home book_2
chat
幸福偏執雑記帳
幸福偏執雑記帳

幸福偏執雑記帳

以降更新はindexで行います

No.104


●Scene:11 この舞台は誰がために

 ――一言で言えば、途方に暮れていた。
 パロットとコルヴスから聞ける限りのことは聞いた。ヒワのこと。ヒワがどのような人物だったのか。
 夢のような物語が好きだった。
 この桟敷城が好きだった。
 それから、多分、僕に何らかの願いをかけていた。
 桟敷城の一番高い位置の席に腰掛けて、もはや最低限の灯りしかつけていない舞台の上に、ぼんやりとヒワの姿を思い描こうとする。
 黄色い髪、天空の姫という役柄をそのまま表した、髪と同じ色の羽。光をいっぱいに孕んだ、琥珀色の瞳。小さな体をふわふわと浮かばせながら、舞台の上で出来る限り大きく見えるように背筋を伸ばして、必死に「お姫様」を演じる姿。
 思い出せる。思い出せる、けれど……、どうしてだろう。思い出したところで、何一つ、ヒワについて掴めた気がしない。ヒワがここにいたのは間違いないのに、僕がこうして考えている間にも、一つ、また一つとヒワがそこにいたという痕跡が消えていっているような……、そんな、錯覚。
 否、これは錯覚などではないのかもしれない。パロットやコルヴスから話を聞いてみると、日に日にヒワについての記憶が薄れているような、そんな感覚がある。単なる時間経過によるものではなく、ヒワについて昨日語ったことが、今日にはすっかり欠け落ちている、ような。
 これが鳥頭のパロットならともかく、コルヴスもそうなのだから、明らかに普通じゃない。僕はかろうじてまだヒワについて覚えているけれど、それでも、僕の記憶だって完璧なものではない。もし、僕が彼女を忘れてしまったら、もはやこの桟敷城に、何の意味が――。
「随分冴えない顔してるな、あたしの魔王様」
 突然耳元で囁かれた声に、わっ、と思わず声をあげようとしてしまう。声は出ないのだが、もはやこれは反射のようなものだ。
 けれど、今の、声は?
 それから、今、頭に浮かんだイメージは――。
 混乱する頭を振って振り向けば、そこに想像していた顔はいなかった。
「うーん、やっぱり女声の模写は無理があるな。上手く声が出ない」
 言いながら、けほ、と軽く咳をするのはコルヴスで、その後ろから、パロットが呆れ顔でこちらを見ていた。
「コルヴスー、悪趣味だぞその特技ー」
「悪趣味なのは百も承知だよ。……でも、まあ、それなりに似てましたよね?」
 前半はパロットに、そして後半が僕に投げかけられた言葉であることは、流石にわかった。コルヴスにもわかるように、深く頷く。確かに、今のコルヴスが放った声はヒワの声に聞こえて、それから――、それから?
 さっきの声をかけられて、僕の脳裏に閃いたイメージは、何だったのだろう。
 黄昏色の空。その前に立つ、小さなシルエット。
「悪ふざけが過ぎましたかね、ミスター?」
 僕の「沈黙」を前に、コルヴスが申し訳なさそうな顔をしてみせる。実際、申し訳ないとは思っているのだろうし、多分、平素の僕なら多少の苛立ちすらも覚えただろう。
 けれど、今の僕にとってはそうではなかった。
 ああ、どうしてこの喉は使い物にならないんだ。紙とペンを出すことすらももどかしくて、乱暴にコルヴスの手を取る。コルヴスの手は相変わらず冷たかった。幽霊を自称するパロットがやけに体温が高くて、一応生きた人間であるコルヴスが冷たいのもなかなか奇妙な話だが、そんな雑念は一旦横に置く。
 それから、呆然とするコルヴスの手のひらに、記す。
『もう一度』
「……もう一度、ですか?」
『頼む』
 僕の懇願の意味がわからなかったのだろう、コルヴスは色眼鏡の下で一つぱちりと瞬きをしたが、それから改めて瞼を閉じて微笑んだ。
「我らが魔王、ササゴイ様が望むなら」
 この芝居がかった台詞回し、普通の奴が言うなら鳥肌ものだが、コルヴスのそれは不思議と不自然さを感じないのが面白いところだ。当初からコルヴスの全てが演技である、ということもあるし、その「演技」に対して僕の感覚が麻痺してしまった、ともいえた。
 ともあれ、軽く咳払いをするコルヴスの前で、瞼を閉じる。
 それが彼女の声でないことを理解してしまった以上、もう、あの奇妙な閃きは戻ってこないかもしれない。
 それでも――。
 
「魔王様」
 
 それは。
 脳裏に閃くそれは、確かに、黄昏色の記憶だった。
 黄昏色だと思ったそれは、窓の外に広がる空の色。そうだ、あれは教室の窓だ。僕が舞台の上に立つようになるより前。他の誰にも上手く馴染めずに、ただただ日々を浪費していただけの場所。
 そこに、たった一人立っている誰かの姿を幻視する。
 黄昏色に浮かぶ小さなシルエット。セーラー服姿の少女が、くすくす笑いとともに僕を呼ぶ。
 
