空色少年物語

25:未来視の地平(4)

 一進一退というには、あまりにもブランが追い込まれていた。ブランの呼吸は完全に乱れ、それでも『アーレス』による未来視と意志力だけでアルベルトの猛攻を凌いでいた。
 対するアルベルトは、腕や肩に軽く傷を残しながらも、人間離れした動きでブランに杖を振るう。そのつくりものの顔には狂気の笑みが張り付き、疲れや衰えは全く見えない。
 このままでは、ブランの体力が尽きる方が先だ。セイルは『ディスコード』の刃を広げなおし、ブランの加勢に向かおうとしたが……それを、白く細長い手が遮った。
 セイルの元まで歩み寄っていたシュンランが、背筋を伸ばして凛と宣言する。
「ブランは、負けません」
 シュンランの目には、ブランのように未来が見えているわけではない、はずだ。それでも、何故だろう。その言葉には、信じさせるだけの力が篭っていて。セイルも、上げかけていた『ディスコード』を下ろす。
「そうだね。ブランは……嘘はつかないもんな」
 そう、呟いた瞬間にも、戦況は動いていた。
 アルベルトは床を摺るような足取りで一歩踏み込み、ブランの手から力が抜けた瞬間を見計らって、思い切り杖を振り下ろす。
 読み合いでは『レザヴォア』による補助を持つブランが一歩有利だが、身体能力では、圧倒的にアルベルトが上回っている。力の入らない腕では、到底受けきれるものではない。
 アルベルトの双眸を見据えたブランは……『アワリティア』から片手を離し、杖の先端の一撃をもろに右の肩口に喰らった。杖の先端に取り付けられた歯車を模した装飾が、ブランの肩に食い込み、真っ赤な液体が噴き出す。
 だが、血に染まりながら、ブランは口元に笑みを浮かべ、冷え切った瞳でアルベルトを見据え続ける。痛みなど、感じていないかのように。
 いや……本当に、感じていないのかも、しれない。感覚の一部を共有しているはずのセイルに、ブランの「痛み」は全く伝わってこない。ただ、冴えた意識が、アルベルトのみに注がれていることが、わかっただけで。
 アルベルトの表情が、露骨に歪む。
「手前、痛覚を……っ」
「痛みで判断が鈍るのだけは、避けたかったからな」
 掠れた声で言い放ったブランは、左手だけで『アワリティア』の柄を握りなおす。予測を覆されたアルベルトの反応は、刹那遅れて。ブランの掲げた『アワリティア』の双刃の間に、薄くしなやかな光の刃が生み出される。
「王手だ」
 すい、と。落下の速度のみを加えられた刃は、アルベルトの肩をやすやすと両断し、胴までを切り裂いた。断面からは赤い液体が噴き出すが、そこに見えたものは、人を構成するものとは明らかに異なる、金属の骨格やセイルの判断できない素材で作られた無数の線であった。
 血を払うように『アワリティア』を振り切ったブランは、静かな声で告げる。
「手前は、俺の肉体を壊すのに躊躇いがある。それなら、俺から一歩踏み込めばいい。それだけだ」
 アルベルトにとって、ブランは限りなく完全に近い「器」だ。決裂した今であっても、アルベルトは心の底ではこの義体ではなく、ブランの肉体を欲していたに違いない。そこをついて、ブランはあえて己の身を危険にさらす形でアルベルトの隙を誘ったのだ。
 からん、とアルベルトの手から杖が落ちる。そして、ふらふらと上体を揺らすアルベルトの口から、絞り出すような言葉が漏れる。
「……死ぬのが、怖く、ねえのか……手前は、もう……」
「怖えよ。今だって、震えてる」
 事実、ブランの手は小刻みに震えている。感情を解さないはずのブランだったが、今ばかりははっきりと恐怖の感情を言葉にした。それでも、血の気の引いた唇は微かな笑みを湛えている。
「だが、この思いを折られてまで生き続ける方が、怖かった。それだけだ」
 静かだがよく響く声と共に、ブランの手からも、『アワリティア』が消える。その瞬間に、アルベルトの体がどうと床に倒れた。
 そして、ブランも、それを確認して一歩下がり……膝をつく。
「ブラン!」
 それを合図にして、セイルは駆け出していた。ブランの傷は、セイルが思っていた以上に深く、血がとめどなくあふれ出している。シュンランがすぐにブランの横に膝をつき、癒しの歌を歌う。
「大丈夫、ブラン!」
「ああ、少しふらつくけど、何とか」
