●Scene:09 君の脚本を破り捨て続きを読む タイムリミットが刻一刻と迫っている、と魔王たちが噂する。 そうなのかもしれない。この夢が覚める日がやってくるのかもしれない。もしくは、永遠に覚めない日が。別にどちらでも僕にとっては変わらないことだ。「終わり」というのは、それだけで少し恐ろしいような気はするけれど、気にしたところで僕一人がどうこうできる問題ではないのだから。 ただ、日に日に、焦燥感が募るのはどうしてだろう。今まで「どうにかしよう」と内心何度も呟きながら、結局行動にも移す気になったことがない僕らしくもなく――僕は、多分、いつになく焦っている。何に対して焦っているのか、何をしていいのかもわからないまま、ただただちりちりするような感覚が徐々に胸の端を焦がしている。 いや……、目を逸らしているだけで。何に対する焦燥なのかは、とっくにわかってはいるんだ。 僕は気づいてしまった。向き合ってしまった。僕自身がまだ、諦められていない、という事実に。 けれど、だからといってどうすればいいんだ? そろそろと、張りぼての舞台の上に立ってみる。広すぎる観客席には人一人いない。それでも、自然と指先が震える。指だけじゃない、全身が。言ってしまえば、舞台の上で震えるのはヒワやコルヴスも同じだ。何があろうと堂々と振舞えるパロットみたいな奴は、例外中の例外と言っていいと思う。 ただ、ヒワのそれは激しい緊張で、コルヴスのそれは「見られる」ことへの羞恥と恐怖だが、僕のそれは多分どちらとも違う。 ――僕が恐れているのは、きっと。「ササゴイ」 突然投げかけられた声に、はっとそちらを見る。見れば、いつの間にかヒワが舞台の上に立っていた。 今日は、調子が悪いから練習は休みだと朝に伝えたはずだ。けれど、ヒワは真っ直ぐに僕を見据えたまま、いつになく真剣な表情で口を開いた。「話があるんだ」 * * * 僕とヒワは、舞台の縁に腰掛ける。どちらともなく。 そして、しばしの静寂が流れた。何せ僕からヒワに何かを切り出そうにも、僕が話すこともなければ、話す声もない。メモ帳の上に、ペンでぐるぐるとよくわからない図形を描くことしかできない。 やがて、僕の横に腰掛けたヒワがやっと口を開いた。「……ササゴイは、コルヴスと話をしたんだな」 ああ、その話は結局コルヴスから伝わったのか。僕から言うことは何も無いと思っていたから、コルヴスと何を話したのかヒワとパロットには伝えていなかった。ただ、その日あたりから僕の様子がおかしいことくらいは、ヒワも気づいていたんだろう。 そして、きっと。『ヒワは』 最初から。桟敷城で目覚めた僕を「魔王ササゴイ」と呼んだその時から、もしくは僕が目覚める前から、ずっと。『私が役者だってことを、知ってた?』 僕の問いかけに、ヒワは顔を露骨にこわばらせた。それでも、絵に描いたようなふっくらとした唇を震わせながら、はっきりと、言った。「うん。あたしはササゴイが何だったのか知ってる。君の本当の名前だって」 そっか、と僕は唇だけで囁いた。 別に驚きはなかった。そうだろうな、とは随分前から思っていた。僕に舞台に立ってくれないかと頼んできた頃から、彼女は僕の不機嫌に気づいていた。僕が本職の役者だからこそ、そんな僕の前で「演技」をするというのがどういうことか、わかっていたのだ。だからこそ、僕に稚拙さを叱責されると怯えていたのだと、今なら認めることができる。「……ササゴイは、怒らないんだな。あたしが黙ってたこと」『怒る理由がない』 ヒワがずっと黙っていた理由はわからなかったけれど、僕が「誰」なのかを具体的に指摘されないだけ、ずっと気楽だったのは事実なのだ。不思議には思えど、怒る理由なんてどこにもない。 僕――魔王ササゴイでない現実の僕は、かつて、舞台に立つことを生業とする俳優だった。 正確に言えば舞台俳優だと胸を張れるようになるまでに紆余曲折といくらかの幸運があって、舞台の上に立ち続けていられたのだと思っている。 うん、そうだ。冷静に思い返してみれば、僕はその時疑いもしていなかったのだ。このまま、ずっと、充実した舞台上の日々が送れるのだと。夢が叶った日々が続くのだと。 それを、どうしようもなく、病によって絶たれるまでは。 張りぼての舞台に、大きすぎる観客席。 この桟敷城が歪な形をしている意味も、今なら何となくわかる。そして、ヒワも僕が無数の観客席を見つめていることに気づいたのだろう。ぽつり、ぽつりと、言葉を落としていく。「あのさ。ササゴイからは、現実が、こういう風に見えてたんだな」 僕は一つ頷くことで、ヒワの言葉が正しいことを伝える。 張りぼてで取り繕った舞台は、まさしく今の僕自身だ。 僕は、昔から僕自身の形のまま表に立たないようにしてきた。現実でも、ほとんど「僕」を露出させずに、あくまで「役」としての僕を見せることだけを考えて生きてきた。