それは、形容するならば蟻によく似ていた。六本の脚を持ち、節くれだった身体をもたげて、複眼の瞳でこちらを見据える黒い機体。一つ一つはセイルと同じくらいか一回り小さい程度の大きさだが、かなりの数とかなりの速度で迫っていると、その勢いに圧倒されそうになる。
だが、ブランは、「ふむ」と感情を映さぬ氷色の瞳で機巧の群れをざっと眺め、呟く。
「飛び道具はなさそうね。まかりまちがって大事な歌姫を傷つけちゃ困るもんな」
それでも、蟻の顎に取り付けられた牙は、ぎらりと鋭い光を宿している。まともに組み付かれれば、一方的に四肢や喉を噛み砕かれるに違いない。だが……
『お前との相性は悪くねえな。所詮頭で考えられねえ機巧だ、全力でぶち壊すぞ』
「わかった!」
セイルは、ディスの言葉を受けて床を蹴り、迷わず蟻の集団の前に躍り出た。蟻の頭が接近してきたセイルに向けられ、赤い瞳がちかりと点滅する。おそらく、セイルを敵として認識したに違いない。統制の取れた動きで、セイルに飛び掛ってくる。
『右』
刹那、ディスが内側から指示を放つ。言葉としても聞こえはするが、それはセイルの肉体に直に伝わり、身体が自然と動きだす。ディスが操っているわけでもなく、セイルが意識しているわけでもない。『ディスコード』と一体化した己自身が、一つの剣となったような感覚。その感覚に逆らうことなく、セイルは右手の翼を振りぬく。
何かに触れた、という手ごたえと同時に、機巧の身体が二つに裂けて吹き飛ぶ。かたちあるもの全てを切り裂く不協和音は、返す刃でもう一体をも両断する。
『次、行くぞ』
「うん」
もちろん、心を持たない機巧たちは、臆することなく次から次へとセイルに殺到する。それを、時に一歩下がってかわし、時には踏み込むことでかわし、翼の形をした刃を叩き込んでいく。
一手誤れば己の命が危うくなる、そう理解はしているが……右手の翼を翻し、ディスと息を合わせて足を運ぶ感覚は、ある種の舞のようだと妙に客観的な気分で思う。セイルは踊りというものを知らないけれど、左手を伸ばせば、見えない手が自分の手を掴んで導いてくれる、そんな感覚。
今までは、ただ、目の前の相手に対してがむしゃらに『ディスコード』を振るってばかりだったけれど。今は不思議と心が澄んでいて、何もかもがはっきりと目に映る。自分が何をすべきなのかが、繋がった心を通して見出せる。
それは、何度かの戦いを通して、セイル自身が己の戦い方をその身体で理解し始めていているということであり、ディスとの繋がりが、深まってきたということでもあるのだろう。常にセイルと共にある、もう一つの心。自分を『相棒』として認めてくれた、一振りの剣。それが、セイルに寄り添う形で力を貸してくれている……その事実を、肌で感じる。
もちろん、それを過信してはならない。戦闘経験豊富なディスとて、セイルの視点でしか世界を捉えられないのだから、彼の視界の外の出来事は把握しきれない。その分、反応が遅れることだって当然ある。
例えば、今この瞬間。振り抜いた刃の影から飛び出してきた蟻が、セイルの脇腹に喰らいつこうと顎を開く。刃は既に振りぬかれ、体勢も避けきるには不安定すぎて。ディスは軽く頭の中で舌打ちするが、その舌打ちに焦りはない。
だから、セイルも焦らない。
何故なら、今の自分は、一人で戦っているわけではないのだから。
軽い破裂音、と共にセイルに迫っていた蟻の片目が弾け、黒い体が地面に転がる。視界の片隅で、ブランが銃を構えているのが見えた。その銃口はすぐに別の蟻の頭に向けられ、硬い胴体部ではなく、眼や関節などの脆い部分を的確に撃ち抜き、セイルに向かってくる敵をことごとく減らしている。
未来視『アーレス』を失ったことで、戦う能力に不安を残していたブランだったが、その銃捌きを見る限り、問題があるようには見えない。その事実にセイルは内心で胸を撫で下ろしつつ……『ディスコード』を振るう手は休めない。
結局、シュンランやチェインの元へは一体たりとも到達させないまま、セイルは最後の一体の頸を斬りおとした。ごろり、と床に転がった頭は、既に動くのをやめた他の蟻の胴体にぶつかって、その動きを止めた。
ほっ、と息をつき、額に浮かんでいた汗を拭う。動いている間は意識していなかったが、一度手を止めると思った以上の疲労感が身体にのしかかってくる。何だかんだで、緊張してもいたのかもしれない……転がった蟻の顎から伸びる刃を見つめて、セイルは思う。
一方、銃を収めたブランは呼吸一つ乱した様子もなく、しげしげと自分が壊した機巧を眺めている。そんなブランの姿を見て……ディスは、ブランには聞こえないように声を落として呟く。
『全く、「アーレス」もないのによくやるよ。賢者様に殺されかけるまで、銃なんか一度も触ったことなかったと思うんだがな』
――ブラン、が?
