「やあ……、あんたは無事なようだな」
崩れかけの壁に寄りかかって座り込む男性が言う。
その側には体の一部が腐り落ちた人間の死体が転がっていて、思わず目を背けたくなるような光景だったが、その場に立つXはありのままをその視覚で捉え続ける。
そして、Xに語り掛けてきた男性もまた、肩のあたりに深く傷を負っているらしく、傷口から流れ落ちた血が床に溜まり、じわじわと広がりつつある。
Xは一歩、男性に近寄りながら、語り掛ける。
「酷い傷です。せめて、止血を……」
「無駄だ」
言いかけたXの言葉を男性はぴしゃりと封じた。Xは思わずといった様子で足を止め、男性を凝視する。男性はちらちらと瞬く街灯の下で、口元を笑みにした。
「わかるんだよ。……俺はもう、ダメらしい」
男性の体が僅かに震えているのをXの目は見て取る。やがて震える指先が持ち上がり、一点を指さす。
「だから」
そこには、
「俺を、殺してくれ」
死体の陰に隠れるように、一丁の銃が、転がっていた。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回、Xが降り立った『異界』は、夜の街の只中だった。だが、街の建物のあちこちから火の手が上がり、ところどころが崩れ落ち、酷いありさまであった。道には死体がいくつも転がり、そのどれもが酷く損壊していた。
Xは小さく唸って鼻と口を手で覆う。おそらく、辺りには酷い臭気が漂っているに違いなかった。それが一体どのようなものなのか、私が知ることはできない。私たちが知ることができるのは、Xの視覚と聴覚のみゆえに。
そして、Xが歩き出そうとしたその時、横道からぬっと飛び出してきたものを見て、私たちは目を疑うことになった。
それは――ところどころが腐り落ちた肌をした、明らかに生きているようには見えない人間だった。それが、よろよろと二足で立ち、ぼろぼろの手をXに向かって伸ばそうとしていたのだ。
Xが果たしてその事実をどう受け止めたのかはわからない。けれど、Xの判断は早かった。身を翻し、動く死体としか表現しようもないそれから距離を取って、地を蹴った。つまり、逃げることを選択したのだ。
街中をあてもなく駆けている間にも、火や街灯に照らされてあちこちに蠢く影が見て取れた。それが生きた人ではなく、動く死体であることは、その歪な動きから判断できた。まるで古いホラー映画の世界だ。
死体がどうして動くのか、そんなことはもちろん私にはわからないし、そして逃げているXにもわからないのだろうが、動く死体たちがXを見つけるとこちらにぐるりと首を向け、寄ってこようとすることだけははっきりしてきた。今のところ緩慢な動きのため追いつかれることはないが、もしその手がXにかかったらどうなるのだろうか?
