無名夜行

列車にて

 その『異界』は、列車の姿をしていた。
 ディスプレイに映るのは、向かい合わせの座席が並ぶ、古めかしい風情の鈍行列車。窓は『潜航』を開始してからずっと暗く、どうやら長いトンネルの中にあるらしい。潜航装置から延びるコードを繋がれたスピーカーは、線路を走る規則正しい音を捉え続けている。
 そんな静かな車内に、乗客はどうもXともう一人だけのようだった。
「あなたは、どうしてこの列車に?」
 そう言ったのは、状況を把握しようと座席の上で辺りを見回すXの前に現れた、一人の青年だった。Xより一回りほど若く見える青年は、互いの目的地に到着するまで話し相手になってくれないか、と持ち掛けてきたのだ。
 もちろんXは快諾した。『異界』の住人との対話は、『異界』を把握するためには必要不可欠な行為だから。
 かくして、Xの前に座った青年は興味ありげにXを見つめているのだった。Xは、青年を観察し返しながら淡々と言う。
「ずっと、旅を、していて」
「旅、ですか……。そうは見えないですね」
「よく言われます」
 このやりとりを耳にするのも、何度目になるだろうか。
 確かに、寝起きのようなトレーナーとぶかぶかのズボン姿にサンダルをつっかけ、小さな鞄一つ持っていない人物を「旅人」とは判じがたい。顔だって、寝ぼけたような冴えない面構えに違いない。
 その一方で、Xは極めて真面目なので、自分の状況に適した言葉を探した結果として「旅」という言葉を使っているのもわかる。嘘も誤魔化しも苦手、ということは今までの『潜航』を通して嫌というほど理解させられているため、私も彼の意向に従うことにしている。
 従順なXのことだから、私が強く命じればそれなりの嘘を考えるのかもしれないが、彼のモチベーションを削ぐのは私の望みではない。
 ともあれ、Xは『異界』であることも忘れそうなほど『こちら側』に近しい列車の中、いわゆる「ひと」と変わらぬ姿の青年に向けて、問いかけるのだ。
「あなたは、どちらに? 随分、大荷物の、ようですが」
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 そうしてXの目と耳を通して観測してきた『異界』の姿は様々で、明らかに『こちら側』――我々が「現実」と認識する世界――と異なることもあれば、今回のように、『異界』でありながら『こちら側』とそう変わらぬ見かけのこともある。
 ただし、見かけが似通っていても、まるで異なる社会構造を持つことも、『こちら側』ではありえない常識がまかり通っていることもあるため、『異界』に赴くXの咄嗟の判断力が問われるところでもあるわけだが。
 ディスプレイに映る青年は、Xの言葉を受けて、座席の下に置いた彼自身の荷物に視線を落とす。確かに「大荷物」と表現して差し支えなかった。リュックが一つ、キャリーケースが一つ、そこに更に小さな段ボールが括り付けられている。旅行だろうか、それとも。
「僕は……、ええと、言ってわかるかな」
 言い淀む青年に、Xは首を傾げたに違いなかった。ディスプレイに映るXの視界が、わずかに揺れたから。
 青年はしばし言葉を選んでいたようだったが、やがて意を決したのかXの目を真っ向から見つめると、はっきりと言った。
「本を、作ってるんです」
「本を。作家さん、ですか? それとも、編集を?」
「いえ、えーと……、趣味で、同人誌を作ってるんです」
「同人誌」
 もしかすると、Xの知らない言葉だっただろうか。そこまで一般的に用いられる言葉でない、といえばそうなのだが。青年も、Xの反応に恐る恐るといった調子で問いかけてくる。
「わからないですかね、同人誌」
「いえ、知ってます。自分で書いて作る、本ですよね。私は疎いのですが、知り合いが好んでいて。年に二回の大きな即売会に、連れられたことも、あります」
 年に二回の大きな即売会ということは、おそらくコミックマーケットだと思うのだが、Xにそういう知り合いがいた、ということに驚きが隠せない。Xは、その手の文化とは無縁だと思っていたから。しかし、その知り合いはXを連れてって何をしたかったのだろうか。欲しい本を求めるための人手が欲しかったのだろうか。詳細が気になるが、私の声は『異界』のXには届かない。
 Xの言葉に、青年は露骨にほっとしたようだった。自らのしていることについて、知識を持たない相手に説明するのが難しいのはわかる。私も、この仕事について他者にどう語るべきか悩むことは多い。――まあ、私の場合、それが社会から見て完全に異端に属しているからであり、青年の戸惑いとは質が違うといえばそうなのだが。
「そちらの箱の中は、本ですか」
「ええ、鞄の中も。これから、即売会に向かうところなんです」
「なるほど。どのような本を、作られているんですか。見てみたいです」
「えっ」
 青年の顔が強張り、ええと、と視線が虚空に泳ぐ。青年の戸惑いももっともだ。自らの趣味に属するものを、その趣味に理解があるかも定かでない相手に見せるのは、極めて気恥ずかしい。
 しかし、この場合はXを責めるわけにもいくまい。Xは私の指示通り、『異界』の住人との対話を彼なりの判断で実践しているだけなのだから。趣味に理解はなくても、青年自身と、彼のしていることに興味がある。そういうことだ。
