扉も開けず、忽然と玄関に現れた神出鬼没な作家先生秋谷飛鳥は、部屋の主である小林巽がちゃぶ台の上に突っ伏しているのを発見して首をかしげた。
「……どうしたんだい、巽くん」
「助けてアスカえもーん」
普段ならば「どこから入った」から愚痴が始まるはずの巽の口から放たれたのは、巽らしくない情けない声だった。ついでに冗談が苦手な巽が真顔でそんなことを言い出すとは飛鳥も思わなかった。
俺ドラえもんじゃないんだけど、と苦笑しつつ、飛鳥は六畳間に上がりこんで巽の横に座り……現状を嫌というほど理解した。
突っ伏した巽の口元には茶色いものが付着している。そして巽の前には、半分になったハート型のチョコレート。
ただし、二十センチ四方。
巨大すぎるハートを目の前に、飛鳥はちょっとばかり笑顔を引きつらせて問うた。
「これ、どうしたの?」
「葵の愛」
まあそうだろうなと飛鳥は思う。巽には自分で作ったバレンタインのチョコレートを自分で食べる悲しい趣味などないだろうし、それ以前に。
ふと顔を上げた巽の目は、半分涙目だった。
「どうしよう飛鳥、葵の愛が大きくて甘すぎるんだけど幸せだけど」
「巽くん、そういや甘いもの本当に苦手だもんな……」
巽が、チョコレートを好き好んで食べるはずが、ないのだ。
小林巽は料理や菓子作りをこよなく好むものの、それは自分が作ったものを「美味しい」と言ってくれる人がいてこそである。本来巽はそこまで大食でなく、ついでに甘いものがとことん苦手なのである。
が、しかし。
幸せ者の巽が、最愛の恋人である花屋のお嬢さん、椎名葵からいただいた手作りチョコレートを食べないわけにはいかず。
「……少し食べてあげようか?」
「やらねえぞ、葵の愛は全部俺様のもんだ」
「じゃあ頑張って全部食べるんだよ、残したりしたら葵さんの愛に失礼だし」
「残すわけねえ……って言いたいとこだが、ちょいと自信がねえのが悲しい」
流石の『元神様』でも、二十センチ四方のチョコレートには太刀打ちできないのだなあ。
飛鳥は何となくほのぼのとした気持ちになって、青い顔してチョコレートを睨みつける巽を見下ろしていたという。
元神様と放浪作家のイビツな関係