「ねえ、魔王様?」
 
 ――思い出した。
 僕は思わず、声にならない声を吐き出していた。
「ササゴイ?」
 パロットの問いかけに、僕は答えることもできないまま頭をかきむしるしかなかった。
 やっと思い出したんだ。今の声が、誰のものであったのか。
 ヒワ。そうだ、彼女の名前は――本当の名前ではなかったけれど、確かにヒワという「役名」であったはずだ。
 どうして忘れていたのだろう。いや、忘れようとしていたのかもしれない。僕にとって、その頃の記憶は大体がろくでもないものばかりで、だから、無意識に何もかもを無かったことにしていた。
 けれど、けれど、その中に、決して忘れてはいけないものが混ざっていたのではないか?
 思いだせ。もっと深く。黄昏色の、その向こうまで。
 
 
     *     *     *
 
 
 放課後の空き教室。
 それが、一日の中で僕が息をつける唯一の時間であり、場所であった。
 僕はこの頃からずっと役者になりたくて、けれど、僕のいる学校には演劇を志望する人なんていなかったし、親は全く僕の話を聞こうとはしてくれなかった――今ならその理由も何となくはわかるけれど。
 というわけで、家に帰れば宿題をしろだのなんだの言われるだけだし、だからといって、どこかの部活に入る気も起きなかった。だから、僕はいつだって、声一つ出すこともできずにただただ本、特に戯曲ばかりを選んで読んでいた。
 ――そんな日々が少しだけ変わったのは、空き教室の住人が一人増えたからだ。
 野暮ったい、黒髪を二つのお下げにした女の子。クラスメイトの一人。当時は名前すらまともに認識できていなかった彼女が教室に居座っているのを見つけた時、僕は失望を覚えたのだった。僕の居場所が失われた、と。
 けれど、彼女は僕の居場所を侵害しようとはしなかった。軽く会釈をするだけで、部屋の片隅で何かを書く作業に戻っただけ。だから、僕もその対角線上で、本を読むことにした。
 彼女が紙の上にシャープペンシルを走らせる音は、いっそ心地よかった。彼女がほとんど手を止めなかったから、ということもある。時々小さく唸るような声が混ざっていたのも、彼女が全く僕の存在に気を留めずに作業に没頭しているからだとわかったから、不愉快とは思わなかった。
 ……だから、だろうか。
 声をかけたのは、確か、僕の方からだった。
「何を書いてるの?」
「ひえっ」
 教室の対角線上から投げかけられた声に、彼女はいたく驚いたようで、黄昏色の教室の中で、黒いお下げが跳ねたのを覚えている。
「しょ、小説!」
「……小説?」
「っ、XXXXさんこそ、何読んでるの?」
 それに、僕はなんと返したんだったか。ただ、その頃の僕に嘘をつく理由は無かったと思うから、普通に答えたんだと思う。それに対して、彼女はほう、と息をついて、それからうって変わって慌てた様子で言ったのだ。
「あ、あたしがここで小説書いてるのは、他の皆には内緒だぞ!」
「別に。言う理由もないから、言わないよ。でも、どんな話を書いてるの?」
 その問いに対して、彼女はぱっと顔を綻ばせて、今までのたどたどしい言葉遣いが嘘のように、ぺらぺらとまくし立て始めたのだ。
「これはね、神様が本当にいて、魔法って力が当たり前の遠い世界で、天空の城にたった一人暮らしてた姫の話で――」
 その筋書き自体は酷く陳腐で、僕は確か、相当棘のある評価を下したんだったと思う。けれど、それを真に受けてしょげたかと思うと、すぐに顔を上げて笑ってみせたのだ。
「話を聞いてくれてありがとう、XXXXさん。参考にするよ」
「いや、ごめん、少しきつい言い方をした。姫の性格づけは面白いと思うよ。折角、頭の回る姫なんだから、もう少し機転を利かせた行動を差し込んだ方がいいんじゃないかな」
「例えばどんな感じの?」
「そうだな……」
 そんな風に。僕は、気づけば彼女の「世界」に足を踏み入れていたのだと、後になって気づいた。そして、彼女の「世界」について語り合うことが、楽しくなっていたことにも。
 彼女の物語は、いつだって筋書きはどこにでもあるような恋愛ものだったのだけれども、それでも、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。彼女が、それを「形にしよう」としているのを見ているのが、好きだった。
 そんな彼女を見ていると、何一つ行動に移すこともせず、口を噤んだままでいる僕自身が情けなくなってくるほどに。
 そんなある日、彼女は言ったのだ。
「XXXXさんは、どうしていつもここで本を読んでるの?」
「僕にも、やりたいことがあるから、その勉強をしてる」
「演劇?」
「うん」
 その頃には、彼女にも僕が何をしたがっているのかわかっていて。彼女は、僕の前にびっしりと手書きで書かれたノートを突き出してきたのだった。
「なら、未来の役者さんに、魔王を演じていただこうか!」
「……魔王ササゴイ?」
「そう。それで、あたしが姫君ヒワ。よろしく、あたしの魔王様!」
 やっと。やっと思い出した。
 どこかで聞いた名前の理由。陳腐な筋書きの既視感。僕のために存在する『黄昏劇団』。
 そうだ、黄昏色の教室で、二人きり。囁くように、紙の上に描かれた世界を演じていく。
 それこそが僕と彼女――魔王ササゴイと、姫君ヒワの、誰一人として観客のない「舞台」だったのだ。
畳む


#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

文章