元神様と放浪作家のイビツな関係

Ex:ディジー・スノウ

 今日も今日とて、作家先生秋谷飛鳥の部屋は煙草の煙で満たされていた。元よりヘビースモーカーの飛鳥だが、〆切前になると消費される煙草の量は普段の倍以上にも達する。
 運悪くそんな修羅場にお邪魔してしまった友人、『元神様』にして苦学生の小林巽は、軽く咳をして喉に絡む煙を追い出してから言った。
「何つうか、大変そうだよな、いつもいつも」
「そう言うなら巽くんが書いてくれればいいじゃないかあ」
 飛鳥は伊達眼鏡の下で涙ぐみながら愛機『シズカちゃん』 (ノートパソコン)が映し出す真っ白なワープロ画面を示して助けを求める。しかしアイデアは出せても文才に欠ける理学部物理学科宇宙物理学専攻の巽はきっぱりと首を横に振った。
「それはお前の仕事だから無理。で、どんな話を書くつもりなんだ?」
「んん、それが全然思いつかないんだよね」
「〆切は」
「あと一週間」
「一週間前に過ぎた、って言わないだけマシだな」
 巽は大げさに肩を竦めてみせた。飛鳥も同じような仕草をして「まあね」と同意する。
 秋谷飛鳥はそれなりには有名な作家らしいのだが、その遅筆っぷりもファンの間では有名だったりする。しかし、長年の付き合いである巽は知っている。飛鳥は遅筆なわけではなく、単に立ち上がりがものすごく遅いだけなのだと。
 例えば、愛する奥さんと娘と一緒に〆切前日まで箱根に出かけてしまったり、何故か思い立ったように一ヶ月くらい富士の樹海に篭ってみたり、いつの間にやら変な事件に巻き込まれて執筆どころではなくなってしまったり。
 そんな飛鳥だから、〆切一週間前にきちんと自室に篭って原稿をやろうと思い立ったこと自体、巽からすれば「成長したな」と取れるわけで。二十歳近く年上の相手に「成長」もへったくれもない気もしているが。
 飛鳥はがりがりと寝癖のついた赤茶の髪をかきながら、改めて画面に向き直る。タイトルすら書いていない、真っ白な画面だけがそこにある。
「一応普段どおり誰かの話を書こうと思ったんだけどさ、ストックもそろそろ尽きてるんだよ」
「まあ、いくら周囲が変な奴らばっかだからって、限界はあるからな」
「改造人間に異世界放浪者、悪魔使いに妖精使いに魔法使い、精神感応の超能力者と能力者を管理する組織、吸血鬼と狼男の双子の姉弟、それに異世界から来た元神様と時間跳躍者と……他にいたっけ」
 飛鳥は指折り、今まで書いた話の登場人物を挙げていく。それはすなわち、巽と飛鳥の共通の友人だったり知り合いだったり、自分たちのことだったりする。現実離れしすぎているかもしれないが、巽や飛鳥にとってはこれが現実であり日常であり、当たり前のことなのだ。
 いや、実際にはどれもがどこにでもあるようなことなのだ。ただ、普通の人の持つ理解や常識ではそれらを知覚することはできず、逆に巽や飛鳥は偶然、それに気づいてしまったか、気づくだけの前提があっただけの話。
 そして、飛鳥の仕事はそんな「どこにでもある、誰も気づいていないこと」を小説というフィクションの形で記すことである。もちろん、頭から最後まで創作ということもあるが、大体は周囲の人間のエピソードを面白おかしく、時に誤魔化して脚色するのが飛鳥の役目である。
 巽は椅子の背を抱くような形で腰かけ、長い足をぶらつかせながら言う。
「さあなあ。最低でも俺様の知り合いはそれくらいじゃね?」
「だよねえ……巽くんが知らなければ俺が知ってるわけないし」
 飛鳥は今日何本目になるかもわからない煙草に火をつけて、普段以上に無精髭が伸びてしまっている顎をさすった。何か目につかないかとでも思ったのだろうか、彷徨わせた視線はふと、窓に向いた。
「あ、雪か」
「おう、外はめちゃくちゃ寒いぜ」
「嫌だなあ、後で夕食の買出しに行かなきゃいけないのに……って巽くん、もしかして俺の家の方が暖かいと思って来た?」
「もちろんそうに決まってんだろ、電気ストーブ一個じゃ限界あるって。最近隙間風も酷いしな」
 巽はしれっと言い切った。天涯孤独で頼るもののない巽は、アルバイトをいくつも掛け持ちしながら大学の近くの安アパートに暮らしている。正確に言えば巽の養母の遺言で養母の友人だった飛鳥の妻が事実上の後見人になっているのだが、巽は飛鳥たちの協力をほとんど得ずに生活している。
 で、巽の住まう安アパート、安いのはいいのだが明らかに暑さ寒さに弱い。特に貧乏な巽はそんな部屋の中でストーブ一個をつけるのすら苦労するのである。
「……貧乏暮らしの元神様、か。ううん、やはりこれをネタにすべきか」