そんなことを思う私をよそに、Xは走り続けて……、やがて、道が絶えた。行き止まりだ。そして、その行き止まりの壁に寄りかかるように座っていたのが、この男性だ。
殺してくれ。そう言われたXはその場に立ち尽くしたまま、言った。
「しかし、あなたは生きています」
「今はまだ、な」
ちらりと男性の視線が自分の傷に向けられる。Xの視線も自然とそちらに向く。
「だが、このままじゃ『あいつら』の仲間入りだ」
あいつら、というのがあの動く死体たちのことだろうというのは私にもわかった。そしてXにも察せられたのだろう。む、と小さな唸りがXの口から洩れた。
どうやら、古い映画そのままに、あの動く死体たちは自らの仲間を「増やす」のだろう。例えば、傷を与えた相手の生命と自我を奪って仲間に引き込む、といった方法で。
「その前に、頼む。人のまま死なせてくれよ」
Xは「なるほど」と言いながら銃の方へと歩んでいく。その傍らの死体はどうやら体つきからして女性のものらしかった。頭部には数発の弾痕が穿たれている。
Xは銃を拾い上げて、その形と重さとを確かめるように銃を持つ手に視線を向ける。私は銃のことは詳しくないから、それが「拳銃」であることしかわからない。
「まだ弾は入っているはずだ」
男性の言葉に、Xも頷いてみせる。そして、迷うことなく両手で銃を持ちなおし、その銃口を男性の頭に向ける。だが、まだ人差し指は引鉄にかかってはいなかった。
「何か。……伝えることは、ありますか」
「伝えるべき相手は、自分で殺しちまったからな」
男性の視線が、側に落ちている死体に向けられる。Xもちらりとそちらに目をやった。死体はもちろん何も語らない。ただ、死体に口が無いといっても、伝わることがゼロではない。Xは視線を男性に戻して、問いを投げかける。
「彼女は、あなたの?」
「嫁だよ。だけど、先に奴らにやられてな」
それから、何とか二人でここまで逃げてきたけれど、結局彼女は正気を失って。
「そして俺もこのザマだ。……ほんとは、あいつが、あいつのうちに楽にしてやれれば、よかったんだけどな」
Xは目を細めた。細めたということが、ディスプレイから伝わってくる。
「きっと、誰にだって難しいですよ、それは」
「そうか。……そうだな」
男性は笑った。体の震えが先ほどよりも増しているのがわかる。徐々に、徐々に、その体が変貌を始めているのかもしれなかった。人間から、人ではありえないものへと。
「嫌な役回りを任せて悪いな」
「構いませんよ。慣れてますから」
それは、もしかするとXなりのとびきり悪趣味な冗談だったのかもしれない。「人を殺すことに慣れている」という意味合いであると、目の前の男性は果たして理解できたのだろうか。きっと理解はできなかったに違いないけれど、男性はXの返答に満足げに息をつくと、目を閉じた。
それ以上、お互いに言葉は必要なかった。
Xは指を引鉄にかけて、撃つ。思ったよりもずっと軽い音が、二発、響いた。頭を撃ち抜かれた男性の体がぐらりと傾いで地面に倒れるのを、Xは瞬き一つせずに見つめ続ける。
男性の死体は、横たわったまま動き出すことはなかった。
もし、そこに立っているのが自分であったら、もしかすると死後の幸福でも祈っていたかもしれない。もう一度、彼が「嫁」だと言っていた彼女と巡り合えればいい、そんな風に思うことも、あったかもしれない。
だが、そこに立っているのはXであって。
Xは死後の存在を信じないということを、私は知っている。
だからだろう、Xは祈りを捧げることすらせず、死体となった男性からすぐに意識を外して、振り返る。頼りなく瞬く街灯に照らされて、蠢くものがこちらに近づいてきつつあるのが見て取れる。
Xの手の中の銃が、火を噴く。躊躇い一つなく放たれた銃弾は動く死体の胸の辺りを撃ち抜くが、死体は止まらない。それどころか、その背後からも何体も、何体もの動く死体が迫ってくるのが見て取れてしまう。
それでも、Xは慌てふためくこともなく、銃を構えた姿勢のままぽつりと言った。
「これ以上の探査は無理です。引き上げてください」
「……そうね。引き上げて」
私はエンジニアに命令を下す。Xの手にした銃がもう一度高らかな音を鳴らすのと同時に、ディスプレイが暗転する。そして、Xの意識体は『異界』からこちら側へと、目には見えない命綱を手繰って引き上げられるのだ。
