――ノーグ・カーティス。
セイルにとって、その名前は温かな記憶と鈍い痛みを呼び起こすものだった。
その後姿は少しだけ怖かったけれど、セイルに対してはどこまでも優しかった兄。セイルが知りたかった何もかもを知っている、最も身近な憧れであった兄。
だが、その思い出を裏切るように、六年前にチェインの姉を殺して姿を消し、今や『エメス』の長となって女神に牙を剥く楽園の敵でもあって。
セイルの中に渦巻く感情は、小さな頃そのままの憧れと、その思いを裏切られたという失望。そして、本当のことを知りたいという思い。それらに突き動かされるように、シュンランの手を取ってここまで走ってきた。
会ってしまえば全てが終わる。その「終わり」を心の底で恐れながらも、駆け抜けることを選んで、ここに辿りついた。ノーグ・カーティスの前に。
だが……
セイルは、ただただ、ブランを凝視したまま立ち尽くす。
ブランこそが、自分がここまで探し求めてきた兄だというのか? そんなはずはない、と叫びたくなる反面、自分の中にかろうじて残された冷静な部分は、否定したがっている感情に反して、心当たるものをいくつも拾い上げてくる。
温度こそないけれど、優しく頭を叩く手の大きさ。そのごつごつとした感触。大げさな抑揚と嗄れた声に隠されていた、早口かつ正確な喋り方。それに、セイルの名前を呼ぶときの、少し不思議な発音。
セイルは、ノーグ・カーティスの顔をはっきりとは思い出せない。思い出せないということを、ブランが予測していたのであれば、共にありながらセイルを欺き続けることくらい、難しくはない。嘘をつく必要すらない、セイルに思い出させなければいい、ただそれだけだったのだから。
問いただしたいのに、喉から言葉が出てこない。唇をぎゅっと噛んで、無表情にアルベルトと向き合っているブランを睨む。目の前が微かに滲んで、その輪郭がぼやけて見える。
『……セイル』
軋むような掠れた音色で、ディスがセイルの名を呼ぶ。けれど、セイルの胸に生まれた疑問を、否定はしてくれない。明確な言葉にはなっていなかったが、セイルの身体の中に流れるディスの感情は、アルベルトと名乗った男の言葉が、何もかも、何もかも、嘘ではないと告げていた。
そうか。そういうことか。ここに来てやっと、セイルの中で何もかもが繋がった。
ディスは、最初から全てを知っていたのだ。ブランが、セイルの兄であることも。知っていたのに、セイルにはずっと黙っていたのだ。
それに気づいた瞬間、頭にかっと血が上り、割れた声で叫んでいた。
「何で……何でだよっ!」
その言葉を聞いて、杖を肩に乗せたアルベルトはイビツに笑う。
「何だ、大切な弟には、何も伝えてなかったのか、ノーグ?」
向けられた銃口に恐れを見せる様子もなく、大仰な仕草で肩を竦めた『機巧の賢者』は、珊瑚礁の色をした目を満足げに細める。
「伝えたってよかったんじゃねえのか? 仲間はずれなんてかわいそうだよなあ。それこそ、仲良くお手手繋いで帰ったって、俺様は止めやしなかったぜ? 俺がノーグを名乗る限り、誰も手前が生きてるか死んでるかなんて、わかりゃしねえんだからさ!」
アルベルトの不快な笑い声が、セイルの頭の中にこだまする。思わず耳を塞ぎ、一歩ふらりと下がってしまう。
セイルに対して、何の言葉も投げかけてくれないブラン。何もかもをセイルに隠していたディス。そして、セイルの前であざ笑う、兄の名を騙っていた、使徒アルベルトを名乗る知らない男。
一体、何が起こっているのかわからない。いや……そもそも、どこから狂い初めていたのだろう。
