空色少年物語

幕間:道化師と炎の歌

 激しい揺れ、辺りを包む炎。炎は、行き場を失って空気中に漂う赤き竜のマナを喰らい、更に勢いを増すばかり。消火機巧から放たれる水も、燃え盛る火を鎮めることはできず、ただ、高熱の霧を生み出すだけであった。
 その赤の世界の只中に、彼女はいた。
 あちこちに鈴をあしらった道化衣装は、本来はけばけばしい色をしているはずだが、炎に包まれたこの空間では、赤の陰影としか映らない。
 そんな彼女の、ちぐはぐな色合いの瞳が笑みを模る。
「――ごめんね、ノーグ」
 言葉こそ、謝罪であったけれど。その黒い唇もまた、心からの笑みに歪んでいる。
「でも、ノーグが悪いの。最後まで、ワタシのことを頼ってくれなかったから」
 道化の少女の足下には人の形をしたものが打ち捨てられている。
 その胸に指を伸ばすと、手袋を嵌めた指は、まるで水の中に手を入れたかのように皮膚の下に潜り込み、何かを手の中に握りこんだ。それが、熱を持っているか否かは彼女にはわからない。彼女の感覚は、目覚めたその時から、かつてのものとは異なってしまっていたから。
 もはや、かつての感覚を、思い出すこともできない。
 遠い日の記憶は、心という果てしない世界に散らばる硝子の欠片。きらきらと光を反射して、今ではないいつか、ここではないどこかを映しこんでいるけれど、それらが一つの形を成すことはない。
 いつから、そうなってしまったのだろう? その答えすらも、粉々になった記憶の一つとして、彼女の知らない場所に漂っているに違いない。
 それでも、構わなかった。
 本当に大切なものだけは、忘れていなかったから。
 何かを握り締めた手を引き抜き、打ち捨てられたつくりものの身体ではなく、もう一つ、床の上に投げ出されていたものの横に、膝をつく。
 ――それは、「本物」のノーグ・カーティスの身体。
 だが、彼女にとって、それが「本物」であるか「偽物」であるかなど、どうでもよいことだった。
 最初から、その身体が本物かどうかなど、どうだってよかった。目に見える形など、今となっては何の意味も無い。彼女が「ノーグ」と呼ぶ――正しくは、そう呼ぶように指示された存在が、彼女の全て。
 その「存在」がそこにいてくれさえすれば、よかった。
 かつて手放してしまったその手をもう一度握ることができれば、それだけでよかった。
 そのはず、だったのに。
 仰向けに倒れた男の体からは既に生命の気配は感じられない。また、炎に当てられたからだろう、身体の一部は醜く焼け爛れてしまっていた。そんなノーグの頭を、壊れやすいものであるかのように、かき抱く。
 水気を失った金茶の髪に指を通しながら、彼女は歌うように言葉を紡ぐ。
「ワタシは、ここにいるよ。ずっと、ここにいたんだよ。どうして、気づいてくれなかったのかな、ノーグ」
 死したノーグは何も応えないが――
「寂しいよ。寂しかった。あなたがいない世界なんて、存在する意味もないけど」
 もはや、彼女は応答など求めてはいなかったのかもしれない。
「ワタシを見てくれないあなたしかいない世界は、もっと、許せない」
 一際強く、屍の頭を両の腕で抱きしめた彼女の背中に、ふわり、何かが浮かび上がる。
 それは、一対の翼だった。割れた鏡の欠片を無数に重ね合わせたようなイビツな翼は、奇しくも空色の少年が右手に掲げる不協和音の刃によく似ていたが、翼全体を覆う色は、この業火の世界になお鮮やかに輝く金色であった。
 幻とも現実ともつかない翼を炎の中に揺らめかせ、もはや届かないはずの声を冷たい耳元に語りかける。
「だからね、もう一度、やり直そ。あなたの欲しかったものの一つはここにある。ここにないものは、ワタシが何でも手に入れてあげる。ワタシなら、シュンランよりも上手くやる。あなたのためだもの、できないことなんて、ないよ」
 彼女はそっと、手を開く。その中には、小さく明滅する赤い球体があった。血のような液体に塗れたそれに、いとおしげに口付けて。
「だから」
 ちぐはぐな色の瞳が映すのは、その腕で抱く骸ではなく……記憶の欠片の中でいつも笑っていた、一人の少年。
 記憶の少年は、武骨な手を差し伸べて、彼女に向かって呼びかける。
 だが、その声は彼女には聞こえない。そこだけは壊れたラヂオのように、耳障りな雑音として彼女の耳に届く。そのうちに少年の姿も雑音交じりの砂嵐と化し、やがては彼女の中に浮かんでいた記憶全てが、闇の中に霧散してしまう。
 生まれて初めて貰ったちいさな贈り物も、本の森での静かな時間も、気持ちを隠した電話越しのやり取りも、一緒に見たはずの回転木馬も、全て、掌の中から零れ落ちてしまって。
 闇の中に、独り、取り残されていた。
 取り残されて、しまった。
「だから、もう、独りにしないで――ノーグ」
 崩れ落ちてくる天井を見上げて、ゆらり、硝子を思わせる金色の翼を広げて、歌う。
 炎は燃える。更に勢いを増して燃え盛る。
 そして、翼持つ道化の少女の姿は、物言わぬ骸と共に炎と瓦礫の向こうに消えたが……高らかな歌と鈴の音色だけは、崩れ行く世界の中で、絶えることなく響き続けていた。