 ブランがセイルの呼びかけに応えている間に、シュンランの歌は、ブランの傷口から流れている血を止めていた。それを見て、チェインがブランの上着とその下の真っ赤に染まったシャツを脱がせ、携帯していた包帯で手際よく傷口を覆い始める。
 襟元を飾っていたせいで、血に汚れてしまった緑のリボンを手の上で弄んでいるブランに、やはり怪我に対する痛みの表情は見えず、セイルは思わず問いを投げかけていた。
「ブラン、こんな酷い傷……痛くないの?」
「え、あ、あーっと」
 ブランは少し誤魔化すように視線を虚空に逃がしたが、包帯を巻き終えたチェインが溜息混じりに言う。
「……おおかた、薬で痛みを散らしてたんでしょ」
「バレた?」
「アンタならやるとは思ってたけどね。無茶するんじゃないよ」
「一線は越えないように気を使ってたし、癒しの術が使える嬢ちゃんも姐御もついてるじゃない。信頼関係って大切だろ」
 ブランはしれっと言い切り、呆れ顔のチェインを見上げる。
「それより、チェインこそ平気なのかよ」
「応急処置は施したからね。帰るだけなら、問題ないよ」
 チェインは、攻撃を受けた左手をひらりと動かす。引きつるような火傷の痕が多少残ってはいたが、おそらくチェイン自身で回復の魔法を施したのだろう、ただ動かすだけなら支障はなさそうだった。
 ブランは、目を細めてチェインの傷ついた腕に手を伸ばしかけて……その指をすぐに引いた。
 チェインが、そんなブランの動きをどう受け止めたのかはわからない。ただ、痛みを堪えるように微かに眉を寄せて、それからブランの怪我をしていない方の腕をぐいと引いて立たせる。
「ぼうっとしてんじゃないよ。これから、どうするつもりなんだい」
 そう、そうなのだ。
 もう、ぴくりとも動かなくなったアルベルトと赤き竜を見て、セイルも何処となく落ち着かない心持ちで立ち尽くす。
 シュンランが、その右手をそっと包み込む。シュンランもまた、微かな不安をすみれ色の瞳に移しこみながらも、あくまで毅然としてブランを見据えていた。
「ブラン。今度こそ、全部、話してくれますね」
 ブランは、いつになく穏やかな表情でシュンランの頭を軽く撫でて、言った。
「ああ、俺のわがままは叶った。黙ってるのも仕舞いだ、話すよ、全部」
 アルベルトが全てを語っていたわけでないのは、明白だ。もちろん、今までのブランも。
 けれど、話すと言ったからには、ブランの知る限りの全てが語られることになるのだろう。セイルの前から長らく姿を消していた、ノーグ・カーティスの六年間が。
「俺をどうするかは、それから決めてくれ。それでいいか、チェイン」
 ブランの感情を映さない双眸が、ひたとチェインに向けられる。チェインは、やはり痛みを堪えるような表情のまま、しかし、小さく頷いた。
「構わないよ。この子たちが納得しないままじゃ、どうするにせよ、後味が悪すぎる」
 チェインの姉を殺したのは、ブランではない、はずだ。ただ、ブランがそれを己の責任だと思っていることは、間違いではないとセイルも感じている。どのような過程を経てチェインの姉が死に至ったのかは、アルベルトの言葉だけではわからなかったけれど……一つだけはっきりしていることは、ブランは、己の裁きをチェイン個人に委ねた、ということだ。
 チェインがその重さを理解していないはずはない。それでも、ブランに頷いてみせるのだ。それが、仇を追ってきた自分の責務であるとばかりに。
 ブランは、チェインの応えに安堵したように息を付き、
「ありがとう」
 と微笑んだ。
 まだ多少おぼつかない足取りで一歩歩んだブランは、そっと、セイルに向かって手を伸ばした。セイルは、微かな反発を覚えながらも……それでも、身動き一つせずにブランの氷色をした双眸を見据えていた。
 くしゃり、と。ブランの指先が空色の髪に通される。温度の感じられない手、しかしそれはセイルの知っている感覚だった。
「……ブラン」
「黙っててごめんな。なんて、謝ってもどうしようもねえんだけどさ」
 ブランの表情は、頭を撫でる腕に隠されて見えない。でも、きっと、笑っているとも泣いているともつかない、ブラン自身どうしてそんな顔をしてるのか、さっぱりわからない顔なのだと、思う。