かつてセイルは、兄が六年前にチェインの姉を殺して失踪したのだと教わった、はずだ。ブランも、それは否定していなかった。ただ、ブランは同時期に、兄の手によって瀕死の重症を負わされたのではなかったか――と、思ったところで、ふと違和感に気づいた。
ブランは、嘘をつかない。つけない、と言い換えてもいい。
この場においても、セイルはまだ、ブランが嘘をついていない、ということだけは信じてもよいと感じていた。ブランがノーグを名乗らなかったのは事実だが、自身がノーグ・カーティスではない、とも言ったことはない。そんな下らない質問を誰もしなかったから、答えなかっただけかもしれないが……
そう、そうだ。
己から「詭弁は使う」と宣言していたブランは、質問に対しては、嘘はつかないまでも、極めて恣意的に言葉を選んで答えていた、はずだ。もしかすると、自分はブランの言っていたことを、根本的に取り違えていたのではないだろうか。
ブランたちに対する理不尽な怒りは、冷めない。
けれど、その怒りをぶつけるよりも先に、知りたいと思う。ノーグ・カーティスが起こしたこと。ノーグ・カーティスに起こったこと。六年前から今まで、どのような因果に導かれて、この瞬間に収束したのか。知らないままではいられない。しかし、今この瞬間、自分はどうすべきなのだろう?
そんな思いをぐるぐると巡らせているセイルの手を、そっと掴む感触があった。はっと顔を上げると、シュンランのすみれ色の瞳と目が合った。この場所においても、シュンランの瞳の色には少しの翳りも見えなかった。
呆然とするセイルの手を引くように、一歩前に出たシュンランは、きっとアルベルトを見据えて唇を開いた。
「……アルベルト」
凛、と空気を貫く声。ただ喋っているだけで、歌を思わせる響き。アルベルトは驚いたのか、目をぱちぱちと瞬きさせたが、すぐに口元に笑みを戻して肩を竦める。
「どうした、シュンラン? 随分大人しくなっちまったじゃねえか。あの頃のお転婆はどうしたんだ?」
「やはり、わたしのことを、知っているのですね」
アルベルトは、そう言ったシュンランに不思議そうな視線を向けて、一拍置いてちっと舌打ちをする。
「そうか。記憶、消されてんのか。あの野郎、最後の最後まで厄介なことしやがる」
「……消された、ですか? 忘れたでは、ないですか」
首を傾げるシュンラン。人の記憶を消すような技術が『存在しない時代』にあったとでもいうのだろうか。それに、シュンランの記憶を消した人物にも、心当たりがありそうだが……
アルベルトは無機質な瞳を二、三度瞬きして、ニヤニヤと笑いながらシュンランに向かって手を差し伸べる。
「そうだな、思い出したいってんなら、思い出させてやってもいいが」
「いいえ、それは、どうでもいいのです」
「……は?」
かくん、とアルベルトの顎が落ちる。何もかもをばっさりと切り捨てたシュンランの言葉は、アルベルトも想像だにしていなかっただろう。もちろん、セイルもそうで、今まで考えていたことを一瞬全て忘れて、目を丸くしてしまった。
シュンランだけが、あくまで毅然として、アルベルトを見据え続けている。
鏡のような、何もかもを暴き立てるすみれ色の瞳で。
「確かにわたしは、わたしのことを知りたいと思います。しかし、あなたから聞きたいとは思いません。わたしは、あなたが一番嫌いです。あなたの話は、一つ以外は何も聞きたくないのです」
それは、完璧なまでの拒絶の意志。シュンランの言葉に篭められていた思いは、セイルにもはっきりとわかる怒りだった。セイルの胸に渦巻く苛立ちよりも、はるかに鋭い棘がアルベルトを射る。
アルベルトはなおも呆けた顔のまま、ただ、青い瞳でシュンランを見つめているだけ。そんなアルベルトに向かって、シュンランは、きっぱりと言葉を叩きつける。
