無名夜行

魔女ふたたび

 Xが目を開けば、目の前には巨大な門があった。
 金属の格子によって硬く閉ざされた門の向こうには、桃色の不思議な空を背景に、西洋の城を思わせる建造物が見て取れる。逆に言えば、それ以外のものはこの場には存在しておらず、振り向けば桃色の空と果てしない荒野だけが広がっている。本当に「何もない」場所に、この門と塀、そして城のような建造物だけが、不自然な形で建っているといえた。
 また、門は格子で閉ざされているだけではなく、門の左右に二つの鎧が立っている。顔全体を覆う兜を被っているため顔をうかがうことはできないが、剣を携えたその姿勢から考えるに、門番と考えてよいのではないだろうか。
 果たして、Xは門への接近を試みようと考えたらしい。一歩、また一歩と恐る恐る歩を進めていく。
 その時、だった。
 にゃーお、という声がスピーカーから聞こえてきた。あまりにも場違いな、猫の鳴き声。Xが足元に目を向けると、いつからそこにいたのだろう、影を固めたような真っ黒な猫が、金色の目を煌かせて座っていた。
 猫。そういえば、どこかで猫を見かけたことはなかったか? いつかの『異界』への『潜航』で。それは、確か――。
 こちらが記憶を探っている間に、猫は長い尻尾を揺らめかせて、一方向へと歩き出す。それは門からは離れ、建造物を取り巻く塀に沿った歩みであった。Xは猫を目で追いながら、果たして自分もその後ろについていくべきか迷っていたようだったが、猫がこちらを振り向いてもう一度鳴いたことで、心を決めたらしい。猫の足取りを追いかける。
 すると、猫の行く手に何かがぽつんと落ちているのがわかった。最初は荒野に落ちた小さな岩のように見えたそれが、近づいていくにつれ予想を裏切ったものであることがわかってくる。
 横になった黒いとんがり帽子に、地面に広がる長い黒髪。猫に連れられてやってきたXを見上げた「それ」は、大きな目を見開いて。
「あら、旅人さん、奇遇ね?」
 首だけであるにもかかわらず、にこりと笑ってすらみせたのであった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 そして、『異界』に『潜航』していくうちに、一つ、わかってきたことがある。
『異界』を渡る能力を持つものは、何も我々だけではなく。むしろ我々よりも遥かに自由に『異界』を渡り歩く存在がいるということだ。
 目の前の女性――今は首だけになってしまっているが――は、『異界』を渡り歩く者の一人。己を『魔女』と名乗る存在であった。かつての『潜航』で、一度Xと出会ったことがある。その時は、こんな生首の姿ではなかったはずだが。
「また会えるなんて、素敵な縁ね。ちょっとみっともない姿だけど」
 魔女の生首は己の姿を恥らうように、少し視線を逸らしてみせる。Xはその場に膝をつき、左手で猫を撫でながら魔女に問いかける。
「……あの、どうして、生きてるんですか」
 もっともな質問だと思うのだが、女性は「あら」とおかしそうに笑う。
「この程度で死んでたら魔女の名が泣くわ。ああ、でも、旅人さんは気をつけて」
 つい、と魔女の視線が門の方へ向けられる。
「あの門、無理に通ろうとすると、門番にばらばらにされるから」
「ばらばら、とは……」
「見ての通り」
 魔女は苦笑を浮かべてみせる。少なくとも、首と胴体がばらばらになるのは間違いなさそうだ。Xも「なるほど?」と返しながら、自分の首と胴体が離れることを想像したに違いない。Xにとって死とは比較的身近なものではあるはずだが、それが「今」というわけではないのは私にもわかる。
「あなたも私も、招かれざる客ってわけ。特段の用がないなら、通ろうとしない方が身のためよ」
「はい。無理に、探索をしない方がいい、ということが、よく、わかりました」
 Xは大概の危険を前にしても動じないが、あらかじめ危険の内容がはっきりしているところに突っ込んでいくほどの馬鹿でもない。私も、今回の『潜航』では大した成果は得られないだろうことを覚悟することにする。
