小林巽は黒い鞄の中から小型の銃を取り出し、左手に握る。生まれついての両利きである巽にとって、銃をどちらの手に持つかはさしたる問題でもないのだが、それにしても右腕がやられたのは致命的だ。
巽は眼鏡の下で黒いコンタクトを嵌めた目を動かし、辺りをさっと見渡す。今のところ動くものは視界にないが、一瞬でも気を抜けば背後から攻めこまれかねない。
壁を背に、深く息をつく。スーツの右の袖から赤い液体が滴り落ちている。秋谷静に借金をして買ったリクルートスーツだというのに、肩口の部分が切り裂かれていて、もう使い物にならないだろうと巽は深く落ち込む。
そもそも何故、こんなことになってしまったのか。
それは、数分前に遡る。
『元神様』小林巽は大学四年、要するに就職活動真っ盛り。いや、少々遅れているかもしれない。
何しろ「俺様天才だからばっちり内定取って来ちゃうぜー」なんて余裕ぶっこいていたら、企業から落とされるわ落とされるわ、結局今の時期に髪を染めて黒コンタクトを入れスーツ姿で駆けずり回る羽目になったのである。
そして今日の朝も、ゴミ捨て場にゴミを捨ててから面接に向かおうとした矢先、だった。
音もなく、気配もなく。
しかし巽とて、今の名前を名乗る前は生きるか死ぬかの戦いを繰り広げていた銃士の端くれ。
明らかに一撃必殺を狙って放たれた刃を、ぎりぎりのところでかわした。その代わりに右腕に傷を負ったが、命に比べたら安いものだ。
「な……っ」
巽は即座に平和ボケしている思考をフル稼働させて現在の状況を把握する。
斬られたのだと把握し、その刃の主を捉えるまでには、コンマ一秒もかからなかった。
灰色のスーツをきっちり着こなした、背の低い若い男。それだけならば何処にでもいそうなものだが、その背に似合わぬ長い日本刀が抜き身に朝の光を反射してぎらりと輝いていた。
そして、手にした刃と同じくらい鋭い瞳が巽を射た。
「外したか。流石だな、ナナ」
「な、何だ、手前」
巽は反射的に脳内を検索するが、目の前に立つ男に見覚えはない。それに、『ナナ』とは一体何のことだろうか。
「わからないか、裏切り者……貴様を、処分しに来たのだ!」
問答無用で再び放たれようとする刃……だが、来る方向がわかっていて、かつ先ほど一撃を食らっている巽には同じ手は通用しない。
巽の脳がものすごいスピードで回転し、相手の動きと先ほどの一撃の威力と衝撃から、一撃を食らう直前に最小限の動きで回避するパターンを算出する。その結果、すっと足を運ぶだけで攻撃をかわすことに成功した巽は、右手にかろうじてぶら下がったままでいた鞄から竹の筒のようなものを取り出す。
「……ってーんだよ!」
巽は二撃目を繰り出そうとする男に向かって、竹筒を放る。そして叫んだ。
「 『解き放て』!」
瞬間、音もなく爆発した筒から噴出した、真っ白な煙のようなものが男を包み込んだ。男は「待て!」と叫ぶが、もちろんそんな言葉に従ってやる義理は無い。巽は全力でその場から逃げ出した。
そして、今に至るわけで。
「何なんだよ……」
一応護身用に持っていた楔で防音結界を張って人を避けてから、巽はげっそりした表情で呟く。
本当に、護身用に銃や歪神対策の結界製作用楔、目くらましの術を封じた魔道筒を持ち出していてよかったと思う。一定の時間を操る以外に何ら能力を持たない巽にとって、これらの道具は最大の生命線である。
しかし、せっかく書類選考で通って次は面接だというのに、このままでは遅刻どころか向こうにたどり着いても不審人物扱いされるのがいいところだ。この企業への就職も、諦めたほうがよさそうだ。