「わたしがあなたに会いたいと思った理由は、ただ一つ。本当を、教えてください。あなたは何故、ノーグになったですか」
一体、何を聞かれると思っていたのだろうか。アルベルトはその瞬間にくしゃりと表情を崩し、「ははっ」と額を押さえて笑う。
「何だ、そんなことか。お前が知ることじゃねえよ、シュンラン」
「それを決めるのはあなたではありません。わたしが知りたいのです」
「……何だ、大人しくなったのは喋り方だけで、全然変わってねえじゃねえか。安心したよ」
有無を言わせぬ語調で言い切ったシュンランに向けて、満足げに笑んだアルベルトは、大きく腕を広げる。
「いいぜ、どうせお前ら全員が聞きたがってたことだろ。そこの口下手にかわって、最初から最後まで、丁寧に教えてやるよ」
かつ、かつと。ブランが向けた銃口を見ることすらせず、アルベルトは一歩を踏み出す。構えるべきか。『ディスコード』を起動するべきか。セイルの頭の中の冷静な部分が問いかけてくるが、セイル自身は動けないまま、ただ、アルベルトを見つめているのみ。
「まず、無知なお前らに、俺が何であるかを説明しよう」
羽織った白衣の裾を揺らし、アルベルトは更に一歩歩み寄りながら言う。
「俺は、正確にはアルベルト本人ではなく、かつてアルベルト・クルティスと呼ばれていた男が、ある種の機巧に残した人格情報だ。『記憶』、と言い換えてもいいかもな。
かつて、この世界はユーリスによって『再生』された。かつての世界を全て葬り去る、という形でな。俺は、その計画を主導していた一人だったが……それは、俺の望む形での『再生』じゃなかった」
見ただろう、この塔の外を。この空間に映し出した光景を。
アルベルトが指を鳴らすと、先ほどセイルたちの前に現れた、町の情景が映し出される。見渡す限りの、色彩を失った世界。
「つまらねえ風景だろ。それでも、ここは、俺が生きている場所だった。俺が大切にしていた全てがあった。その全てをユーリスは否定して、なかったことにしやがった」
大切にしていた、全て。
その言葉に、セイルの心が少しだけ震える。アルベルトの言葉は、奇しくもこの男によって全てを奪われたブランのものに、よく似ていたから。
薄青の涼やかな瞳の中に、確かな熱を篭めて。アルベルトは白い拳を握り締める。
「だから、俺はユーリスに抵抗した。俺が失った全てを、取り戻すために」
だが、その結果は――セイルも知っている通り。
アルベルトは女神ユーリスとその配下に敗れ、竜と共に海に沈んだ。
「だが、ただで死んでやるつもりはなかった。俺はあらかじめ、俺の記憶を残した機巧を造って、ユーリスの目の届かない場所に隠しておいた。いつか、あいつが忘れた頃に目覚めて、奴の寝首を掻くために。それが今、ここにいる『俺』だ」
そして、もう一つ。
アルベルトの指が、ぴんと立てられる。
「俺には、器が必要だった。この『記憶』を受け入れて、女神に対抗できるだけの力を持つ器が。故に、元々俺の体を構築していた情報を基盤に、いくつかの特殊な能力を付与した人間を開発した。そうして造られたのが、そこのノーグ・カーティスのご先祖だ」
ゆっくりと、ではあるけれど。セイルの中でも、アルベルトの言葉が今まで目にしてきた事物と結びつき始めていた。
蜃気楼閣で目にしたアルベルトの姿は、確かにブランとよく似ていた。ディスは、ブランがアルベルトの末裔、のような言い方をしていたけれど、厳密に言えばそうではない。ブランの先祖は、アルベルトによって「アルベルトになるために」造られた存在だった。
