南からの風が、空色の髪を揺らして駆け抜けていく。風は今にも降り出しそうな重たい雲を運んでいた。
鏡を思わせる銀の瞳は、確かにそんな景色を映しこんではいたが、セイル自身がそれを意識することはなかった。
セイルの時間は、あの時からずっと、止まったままだったから。
轟音と共に、天井が崩れ落ちる気配がした。背中から追いかけてくる炎に、頭目掛けて落ちてくる瓦礫。足を止めれば間違いなく命は無い、とわかっていても、セイルの足はあまりにも重たかった。
どうして。どうして――
ぐるぐると巡る思いが、足に重しとなってまとわりつく。答えなど出ない、答えを出してくれる人はもういない。いない、という事実がまた、セイルの足を、心を、底のない沼の奥深くに沈めようとしていた。
「セイル、急いでください!」
シュンランの声は、そんな中でも一際鋭く響き、凍りつきそうな意識を何とか現実に繋ぎとめてくれていた。
唇を噛み、床を蹴って、前へ。
アルベルトが導いた崩壊の予兆は、既に塔全体に広がっていた。あの、人になりきれていない生き物が封じられていた部屋に飛び込んだ時、そこにあったのはむせ返るような死の気配だった。
部屋を支配していた水槽はことごとく割れ、水ではない妙にねばつく液体が床を浸していた。その上に、折り重なるように、人の形をしたものが倒れている。その中には、何かを訴えるようにびくびくと腕や足を動かしている者もいたが……ほとんどは、完全に息絶えていた。息のある者も、助かるとは思えなかった。
その、人として生まれることすら許されなかった者たちに、一瞬、血まみれになったブランの姿が重なる。
アルベルトの器として造られたもの。ブランの先祖もまた、このようにして造られたのだろう。やがては、アルベルトという人物になるために。
だが、ブランは違う。人より濃いアルベルトの血を引きながら、それでもただ一人の人として生まれたブランは、アルベルトの望みを退け、どこまでも「己」であり続けようとした。ここに折り重なる、何になることもできなかった者たちとは絶対に違うはずだ。
絶対に、違う、はずなのに。
『何で、こんなことに、なっちまったんだよ……』
ディスの呟きは、からっぽになった心の中に、乾いた音を立てて通り過ぎていった。どうして、という問いに何の意味もないことはディスも承知しているはずだ。ディスは、いつだってセイルより冷静なのだから。
それでも、言わずにはいられなかったのだと、ほんの少しだけ残った理性が囁く声を聞きながら、転がる人の形をしたものたちの間を縫うようにして、駆ける。
セイルの半歩前を行くシュンランは、決して振り返らない。前だけを見据えて、唇を引き締めて走り続けている。だが、そのすみれ色の瞳には隠しようもない透明な雫が溜まっていた。
本当ならば、この前を、背の高い影が走っているはずなのだ。足早に、しかし決してセイルたちを置いていくことはなく。季節はずれの長い外套の裾を捌くその姿が、セイルの脳裏にちらちらと瞬いている。
そうなる、べきだったというのに。
思った瞬間に、一際大きな轟音がセイルの鼓膜を叩いた。のろのろと上を見上げると、今まさにセイルとシュンランの頭上に、金属の天井が降りかかってくるところだった。
意識はそれを正しく認識してはくれなかったが、体の方が自然とシュンランを抱き寄せ、『ディスコード』の盾を展開していた。金属片の翼の下で、衝撃に備えて体に力を篭めたが、激しい音が聞えてきただけで、衝撃はいつになっても来なかった。
恐る恐る見上げると、セイルたちの頭上で、瓦礫は眩く光る壁に阻まれていた。
「急ぎな、盾は長く保たないよ!」
鋭い声に、セイルははっと我に返ってシュンランを抱いたまま飛び出す。その瞬間に、背後で瓦礫が床に崩れ落ちた音が響いた。
顔を上げると、先行して扉の前に立っていたチェインが、口にルーンの入った細い管を咥え、片腕を突き出していた。凝縮された魔力であるルーンの助けを借りて、咄嗟に盾を組み上げたのだろう。
「あ、ありがとう……チェイン」
何とか、乾いた喉で言葉を放つ。チェインは管を咥えたまま、セイルを一瞥する。涼やかな秋空の瞳には、言い知れない感情の色があった。悲しみのようにも、怒りのようにも見える顔を部屋の外に向け、吐き捨てるように言う。
「礼はいい、早く脱出するよ」
「……うん。シュンランは、大丈夫?」
セイルは、そっと腕を広げてシュンランと向かい合う。今にも泣き出しそうな顔をしたシュンランは、こくりと頷いた。腕に伝わる震えも、目に溜まった涙もそのままに、しかし、どこまでも決然として。
「行きましょう。わたしたちは、ここで立ち止まってはいけないです」
その言葉に、セイルの胸はずきりと痛む。
わたしたち。その言葉は誰のことを指しているのだろう。
誰のことを、指していないのだろう――?
