言葉にXの袖を握っていた手を離し、互いの顔を見合わせる。その表情は被ったシーツや目と口だけがくりぬかれたカボチャ頭に隠されて見えなかったが、何故だろう、にんまり笑った、ということだけは、はっきりとわかった。
「なら、」
画面に映る二つの小さな体が、ぶわりと膨れ上がる。
「イタズラだ!」
瞬きのうちに、子供の形をしていたはずのそれは、Xが見上げるほどの大きさの怪物に変じていた。怪物は長い爪の生えた巨大な手を伸ばしてXを摘まみ上げようとするが、不意にXの視線が横に逸らされる。
「こっちへ!」
視線が向けられた先では、白い仮面を被った人物がXの手を引いていた。Xは導かれるままに駆け出す。二匹の怪物が子供らしい無邪気な歓声をあげながら追いかけてくる気配がするが、それを振り返ることもなく。
Xの手を引く人物は、オレンジ色の通りを走っていくと、家と家の隙間に伸びる細い道に滑りこんで立ち止まる。家々の明かりもここまでは届かないらしく、目の前にいる人物の輪郭すらも、闇に紛れて曖昧になる。
そして、Xの手に何かが押し付けられる。
「さあ、早くそれを着けるんだ。奴らが追い付いてくる前に」
視線を落とせば、それが仮面であることがかろうじてわかる。目の前の人物がつけているのと同じ、目と口だけが描かれた、白くのっぺりとした仮面。
Xが手早く仮面を着け、目の位置に開いた穴越しに通りに目を向けたのと、通り側から怪物がこちらを覗き込んだのはほとんど同時だった。ぎらぎらと、オレンジに輝く巨大な目が二対、闇の中に浮かび上がる。
「ここに逃げ込んだと思ったんだけどな?」
「ねえ、そこのお仲間さん、おじさんを見なかった? こんな夜に、お菓子も持たずにふらふらしてる人間のおじさんさ」
怪物の目にはXが映っている、はずだというのに、まるでその姿を認識していないかのような物言いだ。そして、仮面の人物は肩を竦めてみせる。
「いや、見てないな。別の場所を探したらどうかな」
怪物たちは「ちぇー」 「いいカモだったのにな」とぼやきながらもその場を後にする。その巨体が視界から見えなくなったことで、Xは緊張の糸が切れたらしく深々と息をつく。怪物たちの言う「イタズラ」がどのようなものかはわからなかったが、ろくなものでないことは想像に容易かったから。
「災難だったな。怪我は?」
「おかげさまで、特に何も。しかし、あれは、一体……」
「その様子だと、あなたは町の外から来たのかな。今夜は、町の裏側に住む『お化け』が大々的に表に出てくる祭りの日でね。人間は連中にお菓子を渡して丁重に扱わなければ、酷い目に遭わされるものさ」
「はあ……」
この『異界』は、どうやら普段は住む場所を分け、年に一度だけ共に過ごす――そういう形で人と人ならざるものが共存しているということなのだろう。
「だが、『お化け』連中はとにかく目が悪くてね。人間の顔をしていないものは、全部、連中のお仲間に見えるらしいのさ」
「それで、仮面、ですか……」
「そう。仮面を被って『お化け』の仮装をして連中の目を欺けば、危険はない。人と『お化け』とがともに過ごす、年に一度の盛大な祭りってことだ」
そう言って、仮面の人物は笑ったようだった。どういう顔で笑っていたのかは、もちろん、仮面に隠されてわからなかったが。
「その仮面は差し上げよう。せっかくいい夜に来てくれたんだ、是非とも楽しんでほしいからね」
「ありがとうございます」
Xは深々と頭を下げる。『異界』で救いの手を伸ばしてもらえる、ということは極めて稀なのだ。ありがたさが身に染みる、というものだろう。
仮面の人物は「そんなにかしこまらないでくれ」と笑いながら、顔を上げたXを見る。お互いに仮面越しであるから、果たしてその視線が合っていたかどうかすら、定かではないが。
少しの沈黙の後、スピーカーから、女性の声が聞こえてきた。つい、と仮面の人物の視線が逸れたことで、Xの視線もそれを追う。明るい通りに立つ、仮面をつけた女性がこちらに向けて手を振っている。
「妻だ。これから二人で町を巡るつもりだったのが、よかったら、あなたも一緒にどうかな」
「お邪魔では、ありませんか」
「いや、きっと妻も喜ぶよ。外の人は珍しいからね、あなたのお話を聞けるなら、更に楽しい夜になるだろう。それに」
「それに?」
「おかしな話だと思われるかもしれないが、あなたが、ずっと昔に別れた身内に似ていてね。少しばかり、懐かしい気持ちになったのさ」
Xは「なるほど」と頷いて、それから、ぽつりと言った。
「奇遇ですね。私も、そう思っていました」
私は、Xの本当の名前も知らなければ背景も知らない。Xに「身内」と呼べる人間がいたのかどうかなど、知る由もない。
ただ、Xの声は、いつになく柔らかで――それでいて、わずかに痛みを堪えるような響きが混ざっていた、と感じられたのは、気のせいか、否か。
* * *
「X、あなた、ハロウィンのこと、ほんっとーに何も知らないのね……」
「何せ、縁のない祭り、ですので」
「でも、『トリック・オア・トリート』の意味も知らないとは思わなかったわ。今まで何だと思ってたの?」
「 『メリー・クリスマス』と同じような、挨拶、みたいな……? 幸せなハロウィンを過ごしましょう、みたいな……」
「本当に無関心だった、ってことだけはよくわかったわ」
「概要はこの前伺いましたが、どこが発祥の祭りなのです? アメリカ、ですか?」
「日本のハロウィンはアメリカの影響が強いけど、そもそもの起源はキリスト教の影響を受けるよりも前の、古代アイルランドの祭りと考えられているわ。アイルランドは、どこかわかるかしら?」
「イギリスの隣国ですね。かつてはイギリスの支配を受け、一九四九年に南部のみ独立したんでしたよね。現在のことはわかりませんが、私が捕まった時期は、まだイギリスの一部として存在する北アイルランドにまつわる問題が根強かったと思います」
「どうしてそれはわかるのに、ハロウィンのことは全く知らないの」
「私は、皆さんが、ハロウィンに詳しいのが不思議です。お話の通り、ハロウィン、日本の祭りじゃないわけで」
「そうは言うけど、あなた、日本の祭りにもまるで詳しくないでしょう?」
「……確かに?」
「今、初めて気づいた、みたいな顔しないでくれる?」
無名夜行