安アパートに住まう貧乏学生、小林巽は何をするでもなく、畳の上に横たわっていた。アルバイトも今日は休み、本当に、することがない。ごろりと仰向けになると、煤けた天井を見上げる。ちゃぶ台の上に乗っかっている小さなラジオが流行の歌を流し続けていた。
巽は聞き慣れたその歌を口ずさもうとしたが、止めた。
楽器ならば何であろうと人より遥かに器用に奏でることが出来る巽だが、歌だけは壊滅的なのだ。要するに、SMAPのリーダー程度の歌唱力だと思ってくれればいい、と巽は公言する。この言葉でかなりの人数を敵に回したかもしれないが気にしてはいけない。
いくら練習しても上手くならないのだから、これ以上練習する意味もない。それに、誰も聞いていないのだったら少しくらい歌ってもいいかもしれないが……
「いるんだろ、飛鳥」
巽は天井を睨んだまま、言った。すると。
「くっ、五勝十六敗っ」
という声と共に押入れのふすまがすぱーんと開き、顔を出したのは、どう見ても巽より二周りくらいは年上だろう、秋谷飛鳥とかいうガタイのいい無精髭のオッサン。巽は素早くちゃぶ台の上に手を伸ばし、手に取ったものを無造作に投げた。
ごっ。
嫌な音を立てて、投げられたラジオが飛鳥の顔面に命中。ごとりとラジオが畳の上に落ちるのと同時に、額を押さえて飛鳥が叫ぶ。
「い、痛いじゃないか、巽くん! 眼鏡割れたぞ!」
「手前の眼鏡は伊達じゃねえか! っていうか、毎度毎度押入れの中に隠れて俺の動向を観察するな! ドラえもんか手前は!」
「俺の趣味は人間観察なんだよ! 特に巽くんの動向は興味に値するねっ!」
「プライバシーの侵害だ! 方法だけでも今すぐに改めろ!」
いつもながら、鍵が掛かっているはずの巽の部屋にどうして飛鳥が痕跡も残さず侵入できるのか、その仕組みはあまりに非現実的なのでここで説明することは避けるが。
飛鳥は赤くなった額を押さえたまま、押入れからのそのそと出てきて、落ちたラジオを拾ってもとの場所に戻す。ラジオはやけに頑丈らしく、ぶつけられ、落とされた今でもまだ流行の歌を流し続けていた。
それから、飛鳥は苦笑を浮かべて言った。
「……巽くん、シャワー貸してくれるかな」
「ああそりゃあずっと押入れの中に入ってたら汗だくだろうなあこんちくしょう。勝手にしろ」
ただでさえ暑いのに、このオッサンは何を考えているのだろうと考えて、間違いなく、何も考えていないのだろうと結論付けておくことにした。
こういう奇行さえ無ければそれなりにイイヒトで通りそうなもんなんだけどなあ、と割れた眼鏡を気にしながらシャワーを浴びにいく飛鳥の丸まった背中を見つめて、そんなことを思う巽であった。
元神様と放浪作家のイビツな関係