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幸福偏執雑記帳
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以降更新はindexで行います

No.79


●Scene:02 迷宮桟敷の人々

 ――随分と長い間、眠っていたような気がする。
 
 目覚ましは鳴らない。そもそも長らく、セットなんてしていなかった気がする。その理由もなかったから。目が覚めた時に起き出して、冷蔵庫の中身を確認して、食うものがなければ近くのコンビニかスーパーに出かけて、出来合いのものを買って食べて。
 それから……、何を、しようか。
 貯金も有り余ってるわけじゃない。バイトでも何でもいい、仕事をするべきだ。案外、始めてしまえば何とでもなるだろうし、本職とバイトをいくつも掛け持ちしていた時期だってあったんだ、やってできないことはない。そのはずだ。
 そのはずだ。何度目だろう、その言葉。
 結局僕はありもしない「はず」を頭の中でぐるぐるかき混ぜながら、今日も薄っぺらい敷布団の上でごろごろしたまま一日を始めて、終えてしまうのだろう。
 本当に、僕は一体、何のために息をしているのだろう?
 とにかく、起きよう。もしかすると、もしかしたら。今日くらいは気持ちよく起きて、多少は人間らしい生活をして、それで、少しくらいは変わった一日になるかもしれない。
 そんな無根拠かつ全く信じられないことを言い聞かせながら、何とか重たい瞼を開こうとした、その時。
 
