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幸福偏執雑記帳
幸福偏執雑記帳

幸福偏執雑記帳

以降更新はindexで行います

No.108, No.107, No.106, No.105, No.104, No.103, No.1027件]


●Scene:15 アンコール!

 ごうん、ごうん、と。
 鐘の音が鳴る。それは劇の終わりを告げる鐘の音。
 ――幕が下りようとしている。この、桟敷城そのものの終わりが、始まっている。
「さあ、今度こそ終幕の時間ですね」
 舞台の上に上がったコルヴスは、本当は人の目が怖いんだろう。その肩が微かに震えているのは、僕にだけは見えている。見えてないのに難儀なことだと思うが、見えてないだけに、人の気配をはっきりと感じてしまうに違いない。
 パロットはコルヴスの「目」の代わりとしてその横に立ちながら、派手な頭を揺らして言う。
「外も随分騒がしいもんなー、そろそろこの世界も店じまいかな?」
 十五週。それで、この世界は終わるのだという。本来想定していた「終わり」とはいささかかけ離れた形のようだが、それでも、僕もまた言葉には出来ない感覚の部分で、この場に居られる時間はあと少しである、ということを理解していた。
 長くも短い十五週だった。色々なことがあって、見方によっては何一つ変わることはなく、それでいて、僕の中では何かが確かに変わった。変わることができたと、思っている。
 ヒワの手を握る。その小さな手の温もりを確かめる。すると、ヒワが細い指で僕の手を握り返して、こちらを見上げてくる。彼女もまた笑ってはいたけれど、少しだけ、不安そうでもあった。
「……ほんとはね。怖いんだ」
 うん、と僕は頷きをもってそれに応える。
 一番怖いのは、多分ヒワなのだと思う。
 僕はただ、立ち上がる勇気が無かっただけだ。どうしたって、もう一度舞台に立つためのきっかけが必要で、それがヒワとの「再会」だったのだ。
 けれど、一方でヒワはずっと「置いていかれた」と思っていたのだと思う。僕が最初に彼女に感じたように。ヒワはずっと僕の背中を見つめながら、ままならない自分自身をもてあましていたのだと思う。そして、それは今も変わらない。僕がもう一度舞台に立ったところで、ヒワの「怖い」という思いが拭い去れるわけではない。
 その気持ちがわかってしまうだけに、僕はただ、微かに震えるヒワの手を強く握り締めることしかできなかった、けれど。
「んなしょぼくれた顔すんじゃねーよ!」
 明るい声が飛び込んでくる。その声によく似合う、派手な髪をした男が、歌うように言葉を紡いでいく。
「ヒワの話、めちゃくちゃ面白かったぜ! 自信持てよ、背筋伸ばせよ、諦めなきゃ人は空だって飛べんだ。お前さんなら、青空より高い場所、ここじゃない世界にまで連れてけるさ!」
「パロット……」
「それに俺様、ハッピーな話が好きだからさ! 応援するぜ、お姫様! 今度はもっとわかりやすくハッピーなのを頼むぜ、それこそ、ハッピーウエディーング! 二人は末永く幸せに暮らしましたとさ(Happily ever after)、ってやつ!」
 それはお伽噺の定型文。僕らの国では「めでたし、めでたし」と訳されるもの、全ての喜劇の結末。なるほど、かつての僕は「ざっくりしすぎ」だと言ったが、古くから今にまで息づく決まり文句といえた。それは、パロットのいた世界でも変わらないのかもしれない。
 生前は死と隣り合わせの戦場に生きてきて、これからも死と共に生きていくのであろう戦闘機乗りの幽霊は、能天気なようで、意外と核心を突いてくる。本人はそれに気づいていないのかもしれないけれど。
 ヒワは、笑うパロットを真っ直ぐに見据えながら、それでも踏ん切りがつかないとばかりに唇を噛む。すると、コルヴスがそっと、声をかけてくる。
「それでも、レディ・ヒワ、あなたに力が少しばかり足らないというなら。……あなたの手を握る方が、導いてくれますよ」
 ヒワはぱっと僕を見上げる。僕も、思わずヒワとコルヴスを交互に見つめてしまう。そんな僕らの気配を察知したのか、コルヴスはくすくすと笑いながら言う。
「それがどれだけ荒唐無稽な喜劇でも。人間の身体を通すことで、虚構と現実との境界を飛び越える。それが演技であり、舞台というものだと思っています。そうでしょう、ミスター?」
 そう、そうか。コルヴスの言うとおり、それこそが――僕の、役目だ。
 コルヴスはパロットの同僚だったというが、その性質は全然違う。パロットが光り輝く存在であるなら、彼は、パロットの影であったのだろう。人に「魅せる」ための演技を志した僕とは相容れないけれど、演じる、ということに全てを捧げた影。そんなコルヴスが、僕は決して嫌いではなかったのだと、今改めて気づく。
『ありがとう、二人とも』
「いいってことよ!」
「ええ。十分すぎるほどに楽しませていただきましたから」
 この二人、案外息が合っているのかもしれない。普段は相当口さがないやり取りをしているが、それも――一種の「気安さ」がそうさせていたのだろう、と今ならわかる。
 二人がいてくれてよかった。僕の背を押してくれてよかった。
 それは、今、この瞬間だって変わらない。
「さあ、お客様に最後のご挨拶を」
「そうだぜ、びしっと決めてくれよ、魔王様とお姫様!」
 おんぼろ桟敷は今にも崩れかけている。僕の城である桟敷城を含めた、この「できそこないの世界」が、変わろうとしているのが、わかる。
 二人に背を押される形で、僕とヒワは二人で一歩を踏み出す。
 ヒワに視線を合わせれば、もう、ヒワは震えてはいなかった。喜びと、決意と、それでいて好敵手を見るような不敵な目つきで、僕をきっと見据えてくる。
 うん、そうだな。きっと、僕らは上手くやれるはずだ。お互いにお互いの背中を追いかけながら、遥か高みを目指せるはずだ。そして、二人でもう一度手を取り合ったその時には、見るもの全てを他の世界に連れていく。そんな舞台が作れるはずだ。
 作ってみせよう。絶対に。
 言葉にならない思いを胸に、舞台を取り巻く桟敷に向き合う。
 もはや観客席に本来の「観客」がいるのかすらもわからないけれど、この茶番劇を見ていてくれた人は、確かにいるのだと思う。
 ――例えば、そこのあなただとか。
 この劇を見届けてくれたあなたが誰なのか、僕にはわからないけれど。
 それでも、今だけは、あなたのために。
「ありがとうございました!」
『……ありがとうございました!』
 声にならない声をあげて、ヒワと手を取り合って笑いあい、頭を下げて――。
 
