空色少年物語

幕間:大賢は大愚に似て

 微かな唸りを響かせる、巨大な塔。
 その深部に位置する格納庫に、クラウディオは立ち尽くしている。その手は銃を仕込んだ杖にかけられ、周囲に集った騎士たちと同様、いつ攻められても対応できるよう、気を張り巡らせていた。
 だが、今のところ、格納庫の扉の向こうから何かが現れる様子はない。
 クラウディオたちの侵入は、もちろん、塔の主……おそらくは『機巧の賢者』と呼ばれている人物……に気づかれていてしかるべきだ。それでいて何の対策も打ち出してこないのは、逆に気味悪くもあった。
「クラウディオ様、いかがいたしますか」
 なかなか変わらない状況を見て、一つの船を任されていた騎士隊長が問いかけてくる。クラウディオは赤い瞳で周囲に集う騎士たちを見渡して、あくまで静かな声で告げる。
「我々は、彼らの帰りを待つ義務がある。今は、この場で警戒を続けてくれたまえ」
「了解しました」
 騎士たちは、一糸乱れぬ動きで手を挙げ、敬礼の姿勢を取る。ただ、そのうち一人の騎士が、恐る恐るといった様子でクラウディオに言葉を投げかける。
「……一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だい?」
「ここが、『エメス』の本拠地であることは、疑いないでしょう。しかし、このような場所を、四人の客人に任せるのみでよろしいのでしょうか」
 己の主に当たるクラウディオに進言する、とあって、騎士の声には緊張が滲んでいる。ただ、竜王の血族たるクラウディオ・ドライグという男は、決して臣下の言葉を無下にする人物ではない。それがわかっているからこその、言葉でもあった。
 クラウディオは騎士の言葉を一言一言、しっかりと己の胸に刻み込む。そして、その場に集った全員に正しく伝わるように言葉を選びながら、ゆっくりと語り始める。
「その質問はもっともだね。だが、まず我々に相手の手の内がわからない以上……それが、少しでもわかる人物に任せるべきだろう。そして、その彼が我々に待機を命じた以上、それ以上の妙手を提示できない限り、動かない方が正しい。それが、私とガブリエッラの共通認識だ」
「彼……とは、ブラン・リーワード博士のことですか」
 騎士の表情に、隠し切れない影が走ったのを、クラウディオは見逃さなかった。他の騎士たちも、何処か不安げな面持ちでクラウディオの言葉を待っている。
 それも、当然だ。騎士たちから見れば、何処の馬の骨ともわからない男に、クラウディオがその判断のすべてを委ねている、と思われているはずだ。クラウディオが、彼を信頼して『ディスコード』と『棺の歌姫』を託した理由も、何一つ伝わってはいないのだから。
 正直な話、全てを伝えてよいかどうかも、悩ましいところではあった。
 根拠としては、決して強いものではない。そこには、クラウディオやガブリエッラの感傷も多分に含まれていることを、否定することはできない。
 ただ――ここで待ち構えている物語は、彼の、彼らのものだ。自分たちのものではない。
 それだけは、絶対に、間違いのないことなのだ。
 クラウディオは、心を決めて、騎士たちを見渡す。その、いくつもの瞳と真っ直ぐに目を合わせながら、唇を開く。
「そもそも、私は、彼に全てを託すことを想定して『ディスコード』と『棺の歌姫』を陸に放った。かなり遠回りをしてしまったし、想定とは異なる形ではあったが、結果的に彼の元に全てが集ったことは、悪い結果ではないと思っている」
「そもそも――とは、どういうことですか。彼は、一体何者なのです?」
 何者か。
 その問いには、どう答えるのが一番正しいだろうか。今の彼は、己を「何」と認識しているのだろうか。クラウディオは、そんなことを考えながら……自身が言葉にできるだけのことを、伝える。
「彼が、本来想定していた『ディスコード』の使い手。ディアン・カリヨンの記憶を継承し、未来視を持つアルベルトの末裔……私の知る、ノーグ・カーティスその人だ」
 ざわり、と。騎士たちの間に動揺が走る。
 それも当然だろう。『機巧の賢者』ノーグ・カーティスが、異端結社『エメス』の長として女神に牙を剥き、楽園の変革を目論んでいる、というのはドライグ内部でも一般的な認識だ。そのノーグと、穏健派の筆頭として名高い異端研究者、『魔弾の射手』ブラン・リーワードとが同一人物だとは、到底考えも及ばなかったに違いない。
 ただ、クラウディオは、ノーグ・カーティスという人物を知っていた。楽園に蔓延する噂ではなく、実際にこの目でその姿を見て、言葉をかわしたことがある。それは、彼が『機巧の賢者』と呼ばれるようになる、ずっと前の話だったけれど。