灰色の男の気配を探りながらも、巽はぶつぶつと呟き続ける。
「灰色の服に、物騒な武器……ってえと思いつくのは一つなんだが」
――異能府。
異能と呼ばれる以下略、つまり超能力者を取り締まる集団のようなものだ。詳しい説明は他のシリーズを参照されたし。特に「遠雷と白昼夢」や「喜劇 『世界の終わり』 」辺りが巽のオススメ。
だが、巽は単なる『元神様』であって異能ではない。それに、『ナナ』なんて名前でもない。
――いや、待てよ。
異能府の人間はお互いを番号で呼ぶことは巽も知っている。飛鳥の天敵『イの五七』がいい例だ。もしかすると、『ナナ』というのは『七』という番号ではないだろうか。
「すると何だ。俺様が異能府の裏切り者っぽい『七』さんと勘違いされたってか?」
言いながら、巽の脳裏には一つの嫌な仮説が生まれていた。
「裏切り者、『七』……まさか、『京』か」
異能府京班と言えば、異能府の中でも戦闘に特化した集団である。その仕事は戦闘能力に特化した異能の捕獲や処分、そして異能府内部の裏切り者の抹殺、など、いい加減血生臭いと聞いている。静辺りから。
そして、一年ほど前に『京』班に嫌気がさし、異能府の許可なく一人の異能を連れて逃げ出した『京』最強とも言われた代行者が、『京の七』だと聞いている。やっぱり静辺りから。
とすると、厄介なことになった。巽は異能府の人間でない以上、絶対にあの灰色の男の勘違いだ。勘違いで殺されてはたまったものではない。
だが、勘違いだと言っても信じてもらえるだろうか。こっちも『京』の代行者並みの戦闘能力を見せ付けてしまっている、今から人違いだと言っても信じてもらえるとは思えない。
全力で泣きたくなるが、泣いているわけにもいかない、自分の命がかかっているのだ。
とはいえどうしていいのかもわからず、巽は自暴自棄にこんな時にいてくれたらちょっと嬉しいかもしれない、普段は厄介でしかない友人の名をダメ元で呼んだ。
「飛鳥ー、いるかー?」
「いるよーぅ」
「いるのかよ!」
どこからか返ってきた間の抜けた声に対して全力でツッコミを入れる巽。いつからそこにいたのかはわからないが、本当に暇人な作家先生である。
「ってかいるなら助けろ! 手前俺様よか強えだろが!」
「だって相手異能府だし。俺が手出ししたら逆に目つけられるだろ」
「……さいで」
飛鳥の言うことももっともだ。相手が異能府、しかも影の組織である異能府の中でも一番後ろ暗い仕事を請け負う『京』の一人だとすれば、本来異能府の目の敵である『ストーリオ』秋谷飛鳥が無事に帰れるはずもなく。
飛鳥が声だけで姿を現さないのもその辺が理由だろう。
もちろん、気配を極限まで消しているため巽でも飛鳥がいる場所は方向くらいしかわからないが、巽が本当にピンチになったら十分飛び出せる範囲にいるはずだ。飛鳥は普段こそ薄情だが、友人を見殺しにするほど冷血ではない。
巽は少々考えた後、言った。
「じゃあ飛鳥。ひとっ走りしてくれねえか」
「半径十メートル以内だったらいいけど」
飛鳥は妙に具体的な数字を出したが、それも予想の範囲内だったので苦笑する。
「少しは自分の足で走れ。二○五号室」
「了解」
飛鳥も巽の言わんとしていることを即座に理解したのだろう、その言葉を最後に声は途絶えた。十メートルは「跳ぶ」としても、残りの行程も飛鳥の足ならばさほど時間はかからないだろう。忍者口調の隣人以上に忍者らしい飛鳥のことである、不安はない。
「あとは……」
その間、時間を稼ぐだけだが。
ひぃん!