 とはいえ、Xも青年の躊躇いを察したのだろう。声を潜めて「すみません」と言い、ディスプレイに映る視線がわずかに落とされる。
「もちろん、嫌でしたら、構いませんが」
「いえ。……せっかくだから、見て、いただきたいです」
 そう言って、青年はキャリーケースに括り付けられた箱を開いてみせる。そこには、文庫サイズの本が詰まっていた。黒地に太い白文字でタイトルが書かれた、ごくごくシンプルな表紙。
 ――『無名夜行』。
 表紙に書かれたタイトルは、私にはそう読めた。
「よかったら、一冊お持ちください」
「いいんですか」
 ええ、と笑って、青年はXに本を手渡す。市販の文庫程度の厚さがあり、読みごたえがありそうだ。Xの武骨な手が軽くページをめくれば、中身はかなり細かな文字で書かれていて、一目で内容を判断するのは難しそうだった。
「小説ですか」
「はい。ファンタジーやSFは、お好きですか」
「近頃は読書とも無縁でしたが、そうですね、不思議なお話は、好きです」
 そうなのか。意外に思う。Xは私が命じる通り、『異界』では積極的に事物に接するが、本来は何事にも興味を持たない性質のように見えていたから、当然、あらゆるジャンルの物語にも興味がないのだとばかり思っていた。
 もしかすると、あらゆる『異界』を渡り歩いて無事でいられるのも、案外「不思議」に精通してるから、なのだろうか。……それにしては、少々ものを知らなすぎるとも思うが。
「ならよかった。素人が趣味で書いた本なので、ご期待に添えるかはわかりませんが、短いお話を集めたものなので、手軽に読めるとは思います」
「ありがとうございます。では、早速」
 目の前で読まれる、というのは、作者にとってなかなかのプレッシャーではなかろうか。しかし、私も中身には興味があったので、Xの視界を通して本を覗き込む。
 Xの読む速度はやや遅く、私が文字を追うのはそう難しくなかった。ただ、読み進めていくうちに、己の目を疑うことになる。それはどうやらXも同様だったようで、ひとつ、話を読み終わったところで手を止めて、青年の方に視線を戻す。
 青年はXを見つめていた。きっと、Xが本に視線を落としていた間も、ずっとそうしていたに違いない。ただ、青年の方から声をかけてくることはなく、Xが口を開くのを待っていた。
「興味深い、お話ですね」
 Xは、青年を見つめ返して、静かに言う。
「……『ここではない世界』を巡る、旅人の、お話ですか」
 そう、書かれていたのは、Xの状況にあまりにも酷似した物語だった。
 どうも、名前を持たない旅人が、何者かに命じられて『異界』を渡り歩く、という筋書きの短編集であるらしい。その上、物語は、一貫して旅人ではなく旅人の視点を借りた「何者か」の視点で描かれている。それは――今まさに『こちら側』からXを観測している私自身ではないか?
 しかも、物語に描かれた『異界』の光景は、以前Xが観測した『異界』とあまりにもよく似ていた。その『異界』で起こったこと、観測の顛末すらも。
 奇妙なまでの符合。これが、果たして偶然かどうか――。
 その時、ゆっくりと列車が減速を始め、車内にアナウンスが入る。間もなく駅に着くらしい。駅名は、不思議と聞き取れなかった。
 青年が「おっと」と言って、開いていた箱を閉じ、荷物をまとめ始める。どうやら、次の駅で下車するようだ。Xはその様子を眺めながら、いつになく、穏やかな声で言った。
「面白いお話、ありがとうございます。大切に、読ませていただきます」
 もしかしたら、微笑んだのかもしれなかった。私はXの笑顔を未だかつて見たことがないが、『異界』では時折、そうではないか、と思える瞬間がある。私が観測できるのは「Xの視界」だけであり、X自身を観測できないため、想像に過ぎないが。
 青年はその言葉と表情に、やっと安堵したのだろう、ずっと顔に入っていた力をようやく緩めた。
「こちらこそ。そう言っていただけると、ありがたいです」
 列車がトンネルを抜ける。外に広がっていたのは、満天の星空だった。無数の光を散りばめた藍色の空の中に、青白い輪郭だけが浮かび上がった駅のホームが見えてくる。青年はリュックを背負って、キャリーケースを手に一礼する。
「それでは、旅人さん、いい旅を」
「あなたも、今日がよい日になりますように」
 列車が止まり、扉の開く音が響く。がらがらとキャリーケースを引きながら、青年が列車を降りていく。ホームに降りた青年は、青白く灯る光の中でこちらを振り返り、片手を挙げた。Xも、窓越しに手を振った。
 果たして、あの青年の手による、Xの旅路をなぞったとしか思えない物語は、一体どのような場所で頒布されるのだろうか。私には全く想像もつかない。このホームの向こうに、無数の星々が輝く先に、同人誌即売会が開かれているのだろうか。『異界』のことは、いつだってわからないことばかりだ。
 やがて、列車が再び動き出す。窓越しの青年の姿が後ろへ流れていき、闇に紛れて見えなくなる。最後にもう一度だけ手を振って、Xは視線を膝の上に伏せていた本へと向ける。『無名夜行』というタイトルを指でなぞって、それから、再び読書に戻る。
 星空を行く列車の中、Xは誰かの手で書かれた物語を通して、己の旅路を、振り返る。