 桟敷城の幕が、下りる。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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●Scene:14 大団円

 凛、と。城いっぱいに声が響き渡った、途端。
 ぽむん、と。どこか間の抜けた音と共に、僕の伸ばした手の先に一人の少女が現れる。
 黄色い髪に黄色い翼の少女――ヒワは、伸ばした僕の手を掴んで、僕の胸の中に飛び込んできた。いつしか抱きしめたときに感じた、いやに軽い手ごたえが腕いっぱいに広がる。
 それから。
「あああああ、ばかあああああああササゴイのばかああああ」
 べしょべしょの涙声が響いたと思うと、僕の胸をぺちぺち叩く感触。全く力の入っていない手は、やっぱり、僕の記憶の通りに小さかった。
「どうして、どうして今まで気づいてくれなかったのさあああ」
 ごめん、と息遣いだけで囁く。果たして、その声はヒワに届いたんだと思う。一瞬、顔を上げて、涙をいっぱい溜めた目で僕を見たかと思うと、ごっ、と僕の胸に頭突きをくれやがりまして。
「ごめんじゃないよこのやろおおおおもおおおおお」
 うん、わかってる。わかってるからせめて顔をぐりぐり擦り付けるのはやめてくれないかな、いくらユニクロのセールで買った服とはいえ、涙と鼻水でびたびたになるのはいかがかと思う。
 とはいえ。
「諦めてないなら諦めてないって言ってよおおおお、ほんとに、ほんとに、あたし、あたし、もう、忘れられちゃったって、もう、約束も守れないって、ずっと、ずっと、うええええええ」
 そうだ。本当に、そうだ。これは何もかも僕が悪い。煮え切らないまま、本当は諦めてなんていなかったのに、諦めたふりをし続けていた僕が悪くて、ヒワとの約束を忘れようとしていた僕が悪かった。
 答える代わりに、ぽんぽんとヒワの肩を叩いてやる。果たして、現実の彼女がどうなっているのかは、今の僕にはわからない。けれど、多分……、まあ、何か、心配する必要はない気がしてきたな。仮にこのヒワが「生霊」のようなものだとしても、これだけ元気なら案外大丈夫なんじゃなかろうかと思うのだ。
 ただ、仮に、僕が彼女を否定し続けていたら……否、もう考えるのは止めよう。
 僕は向き合うと決めたんだ。ヒワに。その向こうにいる彼女に。それから、未だに諦められない僕自身に。だから、「否定した」可能性を考えるのはやめる。
 涙と鼻水で酷い顔をした、けれど相変わらず夢のような色の目をしたお姫様は、僕を見上げて言う。
「ササゴイ、もう舞台に立たないなんて言わないよな?」
 立ってるからね。と笑ってみせる。
 そうだ、ここはもう舞台の上だ。……僕は、今、一人の「役者」として舞台に立っている。彼女の描いた脚本を、彼女が好きだといった「喜劇」で終わらせるために。
 ヒワも、ここが舞台の上だと一拍遅れて自覚したらしい、「ふあっ」と慌てて僕の袖で涙と鼻水を拭く。ちょっとそれ酷くないか。ハンカチの一つも用意してない僕が悪いのかもしれないけど、それは流石に無いんじゃないか。
 それから、何とか真っ赤な目で顔を上げたヒワは……、ぽつりと、問いかけてくる。
「もう、大丈夫なんだな?」
 大丈夫、と言い切るには、少しだけ躊躇いが必要だった。
 確かに今、僕は「魔王ササゴイ」として舞台に立っていられる。けれど、それはこの桟敷城という場所あっての話だ。……夢、と言い切るにはあまりにも僕の手から離れすぎているこの世界は、もうすぐ幕を閉じる。その後、僕は現実に帰っていくんだと思う。あのとっちらかったせまっ苦しい部屋に。
 その後、再び立ち上がれるかどうか、僕にはまだちょっと自信がない。声が出ないのは事実だし、そんな「悲劇の俳優」なんてレッテルを貼られた状態のまま、元の場所に戻っていく勇気を振り絞ることができるだろうか。
 とはいえ、自信がなくとも。勇気がなくとも。
 ――君が、手を引いてくれるんだろ。
 唇だけで、そう囁く。わかってくれただろうか。きっと、ヒワなら、わかってくれたんだと思う。まだ真っ赤な目で、それでも、にっかりと笑ってみせるのだ。
「任せとき! 今度こそ、最高の物語を綴ってみせるさ! 君が自分から舞台に立ちたくなるくらいのね!」
 うん、……なら、僕はきっと、前を向ける。
 君が約束してくれるなら。今度こそ、僕も君との約束を守ろう。
 この舞台の幕が下りても、僕はまた、新しい舞台に立ってゆこう。君のために。君のために、と誓った僕自身のために。
 ヒワは笑う。僕も、きっと、今度こそ上手く笑えていたと思う。この時ばかりは、舞台の上であるとわかっていても「僕自身」の顔で。
 と、不意にヒワが「あ」と声を上げて、僕の顔をまじまじと見た。そのふっくらとした顔はどこまでも不思議そうな面持ちをしている。
「あのさ、さっき……、ササゴイの声が聞こえて、それで目が覚めたんだけど、どうして、だって、ササゴイの声は」
 そう、それは、僕だって不思議だった。
 僕に声はない。今だってそうだ、ヒワに対してかけた声は、どうしたってただの息遣いにしかならない。なのに。
 かつり、と。そこに声ではない音が生まれる。それが杖の音だと気づいたのは、舞台の袖にその姿を認めてからだった。
「ミスターだってご存知でしょう? 声帯模写はボクの特技の一つですよ」
 ――コルヴス。
 ハンチング帽を目深に被った長身痩躯の男は、薄い唇を開く。
 