風を斬る音。来た、と思う前に刃は振り下ろされていた。
ひゅう、と口笛を吹いて、巽は自分が生きていることを確認する。
「あっぶねー……」
刃は巽の横に下ろされていた。下ろされた瞬間にわずかに体をずらしていなかったら両断されていたはずだ。気配を読み、正確な判断を下して回避を試みるのは巽の得意技だ。ただし、攻撃能力という点では巽は戦闘を専門としない調停者や異能府の代行者にも劣る。
まして、相手が純然たる戦闘能力者だとすれば、攻撃力の差は圧倒的。
銃を構えなおしながら、巽は声をあげる。
「おい、手前、何勘違いしてんだよ、俺様は『七』なんかじゃねえって……」
「言い訳は聞き飽きた」
後ろに跳躍して間合いを取り、灰色スーツの男は刀を構える。
この距離ならばぎりぎりこちらの銃弾の方が速いかもしれないが、今までの太刀筋から見て、生半可な射撃では弾を空中で切り落とされかねない、と巽は本気で考える。
あと何秒耐え切れば、飛鳥が役目を果たしてくれるだろうか。
巽は背筋に冷たい汗を感じながらも、目の前の男を見つめ続ける。
巽が攻撃に転じてこないことを、自分の圧倒的有利と捉えたのだろうか。それとも何をしてくるかわからないために警戒しているのだろうか。男はすぐに斬りかかってくることもなく、刀を構えたまま唇を開いた。
表情はそのままだが、明らかな怨嗟の念を篭めた声を。
「第一級異能を逃がし、なおかつ組織に離反した貴様を野放しにする上の意向は馬鹿げている……ここで貴様を殺し、私が新たな『七』となる」
「ああ、やっぱりか……」
巽は口の中で呟いて、こんな状況でありながら苦笑する。巽の表情をどう取ったのか、男の殺気が高まっていく。
あと何秒。
巽は表情を硬くする。銃を握る掌にも汗が湧くのがわかる。
いち、にい、さん。
時計より正確に一秒ずつ刻みながら、息を吸って、吐いて。
これ以上は時間の無駄と判断したか、男がすっと足を踏み出した、その時。
「ごめんなさい、小林さん!」
声が、聞こえた。
次の瞬間。
銀色の光と甲高い音が、巽の前に降った。
「な……っ」
驚愕の声を放ったのは、男の方だった。
いつの間にか、男と巽の間には、もう一人の男が姿を現していた。黒いスーツに黒い髪。今の巽とシルエットだけ取れば似ているかもしれない、どこにでもいるようなサラリーマン風の男だ。ただ、一つだけ普通のサラリーマンと異なっているのは、
その手に銀色に煌く短刀が握られていたこと。
「遅えぞ、太陽!」
「ごめんなさいごめんなさい、ちょっと連れがうるさくて」
短刀を握る男……湯上荘二○五号室の住人、根岸太陽は巽に向かって頼りなさげに笑った。巽はふーと深く息をつくと、投げやりに言った。
「ま、来てくれたんならいいや。後はよろしく」
「ええ、言われなくとも俺の問題ですからね」
言って、太陽は灰色の男に向き直る。ちょうど巽と灰色の男の間に割って入った形の太陽の顔は、巽からは見えなかったけれど。
灰色の男の顔があからさまに引きつったから、きっとものすごく怖い顔をしてたんだろうなあ、と巽はもう一度、小さく溜息をつきながら思った。
その後のことは、巽は何も見なかったことにした。
根岸太陽。
元、異能府『京の七』。
第一級異能『クニークルス』を連れて異能府を抜け出した、異能府最強の戦闘能力者。
現在は、安アパート湯上荘二○五号室で暮らす、ごくごく平凡なサラリーマン。
「何ていうか、なあ」
巽は太陽に容赦なくぼこぼこにされる灰色の男を見ないことにしながらも、誰にともなく呟かずにはいられなかった。
「湯上荘、パワーインフレ起こしてるよな……」
「それは言わないお約束だと思うよ、巽くん」
いつの間にか横にまで戻ってきていた飛鳥も、珍しく遠い目をしながらぽつりと呟いたという。
ちなみに。
巽はこの後、そのまま企業の面接に行って当然ながら門前払いを食ったという。
めでたくなしめでたくなし。
元神様と放浪作家のイビツな関係