「おはよう、あたしの魔王様!」
 
 ――声?
 この部屋に、僕以外の誰かがいるわけがないのに?
 ついでに、テレビもなければラジオも置いてないんだ、Nから始まる国営放送の集金はこの前一時間をかけて突っぱねたばかりだ。スマホの電話番号を変えてからは、誰かから電話がかかってくることだってなくなった。唯一、両親と、かろうじて話のできる奴とLINEは繋がってるけれど、僕に「通話」をしてくるなんて馬鹿はいない、はずだ。
 なら、この声は、何だ?
 跳ね起きて、瞼を開いた瞬間、確信した。
 これは、よくできた夢だ。
 何しろ、僕の前に広がる光景は、夢以外の何ものでもない。
 目が覚めて真っ先に目に入るはずのとっ散らかった部屋はどこへやら、きらきら、否、ぎらぎらとした照明に照らされているのは、誰一人として座っていない無数の座席だ。そして、眼下に見える小さな小さなそれは、どう見ても「舞台」にしか見えない。きらびやかに飾り付けられた、けれどどこか張りぼてのような安っぽさを感じさせる舞台。
 その上に立っているのは、お世辞にも舞台衣装とは言いがたい、『死体』と筆文字で書かれたTシャツにハーフパンツ姿の男だ。その服装のセンスはともかくとして、橙色に近い金髪に、ところどころ青緑の房が覗く妙に鮮やかな色の髪が目に焼きつく。西洋の、しかも北方の生まれなのか、血管が透けて見えるほどに白い肌をした、けれど決して不健康そうには見えない生き生きとした顔が遠目にもはっきりと見て取れる。
 それに、何よりも。
 舞台の上で歌う男の声は、伸びやかで、晴れやかで、そうだ、聞いているだけで真夏の晴れた空の青が、長らく見上げることも忘れていた空の色が思い浮かぶ。歌詞も無い、僕の全く知らない歌だというのに、僕にはそれが「青空」を歌った歌に聞こえたのだ。
 じわり、と。目元が熱くなる。どうしてだろう、舞台を見下ろしているだけで、男の歌を聴いているだけで、胸が痛んでくる。喉がからからに渇いて、噛み締めた唇が痛みを訴えて。なのに、僕はそれを止めることができずにいる。
 ああ、こんなの、悪夢だ。悪い夢に決まっている。
 だって、僕は――。
「もしもーし? 魔王様?」
 歌とはまた違う、今度は意味のある言葉が、突然、僕の意識の中に滑り込んでくる。
 息を飲んで勢いよくそちらに視線を向けると、
「ぴゃっ」
 奇妙な鳴き声と共に、僕に声をかけた「それ」はものすごい勢いで僕から離れると、壁沿いの柱の後ろに隠れてしまう。と言っても、柱はそう大きなものではなくて、体の半分くらいは僕から丸見えなわけだが。
 それにしても、これまた、舞台の上で歌う男より更に現実感からかけ離れた女の子だった。
 年のころは中学生くらいだろうか。ふわふわと波打つ髪の毛は、金髪を通り越して柔らかな黄色、と言った趣だ。ひよこの毛、よりも更にはっきりとした黄色。大きく見開かれた目も琥珀を固めたような、きらきらと輝く不思議な色をしている。
 それ以上に、どうしても目が行ってしまうのは、女の子の背中に生えた、髪の色と同じ黄色い羽だ。張りぼてめいた座席や舞台に反して、女の子のその羽だけは、どう見ても本物にしか見えなかった。実際、女の子の警戒を反映してか、ゆるゆると閉じたり開いたりを繰り返している。
 君は誰だ、と問いかけたかった。けれど、その問いかけが声になることはなかった。夢の中なのだから声くらい出せてもよいだろう、と思うのに、ただただ、掠れた呼吸が漏れるだけだ。
 それでも不思議と、柱の後ろの女の子は、そんな僕の言わんとしていることを察したのだろう。ちょこんと顔を柱の後ろから顔を覗かせて言う。
「あっ、あたしはヒワ。古代より続く天空王国アーウィスのお姫様だ!」
 お姫様。確かに、ファンタジーRPGに出てくるようなひらひらした服装からしても、言われてみればそんな感じがする。正直自分で「お姫様」って言うものでは無いと思うけど。
 僕がそんなことをつらつら考えていると、お姫様・ヒワは僕のことをびしっと指差してみせる。柱の後ろから。人を指差してはいけないと教えてもらわなかったのか、お姫様のくせに。
「そして、君はササゴイ!」
 ササゴイ?
「ササゴイだ。ダンジョンの一角を支配するこわーいこわーい魔王ササゴイ様! 黄昏の軍勢を操る強大な魔王で、あたしをさらって、この『桟敷城』に閉じ込めたんだ」
 ササゴイ。ヒワもそうだけど、確か鳥の名前だったか。もちろん、僕はそんな名前じゃないし、魔王なんて胡散臭いものじゃない。もしかすると「無職」よりは幾分かマシかもしれないけれど。
 そして、当然ながら、こんな羽の生えた女の子を拉致監禁した記憶もない。そんな真似してバレてみろ、無職どころか豚箱行きだ。ただでさえ死んでるようなものなのに、今度こそ社会的に死んでしまう。
 ヒワと名乗った女の子は今のやりとりで少し警戒を解いたのか、柱の後ろから出てくると、僕らしか観客がいないにもかかわらず、舞台の上で朗々と気持ちよさそうに歌い続けている男に視線を向ける。男はヒワと僕の視線に気づいたのか、こちらを見上げて、にっと人懐っこく笑って手を振ってきた。
 何だあれ、という僕の思いを受け止めたのか、ヒワは首をかしげながら言う。
「あれはパロット。何か……、気づいたらこの城にいた。多分、旅の吟遊詩人。そういうことにしてる」
 自己紹介や僕に対する決め付けに反して、ものすごくふわっとした説明をされた気がする。「多分」とか「そういうことにしてる」って、普通、人に対する説明には出てこないぞ。
 言っているヒワ自身も流石に無理があると思ったのか、僕を見上げて、煌く目をぱちりと瞬きをして、そっと、秘密を打ち明けるように囁いた。
「という、役なんだ。この、桟敷城では」
 ――役。
 その言葉は、不思議と、ぐちゃぐちゃにかき乱されていた僕の心の中に、すとんと落ちた。
 そうか。どうやら、僕はこのヒワとかいう女の子曰く、既に意味のわからない「劇」に巻き込まれているということらしい。お姫様とか魔王とか、はっきり言って何が何だかさっぱりわからないし、こんな台本も与えられてない、子供のお遊戯に付き合ってやる義理もない、けれど。
「というわけで、魔王ササゴイ様! 今日から君は桟敷城の魔王として、魔王らしく振舞ってもらう!」
 びしっ、ともう一度指差されて、僕はつい、少しだけ笑ってしまった。
「なっ、何で笑うんだ?」
 だって、おかしいじゃないか。夢の中でまで、僕は誰かに「役」を押し付けられようとしている。こんな、張りぼての劇場で。
 ただ――、今この瞬間の僕を。誰でもない、それこそ形すら定かでない僕を真っ直ぐ見つめられるのは、気恥ずかしくもあったけれど、自分でもわからないままに、笑いたくなってしまったのだ。
 何で笑ったのか。その答えを僕は持たないし、仮に答えを持っていたとしても、答えることができない。それでも、多分僕の笑顔がヒワを笑ったものではない、ということは伝わったのだと思う。ヒワも、僕に向けて、どこかはにかむように――笑ってみせた。
「頼むぞ、あたしの魔王様」
 何故だろう。
 そうやって、はにかむように笑う誰かを、僕は何故だか知っている気がした。
 気がしただけ、なのだけれども。
畳む


#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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