元神様と放浪作家のイビツな関係

50:気楽なあなたに、一言物申す

「俺は、巽くんに言いたいことがある!」
 唐突に。
 神出鬼没の作家先生秋谷飛鳥は玄関先で言った。珍しくドアを開けて入ってきたかと思えばこの台詞。何だと思いながら部屋の主である苦学生、小林巽は眉を顰めるしかなかった。
 飛鳥はこれまた珍しいことにそれなりに身なりを整えていた。おそらく、ここに来る前に買い物でもしていたのかもしれない、と巽は思う。何しろ、飛鳥は下手をすれば部屋着のままここに来ることもあるのだから。
 ともあれ、飛鳥はわざとらしく咳払いをしてから言葉を続ける。
「今日、君は花屋に行ったな」
「手前、ストーカーか?」
「俺は、静との結婚記念日に花を買いに行っただけだよ」
「ああそうかいお熱いことで。だから何だよ」
 何となく、「花屋」と言われたことに嫌な予感を覚えながらも、巽は話の先を促した。すると、飛鳥は派手なフレームの伊達眼鏡を人差し指で持ち上げて、言った。
「その時例の彼女と少し話をしたんだけどさ、君は、まだ彼女に言っていないんだな」
「うっ」
 巽があからさまに呻いた。
 そう、例の彼女とは、巽の家の近くにある花屋で働く、美しいお嬢さん。巽が一目惚れしてしまった相手のことである。巽は彼女のことを考えるだけで、ほんの少しだけ顔を赤くする。普段の巽からすれば、想像もできないような反応である。
 そんな巽に畳み掛けるような飛鳥の追撃。
「人生の先輩として言わせてもらえばだな、君は恋愛に関しては慎重派だが、それはある意味楽観とも言える。考えたことがあるか? 彼女は綺麗だし、性格もとてもいい。俺から見ても確かにそう思う。そんな彼女を遠目から見ているのが君だけとは限らないんだぞ?」
 人生の先輩、というが生きてきた年数ならば人間である飛鳥よりも『元神様』の巽の方が上なのは明らかである。
 ただ、巽はそんなことを突っ込む余裕さえなかった。唖然として、まくし立てる飛鳥を見つめることしかできない。
 そして、その全てが図星だったからこそ、余計に何も言えない。
「いつ、その中の一人が先に彼女に近づかないとも限らない。今回ばかりは、慎重であるばかりではいけないと思うんだよ、巽くん。違うかい?」
「でも、俺は……」
 もごもごと、口の中で何かを呟く巽。
 元より、恋愛には恐ろしく疎いこの自称元神様、毎度花屋に寄っては適当に買い物をし、彼女と会話をするだけで微妙に満足していた。これ以上のことを望んで、彼女に嫌われるのは嫌だったから。
 だが、飛鳥は「それだけではいけないのだ」と訴える。
「……わかった、巽くん。最後に一つだけ、聞かせてくれ」
 巽が何も言えなくなっているのを悟った飛鳥は、静かな口調で、言った。
「君は、本当に彼女が好きなのか?」
 前に、自分が飛鳥に対して同じような質問を投げかけたことを思い出す。あの時は飛鳥と奥さんの間の話であったが、今回は、自分と彼女の間の、話。
 そろそろ、自分も一歩を踏み出さなくてはいけない。自分の気持ちを、はっきりと示さなくてはならない。
 だから、巽ははっきりと言った。
「好きだよ。大好きだ」
 すると。
 飛鳥がにやりと、笑った。
 その瞬間、頭の回転が正常に戻る。飛鳥の笑顔の意味を、自慢の高速思考で判断する前に。
「ですって、椎名さん」
 飛鳥はドアに隠れて巽からは死角になっていた場所に、話しかける。
 まさか。
 まさか。
 巽は裸足のまま玄関に降り、飛鳥を押しのける。そして、扉の後ろに立っていたそれを見て、愕然とした。
 花屋の彼女が、やはり呆然とした表情で、そこに立っていたのだ。ただ、飛鳥だけが二人を見て楽しそうに笑っていた。
「いやね、椎名さんが俺に巽くんのことを聞いてきてさ。俺と巽くんが友達だってことも知ってたみたいだったから、何でかって聞いたら、前からずっと巽くんのことが気になって遠目で見てたんだって言うから、ついつい連れてきちゃった」
 飛鳥の言葉なんて、巽の耳には半分も届いていない。巽はわなわなと震えながら、乾いた笑顔を浮かべて、彼女に、言った。
「……もしかして、今の、聞こえた?」
「うん……」
 巽は耳まで真っ赤になっていたけれど、飛鳥と巽の会話を一部始終聞いていた彼女、椎名さんもまた、真っ赤になってうつむいていた。
 ――手前飛鳥。後で影も残さずこの世から消滅させてやる。
 そんな物騒なことを本気で思いながらも、巽は意を決して、真っ直ぐに椎名さんを見つめて言った。
「その、そうなんだ、俺、初めて見たときから、君のことが好きだったんだ。だから……」
 一度言葉にしてしまえば、後は勢いだ。息を吸い、一気に、言葉を。
 