「やめてくれよ」
「 『雪が降り始めた灰色の空の下、季節にそぐわないたんぽぽ色の自転車を駆る一人の青年がいた。大学生と思しきその青年が駆る自転車の籠には、スーパーのタイムサービスで買ってきたらしい卵が一パック、白菜四分の一カットに安い鶏肉、今日は鍋のつもりだろうか』……と」
「ものっそく具体的で嫌なんだが。しかもそれ、発展しねえだろそれ以上」
「俺もそう思う」
 言って飛鳥は一度打った文章をバックスペースで消した。巽は粉っぽい雪が降る窓の外をしばし日本人離れした緑と青のオッド・アイで見つめていたが、ふと思いついて口を開く。
「そういや、俺様の古い知り合いに、雪が好きな奴がいたな」
「へえ。どんな人?」
 もはや完全に原稿に対する集中力が切れてしまった飛鳥は、画面から意識を離して巽と一緒に窓の外を見る。
「変な奴。それこそ雪みてえに真っ白で綺麗な顔してんのに、俺様並に口が悪いし性格もちょっと問題があった。ついでに致命的な電波」
「電波!?」
「いっつも宇宙の意志とか何とか言って、明らかに何かヤバイものを受け取ってたっぽい。ただ、文句の付け所のない天才でもあった」
 そりゃあ確かに変と言いたくもなるね、という飛鳥の言葉に巽は全力で首を縦に振った。
「まあ、馬鹿と紙一重の天才ってよりは、天才だけど馬鹿って奴だな。だが、そういう奴が一番タチ悪い」
 雪は外が暗くなり始めるにつれ、段々と勢いを増しているように見えた。巽は同じように窓の外を見つめていた、白い後姿を思い出しながら言葉を続ける。
「そいつはな、時間跳躍を人為的に起こす実験に取り憑かれた博士だった」
「それって、つまりはタイムマシンだよな。人為的なタイムトラベルって可能だったのか? 『そういう能力』を持っていない限り事実上不可能って聞いてたけど」
 飛鳥は珍しく真面目な表情になって巽を見た。元々遠い世界の時間と運命を司る神であった巽は「そいつや俺様のいた世界では無理」と首を横に振る。「ついでにここでも」と付け加えて。
「ただ、理論上は可能、らしい。そいつによりゃあな。が、そいつの研究内容は一生そいつが黙して語らなかったから闇に葬られた。だから俺も中身までは知らねえ。俺がそいつと知り合ったのは、そいつが研究を諦めた後だったからな」
「何で、その人はタイムトラベルの研究なんてしたんだ?」
「色々言ってたし生来のホラ吹きだったから、今となっちゃどれが本当かは俺様にゃわからねえが……どうしても変えたい過去があったってのは確かだと思う」
 自ら目にした物事を一つも忘れることのできない巽は、今でも窓辺に佇む白い影をはっきりと幻視することができる。白い影はゆるりとこちらを振り向いて……微かに灰色がかった冬空色の瞳で、笑う。
 ――お前さんに信じてもらえなくてもいいんだが。
 幻視の中で、薄い唇が開く。
 ――俺様はねえ、ただ、雪の日に帰りたかったんよ。
「雪の日に何かがあって、それがすげえ辛い記憶だって、笑って言ってた。だから雪の日に帰って、その記憶を書き換えてしまいたかったんだって、な」
 巽の記憶が正しければ……巽の記憶は、その情報が誤りでない限りは確かなものではあるのだが……それは、事件だったのだと思う。未来への希望を根こそぎ奪われるほどの、大きすぎる事件。
 そして、決断する。
 未来への希望を奪われた自分の手で、未来への希望を持つ自分を「救おう」と。
 あの雪の日に起こる事件を書き換えることで、事件を体験した「自分自身」が消えることになろうとも、過去の自分を救おうとした。そのために始めたのが、時間跳躍の研究なのだとその人は言ったは。
「そんなに辛い記憶なのに……その人は雪が好きなの?」
 飛鳥の問いはもっともだ。巽は思う。
 巽もそれがずっと不思議で、結局本当の答えを知らないまま、白い影と二度と出会うことはなかった。だから幻視の中の白い影は最後に別れた時のまま、いつも楽しげに笑っていて、それがまた不思議で仕方なかった。
 ただ、ホラ吹きで電波だった幻視の影の言葉で、唯一巽が信じられる言葉があった。
「雪に罪はない。そいつは言い切ったよ。雪は何があろうと関係無しに降る。何があろうと関係無しに綺麗で、静かだ。あの時もそうだった。だから、俺も何があろうと雪を好きでいるって決めたんだ、ってな」
 それは、かつて巽が投げかけた問いに対する答えとは言えないかもしれない。それでも、巽はこの言葉が好きだった。笑って、言い切ったその人が、ずっと忘れられなかった。