「意外と、似ていると思わないか?」
 
 ――ああ、完全にしてやられた。
 コルヴスが放った声は、確かに「僕の声」だった。とっくのとうに失われた、僕の。
 この世界が夢であろうとも、僕の声は戻ってきてはくれない。この僕の体が僕のよく知っている僕のものでしかない以上、そこはどうしたって覆らないんだろう。心だけがここにあるヒワとは、そこが違う。
 だから、僕はあの刹那だけ、コルヴスの喉を借りることで「僕の声」をヒワに届けた。そういうことなのだと、僕も今やっと理解できた。
 けれど……、どうして、コルヴスが僕の声を知っている?
 僕の声にならない問いかけを遮るように、華々しいファンファーレが響く。舞台の左右に配置された黄昏色の楽団達が、唐突にBGMを奏ではじめたのだ。呆然とする僕とヒワの前に飛び下りてきたパロットが、歌うように言う。
「ヒワが見せてくれたんだぜ、ササゴイの舞台! すげーよな、本職の役者さんはやっぱ違えーよなー!」
「ええ。本当によかったです、充電が残ってて」
 コルヴスが差し出したのは、僕の知らない、黄色いカバーのかけられた、少し古いモデルのスマートフォン。電波は当然通っていない。けれど、そこにあらかじめ保存されていたものを再生することは、できる。コルヴスなら、僕の演技こそ見えてなくとも、そこから僕の声だけを聞き取って記憶することなど、造作もなかったに違いない。
「さあさあ、魔王とお姫様のお話もクライマックスだ! 盛り上げてくぜえ!」
 パロットは両手を振り上げる。それに合わせて、黄昏色の楽団が華やかな音楽を奏でる。僕の知らない、けれど明らかに「祝福」であるとわかる音楽。いつパロットが劇団員を手懐けたのかは知らないが、パロットの歌声に応えるように、本当ならばただの「影」でしかない黄昏色の彼らが、生き生きと舞台を彩っていく。
 本当に、してやられたとしか言いようがない。パロットとコルヴスには、どうしたって敵う気がしない。僕が「幕は下りていない」と宣言した時から、僕はこの二人に踊らされてたってことだ。否、もしかしたら、その宣言すら、この二人の手のひらの上だったのかもしれない。
 けれど――けれど。
 問いかけずにはいられない。きっと、それはヒワも同じだったのだと思う。僕の代わりに、口を開く。
「でも、どうして……、どうして、二人は、そこまでしてくれるんだ?」
 その問いに対して、コルヴスは不敵に微笑み、パロットはにいっと白い歯を見せて。
 
「ボクはね」
「俺様だって!」
 
『折角見るなら、大団円の方がいい!』
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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●Scene:13 魔王ササゴイの無声劇

『むかし、むかし。ここではない、遠い世界の物語』
 
 コルヴスのナレーションが響く。
 アドリブだらけのパロットと正反対に、コルヴスは脚本には忠実だ。と言っても、この脚本は僕が即興で書いたもので、多分、ヒワほど上手く「物語」の形には出来ていないと思う。僕は話の筋を評価できても、自分で物語を作る才能がない。
 だからこそ、ヒワが、そこにいたのだと今ならはっきりわかる。
 桟敷城の魔王である僕にとって本当は「脚本家」たるヒワは欠かせない存在で、そして多分、ヒワにとってもそれは同じだった。なのに、舞台に立つことを僕が否定したから、ヒワは「欠けて」しまった。僕の前から、消えてしまった。
 そんな、今の僕に取れる行動は、ただ一つ。
『地底深くに住まう魔王ササゴイは、暇を持て余していました。否、ずっと「何かが足りない」と思っていたのです』
 これは、ある意味今の僕そのものだ。声を失ってから、何もかもがつまらなくなってしまった。それで、誰とも連絡を絶って、一人で穴倉のような部屋に篭って、日々を消化していた。「やればできるはず」「どうとでもなるはず」そんな無意味な呪文を唱えながら、布団の上で溜息をついていた。
 実際には、何一つ納得もしていないのに、満足もしていないのに。だって、僕はまだ約束の一つも果たせちゃいなかったんだ。――なのに、その「約束」すらも、今の今まで忘れていた。
『何かを欠いたまま、魔王ササゴイは一つの「遊び」を考えました。大地の底からは見えない場所、天空の城に住まう姫君をさらってきたらどうだろう、と』
 そのナレーションを合図に、僕は、一歩、足を踏み出して張りぼての舞台の上に立つ。スポットライトの熱を感じたのはいつぶりだろう。舞台を見下ろす「観客」の視線を浴びるのは、いつぶりだろうか。
 体が震える。怖い。そうだな、僕は未だに恐れている。僕を見ている「誰か」の期待に応えられない可能性は、僕の背中にべったりと張り付いて離れてくれない。
 けれど、そんなものはいつだって変わらない。それこそ、声があったころから何一つ変わりはしないのだ。違うことといえば、ここには「かつての僕」を知る者が誰一人いないということ。それだけで、随分気が楽だ。
 さあ、今こそ思い出すんだ、黄昏色の教室で語り合った「魔王ササゴイ」のことを。僕の役目は――全力で「魔王」を演じること。ただ、それだけなのだから!
『天空の城は世界のあまねくを見通すという。ならば、きっと、面白い話をしてくれるに違いない。かくして、魔王ササゴイは、黄昏の兵隊を操り、天空王国の姫君を己の城へとさらってきたのです』
 僕は空っぽの玉座に腰掛けて、足を組む。黄昏色の劇団員たちが「僕」と「ヒワ」の形をとって、今までの記憶を影絵のように次々と映し出していく。
 初めてヒワと出会った日。
 ヒワが必死に僕のために物語を語る様子。
 僕が「つまらない」というたびに、僕のために新たな筋書きを考えるヒワ。
 それは、それは、まさしく遠い日の僕と彼女の関係そのものだった。放課後、黄昏色の教室で、僕らは二人だけの物語を作りあげていた。誰からも自分のしていることを笑い飛ばされた孤独な姫君と、理解者を得られず一人で過ごしていた魔王の物語。二人が出会って、少しずつ「物語」を共有していくという筋書きは、その頃の僕らをただただ戯画化したもので、今となっては酷く気恥ずかしいものでもある。
 それでも、これは今の僕らにこそ必要なプロセスだ。
『一日が過ぎ、二日が過ぎ、幾日もが過ぎました。それでも魔王ササゴイは満足できません。姫君のお話が面白くないわけではないのです。ただ、ただ、何かが足りないと。そんな思いに駆られて、魔王ササゴイは姫君ヒワを縛り続けます』
 その頃の僕は、彼女と言葉を交わすたびに、焦燥のようなものが募っていたのだと思い出す。彼女の物語は日々洗練されていって、陳腐だった筋書きは「王道」へと変わり、やがて僕が一目見て「面白い」と感じられるものになっていた。最初は共に時間を過ごしていただけの彼女が、急に遠くなってしまったかのような、感覚。同じ場所にいながら、置いていかれているような、感覚。
 だから、僕は少しずつ彼女と距離を取るようになった。黄昏色の世界できらきらと輝く彼女の目を、直視できなくなっていたとも言う。
 ただ、最後に一度だけ。卒業と共に劇団に入ろう、という覚悟を決めたその時に、彼女と改めて向き合ったのだ。
『姫君ヒワは、これが最後と言って、一つの物語を語りはじめます。それは』
 その日の僕は。
『――天空の姫と、地底の魔王の、一つの約束の物語』
 そう、約束をしたのだ。
 