だから、その後のことを私たちが知りえることは、ない。
ないのだ。
「お疲れ様、X」
装置に繋がれたコードを外され、寝台に横たわっていたXはゆっくりと身を起こす。そして、自分の手に目を落とした。その両手にはいつもと変わらず手錠が嵌められていて、手首と手首を繋ぐ鎖が小さく鳴る。
そうだ、こちら側ではその手に銃を握っては、いない。
「発言を許可するから、質問をしていいかしら」
「……はい」
Xの視線が自分の手から私へと向けられる。曖昧な視線。けれど、酷く真っ直ぐにも見える、視線。私はその視線を受け止めるたびに、Xという人間について、何も知らないのだということに思い至る。
知らなくていいのだとわかっている。知ったところで私のすべきことは何も変わらないのだから。それでも――、つい、聞いてしまうのだ。
「あなたは、人を殺すとき、何を考えているのかしら」
「私が、ですか」
「ええ。あなたは今日、『異界』での、ここにいる者以外の誰にも知り得ない出来事としてだけど、人を殺したわ」
初めてではない。今までもXが人――の形をしたもの、というべきかもしれないが――を殺めたのを目にしたことはある。ただ、今までの殺人はとっさの「防衛行動」であったのに対して、今回のそれは少し性質が違ったように思えたのだ。
Xはわずかに、ほんのわずかに表情を歪めた。それは、じっと見ていなければ気づかないくらいの微妙な変化だったけれど、珍しく「不快感」に近い表情だったのではないだろうか。
「……いけませんでしたか」
「咎める気はないわ。私はあなたの『異界』での自由な行動を保証する。ただ、そう、あなたは殺すことを躊躇わないのだな、と思って」
Xは少し考えるように視線を落としてから、すぐに視線を上げて言った。
「躊躇う理由が、なかったので。今回は、そう望まれましたし」
「あなたは、望まれたら必ずその人を殺すの?」
「まさか。そんなに見境なく、見えますか?」
「いいえ。『そうじゃない』から質問をしているの。あなたの中の基準が、私にはわからないから」
なるほど、と言ってXは俯いて黙りこんだ。別に答えたくなければ構わないのだ、と言葉を続けようとしたところで、突然Xがぽつりと言った。
「そうすべきだと、私が、思った時」
「え?」
「今回は、きっと、私が手を下すべきなのだろうと思いました。そうしなければ、彼は、もっと苦しむだろう、と」
だから、殺したのだと。Xはぽつぽつと言葉を落とす。
「けれど、それが正しかったかどうかは、わかりません。唯一、私にできることは」
つい、とXの顔があげられる。いつもの通りに表情らしい表情はなく、それでいて酷く決然とした調子で。
「私が、彼を殺したという事実を忘れないことです」
そう、言い切るのだ。
「もちろん、ずっと覚え続けている、というのは、不可能、ですけど。それでも……、彼のことを、そして彼に対して自分がしたことを、忘れまいと思います」
それは、もしかすると、祈りなのかもしれなかった。
死の向こう側を信じない、Xなりの、祈りのかたち。
自らが手を下した相手に意識を払わないのではない。殺そうとした時点で、既にXは忘れまいと心に決めてそうしているのだ。その時点から、ずっと、ずっと、Xの中に刻み込まれることになる、記憶。
「……考えること、といえば、そのくらいです」
それだけを言って、Xは今度こそ口を閉ざした。
ほんの少し。ほんの少しだけではあるけれど、Xの横顔が見えた気がして、私は何ともいえない気持ちになる。この気持ちを表現する言葉を、きっと、私は持ち合わせていない。
ただ、何かを言わなければならないと思って、口を開く。
「ありがとう、X。……話を、聞かせてくれて」
Xはゆるりと首を横に振る。それでも、私は言わずにはいられなかった。
「あなたの言葉で聞けて良かった。私は、あなたについて、知らなさすぎたから」
Xはきょとんと目を見開いた。私が何を言っているのかわからない、という表情。けれど、それでも構うまい。これは私のただのわがままのようなものだ。Xのことを少しでも知りたいと思ってしまった、ごくごく個人的な感情。
ありがとう、ともう一度言って。Xに笑いかける。
Xはこれまた珍しく戸惑いの表情をあらわにして、口を小さく開けたり閉じたりしていたけれど、やがて。
「……はい」
とだけ、答えたのだった。
無名夜行