元神様と放浪作家のイビツな関係

Ex:雨と酒瓶

 ざあざあと雨の降る音が聞こえる。
 バイトから帰ってきたばかりの苦学生小林巽は、畳の上に寝転がって雨の音を聞くともなく聞いていた。窓にぶら下がっている不細工な人形らしきもの……あの迷惑極まりない作家、秋谷飛鳥は「てるてる坊主」と言っていたか……が薄く開けた窓から入る空気に揺れている。
 確か、「てるてる坊主」というのは晴れを願うためのおまじないのようなものだったな、と思って巽は口元に笑みを浮かべる。だが、近頃は太陽の姿も見えてはいない。おまじないというものはなかなか通用しないものだなあと思いながら、巽は目を閉じた。
 雨の音。
 ざあざあ。
 この音は、よく知っている。
 はるか昔に目を閉じて、同じようにこの音を聞いていた。いつも雨の日に響くのは鈍い頭痛。それに重なるような激しい雨の音は、澱みがちな思考と、頭痛をも洗い落としてくれるような気がして、好きだったのを覚えている。
 忘れられたら幸せなのだろうか。
 その当時のことは巽からすれば遠い過去の出来事だというのに、未だに鮮やかに思い出すことができる。
 その時に聞いた雨の音も、空気の匂いも、耳元で囁く言葉の優しさも……
「うあ」
 思わず声を上げてしまってから、ずるずると連鎖的に思い出されそうになる記憶を無理やり頭の奥底へと押し戻す。
 そう、あの頃の思い出はできる限り封じておこうと決めたのだ。あの頃が嫌なわけではない。むしろ自分にとっては何よりも大切で幸福な記憶だ。ただ……その時に貰った笑顔と同じくらい、悲しかったのも事実だった。
 ざあざあ。
 雨が洗い流してくれればいいのに。忘れられればいいのに。
 人間より数段性能のよい記憶力を恨むのは、こんな時だ。笑っていた記憶だけを思いだせるようなハッピーで能天気な脳味噌を授けてくれなかった神様を恨む。いや、自分が神様だったのだから言えた身ではないが。
 時間は戻らない。
 それは、巽が一番よく知っていること。
 記憶を洗い流すどころか呼び覚ますばかりの雨が降る。ざあざあと。
「……    」
 小さく、記憶の奥で囁く誰かの名前を呟いて。
 巽は身体が求めるままに、そのまま浅い眠りにつく。
 
 いつもと同じように、夢は、見なかった。
 それが、今だけは本当に嬉しい。
 下手に夢にでも出てこられたら、今度こそ、切なくてどうにもならなくなっていたかもしれないから。
 
 だから、次に巽が目を覚ましたときには、目の前にあったのはいつもどおり古い天井で、ついでにこちらを覗きこんでいるのは見慣れた顔だった。
「巽くん、そうやって寝てると風邪ひくよ?」
「……飛鳥」
 変な寝方をしたからだろうか、喉がやけに渇いていた。時計を見れば、眠ってしまってからそこまで時間は経っていない。
 相変わらずどこから部屋に入ってきたのか怪しい飛鳥はにやりと笑うと、寝転がったままだった巽の横にどんと何かを置いた。
 それは、どう見ても高そうな、年代物のワインだった。
「どういう風の吹き回しだ?」
 巽は思わず訝しげに眉を寄せる。巽が酒好きなのは有名な話だが、それに対して飛鳥はめっぽう酒に弱い。そのため飛鳥が自分から酒を差し入れるということは皆無に近いのである。しかも、こんないい酒を差し入れてくるなんて、それこそ「どういう風の吹き回し」という奴である。
 すると、飛鳥は苦笑して言った。
「何だ、巽くん、忘れちゃったの?」
「あ? 何を……」
 と首を傾げてから、机の上のデジタル時計を改めて見る。
 六月十八日日曜日、午前零時三十七分。
「千と二十二歳の誕生日おめでとう」
 飛鳥は人好きのする笑みを浮かべて冗談っぽく言った。
 そういえばそうだった、と巽は思う。あまりに長い時間を生きてきた『元神様』にとって、生まれたその日、という概念が占める意味はそこまで強くなかったけれど、今は目の前にいる飛鳥と一緒で、ごく普通の人間なのだ。
 誕生日を祝ってもらえるということが、とても幸せなことであることくらいは巽もよくわかっている。
「……サンキュ、飛鳥」
 巽は起き上がると、誕生日プレゼントのワインを手に取った。
「今日くらいは飲むか? 折角持ってきてくれたんだし」
「んー、じゃあ、少しだけ」
「わかった。グラス用意してくるな」
 立ち上がってキッチンに行く間、巽はふと何かを思い返して、窓を見る。やけに静かだと思えば、ものすごい勢いで降っていたはずの雨が今の時間だけ止んでいたのだ。まだ雲は空を埋め尽くしていたけれど、巽は思わず微笑む。
 『過去』を蘇らせる雨の音が止めば、巽の意識もまた『今』へと向けられる。
 今、自分は確かにこの場所にいて。記憶の奥に生き続ける『彼ら』にはもう二度と出会えないということもはっきりと理解していて。
 それでも、笑って今を生きようと決めたのだから。
 ――心配すんな、俺は楽しくやってるぜ。
 最後の笑顔を思い返しながら、巽は赤いワインの詰まった瓶を軽く揺らした。
 窓にぶら下がった不細工なてるてる坊主も小さく、揺れた。