「いつか必ず、立派な役者になるから。そうしたら、君の物語を演じてみせる」
「本当に? ……本当に?」
「約束する。だから、君も物語を綴り続けてほしい。僕に届くように」
「もちろん、もちろんだよ、あたしの魔王様! 約束!」
 かわした指きり。その時、僕は初めて彼女に触れたのだと覚えている。彼女の手が、僕のものよりもずっと小さかったことを、覚えている。
 
『遠い日に出会った二人は、必ずお互いの役目を果たして、もう一度会おうと約束しました。けれど……、けれど、その願いは叶うことがなかったのです』
 僕は、玉座から立ち上がる。舞台の上の、影絵が消える。
 だって、黄昏色の影絵は全て幻想だ。物語の中に描かれた「魔王ササゴイ」と「姫君ヒワ」でしかない。
 現実はそうではない。こんなお綺麗なお話じゃない。もっと、どうしようもない顛末だ。
 彼女は多分、僕の言葉を愚直に信じてくれていたのだと思う。小説家としてデビューした、という話を聞いたのは、僕が中学を卒業して少ししてからのことだった。女子高生小説家、という肩書きが話題になったことを、今でもはっきりと覚えている。
 だが、それっきりだった。
 僕が持っている彼女の本は一冊だけ。それっきり、彼女の話題は途絶えた。よくある話ではある。
 一方の僕は、紆余曲折といくらかの幸運があって、なんとか役者として舞台に立てるまでになっていった。僕は一足飛びに階段を駆け上り続けていた。そんな日々の中で、彼女との約束は遠いものとなっていった。けれど、何かが欠けているという感覚だけが、僕の中に残っていて――。
 そして、僕は声を失った。
『魔王と姫君。二人の間に横たわった隔絶は、あまりにも深く。魔王は、約束を忘れ果てていたのですから』
 しん、と。観客席は静まり返っている。咳払いの音すら聞こえない、静寂。
 ああ、そうだ、この感覚だ。僕が長らく忘れていた、忘れようとしていた、背筋のぞくぞくする感覚。もう、この体を支配しているのは恐怖などではない。舞台に立った以上、僕はもはや「魔王ササゴイ」であり、この感覚は「魔王ササゴイ」の興奮だ。
 僕は、そっと己の両手を開く。
 この両手には何もない。僕――魔王ササゴイは、過去の影絵以外に何一つ持っていない。声を失うあの日まで、全力で走り続けたという自負はある。けれど、なりふり構わず駆けていった結果、持っていたはずのものも、取り落としてしまった。一番大切だった約束も、手から零れ落ちていたことに、気づいていなかった。
 気づいていなかったから、あの頃の僕は、聞き流してしまったのだ。
 
 ――彼女が病気がちで、ほとんど眠ったままでいる、ということも。
 
 僕が今まで見ていた「姫君ヒワ」は、彼女の夢だったのだろう。そして、彼女は今もなお、僕との約束に囚われていた。否、彼女自身が望んで、この桟敷城にいたのだ。僕との約束を叶えるために。
 なのに、僕自身が否定してしまった。もう舞台に立てないと、言ってしまった。
 それは、彼女の心を折ってしまうのに、十分すぎたのだと思う。
 今まで気づけなくてごめん。約束を忘れていてごめん。
 君を支えていたのが僕の言葉であったように、僕を支えてくれたものは、確かに君の存在だったのだと、やっと思い出せた。
 だから。
 だからこそ。
 手を伸ばす。虚空に。けれど、まだ君がそこにいてくれているのだと信じて、
 ――ヒワ。
 
「ヒワ! どうかもう一度、君の『物語』を聞かせてくれ!」
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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●Scene:12 ショウ・マスト・ゴー・オン

 ――僕は、どうやら、本当に大切なことを忘れていた、らしい。
 黄昏色。
 それは、僕と彼女が共有した記憶の色だ。
 放課後の空き教室、密やかな対話。お互いに、今まで他の誰にも語ることの出来なかった、僕と彼女の「夢」を語り合った、全てのはじまりの時間。
 未だに舞台に散らばったままだった白紙の脚本を、ゆっくりと、一枚ずつ、拾い集めていく。何も書かれていないのは当然だ、これは元より「魔王ササゴイ」と「姫君ヒワ」の物語という皮をかぶった、僕ら二人のリアルであって、今までの茶番は僕に遠い日の記憶を思い出させるための手続きに過ぎなかった。
 そしてここから先は、僕らの未来の物語であって。僕にも、ヒワにも、「これから」のことなんてわかるはずがなくて。だから――全部、全部、白紙だった。
 だけど、今ならわかる。
 