 言いたいことは、いくらでもある。あるはずなのだ。けれど、言葉は喉に突っかかるばかりで、上手く声になってくれない。
 その中で、かろうじて言葉にできた一言を、放つ。
「一緒に、帰ろう」
 それは――セイルが、シュンランと出会って『ディスコード』を手にしてから、ずっと、ずっと、言いたかった言葉。言ってはいけない、と己を戒めながらも、どうしても言わずにはいられなかった言葉だった。
 ブランは、セイルの空色の頭から手をあげて……少しだけ寂しげに、目を細めた。
 仮に、帰ることが許されたとしても、その先に待つものはセイルが望むような未来ではないことくらい、はっきりしている。罪状のほとんどが冤罪だったとしても、ノーグ・カーティス――ブラン・リーワードが異端研究者なのは紛れも無い事実。楽園は真っ先に彼を断罪しようとするだろう。
 それに、チェインが与える裁きによっては、帰ったところですぐに彼と別れることになってもおかしくないのだ。
 ブランがそれを承知していないはずもない。だが、ブランはセイルの両目を見据えて、きっぱりと頷く。
「そうだな、帰ろうか」
 その言葉を聞いた瞬間、セイルの目から熱いものが落ちた。ぽろぽろと、とめどなく流れる涙が視界を覆い、ブランの表情を曖昧なものにする。
『……セイル』
 ディスがセイルの名を呼ぶ。ディス。この旅が始まってから、ずっと、自分の側にいてくれた大切な相棒。ディスがいてくれたからこそ、自分は本当に望んでいたことを叶えることができた。
 ――ありがとう、ディス。
 心の奥底で、呼びかける。喉は引きつってしまって、上手く声が出せなかったから。
『礼なんて、いらねえよ。遠回りさせちまったのは、俺の方だしな』
 そんなことはない。その思いと共に、左手を握り締める。姿は見えないけれど、セイルの背中を支えていてくれた相棒の気配を感じて、目を閉じる。ぽろりと、透明な雫がもう一つ落ちた。
「よかったですね、セイル」
 シュンランがそっとセイルの肩に寄り添う。柔らかな指先の感覚と温もりが、まだ終わりではないと告げていた。
 そうだ、ここで泣いてばかりもいられない。袖で無理やり涙を拭いて、背筋を伸ばす。
 まずは、ここから抜け出して、蜃気楼閣に戻ろう。そして、長い話をしよう。兄のこと、『エメス』のこと、そしてこれからのこと。話すべきことはたくさんあるのだ。
 行こう、と最初に言い出したのは、誰だっただろう。わからないままに、セイルはアルベルトと竜の亡骸に背を向けて、歩き出そうとして……ふと、振り向く。
 床に、ブランの使っていた銃が落ちていた。銃弾を撃ちつくし、装填の間も惜しんで投げ捨てたものだ。それは、もはや因縁のアルベルトと決着をつけたブランにとっては不必要なものなのかもしれない。そう思いながらも、自然とセイルは銃の元に足を運んでいた。
 恐る恐る拾い上げてみる。異端研究者が持つという鋼の武器は、既に熱を失い、ただの鋼の塊となっていた。そういえば、銃を手にしたのはこれが初めてだと気づく。ブランは決して、セイルの見ている前で銃を己の身から離すことはなかったから。
「セイル、行きましょう」
 シュンランの声が、扉の方から聞こえてくる。
 うん、と頷いて、扉に向けて駆け出しかけて。
 その瞬間、シュンランたちと一緒に扉を出ようとしていたブランが、目を見開いて、床を蹴った。
「セイル!」
 セイルは、ブランの行動の意味がわからず、一拍遅れてブランの視線の方向に緩慢に振り向きかけたその瞬間に、ブランがセイルの体を強く、突き飛ばした。
 そして、セイルは、仰向けに床に倒れこみながら。
 
 ブランの体を貫く『何か』を、見た。
 
 音も、色も、何もかもがなくなった世界に、ブランの細い身体と、その腹を貫く太い何かが、影絵のように脳裏に焼きついて。
 ゆっくりと、ゆっくりと。時間など忘れたかのように、床に倒れこむブランの姿を、セイルはただ、凝視していることしかできなかった。
 今、何が起こったのか。
 セイルの頭は、目の前で起こった出来事を理解するのを拒み、一瞬の影絵のみを示す。だが、ゆるゆると、固まった思考が溶け出していく。それは、倒れたブランの腹から刃が引き抜かれ、真っ赤な液体が、床に染み出すのと同時だった。
「……っ、逃がすか!」