舞台裏など、本当の自分など、見せる必要はない。プライベートを限りなく隠して――と言っても、僕のプライベートはほとんど「演劇」をするための手続きに費やされていたけれど――その分、舞台の上の「誰か」を見てもらいたかった。僕という肉体を、精神を通して僕でない「誰か」を表現すること。舞台の上にいる時だけは別の誰かとして全ての人の目に映ること。それが「演技者」としての僕の目指すところだったのだ。 けれど、どうしたって、それは叶わなくなってしまった。 声を失ったことは確かに酷い痛手だった。けれど、それ以上に、無数の、それこそ「演技者」としての僕を知らない連中までが「僕」に注目したのだ。そりゃあ格好の話題だろう、病で声を失った俳優なんて。 だけど、僕は。『私は、私のまま衆目に晒されるのが堪えられなかった』 この無数の観客席は僕にとっての「脅威」の象徴だ。ある意味ではコルヴスが恐れたそれに近いかもしれない。ただ、少しだけ違うのは、僕が恐れている視線の意味だ。『私は、「私」が失望されることに堪えられなかった』 僕に向けられるものの大体は好奇と哀れみの視線。けれどそれ以上に恐ろしかったのは、「失望」だった。舞台上の「僕ではない誰か」を見てくれていた人が、リアルの、生身の僕に向ける「失望」。その視線に気づいてしまった瞬間、心が折れる音がした。『だから逃げた。全ての連絡を絶って、遠くに引っ越して、これから何かをしようとする気すら起きなかった。君に呼ばれるまで、ずっと。それでまた、こんな、舞台に呼ばれるなんて、思わなかったけれど』「そっか」 一気に書き記した、いつになく汚く荒れた文字列を、それでもヒワは一目で読み取ってくれたらしい。眉を寄せて、きゅっと唇を引き結んで。それから、囁くように問いかけてくる。「もう、舞台には立たない?」 ペンを持つ手が震えた。ああ、これを「言う」のは流石に勇気がいるんだな、と僕は僕自身を笑いたくなる。 けれど、今の僕の、素直な気持ちを、殴るように書き記す。『立てないよ』 ――誰も見ていない舞台の上ですら、震えが止まらないんだ。 こんな僕が、かつてのように「誰か」を演じることなんてできない。もう僕以外の何にもなれないものが、舞台に立つことなんて、僕自身が許せそうにない。 すると、ヒワが。「ごめん、ササゴイ」 ぽつり、謝罪の言葉を漏らした。一体何への謝罪なのかわからず目を点にする僕に対して、ヒワは観客席に目をやって、背中の羽をゆったりと動かしながら言う。自分自身に言い聞かせるように。「あたし、ササゴイの望みを取り違えてた。……そうだよね。そんなことがあったら、当然だよね。うん、あたしが浮かれてたんだね」 だから、と。 言って立ち上がったヒワの手には、いつの間にか分厚い脚本が握られている。 どういうことだ、という声はヒワには届かない。僕の口から声が出ることはないのだから。 ヒワは両手に持った脚本を、広げて――。 「もう、おしまいにしよう」 そのまま、勢いよく破り捨てた。 ばらばらと、無数のページが舞台の上に広がっていく。僕はただそれを呆然と見つめることしかできない。ヒワはその上に浮かびながら、じっと、僕を見下ろしている。 恐る恐る、破り捨てられた脚本の一枚を、手に取る。 それは……、白紙だった。 その一枚だけじゃない。僕の視界に映る床に落ちた紙の全てには。 何も、書かれてはいなかった。 見上げたヒワは笑う。今にも泣き出しそうな顔で。 ――僕が、どこかで見た顔で。 「お別れだ、あたしの、」畳む#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン! 2021.7.11(Sun) 23:10:57 文章 edit
●Scene:09 君の脚本を破り捨て
タイムリミットが刻一刻と迫っている、と魔王たちが噂する。
そうなのかもしれない。この夢が覚める日がやってくるのかもしれない。もしくは、永遠に覚めない日が。別にどちらでも僕にとっては変わらないことだ。「終わり」というのは、それだけで少し恐ろしいような気はするけれど、気にしたところで僕一人がどうこうできる問題ではないのだから。
ただ、日に日に、焦燥感が募るのはどうしてだろう。今まで「どうにかしよう」と内心何度も呟きながら、結局行動にも移す気になったことがない僕らしくもなく――僕は、多分、いつになく焦っている。何に対して焦っているのか、何をしていいのかもわからないまま、ただただちりちりするような感覚が徐々に胸の端を焦がしている。
いや……、目を逸らしているだけで。何に対する焦燥なのかは、とっくにわかってはいるんだ。
僕は気づいてしまった。向き合ってしまった。僕自身がまだ、諦められていない、という事実に。
けれど、だからといってどうすればいいんだ?