『君ならできるさ、魔王様』
 
 かつて、黄昏色の教室で、そう言って笑った君のことが。
 
『頼むぞ、あたしの魔王様』
 
 黄昏色の劇場で、嬉しそうに笑った君のことが。
 
 ヒワ。――僕は、君の本当の名前を知っている。
 けれど、まだ幕は下りていないから、君のことをヒワと呼ぼう。僕の「未練」であるこの城に囚われていた君。今はもう、ここにもいない君のことを。
 そして、僕は両手いっぱいに白紙の脚本を抱えて、舞台の上で顔を上げる。
 視界を埋め尽くすのはちっぽけな舞台には不似合いにも過ぎる無数の客席。僕が最も恐れていたそれは、けれど、今となっては全く恐れるに値しなかった。僕の頭の中を占めているのは、どこまでも、どこまでも、ヒワのことだったから。
 先のない脚本を前に、必死に「姫」を演じていた君は、一体どのような結末を望んでいただろうか。
 遠い日のことを思い出す。黄昏色のシルエットとなった彼女は、陳腐な筋書きでありながら、当時の僕の眼を奪ってやまなかった、彼女の思い描く幻想と冒険に満ちた物語を書き綴ったノートを前に、上機嫌に言う。
『あたしはね、悲劇よりは喜劇が好きなんだよ、XXXXさん』
『喜劇?』
『そう、「すべての悲劇は死によって終わり、すべての喜劇は結婚によって終わる」ってね』
『バイロンの言葉だよな。……ざっくりしすぎだと思うけど』
『確かに、結婚ばかりが喜劇、っていうのは暴論かもしれないけど……、一度幕が上がったなら、ハッピーに終わって欲しいなって思うんだ。あたしは、そういう話を書きたいって思ってる』
 それから、と。
 にっと白い歯を見せて笑った彼女は、こうも言っていたはずだ。
『その主役が君なら、あたしはもっとハッピーだね!』
 ならば、ヒワが思い描いていた脚本の姿も、見えてくる。
 僕の考えていることが、ヒワにとっての正解かどうかはわからない。僕がそれを行動に移す意味があるのかもわからない。けれど、何となく、今までのような舞台の上での重さや不快感は不思議と感じなかったから、多分――理屈ではなく。
 僕が、僕自身が「そうしたい」と望んでいる。
 黄昏色の影が、僕が指示もしていないのに、舞台袖からマントを持ってくる。このどう見てもユニクロでそろえたとわかる上下に、黒に橙の裏地のマントなんて悪目立ちして仕方ないが、舞台に立つ以上は多少「目を引く」要素も必要だ。
 マントを羽織って、軽く腕や足を動かしてみる。随分と鈍ってしまっているが、それでも、舞台の広さと観客との距離、「どのように見えるか」は何となくわかってくる。
 舞台はあくまで有限の空間であり、その場所も、そこに立つ人間も、あくまで物語を演じるために必要なものであって、物語そのものではない。けれど、それらは何一つ欠いてはならない。それらが全て調和し合って、時に反発し、刺激し合って、そうすることで舞台の上にはそのほんのひと時だけ、現実とは切り離された「別の世界」が生まれるのだと、僕は信じている。
 そしてきっと、ヒワも、それを信じている。信じていた。
 ――ごめん、ヒワ。僕は君の気持ちに気づくのが、遅すぎた。
 君が今どこにいるのかなんて、僕にはわからないけれど。これが君に見えているのかもわからないけれど。
 僕も、もう少しだけ、僕自身に正直になってみようと思う。
「おーい、ササゴイ! ……って、あれっ、ササゴイ、珍しいカッコしてんじゃん!」
 似合ってるぜ、と駆け寄ってきたパロットはにっと笑ってみせる。本当に「似合っている」と思ってるんだか思ってないんだか。こいつはものを考えるより前に言葉にしているところがあるから、一応、こいつの感覚の中ではそれなりにかっこよく見えているのかもしれない。正直ダサT着てる奴に共感はされたくないところだが。
「そうそう、桟敷城の公演のことだ! 早く続きを見せろって」
「このままじゃあ、ただでさえ潰れそうなのに、本当に潰れちゃうからねえ」
 パロットの後ろからゆっくり歩いてきたコルヴスの声には多少皮肉げな響きが混ざっていたが、別に、僕を責めているような言いざまではない。この男は、意外と僕には気を遣っくれているのだと今になってよくわかる。
 そして、そのコルヴスも、ハンチング帽のつばを少し上げて、見えていない目で舞台上の僕を「見る」。
「おや……、少し、気分が変わりましたかね?」
 ああ、と応える代わりに頷いてみせる。この距離でコルヴスにこちらの所作が届くとは思わなかったが、それでも、わかってもらえると信じて。
「別にやめてもよいとは思ったんですよ。君は誰にも強制されていない。どう最後の週まで乗り切るか、それだけ考えていてもよかった」
 ――と言っても、もう、覚悟は決まってるみたいですけどね、と肩をすくめるコルヴスの一方で、さっぱり僕の心情なんて理解できないパロットが、ひょこっと僕の顔を見上げてくる。
 
「どうすんだ、ササゴイ?」
「ご決断を、魔王様?」
 
 本当に、今は、この二人がいてくれてよかったと思う。
 ヒワが消え、僕一人取り残されると思ったこの場所に響く二人の声は、ともすれば硬直してしまいそうになる僕の背をぽんと押してくれる。
 桟敷城は今、確かにここにあり――まだ、幕は下りていない。
 ならば、僕は。桟敷城の魔王ササゴイは。
 声無き声で、具体的には手にした脚本の一枚に書きなぐって「宣言」する。
 
『SHOW MUST GO ON!!』
 
 そうだ。
 一度舞台に立った以上、こんな形で終わってたまるか!
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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●Scene:11 この舞台は誰がために