「俺と、結婚してください!」
 
 ぶっ、と飛鳥があからさまに吹いた。花屋の椎名さんは驚いたのか、うつむいたままびくりと身体を震わせた。
 そして、巽は自分が何を言ったのかさっぱり理解できていなかった。
 飛鳥は、何とか笑いをこらえてひくひくと震えながら、巽に向かって言う。
「巽くん、それは飛躍しすぎだ……っ!」
「え、え、あ、俺、何言った!?」
「まさか、即求婚とは思いもしなかったぞさすがの俺も! 巽くん、大胆!」
「あ、わわわわわ」
 もはや、何が何だか。
 巽は、もう顔が燃え上がってもおかしくないくらいに真っ赤になって、手をぶんぶんと振る。
「ち、違う、ってか違くないけど、その、突然結婚とか言われても困るよな、ごめんな、うん、えーっと」
 こんな時には何を言えばいい。巽は無理やり頭の中を検索しようとするが全てがオーバーヒート。元よりそんな気の利いた言葉のリストなど巽の頭の中にあるはずもないが。
 すると、椎名さんは、顔を上げた。まだ顔は赤かったけれど、その表情は、完全に。
「お、面白い……」
 こらえきれない笑いに満ちていた。
「え、あ、ええ?」
「でしょう? 椎名さん」
 飛鳥は、にやりと笑った。
「巽くんって、本当はこういう人なんだよ。今までのは単なる照れ隠し」
「え?」
「そ、その、ごめんなさい……笑ったりして」
 ひとしきり笑ってから、椎名さんは申し訳なさそうに謝った。まだ少々顔は笑いに引きつっていたが。何が何だかわかっていない巽にとっては、そんなことはどうでもいいことだったのだが。
「……私、小林さんってもっと怖い人だと思ってたから」
「な、何で」
「だって、店に来ても、いつも怖い顔してたでしょう」
 そうだ。
 巽はやっと冷静になり始めた頭で思う。自分の気持ちが悟られたくなかったばかりに、椎名さんの前ではどうにも普段どおりに振舞えず、仏頂面をしていた気がする。自覚はしていなかったが。
 それが、どんな印象を与えてしまっていたのか、巽は今さらながら理解した。
 俺ってば、めっちゃ不器用。
「あの、小林さん」
「は、はいっ」
 もはや、巽から何も言うことはなかった。言えることも、なかった。ずっと黙っていたことを聞かれ、勢いでとんでもないことを言って、ついでに思い切り笑われて。ああもう俺様に未来はないやこのまま飛鳥を抹殺してから隠遁生活かしらとか、果てしなく後ろ向きに考えたりしながら。
 すると、椎名さんは恥ずかしそうに、しかし確かに笑顔で言った。
 
「いきなり結婚は無理だけど、お付き合いからなら、喜んで」
 
「え?」
 本日何度目かもわからない、思考の停止。フリーズ。
 待て、今何を言われた?
 巽が思考を強制リセットして、何とか再起動を図ろうとする前に、飛鳥が巽の肩を勢いよく叩いた。あまりに強い力だったので、巽の頭がドアに急接近したが、何とか衝突は避けた。
「よかったじゃん、巽くん!」
「え、あ」
 そうやって言われて、やっと。巽は椎名さんを改めて見つめた。椎名さんは、はにかむような笑顔で巽を見ていた。
「あの、さ」
 巽は、乾いた唇で言葉を紡ぐ。呆然とした表情のまま、思考もまだ半分以上は焼き付いていたが。
「マジで、俺なんかで、いいの?」
「初めに言い出したのは、小林さんの方じゃない」
 椎名さんは、くすくすと笑った。その笑顔を見るだけで、巽は気絶の一つでもしてしまいそうになる。が、それはさすがに耐えた。
 ありがとうございます。
 消え入りそうな声で言って、巽も真っ赤な顔で無理やりに笑う。変な笑い方になってしまったけれど、それはある意味、巽らしいといえば巽らしい笑い方だった。小器用でスマートに見えて、その実ものすごく不器用で、不恰好。
 小林巽というのは、そういう男なのだ。
 しばらく、どちらも何も言わずに見つめ合っていたが、先にそれに気づいたのは、椎名さんの方だった。
「あれ、秋谷さんは?」
「飛鳥?」
 見れば、先ほどまで横にいた飛鳥の姿が、ない。ふっと下を見れば、飛鳥はいつの間にか階下にいた。そして、ぶんぶんと手を振りながら楽しそうな声で言った。
「邪魔者はひとまず退散するよ! お二人さん、お幸せにー!」
 全ての元凶、責任放棄。巽は柵に駆け寄ると、身を乗り出して近所への迷惑などおかまいなしに叫んだ。
「手前飛鳥、後でぶっ殺してやるから覚悟しやがれ!」
「あはは、やれるもんならやってみなさい!」
 言って、飛鳥は駆け出す。巽は、ほんの少しだけためらってから、その背中に向かって声を上げた。
 
「ありがとなー!」
 
 その時、飛鳥はちょっとだけ振り向いて、ぐっと親指を立ててみせた。
 巽と椎名さんは、そのまま遠ざかっていく飛鳥の背中を、じっと見つめていた。