そろそろと、張りぼての舞台の上に立ってみる。広すぎる観客席には人一人いない。それでも、自然と指先が震える。指だけじゃない、全身が。言ってしまえば、舞台の上で震えるのはヒワやコルヴスも同じだ。何があろうと堂々と振舞えるパロットみたいな奴は、例外中の例外と言っていいと思う。
ただ、ヒワのそれは激しい緊張で、コルヴスのそれは「見られる」ことへの羞恥と恐怖だが、僕のそれは多分どちらとも違う。
――僕が恐れているのは、きっと。
「ササゴイ」
突然投げかけられた声に、はっとそちらを見る。見れば、いつの間にかヒワが舞台の上に立っていた。
今日は、調子が悪いから練習は休みだと朝に伝えたはずだ。けれど、ヒワは真っ直ぐに僕を見据えたまま、いつになく真剣な表情で口を開いた。
「話があるんだ」
* * *
僕とヒワは、舞台の縁に腰掛ける。どちらともなく。
そして、しばしの静寂が流れた。何せ僕からヒワに何かを切り出そうにも、僕が話すこともなければ、話す声もない。メモ帳の上に、ペンでぐるぐるとよくわからない図形を描くことしかできない。
やがて、僕の横に腰掛けたヒワがやっと口を開いた。
「……ササゴイは、コルヴスと話をしたんだな」
ああ、その話は結局コルヴスから伝わったのか。僕から言うことは何も無いと思っていたから、コルヴスと何を話したのかヒワとパロットには伝えていなかった。ただ、その日あたりから僕の様子がおかしいことくらいは、ヒワも気づいていたんだろう。
そして、きっと。
『ヒワは』
最初から。桟敷城で目覚めた僕を「魔王ササゴイ」と呼んだその時から、もしくは僕が目覚める前から、ずっと。
『私が役者だってことを、知ってた?』
僕の問いかけに、ヒワは顔を露骨にこわばらせた。それでも、絵に描いたようなふっくらとした唇を震わせながら、はっきりと、言った。
「うん。あたしはササゴイが何だったのか知ってる。君の本当の名前だって」
そっか、と僕は唇だけで囁いた。
別に驚きはなかった。そうだろうな、とは随分前から思っていた。僕に舞台に立ってくれないかと頼んできた頃から、彼女は僕の不機嫌に気づいていた。僕が本職の役者だからこそ、そんな僕の前で「演技」をするというのがどういうことか、わかっていたのだ。だからこそ、僕に稚拙さを叱責されると怯えていたのだと、今なら認めることができる。
「……ササゴイは、怒らないんだな。あたしが黙ってたこと」
『怒る理由がない』
ヒワがずっと黙っていた理由はわからなかったけれど、僕が「誰」なのかを具体的に指摘されないだけ、ずっと気楽だったのは事実なのだ。不思議には思えど、怒る理由なんてどこにもない。
僕――魔王ササゴイでない現実の僕は、かつて、舞台に立つことを生業とする俳優だった。
正確に言えば舞台俳優だと胸を張れるようになるまでに紆余曲折といくらかの幸運があって、舞台の上に立ち続けていられたのだと思っている。
うん、そうだ。冷静に思い返してみれば、僕はその時疑いもしていなかったのだ。このまま、ずっと、充実した舞台上の日々が送れるのだと。夢が叶った日々が続くのだと。
それを、どうしようもなく、病によって絶たれるまでは。
張りぼての舞台に、大きすぎる観客席。
この桟敷城が歪な形をしている意味も、今なら何となくわかる。そして、ヒワも僕が無数の観客席を見つめていることに気づいたのだろう。ぽつり、ぽつりと、言葉を落としていく。
「あのさ。ササゴイからは、現実が、こういう風に見えてたんだな」
僕は一つ頷くことで、ヒワの言葉が正しいことを伝える。
張りぼてで取り繕った舞台は、まさしく今の僕自身だ。