 ――一言で言えば、途方に暮れていた。
 パロットとコルヴスから聞ける限りのことは聞いた。ヒワのこと。ヒワがどのような人物だったのか。
 夢のような物語が好きだった。
 この桟敷城が好きだった。
 それから、多分、僕に何らかの願いをかけていた。
 桟敷城の一番高い位置の席に腰掛けて、もはや最低限の灯りしかつけていない舞台の上に、ぼんやりとヒワの姿を思い描こうとする。
 黄色い髪、天空の姫という役柄をそのまま表した、髪と同じ色の羽。光をいっぱいに孕んだ、琥珀色の瞳。小さな体をふわふわと浮かばせながら、舞台の上で出来る限り大きく見えるように背筋を伸ばして、必死に「お姫様」を演じる姿。
 思い出せる。思い出せる、けれど……、どうしてだろう。思い出したところで、何一つ、ヒワについて掴めた気がしない。ヒワがここにいたのは間違いないのに、僕がこうして考えている間にも、一つ、また一つとヒワがそこにいたという痕跡が消えていっているような……、そんな、錯覚。
 否、これは錯覚などではないのかもしれない。パロットやコルヴスから話を聞いてみると、日に日にヒワについての記憶が薄れているような、そんな感覚がある。単なる時間経過によるものではなく、ヒワについて昨日語ったことが、今日にはすっかり欠け落ちている、ような。
 これが鳥頭のパロットならともかく、コルヴスもそうなのだから、明らかに普通じゃない。僕はかろうじてまだヒワについて覚えているけれど、それでも、僕の記憶だって完璧なものではない。もし、僕が彼女を忘れてしまったら、もはやこの桟敷城に、何の意味が――。
「随分冴えない顔してるな、あたしの魔王様」
 突然耳元で囁かれた声に、わっ、と思わず声をあげようとしてしまう。声は出ないのだが、もはやこれは反射のようなものだ。
 けれど、今の、声は?
 それから、今、頭に浮かんだイメージは――。
 混乱する頭を振って振り向けば、そこに想像していた顔はいなかった。
「うーん、やっぱり女声の模写は無理があるな。上手く声が出ない」
 言いながら、けほ、と軽く咳をするのはコルヴスで、その後ろから、パロットが呆れ顔でこちらを見ていた。
「コルヴスー、悪趣味だぞその特技ー」
「悪趣味なのは百も承知だよ。……でも、まあ、それなりに似てましたよね?」
 前半はパロットに、そして後半が僕に投げかけられた言葉であることは、流石にわかった。コルヴスにもわかるように、深く頷く。確かに、今のコルヴスが放った声はヒワの声に聞こえて、それから――、それから?
 さっきの声をかけられて、僕の脳裏に閃いたイメージは、何だったのだろう。
 黄昏色の空。その前に立つ、小さなシルエット。
「悪ふざけが過ぎましたかね、ミスター?」
 僕の「沈黙」を前に、コルヴスが申し訳なさそうな顔をしてみせる。実際、申し訳ないとは思っているのだろうし、多分、平素の僕なら多少の苛立ちすらも覚えただろう。
 けれど、今の僕にとってはそうではなかった。
 ああ、どうしてこの喉は使い物にならないんだ。紙とペンを出すことすらももどかしくて、乱暴にコルヴスの手を取る。コルヴスの手は相変わらず冷たかった。幽霊を自称するパロットがやけに体温が高くて、一応生きた人間であるコルヴスが冷たいのもなかなか奇妙な話だが、そんな雑念は一旦横に置く。
 それから、呆然とするコルヴスの手のひらに、記す。
『もう一度』
「……もう一度、ですか?」
『頼む』
 僕の懇願の意味がわからなかったのだろう、コルヴスは色眼鏡の下で一つぱちりと瞬きをしたが、それから改めて瞼を閉じて微笑んだ。
「我らが魔王、ササゴイ様が望むなら」
 この芝居がかった台詞回し、普通の奴が言うなら鳥肌ものだが、コルヴスのそれは不思議と不自然さを感じないのが面白いところだ。当初からコルヴスの全てが演技である、ということもあるし、その「演技」に対して僕の感覚が麻痺してしまった、ともいえた。
 ともあれ、軽く咳払いをするコルヴスの前で、瞼を閉じる。
 それが彼女の声でないことを理解してしまった以上、もう、あの奇妙な閃きは戻ってこないかもしれない。
 それでも――。
 
「魔王様」
 
 それは。
 脳裏に閃くそれは、確かに、黄昏色の記憶だった。
 黄昏色だと思ったそれは、窓の外に広がる空の色。そうだ、あれは教室の窓だ。僕が舞台の上に立つようになるより前。他の誰にも上手く馴染めずに、ただただ日々を浪費していただけの場所。
 そこに、たった一人立っている誰かの姿を幻視する。
 黄昏色に浮かぶ小さなシルエット。セーラー服姿の少女が、くすくす笑いとともに僕を呼ぶ。
 
「ねえ、魔王様?」
 
 ――思い出した。
 僕は思わず、声にならない声を吐き出していた。
「ササゴイ?」
 パロットの問いかけに、僕は答えることもできないまま頭をかきむしるしかなかった。
 やっと思い出したんだ。今の声が、誰のものであったのか。
 ヒワ。そうだ、彼女の名前は――本当の名前ではなかったけれど、確かにヒワという「役名」であったはずだ。
 どうして忘れていたのだろう。いや、忘れようとしていたのかもしれない。僕にとって、その頃の記憶は大体がろくでもないものばかりで、だから、無意識に何もかもを無かったことにしていた。
 けれど、けれど、その中に、決して忘れてはいけないものが混ざっていたのではないか?
 思いだせ。もっと深く。黄昏色の、その向こうまで。
 