ここに来るまでに見た、人の形になりきれなかったものたちも、きっと――
「俺も詳細は知らねえが、『俺』の覚醒を前に、偶然器の方が先に発見されちまって、数百年が過ぎちまった。流石に諦めて新しい器を作ろうと試みてたんだが、そこに、こいつがのこのこ現れたのさ」
『 「アーレス」と「レザヴォア」を完璧に使いこなす先祖返り、か』
「よくできました、『ディスコード』。俺が覚醒して、こいつが現れたのには運命って奴を感じたよ」
「なるほど、わかりました。だから、あなたはブランを追いかけていたですね」
「そういうこと。どこまでそこの阿呆に聞いたのかは知らねえが」
ここまで来れば、セイルにだって、わかる。
ブランが、どうしてアルベルトに陥れられたのか。ノーグ・カーティスとしての立場を奪われたのか。
「当初は身体だけ手に入ればいい、って思ってたんだけどな。想像以上に便利だったぜ、ノーグ・カーティスって名前は。今更使徒って言ったところで誰も信じちゃくれねえが、この名前を名乗りゃ、大概の異端はほいほい従う」
「だろうね。ノーグ・カーティスは、最初から有名人ではあったんだから」
そう言ったのは、今まで沈黙を守っていたチェインだ。
アルベルトも、そこで初めてチェインの存在に気づいたかのように、青い瞳をそちらに向けて、口元の笑みを深める。
「ああ……アンタが、『連環の聖女』か。こいつのせいで死んだ、リティア・シャールの妹。アンタの言うとおり、ノーグ・カーティスは異端の希望だったからな! 楽園に真理と真実を、なんて下らん理想を追い求めて、俺の目的に気づきもしない大馬鹿野郎どもを躍らせるのは、なかなか楽しかったぜ」
セイルは、そっとチェインの表情を伺う。セイルが混乱しているように、ノーグを追っていたチェインも同じような感情を抱いていても、おかしくはなかった。だが、チェインは凛として、ここに至るまで微かな揺らぎを見せていた秋空色の瞳が、眼鏡の下からアルベルトを射るように見つめていた。
紅を引いた唇が、ゆっくりと、開く。
「ついでに聞かせてほしいね、アルベルト。姉さんは、本当に――ノーグ・カーティスに、殺されたのかい」
この場合の「ノーグ・カーティス」は、アルベルトではなく、ブランのことに他ならない。アルベルトの顔に浮かんだ愉悦が、深まるのを見た。
「いや、そいつは正確じゃねえ」
――正確じゃ、ない?
アルベルトの言葉は、セイルにとっては意外なものだったが……チェインは、表情一つ動かさない。そして、無言でアルベルトに言葉の続きを促した。アルベルトは大仰に肩を竦め、ひらひらと片手を振る。
「実際にお前の姉を殺したのは、俺の傀儡の一人だ。こいつがしたことといえば――己の自由と引き換えに当時の相棒を殺す、という選択をした程度」
チェインがはっとブランに視線を向けた。だが、ブランは動かない。静かに、銃口だけをアルベルトに向けたまま、その場に佇んでいる。
「どういう、ことだい」
チェインの唇から漏れた声は、掠れていた。その問いを投げかけた先は、ブランだったのか、アルベルトだったのか。ともあれ、それに答えたのはアルベルトの方だった。
「あれは全く、愉快な見世物だった。色々と策を弄して、こいつの身体を奪おうと思ったんだけどな。まあこいつもこいつで頑固者で、どんな条件でも渡さないと来たもんだ」
「だから――姉さんを、天秤の片方に乗せた」
「そういうことさ、セディニム・シャール」
にぃ、と。アルベルトは残忍に唇を歪める。
「それでも、こいつは譲らなかった。だから、リティア・シャールは死んだ」
セイルは、背筋がぞわりとするような感覚と共に、頭の奥で閉ざされていた記憶の扉が開くのを感じていた。
