幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

008:空に捧げる歌
 深夜。荒野の真中に、一台の車が止まっている。
 鈍色の車の運転席で静かに眠っているラビットの顔を、覗き込むトワ。放送無線機からは、ノイズ交じりではあるが澄んだ声と、美しいピアノの音色が絶えず流れていた。トワは手を伸ばし、ラビットの真っ白な髪に触れた。さらさらと、トワの手の上に白い糸が流れる。
『眠らないのですか、トワ』
 そんなトワの横に、蜻蛉の羽を持った立体映像の女性が映し出された。
 龍飛だ。
「龍飛」
『それとも、眠れないのですか』
 トワは、龍飛の方を向いて……小さく、頷いた。
「ねえ龍飛」
『何ですか?』
 トワの細い指が、放送無線機の方に向けられる。
「これ、なんていう歌?」
 澄んだ女性の声は、静かだが美しい旋律を歌っており、伴奏で流れるピアノの音色はその歌声を包み込むような、不思議な音色を奏でていた。トワは今まで、この曲を何度も聴いてきたし、車の中では絶えずこの曲がかかっていたように思う。
 龍飛は言った。
『「空に捧げる歌」です。この地球の中でも有名な歌手とピアニストである、トーン姉妹が共同で制作した唯一の曲です』
「そうなの?」
『そして……ラビットが一番嫌いな曲です』
「嫌い?」
 トワは首をかしげた。嫌いなら、いつも車の中でかかっている理由が分からない。が、龍飛ははっきりと首を縦に振り、明るいブラウンの瞳でトワを見た。
『はい。ラビットは口癖のようにおっしゃってました。「私は、この歌が一番嫌いだ」と』
「なら、何で聴いているの?」
『わかりません』
 龍飛は申し訳なさそうに言った。トワは再び、ラビットの方に顔を向けた。ラビットは静かに眠ったままで、起きる気配は見せなかった。その間も絶えず、優しい旋律が聞こえてくる。本当に、美しい曲だ。
 
 ――あの光を目指す貴方を
   私はいつまでも見つめています
   手の届かぬ月に寄り添う貴方を
   私は……
 
「私はどこまでも追い続ける……」
 トワは透き通った声で歌い始めた。しばらく、狭い車内にトワの歌声と放送無線機から流れてくるノイズ交じりの女の声、そしてピアノの旋律だけが聞こえていた。
 曲が終わると、龍飛が拍手を送った。
『お上手ですね』
「……歌うのは好きなの」
 トワは少し、嬉しそうに微笑んだ。龍飛もその人形のような顔に微笑をたたえる。
 今度は、放送無線機からピアノの音色だけが流れてきた。さっきとは又違う、少し寂しげな、悲しげなそんな旋律だった。
 しばらくは、車の中はピアノの音色だけに包まれていた。
『この曲を弾いている、ピアニストのミューズ・トーンという女性について、ワタシは昔ラビットから聞いたことがあります。有名な話ではありますが……彼女は、五年前に死んでしまったのです』
 龍飛は、ふとそんな事を言った。トワは龍飛の方を見て、青い目を見開いた。
「……どうして?」
『これも、全てラビットから聞いた話なのですが、五年前、ミューズ・トーンは一人の軍人と恋に落ちたそうなのです。しばらくは幸せな日々が続いていたのですが、それも、長くは続きませんでした』
 龍飛は、漆黒の闇に塗り潰された空を見上げるような仕草をした。トワもつられて空に目をやる。空には強く輝く青い星と、月しか浮かんでいなかった。
『ある日、ミューズはコンサートのためにある町に向かった……そこで、何かが起こったのです』
「何か?」
 トワは聞き返した。龍飛は何を言っていいのか迷っているような、そんな表情を浮かべた。
『ワタシも、ここについてはラビットに何度か問い直したのですが、理解はできませんでした。ただ、ラビットに聞いた話をそのまま言うとすれば、「全てが、消えてなくなった」そうなのです』
「全てが……消えてなくなった?」
 龍飛は困ったように苦笑した。
『ええ。その町は白い光に包まれて消滅したそうです。そこだけ穴が開いたかのように、何もかもが、なくなったとのことです』
 トワはその出来事に心当たりがあった。自分の胸に、手を重ねる。心臓の鼓動が手のひらに感じられる。
 そして、少し堅い、石の様な感覚も。
「無限色彩……」
『トワ? どうかしましたか?』
「ううん、何でもない。それで、恋人の軍人さんは、どうなったの?」
『その町にいた全ての人間も同時に消滅してしまったそうですから、その軍人も、おそらくは消滅しただろうとラビットはおっしゃいました。結局、全ては光の中に埋没したと、そうおっしゃってもいました』
 ピアノの音が、一瞬途切れた。
『そして、姉の死を悲しんだ歌手である妹のセシリア・トーンは以来歌を歌うことも無くなり……結局、二人で共に作った最初で最後の作品があの「空に捧げる歌」になってしまったと、そう聞きました』
「空に、捧げる……」
『この歌は、トーン姉妹お互いの愛する者への思いを綴ったものなのだそうです。ミューズの恋人を「月」、そしてセシリアが愛した者を「太陽」にたとえているのだと聞いたことがあります。どちらも空に存在するものとして、「空に捧げる歌」という題なのだそうです』
 そう言って、龍飛は漆黒の空からトワへと目線を戻した。ひどく優しげで、しかしいつもどこか物悲しげな表情を浮かべている人形のような顔をトワに向ける。
『以上が、ワタシが知っているミューズ・トーンについての話です』
「ありがとう、龍飛。面白かった」
『ええ』
 龍飛は微笑んだ。
『さあ、もう寝た方がいいですよ。ラビットが、心配します』
「そうだね。大丈夫、もう……眠れる」
 そう言って、トワは助手席にもたれかかった。ピアノの物悲しげな旋律を聴きながら、目を静かに閉じた。
 
 
 トワは、瞼の裏に、爆発するように広がる純白の光と、それに……一人の、こちらに向かって手を伸ばしている男の姿を見たような気がした。ただ、爆発にもかかわらずその場は静寂に包まれていた。聞こえてくるのは、遠くから聞こえるピアノの音色、ただそれだけだった。
 ――泣いている?
 男は、涙を流していた。漆黒の、夜の闇色をした髪を爆風に靡かせ、手をこちらに向かって伸ばしていた。周囲の景色が全て光の中に埋没していく中、男の姿だけは妙に近く、そしてはっきりと見えていた。
 ――貴方は、誰?
 しかし、トワの意識もやがて遠ざかっていく。脳裏に走る鈍い痛みと共に、男の姿も白い光にかすんでいく。ただ、光を裂くような鋭い声だけが、トワの脳裏に響き渡った。
「ミューズ――っ!」
 
 
 静寂が、訪れていた。
 いつしか放送無線機から流れていた音楽も途絶えていた。
 眠っているように見えた運転席のラビットが、微かに目を開けて空を見上げる。
 漆黒の空に浮かぶ滲んだ三日月だけが、鈍色の車を見つめていた。

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