 黒猫を一撫でし、Xは立ち上がる。おそらく引き上げの要請だろう、スタッフたちに持ち場につくように指示を飛ばしたところで、不意に魔女の生首が言った。
「待って。……もし、余裕があれば、でいいんだけど。ちょっと、手伝ってくれない?」
「何を、ですか」
「私の体、集めてほしくて。流石にこれじゃ何もできなくて、とても困ってるの」
 Xはぱちりと瞬きをして、それからもう一度魔女の前に膝をつく。魔女はXが話を聞く態勢になったとみて、畳み掛けるように言う。
「偶然誰かが通りがかってくれるなんて奇跡、なかなかないもの。ね、お願い」
「時間はあるので、構いませんよ。体の在り処は、わかっていますか」
「ええ、場所はわかってる」
 わかりました、と頷いて、Xは左手で魔女の生首を抱える。今まで黙ってXの横に座っていた猫がにゃあ、と鳴いて音もなく歩き出す。ついてこい、ということらしい。
 歩いていきながら、ちらりと塀の方を見てみるが、高い塀が視界を遮って、あの城のような建造物を見ることはできない。できないけれど、Xはきっとそこに城の姿を思い描いているのだろう、抱えた生首にこんな質問を投げかけた。
「何故、あなたは、門を無理やり破ろうと、したのです?」
「お宝があるって聞いたのよ」
「おたから、ですか?」
 不思議そうに首を傾げるXに対し、魔女は憤然とした調子で言う。
「それはわかってない声ね! 私、宝物を探して旅をしてるの。まだ見たことのないもの、素敵なもの、いっぱい、めいっぱい、ってね。わからないかしら、この浪漫!」
「……そんな理由で、侵入を、試みたんですか?」
 Xの声が一段下がる。Xは殺人犯のくせに妙に堅気なところがある。魔女もXの言わんとしていることはわかったのだろう、「うう」と情けない声を上げる。
「そりゃあね。無理やり通ろうとしたのが悪いのはわかってるんだけど」
 別に、お宝を見せてもらえるだけでもよかったんだけどなあ、としゅんとする魔女をよそに、Xは先行する黒猫の歩幅に合わせて歩く。どこまでも続く塀、どこまでも続く荒野。変わり映えしない風景に、もしや同じ場所をずっとぐるぐる歩いているのではないかという疑念すら浮かびかけた頃、やっと荒野にぽつんと何かが落ちているのを見つけた。
 ――それは、しらじらとした足だった。
 太ももからヒールを履いた足先までの足が一本、無造作に転がっている。Xは「わあ……」と彼には珍しく驚嘆の声を隠さずに言った。
「ばらばらって、本当に、ばらばらなんですね」
「そうなの。嫌んなっちゃう」
 ここまで執拗にばらばらにしなくたっていいじゃない、と魔女は唇を尖らせた。
 Xは一旦魔女の生首をその場に置いて、猫の案内に従って魔女の体の部品を集めてゆく。胸元、右足を含めた腰から下、右腕に左腕――何故か左腕はさらに二つのパーツに分かれていた。そうして、魔女のばらばらになった体が、地面の上に一式揃う。
「ちょっと目隠ししていてね」
 魔女の生首の言葉を素直に飲み込み、Xは目を隠す。Xの視界を映すディスプレイが暗闇に閉ざされて、しばらくスピーカーだけが風の音と、時折混ざる猫の鳴き声だけを響かせていた。
 大体一分くらいはそのまま待っただろうか。
「はい、お待たせ。もう見てもいいわよ」
 魔女の声に瞼を開けば、とんがり帽子に黒いドレス姿の魔女がXの目の前に立っていた。先ほどまで生首だけだったとは思えない姿に、見ているだけの私の方が驚かされる。
 魔女はXの目の前まで歩み寄ってくると、にっと邪気のない笑みを浮かべてみせた。
「ありがとう、旅人さん。あなたのおかげで、あのまま風化しないで済んだわ」
「なら、よかったです。……でも、やっぱり、不法侵入は、よくない、と思います」
 まだそこにこだわっていたのか。私にはXの思考はよくわからない。魔女も同じように考えたのだろう、「ふふ」とおかしそうに笑ってみせる。