そうだ、ブランは、己の境遇を語った時に、言っていたではないか。
ブランは、昔、彼が「賢者様」と呼ぶ存在に徹底的に追い詰められ、なおかつ、己が異端研究者であるという噂を広められて、完全に逃げ場を失った。そして――
『行き場を失ってぼろぼろになった俺様に対して、奴さんは勝ち誇った顔をして聞いてきた。俺のものになれ、そうすればお前の望みだって叶えてやる、ってさ』
『他人に奇跡を委ねるなんて、そこまで腐っちゃいねえんだよ。何度言われても答えは変わらねえ、俺はお前なんかには従わない……って問答を繰り返した結果』
『当時の仲間まで、殺されちゃったのよねえ』
ブランの言葉には、何一つ嘘は含まれていない。ただ、決定的に言葉が足りていなかった。いや、意図して言葉を削っていたのだ。
あの日語られた物語は、セイルが考えていた「ブラン・リーワード」の物語ではない。正しく言うならば、あれは彼が「ノーグ・カーティス」と呼ばれていた頃の物語。そして、物語の中で彼が「賢者様」と称した存在こそ、目の前にいる、使徒アルベルトなのだ。
それならば、ブランが今までセイルに語ってきた言葉も、何もかも説明がつく。ブランは、必ず世間でノーグと呼ばれているそれを「賢者様」と呼んでいたはずだ。彼がノーグという名前を話の中に出すことは、ほとんどなかったではないか。
そして、
『ブランも、兄貴を恨んでるの?』
という問いに対して、ブランが言葉を濁したことだって、納得がいく。
セイルは、その後に続いた「賢者様」に関する説明で勝手に納得してしまったけれど。本当は、ブランは最後の最後まで、セイルの問いには答えていなかった。
――否、答えられなかったのだ。
胸元を、ぎゅっと押さえる。ブランがセイルに語ってきた言葉は、極めて遠回しで不愉快なものだ。けれど、アルベルトとチェインのやり取りを見ているうちに、先ほどあれほどまで胸の中に荒れ狂っていた怒りの中に、一点、別の感情が生まれる。その感情は、怒りに曇った心の中で、静かに輝く何か。
その感情が何なのか、わからない。もどかしさは息苦しさに繋がり、微かに喉が詰まる。
そんなセイルに気づいてもいないのだろう、視線の先のチェインは、眼鏡越しにアルベルトを睨んで言う。
「案外、正直じゃないか」
「俺ぁ、そこの不器用と違って相手を徹底的に騙すし、嘘も吐けるが……あやふやなことが好きじゃねえ、ってのは同じだ。全く、つまんねえとこばかり似てやがる。似てるからこそ、利用しやすかったんだがな」
ははは、とアルベルトの甲高い笑い声が響く。
チェインは、微かに唇を噛んだようだった。それでも、背筋をぴんと伸ばして、どこまでも静かな声で言う。
「……多分、何でもない時に告げられたなら、混乱の一つもしてただろうね」
そして、両の腕を振る。袖から伸びた一対の鎖が、金属のこすれあう音を立てて、宙に浮く。
「でも、今はシュンランと同じ気持ちだよ。『そんなこと、どうでもいい』。ただ……アンタだけは許せない、ってことはわかった」
少しだけ意外そうに、アルベルトが銀縁眼鏡の奥の目を見開く。
「こいつのことは、いいのか?」
「姉さんを殺したのは、アンタだ。だから、アンタの息の根を止めた後で、考えるよ」
チェインが放つ言葉は、何処までも真っ直ぐだ。
チェイン。
チェインは、セイルが思っていた以上に、強かった。自分の追ってきた全てを覆すだけのものを突きつけられながら、本当に大事なことを、見失っていなかった。なのに、自分は、ここで立ちすくんでいる。頭の上から落ちてくる真実に、溺れそうになっている。
俺は。
俺は、何のためにここまで走ってきた?