 甲高い音が響き、空中を舞ったそれに、武骨な鉤が突き刺さる。チェインの鎖が、魔力を得てブランを刺したものを床に貫きとめる。よく見れば、それは、今もなお崩れ続けている竜の尻尾だった。
 それは、おそらく、竜の最後の一撃だったのだろう。チェインの放った鉤に傷つけられた部分から、あっけなく赤い鱗の風化が始まっていく。
 だが……ブランは。
「ブラン!」
『ブラン、お前……っ!』
 セイルは、床の上を這うようにして、ブランに近づく。ブランの目は開かれていたが、しかし、そこにいるセイルの姿を認識してはいないようだった。何とか呼吸をしようとしているが、肺もやられたのか、空気が漏れ出す嫌な音が喉から漏れる。
 チェインとシュンランが駆け寄ってきて、ブランの腹の傷を診るが……それが明らかに致命傷だということくらいは、セイルにもわかる。それでも、チェインは回復の魔法を唱え、シュンランが歌を歌うことで何とか血を止めようとする。
 セイルは、ブランの冷たい手を握り締め、震える唇で呟く。
「嘘、だろ……何が」
 言いかけた時、耳障りな哄笑と共に、セイルたちの足下を強烈な揺れが襲った。
 はっとして、声の聞えた方向を見ると、完全に息の根を止めたと思われていたアルベルトが、目を見開いて笑っている。
 つくりものの体を持つアルベルトは、ほとんど体を両断されてなお、死んではいなかったのだ。
「は、はは……馬鹿だな、ノーグ。お前が、身を投げ出して、どうするってんだ……」
 掠れた声が、つくりものの喉から漏れる。
「まあ、いいや……俺の邪魔をする器も、シュンランも、もう、いらねえよ……俺にはアイツさえいればいいんだ、あとは、全部、全部、ぶっ壊れちまえば……がはっ!」
 狂えるアルベルトの言葉は、最後まで放たれることはなかった。
 立ち上がったセイルが、アルベルトの体を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。瞳孔の開ききった瞳がセイルを探して見開かれたその時、既にセイルはアルベルトの体に馬乗りになって、拳を振り上げていた。
 がっ、と。拳がアルベルトの頭を床に叩きつける。
「許さない」
 一度だけではない、二度、三度。
「俺は、アンタを、許さない!」
 拳が痛みを訴えても、セイルは殴るのを止めなかった。
 揺れる地面の上で、アルベルトの身体がびくんびくんと撥ねる感覚が伝わってきたが、それで止められるはずもない。
「治せよ、使徒なんだろ、そのくらいできるんだろ!」
 がっ、と一際強くアルベルトの頭を殴りつけ、もう一発とばかりに腕を振り上げたその時、ディスが叫んだ。
『よせ!』
「でも!」
『落ち着け、もう、こいつは……』
 セイルは、はっとして自分が殴りつけていたものを見下ろした。アルベルトの頭は、既に原型をとどめておらず、頭蓋が陥没し、片方の目が飛び出していた。いつからだろう、体も動きを止めて、だらりと手足が弛緩しきっていた。
 血塗れになってしまった手を、硬く握り締める。痛みなど感じない。ただ、喉に絡まるちりちりとした感覚と、胸にぽっかり空いた虚ろな感情だけが、セイルを支配していた。
 アルベルトは、もはや、何も語らない。セイルの思いがアルベルトに届くこともない。
 ふらり、と立ち上がって、床に横たわったブランの横に歩み寄る。シュンランはすみれ色の目に涙を溜めて歌い続けているが、チェインは……セイルが側に来たのを察して顔を上げ、ゆっくりと、首を横に振った。
 膝から、力が抜ける。
 全身を支配していたものが、全て、抜け落ちてしまったようで。セイルは両手を床について、刻一刻と生命の気配を失っていくブランの顔を見据える。
 セイルの顔と、ブランの顔を見比べて。服の裾を血に濡らしたシュンランは、一度歌を切った。強く拳を握り締め、改めて大きく口を開けて息を吸った、その時。
「もう、いい」
 す、と。シュンランの真っ白な手に、武骨な手が重ねられた。はっとしてシュンランが目を見開くと、ブランが穏やかな表情でシュンランを見ていた。多分、もはや何も見えてはいないのだろうけれど……かろうじて、そこにある気配を感じていたに、違いない。
「しかし、わたしには奇跡があると、何だってできると、言いました! 喉が潰れても、命を削っても構いません、わたしは、ブランを……!」