 
     *     *     *
 
 
 放課後の空き教室。
 それが、一日の中で僕が息をつける唯一の時間であり、場所であった。
 僕はこの頃からずっと役者になりたくて、けれど、僕のいる学校には演劇を志望する人なんていなかったし、親は全く僕の話を聞こうとはしてくれなかった――今ならその理由も何となくはわかるけれど。
 というわけで、家に帰れば宿題をしろだのなんだの言われるだけだし、だからといって、どこかの部活に入る気も起きなかった。だから、僕はいつだって、声一つ出すこともできずにただただ本、特に戯曲ばかりを選んで読んでいた。
 ――そんな日々が少しだけ変わったのは、空き教室の住人が一人増えたからだ。
 野暮ったい、黒髪を二つのお下げにした女の子。クラスメイトの一人。当時は名前すらまともに認識できていなかった彼女が教室に居座っているのを見つけた時、僕は失望を覚えたのだった。僕の居場所が失われた、と。
 けれど、彼女は僕の居場所を侵害しようとはしなかった。軽く会釈をするだけで、部屋の片隅で何かを書く作業に戻っただけ。だから、僕もその対角線上で、本を読むことにした。
 彼女が紙の上にシャープペンシルを走らせる音は、いっそ心地よかった。彼女がほとんど手を止めなかったから、ということもある。時々小さく唸るような声が混ざっていたのも、彼女が全く僕の存在に気を留めずに作業に没頭しているからだとわかったから、不愉快とは思わなかった。
 ……だから、だろうか。
 声をかけたのは、確か、僕の方からだった。
「何を書いてるの?」
「ひえっ」
 教室の対角線上から投げかけられた声に、彼女はいたく驚いたようで、黄昏色の教室の中で、黒いお下げが跳ねたのを覚えている。
「しょ、小説!」
「……小説?」
「っ、XXXXさんこそ、何読んでるの?」
 それに、僕はなんと返したんだったか。ただ、その頃の僕に嘘をつく理由は無かったと思うから、普通に答えたんだと思う。それに対して、彼女はほう、と息をついて、それからうって変わって慌てた様子で言ったのだ。
「あ、あたしがここで小説書いてるのは、他の皆には内緒だぞ!」
「別に。言う理由もないから、言わないよ。でも、どんな話を書いてるの?」
 その問いに対して、彼女はぱっと顔を綻ばせて、今までのたどたどしい言葉遣いが嘘のように、ぺらぺらとまくし立て始めたのだ。
「これはね、神様が本当にいて、魔法って力が当たり前の遠い世界で、天空の城にたった一人暮らしてた姫の話で――」
 その筋書き自体は酷く陳腐で、僕は確か、相当棘のある評価を下したんだったと思う。けれど、それを真に受けてしょげたかと思うと、すぐに顔を上げて笑ってみせたのだ。
「話を聞いてくれてありがとう、XXXXさん。参考にするよ」
「いや、ごめん、少しきつい言い方をした。姫の性格づけは面白いと思うよ。折角、頭の回る姫なんだから、もう少し機転を利かせた行動を差し込んだ方がいいんじゃないかな」
「例えばどんな感じの?」
「そうだな……」
 そんな風に。僕は、気づけば彼女の「世界」に足を踏み入れていたのだと、後になって気づいた。そして、彼女の「世界」について語り合うことが、楽しくなっていたことにも。
 彼女の物語は、いつだって筋書きはどこにでもあるような恋愛ものだったのだけれども、それでも、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。彼女が、それを「形にしよう」としているのを見ているのが、好きだった。
 そんな彼女を見ていると、何一つ行動に移すこともせず、口を噤んだままでいる僕自身が情けなくなってくるほどに。
 そんなある日、彼女は言ったのだ。
「XXXXさんは、どうしていつもここで本を読んでるの?」
「僕にも、やりたいことがあるから、その勉強をしてる」
「演劇?」
「うん」
 その頃には、彼女にも僕が何をしたがっているのかわかっていて。彼女は、僕の前にびっしりと手書きで書かれたノートを突き出してきたのだった。
「なら、未来の役者さんに、魔王を演じていただこうか!」
「……魔王ササゴイ?」
「そう。それで、あたしが姫君ヒワ。よろしく、あたしの魔王様!」
 やっと。やっと思い出した。
 どこかで聞いた名前の理由。陳腐な筋書きの既視感。僕のために存在する『黄昏劇団』。
 そうだ、黄昏色の教室で、二人きり。囁くように、紙の上に描かれた世界を演じていく。
 それこそが僕と彼女――魔王ササゴイと、姫君ヒワの、誰一人として観客のない「舞台」だったのだ。
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

文章

おすすめされた『鶴瓶のスジナシ』の池谷のぶえさん回がめちゃ面白かったので置いておこう。



ほんとにすごい。これを、舞台設定だけぽんと置かれてそこから即興でやってるっていうのが「!?」ってなる。
よくその場でこの発想をして、実行に移せるなという気持ち……。これが役者というものなのか……。
それぞれが仕掛けたちょっとしたフックから、話を面白そうな方に仕掛けていくのだな。なるほど……。
アフタートークでの振り返りもとても面白くて、いいなぁ。けらけら笑いながら見てしまった。