『セイル』
ぽつりと、ディスが声を出す。セイルにしか聞こえないように、声を落として。
ざわりと、収まりかけていた苛立ちと焦燥を含んだ感情がセイルの中で波立つけれど……その感情を抑えこんで、ディスと対峙する。喚き散らすのは簡単だ。けれど、今、ここですべきことは、きっと違う。
ディスは、セイルがこちらに意識を向けたことに気づいたのだろう、引き締まった声でこう告げた。
『俺のことは、許さなくていい。ブランのこともだ』
――許さなくて、いい?
『奴は手前に対して黙秘を貫くことを選んだ。それに俺も従った。それは事実だ、覆しようもなく。だから、手前は怒っていいんだ。ただ、一つ、一つだけ聞いてくれ』
身体の内側で、『ディスコード』が震える。セイルの身体を震わせるほどに、強く。
『俺は今、どうしようもなく、目の前の野郎が許せねえ。ブランの――それだけじゃねえ、お前も含めたノーグ・カーティスに関わった全員の人生ひっくり返して、それでへらへら笑ってやがる。ふざけんじゃねえよ、何様のつもりだ』
セイルもまた、その言葉に、確かなものを感じる。
ディスは、本気で怒っている。不甲斐ないセイルと相対する時の、激しくも冷静さを残した叱咤の感情とは、正反対に位置する心からの「怒り」。冷静に見せて、その感情の底に隠し切れない業火を湛えて。
それでも、ディスは、こうセイルに問いかける。
『けどな、セイル。お前は、どうしたい』
そう、問いかけるしかなかった。
『俺は、どうしようもなく剣だ。俺が何を思ったところで、手前がそれを望まなきゃ、意味がねえんだ』
意味がない――ディスの、言うとおりだ。
セイルの心の中で、何かが、重たい音を立てて動き出す。心の中に開いたいくつもの穴に嵌りこむような、感覚。それを確かに噛みしめながら、セイルは右の手を、握って、開く。
――ディス。
『何だ』
――俺さ、どうしてもわからないんだ。
『……ブランが、お前に対して黙ってたことか』
ディスは、本当にセイルの心を正しく理解してくれている。セイルは胸の内で小さく頷いて、言葉を続ける。
――ディスは、ブランに止められてたんだなって、今ならわかるよ。そうじゃなきゃ、ディスが俺にブランのことを言わない理由なんて無いって、思ってる。
いくつか、気になっていた点はあったのだ。
ディスは、出会った頃からブランに対して明らかな敵対意識を燃やしていた。それでいて、ブランとは賭けをしているから、と言って詳細を語ることを避けていた。セイルのことを相棒として認めた後でさえ、頑なに。
具体的な賭けの内容こそわからないが、おそらく、ディスはブランとの賭けが有効である限り、自分が知っているブランのことを、セイルには語れなかった。それを許されていなかったのだ。
そうしなければ、ブランは、容赦なくセイルから『ディスコード』を奪って姿を消していたのではないか?
最初から、いや、最初だからこそ、ブランはそうすることができた。そして、そうすべきだと思っていたはずだ。だが、『紅姫号』で出会った時、何故かブランはシエラの命令に逆らう形になってまで『ディスコード』を返してくれた。今まではその理由がわからなかった。わからなかったけれど――
セイルの思いを受けて、ディスは小さく溜息をついた。
『ああ……大方、お前の思ってる通りだ。俺があの時賭けを提案しなきゃ、奴はとっくに「ディスコード」を奪って、たった独りでこの阿呆に挑んでたはずだ』
――その、賭けの内容って?