僕は、昔から僕自身の形のまま表に立たないようにしてきた。現実でも、ほとんど「僕」を露出させずに、あくまで「役」としての僕を見せることだけを考えて生きてきた。舞台裏など、本当の自分など、見せる必要はない。プライベートを限りなく隠して――と言っても、僕のプライベートはほとんど「演劇」をするための手続きに費やされていたけれど――その分、舞台の上の「誰か」を見てもらいたかった。僕という肉体を、精神を通して僕でない「誰か」を表現すること。舞台の上にいる時だけは別の誰かとして全ての人の目に映ること。それが「演技者」としての僕の目指すところだったのだ。
けれど、どうしたって、それは叶わなくなってしまった。
声を失ったことは確かに酷い痛手だった。けれど、それ以上に、無数の、それこそ「演技者」としての僕を知らない連中までが「僕」に注目したのだ。そりゃあ格好の話題だろう、病で声を失った俳優なんて。
だけど、僕は。
『私は、私のまま衆目に晒されるのが堪えられなかった』
この無数の観客席は僕にとっての「脅威」の象徴だ。ある意味ではコルヴスが恐れたそれに近いかもしれない。ただ、少しだけ違うのは、僕が恐れている視線の意味だ。
『私は、「私」が失望されることに堪えられなかった』
僕に向けられるものの大体は好奇と哀れみの視線。けれどそれ以上に恐ろしかったのは、「失望」だった。舞台上の「僕ではない誰か」を見てくれていた人が、リアルの、生身の僕に向ける「失望」。その視線に気づいてしまった瞬間、心が折れる音がした。
『だから逃げた。全ての連絡を絶って、遠くに引っ越して、これから何かをしようとする気すら起きなかった。君に呼ばれるまで、ずっと。それでまた、こんな、舞台に呼ばれるなんて、思わなかったけれど』
「そっか」
一気に書き記した、いつになく汚く荒れた文字列を、それでもヒワは一目で読み取ってくれたらしい。眉を寄せて、きゅっと唇を引き結んで。それから、囁くように問いかけてくる。
「もう、舞台には立たない?」
ペンを持つ手が震えた。ああ、これを「言う」のは流石に勇気がいるんだな、と僕は僕自身を笑いたくなる。
けれど、今の僕の、素直な気持ちを、殴るように書き記す。
『立てないよ』
――誰も見ていない舞台の上ですら、震えが止まらないんだ。
こんな僕が、かつてのように「誰か」を演じることなんてできない。もう僕以外の何にもなれないものが、舞台に立つことなんて、僕自身が許せそうにない。
すると、ヒワが。
「ごめん、ササゴイ」
ぽつり、謝罪の言葉を漏らした。一体何への謝罪なのかわからず目を点にする僕に対して、ヒワは観客席に目をやって、背中の羽をゆったりと動かしながら言う。自分自身に言い聞かせるように。
「あたし、ササゴイの望みを取り違えてた。……そうだよね。そんなことがあったら、当然だよね。うん、あたしが浮かれてたんだね」
だから、と。
言って立ち上がったヒワの手には、いつの間にか分厚い脚本が握られている。
どういうことだ、という声はヒワには届かない。僕の口から声が出ることはないのだから。
ヒワは両手に持った脚本を、広げて――。
「もう、おしまいにしよう」
そのまま、勢いよく破り捨てた。
ばらばらと、無数のページが舞台の上に広がっていく。僕はただそれを呆然と見つめることしかできない。ヒワはその上に浮かびながら、じっと、僕を見下ろしている。
恐る恐る、破り捨てられた脚本の一枚を、手に取る。
それは……、白紙だった。
その一枚だけじゃない。僕の視界に映る床に落ちた紙の全てには。
何も、書かれてはいなかった。
見上げたヒワは笑う。今にも泣き出しそうな顔で。
――僕が、どこかで見た顔で。
「お別れだ、あたしの、」
畳む
#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!