最近よく五月のこと考えてるから五月もこういうこといっぱいやってるんだな……って思ってにこにこしちゃう……。

映像


●Scene:10 ヒワという脚本家について

 ――ヒワが、消えた。
 
 言葉通りだ。
 僕の前から、忽然と姿を消してしまった。
 ばらばらに破かれた、白紙の脚本だけを残して。
 
「ヒワ? そういやどこ行ったんだ? コルヴスは知ってっか?」
「ボクは知らないよ。……最後に見たのは、昨日の朝食の時間だね」
 桟敷城の居候のパロットとコルヴスも、ヒワの行方は知らないという。そして、ヒワのことに関して、この二人が嘘をつくとは思えなかった。パロットはそもそも嘘なんてつけそうにないし、コルヴスはしれっと嘘をついていてもおかしくないタイプではあるが、絶対に「必要の無い」「つまらない」嘘はつかない。そういう意味で、僕はこの二人の発言には信頼を置いている。……名前以外にさして知っていることも多くない相手なのに、不思議なことではあるが。
 かくして、僕は途方にくれるしかなくなった。
 ヒワがいなくなったということは、この学芸会もどきを続ける意味もなくなったということだ。元はといえばヒワが僕に自作の脚本を押し付けてきて、ここに書かれている通りに公演をするのだと言ったのだ。この世界のルールとして、この世界において「魔王」と呼ばれる存在は何らかの「商売」をしなければならないから、と。実際、この世界はそんな奇妙なルールで回っている。
 ただ、商売は別に「公演」である必要は無い。僕の城は劇場の形をしているけれど、劇場でパンや本や家電製品を売ったってよかろう。別にそこに厳密なルールがあるわけではない。だから、残りの日々を、何か適当なものを売るなりして過ごせばいい。
 それでも、僕は途方にくれる。
 だって、僕は何もわからないのだ。
 覚めない夢の中で、何をすべきかもわからない僕の手を引いて。ヒワは、いつも僕に何らかの指針を示してくれていた。最もわかりやすかったのは「脚本」の存在だ。これの通りに公演を進めればいいのだと言われた以上は、それをこなすだけでよかった。
 そのヒワが、いなくなった。
 脚本を破り捨て、僕の手を離して、消えてしまった。
 それなら、僕は――。
「ササゴイ、冷めてしまいますよ」
 コルヴスの指摘に、ボクは慌てて手元を見る。
 朝の食事当番はパロットとコルヴスで――パロットは料理が「できない」とは言わないがとんでもない味音痴で美味いときとそうでないときの差がやたらと激しく、コルヴスは人並みに料理は出来るのだが手元が見えていないため少々危ない。というか、実際、彼の指には火傷やら小さな怪我のあとがいくつも見受けられる。そのため、コルヴスが来てからは自然とコルヴスをパロットが補佐する、という形の食事当番になった――今日の献立は温かなオートミールだった。このオートミール、当初は僕にとってはさほど美味いものには感じられなかったしヒワも文句を垂れていたが、近頃は慣れつつある。……というより、僕らの味覚に合わせてコルヴスが味付けを少しずつ変えてくれているのだ。
 そんな、優しい味のオートミールを腹の中に入れているうちに、少しだけ心が落ち着いてきた。
 そんな僕を、パロットが綺麗な色の眼で覗き込んでくる。
「……ササゴイ、だいじょぶか? めちゃくちゃ顔色悪いぞ」
 大丈夫ではない、と首を横に振る。落ち着きはしたが、途方にくれていること、それ自体は変わらない。
「レディのことが、心配ですか?」
 コルヴスの問いかけに、僕は少しだけ首を捻った。
 ――心配。
 ヒワがいなくなったことで、僕は途方にくれた。指針を失った。ただ、コルヴスの言葉を聞いた瞬間に脳裏に閃いたのは、脚本を破り捨てたヒワの、今にも泣き出しそうな笑顔。なのに僕は、そんな彼女の心境を考えもせずにただただ僕自身のことばかり考えていた。そのことに気づいた瞬間、自分の喉をかきむしりたくなる衝動に駆られる。
 心配か? 否、ただ混乱するばかりで、心配だと思うことすらしなかったのだ、僕は。
 たまらず、手元に置いたメモにペンの先を置く。
『私には』
 そこまで記して、一瞬、手が止まる。
 何と書けばこの二人に伝わるだろうか、この僕の混乱が。戸惑いが。そして自分のことしか考えていなかった浅ましさが。
 それでも、何かを伝えなければならないという思いだけが、僕の手を動かした。
『ヒワがわからない』
 パロットは、僕のメモを読み上げて――これは目が見えないコルヴスへの、パロットのほとんど無意識の配慮だ――それから、首を傾げる。
「俺様だってわかんねーよ。俺様はヒワじゃねーし」
「いや、それはちょっと違うよパロット。ミスターは、多分こう言いたいんじゃないかな」
 コルヴスは食後の紅茶で唇を湿してから、顔をこちらに向けて、静かに言った。
「ミスターは、レディのことを、何も知らないと言いたいのでしょう? 彼女の考え方、彼女の趣味嗜好、彼女の行動選択の理由。だからこそ、彼女が消えたことが納得できない。納得できないから、心配のしようもない」
 コルヴスには本当に舌を巻く。彼は目で見る以上に僕の顔色を、思考を、的確に読み取ってくる。ただ、もしかするとそれは「同属」だからなのかもしれない。方向性は違えど「演じる」ことに慣れきった僕らだからこその、一種の共感。
 コルヴスの言葉に「そっか」と頷いたパロットは、僕に向き直って、きょとんとした顔で言った。
「ササゴイって、ヒワのこと、何も聞いてなかったんだな」
 ――ああ。
「ヒワ、色々面白い話してくれたんだぜ。何のとりえも無い女の子が、突然知らない世界に召喚される話とか! 誰にも見えないけど確かにそこにいるお化けの事件を解決するコンビの話とか! 自分の未来を変えるために必死にあがく連中の話とかさ!」
「ほとんど、即興の作り話でしたけどね。……でも、彼女にはストーリーテラーの才能がありましたよ。どうしてあんな陳腐な脚本を書いていたのか、不思議なくらいです」
 その陳腐さも嫌いじゃなかったんですがね、とコルヴスはどこか懐かしむような表情を浮かべる。
 ……僕はそんな話、ヒワの口から聞いたことがなかった。ごく基本的な練習方法についてあれこれ教えて、これからの展開をどう演じていくかを相談して、あとは、いつだって潰れかけの桟敷城をどう盛りたてていくかを話し合うくらいだった。
 そうだった。
 僕は、いつだって僕の周りの不思議が夢なのだとばかり考えていて、その不思議について思いを馳せることはあっても、ヒワについて何一つとして知ろうとしなかった。否、知りたいと思わなかったわけじゃない。彼女の存在を疑問に思わなかったわけでもない。
 それでも、どこまでも夢の中なのだから、僕が魔王でヒワがお姫様だという設定は「そういう設定」であって、僕はヒワから言われたことを、ただ粛々とこなしていればいいのだと……、そんな風に決め付けることで、考えることをやめていた。
 けれど、多分、そうじゃないんだ。
 この桟敷城の存在は確かに夢、もしくは僕の心象風景かもしれない。現実ではありえないことしか起きないのだから、夢と考えていても問題は無いはずだ。
 けれど、ヒワは。ヒワのことだけは。ただの僕の妄想で片付けるには、あまりにも「僕」からかけ離れすぎている。それを言ったら、パロットとコルヴスも、それに僕に語りかけてくれてきた人々全てがそうなのだけれども。
『もっと、教えてくれないか』
 僕は「言う」。僕の声はいつだって、紙の上に走らせるペンの速度でしか届かず、それが酷くもどかしい。パロットがコルヴスのために僕の書いてくれた文字列を読み上げてくれるのに内心で感謝しながら、更にペンを走らせる。
『もう、手遅れかもしれないけど、それでも、私は知りたい』
 知らなければ、いけない気がするのだ。
 知りたいと願う僕のために。それに――もしかすると、ここにいたヒワのためにも。
『ヒワのこと。ヒワが、どうして、桟敷城に「囚われて」いたのかを』
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#桟敷城ショウ・マスト・ゴー・オン!

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