『セイルが、お前の見た未来を覆す力があることを証明してやる。そうしたら、セイルに全てを話して、最後までつき合わせろ。もし、お前の決めた期限までにそれができなければ、俺を奪って逃げていい』
ディスがブランをノーグ・カーティスと知った理由はわからない。もしかすると『ディスコード』の持つ共鳴の力によるものだったのかもしれないし、ブラン自身が語ったのかもしれない。だが、それを知っても、ディスは素直にはブランに従わなかった。本来、自分の使い手であるはずの兄の目的ではなく――セイルの望みを叶えることを選んだのだ。
そして、セイルは、ブランの見た未来を覆した。神殿にシュンランを匿わせようとしたブランの元に乗り込み、その力があると証明したのだ。
だが、それでもなお、ブランは本当のことを語っていない。そして、ディスも。
何故、というセイルの思いを受け止めて、ディスはぽつ、ぽつと言葉を落とす。
『奴の理由はともかく、俺は……お前や、奴と一緒にいるうちに、奴が語らなきゃ意味がねえ、って思っちまったんだ。俺が知ってるのは、あくまで断片的な情報と推測だけ。手前に対して黙っていた理由も、何もかも、洗いざらい語ることが出来るのは、当人であるブランだけなんだ』
――ディス。
『ここまで黙ってたのは、悪かった。だから、許さなくていい』
「……うん、許せない」
今度は、声に出して、はっきりと。
シュンランや、チェインにはディスの言葉は聞こえていなかったし、ブランやアルベルトにも、何かディスが喋っていることを察することはできても、その内容までは届かなかったに違いない。全員の視線が、ばっとセイルに向けられる。
「ディスもブランも、俺のこと何だと思ってるんだよ。のけ者にされたまま、全部終わらせようなんて。俺のこと、信じてくれたんじゃなかったのかよ!」
全員の視線を受け止めて、セイルは腹の底から声を上げる。
だが、言葉に反して、セイルの心の中に燃え上がっていた怒りは既に収まっていた。ブランがセイルの名を呼ぼうと、微かに唇を動かしたのを視界に捉えつつ。セイルは、口元に笑みすら浮かべて、胸の内に語りかける。
「でも、言ってくれてありがとう、ディス。少しだけ、すっきりした」
怒りを完全に振り切ったわけではない。それでも、ディスの言葉はぐちゃぐちゃになりかけていたセイルの意識を、こちら側に引き戻してくれた。
いつになく澄んだ視界で。セイルは、胸の中に渦巻いていた怒りと、その中にぽつりと生まれたちいさな輝きの正体を、言葉として吐き出す。
「ブランが、俺に何もかもを黙ってたことは、怒ってる。後で全部洗いざらい喋ってもらわなきゃ、気が済まないけど……ブランがずっと、俺の側にいてくれて。俺と交わした約束を、守ってくれてたのは本当なんだ」
自分で言ったではないか。自分がここまで来られた理由は、単に『ディスコード』を手にして、シュンランを助けたいと願っただけでは、到底足らない。自分の背を押してくれた人がいて、間違えたら気づかせてくれる人がいて。
そうして、今この瞬間も自分を支えてくれる人が、いてこそなのだ。
「ブランが俺の言葉を聞き届けてくれたから、俺はここまでたどり着けた。本当のことを知ることが出来たんだ。それなら、今度は俺が『ブラン』の望みを叶える番だ!」
記憶の片隅に引っかかっていただけの「兄」について、複雑な思いを抱えているのは変わらない。だが、それとは別に、セイルの歩んできた道に、深く深く関わってきた「ブラン・リーワード」を守りたい。それだけは、間違いなく、セイルの心からの望みなのだ。
すると、ほんの僅かに、ブランの口元が歪む。あたかも、笑みを浮かべるように。
「本当に、幸せ者だな、俺は」
その言葉があまりに穏やかで、セイルは息を飲む。この場に満ちた緊張には似つかわしくない反応だったが、言葉の響きは、セイルの記憶に残っている兄のものとそっくり同じで、胸が締め付けられる。
ブランは、銃の構えを崩すことなく一歩を踏み出し、セイルの横に立つ。
「……最後まで、付き合ってくれるか、セイル」
「もちろん!」
力強く、頷く。ブランは視線こそアルベルトに向けたまま、口元の笑みを深めたようだった。本人は、きっと気づいていないのだろうけれど。
「ありがとな」
短い、感謝の言葉がセイルの耳に届いたその時、哄笑が響き渡る。
空色少年物語