再び堂々巡りに陥りかける思考を何とか振り払い、『ディスコード』の刃を体の内側にしまって駆け出す。その瞬間に、視界の端に見えてしまった、瓦礫の下から流れ出てくる赤黒い液体は見なかったことにして。
走った。走り続けた。
瓦礫を飛び越え、シュンランの手を引いて壊れた機械の残骸を乗り越えて、ただ、走る。頭の中には変わらず色々な思いが渦巻いていたけれど、もう、足は止めなかった。止めてしまえば、もう二度と前に進めないような気がしたから。
どのくらい、走っただろう。実際に、通った道は覚えていない。瓦礫を避けるようにして走っていたが、ほとんど一本道であったのだろうか、ある扉を越えたセイルたちの前に現れたのは、見覚えのある奇妙な形をした船だった。
いつの間にか合流していたのか、そこには三隻の船が待ち構えていて、クラウディオとドライグの騎士たちがセイルたちの到着を察してこちらを一斉に振り向いた。一団を代表して、クラウディオが安堵の表情を浮かべながら言った。
「よかった、間に合わないかと思っていたところだった。急いで脱出しよう」
その言葉を合図にして、騎士たちが出航の準備を始める。既に船はすぐに出られるように機関を動かしていたのか、低い音を立てていた。そんな騎士たちの動きを横目に見ていたクラウディオは、はっとした表情になって、セイルたちに問いかける。
「……ブラン君は?」
それは、当然の問いだ。だが、チェインが重たい表情で首を横に振ったことで伝わったのか、クラウディオもそれ以上は問うことはなかった。
唇を引き結び、赤い目を伏せたクラウディオは、それでもセイルが思っていたほどの悲痛さを表情に浮かべることはなかった。気のせいかもしれないが、何処か、この結末を覚悟をしていたかのようにも、見えた。
短い沈黙の後、クラウディオは船の扉を開いて、セイルたちを招いた。
「詳しい話は後で聞かせてもらおう。とにかく、今は乗ってくれたまえ」
セイルは、小さく頷いてシュンランと共に船に乗り込んだ。
その後のことは、よく覚えていない。チェインとクラウディオが低い声で何かを喋っている横で、シュンランと一緒に膝を抱えていたことだけは覚えているけれど。一体何を話していたのか、その間自分が何を考えていたのか。何もかもわからないまま、時間だけが過ぎていった。
一つだけはっきりと印象に残っているのは、塔が崩れた、という騎士の声だった。その時ばかりは立ち上がって、窓の外に目を向けていた。後ろ向きの明かりに照らされた塔は、海中にゆっくりと崩れ落ちていく。塔の足下にある街が、瓦礫に覆い隠されていくのを見つめながら、セイルは自然と手を握り締めていた。
そして、その手に、ブランの銃と――リボンを握り締めていたことに、改めて気づいた。
端の方がほつれてしまっている、緑のリボン。それは、銃と同じようにブランが常に身に着けていたものだ。長く伸ばした髪を切った後も、変わらず身に着けていたところを見ると、ブランにとって特別な意味があったのかもしれない。
その意味も、理由も、もはや永遠にわからずじまいだけれど。
空っぽの銃と、血まみれのリボン。セイルの手の中には、それしか残っていない。本当の持ち主を失ったものに、何の意味があるというのだろう……そんな冷たく凍りついた思いとは裏腹に、両手は、残されたものを包み込んでいた。これ以上、掌から零さないように、そっと、それでいて強く。
セイル、と。体の内側からディスの声が聞こえた気がした。徐々に遠ざかっていく、崩れ落ちる世界を窓越しに見据えたまま、セイルは唇を開いていた。
「……ディス、俺、どうすればよかったんだろう」
『そんなの、答えられねえよ。答えられるわけ、ねえだろ』
静かでありながら、張り詰めた響きに篭めた怒りは、セイルに向けられたものではない。そのくらいは、上手く働いてくれない頭でも、わかった。ディスは、誰よりも、何よりも、己を責めているのだ。『ユニゾン』を通じて伝わってくる思いの波は、何処までも、悲痛な響きに満ちていた。
あの時、自分が気を抜いていなければ。最後の最後まで、アルベルトに意識を向けていれば。せめて、ブランとの接続を解かずにいれば。いくつもの仮定を並べては即座に否定する。過ぎ去ってしまったことに対して「もしも」を思っても仕方ないというのに、そうせずにはいられない。そんな自分に対しての苛立ちや怒りもまた、伝わる響きに混ざりこんでいた。
セイルは、銃を握っていない手で、闇に包まれた窓にひたりと触れて。
「ディスは、何も悪くないよ」
そう、呟いていた。
ディスは、はっと我に返ったようにセイルの内側で息を飲んだが、すぐに震えた声で言う。
『けど、だけどよ……っ』
「俺も、チェインも、シュンランだって、誰も止められなかった。ディスを責めることなんて、できないよ。ただ」
どうすれば、よかったんだろう、と。
もう一度だけ、呟いた。
「……セイル」
シュンランが、そっと体を寄せてくる。今までずっと、セイルを安心させてくれていたそのぬくもりも、セイルの胸に開いた穴を埋めてはくれない。手を伸ばして、指を絡めあって、それでも決定的に何かが足りない。
足りないのだ。
それ以上、何も考えることもできないまま、気づけば船は蜃気楼閣に辿りついていた。
空色少年物語