元神様と放浪作家のイビツな関係

31:「幸せがいいなぁ・・・」

「幸せがいいなぁ……」
 唐突に、万年ボケの作家先生秋谷飛鳥が呟いた。もはやこの作家先生が部屋に上がりこんでいても何ら疑問を抱かなくなりつつある苦学生、小林巽は胡乱げな目で飛鳥を見やる。
「何だよ、唐突に」
「俺、幸せになりたい」
「何だ、それ」
 巽は呆れた顔をした。すると、飛鳥は今にも泣き出しそうな顔をして、巽にすがりついた。
「俺さあ、本当に静に愛されてるのかな? 家に帰っても、静、一週間は帰らないって言って出かけてったって娘が言ってて……もう、これで何回目? 俺、しばらく静の顔見てないよ? 静はきっともう俺のことなんてえぇ」
 周知の事実だと思うが、静、というのは飛鳥の妻の名前である。飛鳥が世界で一番愛している女性である。というよりは、飛鳥が完全に依存している、と言った方が正しいかもしれない。
 とは言っても、巽は飛鳥の事情も結構深いところまで知っているので、病的な飛鳥の静依存について、今更とやかく言う気はない。
 ただ。
「寂しいってのはわかんないでもねえが、そりゃあねえだろ」
 巽は、飛鳥の言葉をあっさり切って捨てた。飛鳥は巽が言っている意味がわからなかったのだろう、「え?」と眉を寄せて顔を上げる。
「お前さあ、静さんが好きなんだろ?」
「決まってるじゃないか! だから」
「じゃあ、お前は好きな相手をそう簡単に疑うのか? そうやって言うってことは、静さんのこと、疑ってるんだろ? 飛鳥、見損なったぜ?」
「え、あ」
 飛鳥は、やっと巽が言わんとしていることを察したらしい。肩を落とし、しがみ付いていた巽から手を放して力なく俯く。
「そっか……俺、酷いこと言った」
「そうだな。で、本当は静さんのこと疑ってんのか?」
「そんなわけない」
 巽の問いに、飛鳥は顔を上げてきっぱりと言い切った。それを見て、巽は満足げに笑ってぽんぽんと飛鳥の肩を叩いてやった。
「なら、大人しく待ってりゃいいだろ。大丈夫、あの静さんがお前を見捨てることはねえって」
「そうだよね、ごめん巽くん、俺がおかしかったんだな。静も頑張って仕事してるんだし……俺がもう少ししっかりしないと、静に迷惑かけるばかりだ」
 飛鳥も、巽に向かって笑いかけ、立ち上がる。もう、一瞬前まで浮かべていた絶望の表情は完全に払拭されていた。いつもながらその切り替えの早さに呆れる巽をよそに、飛鳥は満面の笑みを浮かべて巽の部屋のドアを開けた。
「話聞いてくれてありがとう、巽くん。俺、ひとまず家の掃除と洗濯終わらせてくるから!」
 ――それは、「また後で来る」って意味だよな。
 巽は反射的に迷惑そうな表情を浮かべたが、それは幸いにも背を向けていた飛鳥には見えていなかった。飛鳥は鼻歌を歌いながら、巽の部屋のドアを閉める。そうして、初めて巽の部屋には静寂が戻った。
 嵐のような奴。
 そんなことを思いつつ、巽は閉ざされた扉と、その向こうできっとスキップでもしているだろう作家先生の姿を思い浮かべながら、苦笑する。
「ったく、手前みてえな奴を『幸せ者』、ってんだよ」
 巽の呟きは、この部屋にいない飛鳥には届いていないのだが。