「せいぜい気をつけるわ。それと、何かお礼をしたいのだけど――」
 魔女の視線が、一瞬Xの視線と絡み合い、それからXの右腕のあるべき場所へ向けられる。ふむふむ、と空っぽの袖を観察していた魔女の唇から、声が漏れる。
「その目は無理だけど、腕なら大丈夫かしらね」
「え?」
「さ、目を閉じて」
 魔女の手が、Xの目元に伸びて、視界を隠す。Xの狼狽の声が聞こえたけれど、魔女は構わず何か歌のようなものを口ずさむ。それは私の知っている言葉ではなく、一つの唇で奏でられているとは思えない、いくつもの音の重なりにも聞こえた。
 やがて、歌が終わって目を覆っていた魔女の手が除けられる。
 そして、Xの視界に入ったのは、腕だった。かつてある『異界』で失われたはずの、右腕。それが、そこにあるのが当たり前であるがごとく、Xの腕として存在している。Xは感触を確かめるように無骨な右手を握っては開いてを繰り返しながら、魔女に問いかける。
「これは、どうやって……?」
「無いものを創造することはできないけれど、元あったものを元に戻すことくらいはたやすいわ」
 だって私は魔女だもの、と。魔女は無邪気に、しかしどこか艶やかに笑ってみせる。
「これでお礼になったかしら?」
「……十分すぎる、ほどです。ありがとう、ございます」
「ならよかった」
 魔女はヒールを高らかに鳴らして一歩下がり、その足元に黒猫が擦り寄る。それ自体が一枚の絵画のような魔女と黒猫は、Xに対して一礼する。
「それじゃあ、私はこれで。またどこかで会いましょう、旅人さん?」
 Xはそれに対して何かを言う前に、魔女の姿はふわりと桃色の空に浮かび上がったかと思うと、靄のように霞んで消えてしまった。伸ばしかけていた右腕をぱたりと下ろし、それが自分の意志で動くものであると確かめるように、もう一度、指を一本ずつ折り曲げて拳を作って。
「……引き上げて、ください」
 ぽつりと、言葉を落とした。
 
 
「 『魔女』。不可解な存在ね」
 Xの引き上げは無事済んだ。あの魔女の警告が無かったらどうなっていたかと思うとひやりとするものはあったが、結果としてXが無事に戻ってきたことを喜ぶべきなのだろう。
 いや、単に「無事に戻ってきた」だけではない。
 寝台の上に腰掛けたXは、こちら側でも動くようになったらしい右手の動作を確かめている。手錠を嵌めた状態では満足な動作の確認はできないだろうが、「右腕が動くようになった」ことは間違いなさそうだった。
「回復の見込みもなかったのに、ああもたやすく腕を取り戻すとはね……」
 魔女。彼女についてもっと知りたいと思う気持ちが湧いてくる。果たして魔女と呼ばれる者はどれほど存在しているのか。あまたの『異界』をどのように渡っているのか。あのようにばらばらにされても生き続け、失われたものを取り戻すことすらできるのはどのような仕組みなのか。
 けれど、魔女はまた消えてしまった。またどこかで、という言葉を残して。
 また、会えるだろうか。この『潜航』を続けていれば、いつか、どこかの『異界』で。
 顔を上げれば、Xがこちらを見ていた。いつもの通り、片目が見えていないが故の少しだけずれた焦点で。
「発言を許可するわ。何か言いたいことはある?」
「……これ、いつか、魔法が解けたりはしませんか?」
 これ、と言って持ち上げるのは右腕だ。魔法が解ける。なるほど、そういう考え方もある。おとぎ話に出てくる魔女の魔法は、いつか必ず解けてしまうものだから。
「さあ、それは私にはわからないわ。あの魔女の口ぶりでは、そういうものではなさそうだったけど」
「そう、ですよね」
「何か心配ごとでもあるかしら?」
 Xは多くを語ろうとしないから、彼が何を考えているのかを知ることは難しい。別に把握していなくてもそう困ることはないのだろうけれど、何か引っかかることがあれば聞いておきたい。
 しばし沈黙したXだったが、やがて唇を開いた。
「これから死に行く私には、過ぎた『お礼』だな、と、思っただけです」