 そして、当時の彼を知るクラウディオは、どうしても――ノーグが『エメス』を率いて、女神と楽園に反旗を翻す、という構図が思い浮かばなかったのだ。
「私が知る限り、彼は……ノーグ君は、自分の大切なものを守ろうとするだけで精一杯な、極めて不器用な人物だ」
 ノーグ・カーティスが稀代の天才であることは、疑いようもない。未来視や記憶継承といった特別な能力を抜きにしても、幼い頃から彼が持っていた洞察力や分析力は、人並みはずれたものであった。
 だが……ディアン・カリヨンと同じ色の瞳を持った少年は、かの瞳の奥に揺れていた業火とは似ても似つかない、静かな湖面の煌きを湛えて、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せるのだ。
 ――こんな能力、俺の望みの前には、何の役にも立たねえよ、と。
「そして、ノーグ君は、己が常に精一杯であることに、自覚的でもあった」
 それなら君の望みは何なのか、と。そう問うたクラウディオに対して、ノーグはそっと両腕を伸ばした。今にも折れてしまいそうな細長い腕を持つ割に、広げた手は武骨な……ものを作り出すための、手であった。
 ゆっくりと、伸ばした手で空を抱き、やせっぽちの少年は、はにかむように笑って。
 ――この手の中にいる奴が、笑ってくれればそれでいい。
 そう、言ったのだ。
 当時は、彼の言葉をただ微笑ましいと思ったものだったが、今ならはっきりとわかる。彼は、賢かった。賢すぎた。故に、己が叶えられる願いの大きさも、あの頃には既に見えてしまっていた。
 そんなささやかな願いすら、叶えられるかわからないと、気づいていたのだ。
「その彼が、楽園の変革などという大きすぎる望みを持つとも、考えられなかった。故に、私とガブリエッラは、ノーグ・カーティスの名が陸に広まり始めた当時から、『機巧の賢者』が本物のノーグ・カーティスなのか疑念を抱いていた」
 そして、『エメス』の襲撃の際に、『エメス』が求めている『棺の歌姫』たるシュンランに『ディスコード』を託し、告げたのだ。
 ――ノーグ・カーティスを探せ、と。
「もちろん、それは一つの賭けだった。ディアンのように、ノーグ君が豹変している可能性も否定はできない。それでも……賭けるしかなかった。表立って動くことを許されない蜃気楼閣では、異端研究者を束ねる『エメス』には対抗できない。遠くない未来にシュンランと『ディスコード』を奪われていただろう。故に、私は彼らをノーグ君に託すことを、選んだ」
 ただ、クラウディオの想像に反して『ディスコード』はもう一人の使い手であるノーグの義弟セイルに渡り、シュンランもセイルを守り手として認めた。
 蜃気楼閣が『ディスコード』を陸に放つという判断を予測して動いていたノーグにとっても、想定外の展開だったようだが……結果的にはセイルと合流し、今、『エメス』の最奥たる『機巧の賢者』と対峙しようとしている。
 元々、ノーグは『ディスコード』を手にした上で、他の誰を巻き込むこともないよう、全てを解決するつもりだったようだが、そのノーグが「四人で行く」と判断した以上、余計な手出しは無用。
 自分たちの役目は、彼らの背中を守ること。彼らの退路を確保すること。そして……あえてセイルたちには語っていないと思うが、彼らが失敗した際に、その結果の全てを携えて対策を講じることである。それが、ブラン・リーワード――ノーグ・カーティスが下した作戦の全てだった。どのような結果になろうと、自分たちは、生きて帰らなければならないのだ。
 そこまでの全てを語ったクラウディオは、小さく息を付いたのち、もう一度騎士たちを見渡した。騎士たちの表情は、堅い。堅いけれど、先ほどの疑念を篭めた視線は、確かに和らいでいた。
「……なるほど。殿下が、リーワード博士を信頼する理由は理解できました」
 先に質問を投げかけた騎士が、ぽつり、と言葉を落とした。
 もちろん、クラウディオの言葉で全てを納得したわけではないはずだ。だが、ディアン・カリヨンによる『ディスコードの禍』と彼が下した『エメス』がもたらす禍の予言を知る騎士たちからすれば、未来視と継承記憶を持つ「彼ら」の影響力は無視できないものである、という認識は共有されている。
 ただ、もう一つ。クラウディオが語っていないことがある。
 当然それを疑問に思ったであろう騎士は「しかし」と言葉を続ける。
「それならば……リーワード博士を、本物のノーグ・カーティスを陥れた『機巧の賢者』とは何者なのです?」
「ああ……未だに、信じられないのだがね。ノーグ君は、こう言っていた」
 『機巧の賢者』を求めてきた四人が消えていった、鋼の廊下を見据えて。
 クラウディオは、そっと、その名前を口にした。
「――使徒アルベルト。我らが主の亡霊、もしくは妄執であると」