 飛鳥は窓辺に立つ幻視を見つめる巽の横顔をちらりと見上げて、言った。
「すごいな、その人」
「ああ」
「でも、結局雪の日には帰れなかったんだよね、その人。何で諦めたんだい?」
「ん、不可能だってわかったからだろ。理論上可能でも、無理なもんは無理。割り切るまでには時間はかかっただろうが……最低でも俺様が知ってるそいつは、諦めたことを後悔はしてなかったと思う」
 そうでなければ、あんな風には笑えない。
 一番辛かった日と同じ、深々と降り注ぐ雪を見上げて、永遠に叶わない夢を語って、それでも笑っていられたはずはない。
 ――だってさ。
 幻視は真っ白な髪を揺らしてけらけらと、屈託なく笑う。背は高く、顔立ちも大人びているのに笑顔だけはやけに子供っぽい人だった。
「 『今はこうやって、暖かい家の中で誰かと一緒に雪を見上げてられる。それだけで十分だ』、ってさ」
 言って飛鳥を見れば、飛鳥は穏やかに微笑んでいた。
「巽くんみたいな人じゃないか、その人」
「は?」
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかった巽は、間抜けな声を上げた。飛鳥はそんな巽の間抜け面を見ておかしそうにくすくす笑いながら言葉を紡ぐ。
「よく似てないかな? 巽くんだって、もしその人だったら同じことを言うんじゃない? その人も、巽くんも……『小さな幸せ』が大切だって知ってるんだよ、きっと」
 ――過去を書き換えたら、きっとここにいる俺もいなくなってたんだよなあ。
 雪が降る。見つめていると、眩暈すら呼び起こしそうな無数の白い花弁。
 窓を開けて、雪を初めて見た子供のようにその一片を手に受け止めようと不自由な足で爪先立ちになって。
 ――きっと、こんなに雪が綺麗だとも、思えなかったんじゃねえかな?
 言って笑った、白い、大切な人。
 永遠に叶わない雪の日の記憶を、辛い記憶だと言い切った雪の日の記憶を、全て胸の中に閉じ込めたままでも、笑っていられる。その記憶すらも「綺麗」なものだと受け止められるようになるまでどれだけかかったのだろう。
 巽はかつて、そう思ったのだった。
 そして、「そうなりたい」と思ったのだった。
「……あー、そっかあ」
 巽は背もたれを抱く手から力を抜いて、しみじみと息をついた。
「俺様、そいつに憧れてたのか」
 憧れという言葉が正しいかどうかは、巽にはわからない。
 ただ、飛鳥に「似ている」と言われたことが妙に誇らしく思えた。それを「憧れ」という言葉以外でどう表現するのか、巽にはわからなかった。
「俺様神様巽くんにも、憧れる人なんてのがいたんだねえ」
「俺様だって、生まれたときから俺様で神様だったわけでもないしな」
 言って肩を竦める巽に、飛鳥は穏やかな笑顔で返す。
 話しているうちにも、外の光は弱まってきていて、飛鳥の部屋もやや薄暗くなっていた。巽は立ち上がって部屋の明かりをつけると、飛鳥に向かって言った。
「さてと、本格的に降り始めて動けなくなる前に、夕飯の買出しくらいはしといてやるよ。今日は何にするんだ?」
「ありがとう。やっぱり鍋かなあ。魚介類がいいなあ」
 財布を手渡した飛鳥の顔には、「折角だから料理も作ってくれると嬉しいな」という意味も込められていた。そのくらいは巽にもわかる。元々家で一人寂しく鍋をつつく気にもなれなかった巽は、しぶしぶ頷いた。
「わかったよ。作ってやるから。その間に原稿進めとけよ」
「まあ、努力はするよ」
 飛鳥のやる気のない声を背で聞いて、巽は扉を閉めた。屋敷を出ると、まだ地面に積もるほどではないといえ、雪の勢いはかなりのものだった。
 ふと見上げれば、眩暈のするような、灰色と白の世界。
 あの人が好きだった、色。
「……ま、俺様も少しは近づけたってことかな」
 ――まだまだ、あんな風に笑えるようになるまでは、遠いけれど。
 叶わなかった願いと毎日毎日の小さな幸せを胸に、一生を過ごしたホラ吹きの白い人は、雪の降る空を背景に笑う。
 ――ほら、今日も綺麗に雪が降ってるぜ?
 だから、今を生きている巽はフードを深く被って、過去の幻視に向かって微笑んだ。
「ああ、そうだな」
 
 
 飛鳥は雪の中を歩いていく巽の後姿を、窓から見つめながらキーボードに指を乗せる。
 きっとこれから「作家」秋谷飛鳥が語るのは、雪のような人と、その人に憧れた一人の人の回想録。後で巽にもっと詳しい話を聞かなくてはならないなと思いながら、今まで真っ白だった画面に文字を打ち込む。
 その、新しい物語の題名は――