「言っただろ、俺は、都合のいい奇跡を、望まない」
 苦しげな息をついて、ブランはゆるりと腕を上げ、シュンランの唇の前に指を立てる。シュンランは、それ以上は何も言えずに、唇を噛んだ。ぼろぼろと、あふれ出した大粒の涙がブランの頬の上に落ちる。
「ほんと……詰めが甘いわね、俺ってば」
「詰めが甘いなんて話じゃないよ! こんな所でくたばって、どうするんだい!」
「ごめん、セディニムさん……こんなつもりじゃ、なかったん、だけど、な」
 チェインの叫びに対し、もはや、ほとんど聞こえない声で応えたブランの表情が、ほんの少しだけ歪む。それは、無念さから来たものだったのかもしれなかったが……その表情は、すぐに柔らかなものに変わった。
「でも、最後に間違えなくて、よかった」
 もし、ブランがあの時即座に気づいて飛び出していなければ、この運命を辿ったのはセイルだった。
 ブランは、最後の最後まで……セイルを守るという約束を、覆さなかったのだ。
 こんな形で守って欲しいとは、望んでいなかったというのに。
「馬鹿、ブランの馬鹿……っ、やだよ、一緒に帰るんじゃなかったのかよ!」
 ブランの肩をゆするようにして、叫ぶ。もはや、誰もセイルを止めなかった。ブランもまた、大切なものが全て抜け落ちてしまったような表情で、セイルを虚ろに見上げて。
 夢見るような声で、呟く。
「……なあ、セイル」
「何?」
 セイルは、何とかブランの声を聞き取ろうと、ブランの顔に顔を近づける。両の瞼が閉ざされ、色を失った乾いた唇が、そっと、動いて。
 
「   、     ――」
 
 囁かれたのは、ささやかな、言葉。
「え……?」
 思わず、問い返したけれど……ブランは、応えない。
「ブラン?」
 もう一度、その名前を呼んだけれど、返事は、ない。
 かろうじて結ばれていた片手が開き、血に染まったリボンが揺れる。瞼も、唇も、もう震えることすらしない。
「嘘だ……嘘だろ」
 セイルの唇から漏れるのは、そんな言葉。
 だが、目の前の光景が嘘でも何でもないことは、セイルが一番よくわかっていた。呼吸と鼓動が途切れた細い体ををかき抱き、叫ぶ。
「嘘だろ、ブラン……っ!」
 その時、一際強い衝撃が床を震わせ、天井の一部が爆発した。竜の死によって大気中に充満していたマナが炎の指向性を持って発火し、にわかに部屋全体が猛火に包まれる。
 一番最初に決断を下したのは、チェインだった。何かを振り切るように決然と立ち上がり、その場に膝を突いたままだったセイルとシュンランの腕を引く。
「ここを離れるよ、セイル、シュンラン! このままじゃ、私らまで蒸し焼きだよ!」
「しかし、ブランは、どうするです!」
 シュンランが叫ぶ。チェインが軽く歯を慣らしたのを、かろうじてセイルの耳は捉えていた。だが、次の瞬間にこう言い切った。
「荷物にしかならない。置いてくよ」
「嫌だ! ブランを置いてくなんて……」
「ブランに救われた命、ここで捨てる気かい!」
 ブランの体を引き寄せたセイルを、チェインは一喝した。
 その言葉の意味を考えて、セイルもはっと我に返る。
 確かに、セイルの力ならば、ブランを抱えてゆくことは不可能ではない。ただ、ブランの体はセイルよりも遥かに大きく、どうしても足取りを鈍らせることは十分予測できる。
 それで、セイルに危険が及んでは、意味が無いのだ。
 けれど、けれど……!
 シュンランは、チェインの一喝で意を決したのか、立ち上がる。だが、セイルは未だにその場から動けずにいた。
『チェインの言うとおりだ。行くぞ、セイル』
「……っ!」
 セイルは、ぎゅっと床の上で手を握り締める。その時、ブランが最後まで握り締めていたリボンが手に触れ……迷わず、それを手に取って。
 ゆらりと、立ち上がる。
 足に力が入らない。胸の中心にぽっかりと空いた穴の中を、何かが通り抜けていくような感覚。
「セイル!」
 シュンランが、セイルの手を引く。いつもセイルを勇気付けてくれた柔らかな感触も、何故だろう、壁を隔てたかのように、冷たく感じる。
 それでも、走らなければ。
 ごうん、という音と共に、扉を超えて駆け出す。
 涙に滲む視界でもう一度、振り向けば。
 
 取り残されたブランの身体が炎に包まれる光景が、目の奥の奥に、焼きついた。