セイルにとって、ブランは最初から完璧な存在としてそこにあった。実際には当然そんなことはなくて、セイルには想像もつかないような欠落を抱えてはいたけれど、それでも、ブランの能力が万能に近いことは疑いようもない。
だから、そのブランにできないことがあった、ということ自体、セイルには信じられなかった。
ディスはそんなセイルの疑問を正確に受け止め、ぼそぼそと言葉を加える。
『 「レザヴォア」から引き出せるのは、知識だけだ。武器を的確に扱うには、それに加えて身体がついていかなきゃならん。しかも奴はお前と違って、身体能力には恵まれてねえ。だが、あらゆる武器を自在に扱えるまで、鍛えたんだろうよ。この時のために』
この時――自分を陥れた『機巧の賢者』ノーグ・カーティスとの、対峙のため。
努力を苦にしない天才ほど厄介なもんはねえよな、とディスは大げさに溜息をつく。言われてみれば、ブラン自身もはっきりと認めていたはずだ。戦うための能力、という意味ではセイルの方がはるかに上回る素質を持つ。ブランは瞬発力こそあるが、それを維持することは決してできない。これはもはや生まれもったものであり、たやすく覆せるものでもない。
だが、その不利を埋めるほどの努力を重ねて、ブランはここに立っている。何でもないような顔をしているし、ブランは本当に「何でもない」と思っているのかもしれないけれど……そこまでの道のりは、セイルには想像のできない苦しみを伴っていたに、違いない。
それを思うと、自分が抱え込んできたもの、乗り越えてきたものが、ちっぽけに見えて。思わず、胸の奥で呟いていた。
――敵わないな。
ぽつり、と落とした声に対し、ディスは『ばーか』と呆れる。
『お前はお前、ブランはブラン。お前だって努力してるし、苦しんでないわけじゃねえだろ。その方向が違うってだけで、敵うも敵わないもねえ』
そうかな、と思わず首を傾げてしまうセイル。それでも、自分はブランには到底及びそうにない、と思うのだけれど。考えをぐるぐると巡らせているセイルを不思議に思ったのか、ブランが「どうした」とこちらの顔を覗き込んでくる。
「な、何でもないよ!」
慌てて頭を横に振るセイルだったが、ディスはもう一度深い深い溜息をついて、ブランに向かって言った。
『や、お前も、もう少し賢く生きられりゃいいのにな、ってさ』
「……何の話してたのよ、お前ら」
『人生ってままならねえなあって話だ』
そんな、話だっただろうか。
どこからどこまでが冗談なのかさっぱりわからないディスの言葉を聞きながら、セイルは改めて廊下の先を見据える。長く伸びた廊下の先から、再び何かが湧いて出る様子はない、けれど……
「気をつけてください、セイル」
小さな声。両目を閉じたシュンランが、いつの間にかセイルの横に立っていた。
「鈴の音が、聞こえます」
「……鈴?」
耳を澄ませてみるが、セイルの耳には、何も聞こえない。シュンランの耳にのみ聞こえる音色である、らしい。とすれば、考えられるのは一つ。
シュンランは、すみれ色の瞳を見開き、虚空を睨む。
「ティンクル、そこにいるですね」
しゃりん、と。
今度は、その場にいる全員に聞こえる、鈴の音が響く。
そして、シュンランが睨みつけていたその場所に、極彩色が生まれる。大きく膨らんだ帽子、けばけばしい緑と紫をあしらった服、奇妙な形の靴。道化師ティンクルは、いつ見ても場違いな姿でふわりと浮かびあがり、白塗りの顔を壮絶な笑みにする。
「まだこんなところにいたの? おそいおそーい、ノーグが待ちくたびれちゃうよ」
りん、と鈴のついた靴を鳴らし、ティンクルは虚空を舞う。天井近くで一回転し、廊下の向こうに消えていく。
「こっち、こっち。鬼さんこちら、手の鳴る方へ、鈴の鳴る方へ」
そんな、声だけを残して。
残されたセイルたちは、呆然とティンクルが消えた方向を見つめるのみ。再び訪れた静寂の中、ちりん、ちりんと、耳の奥でまだ鈴が鳴っているような気がする。
「本当に、何を考えてるんだい、あの道化は」
チェインの苛立ちを含んだ呟きが、音のなくなった世界に響く。
道化師ティンクル。不思議な術を操り、シュンランをつけ狙ってきたノーグ・カーティスの腹心。それでいて、ノーグの居場所を真っ先にセイルたちに伝え、この場所に連れて来た張本人でもあって。先ほど船の中で見た意外な表情も相まって、セイルの胸の中にざわざわとした不安をもたらす。
同じような不安を、ブランも感じていたのだろうか。頭を穿つ傷跡の辺りを掻いて、目を細める。
「賢者様の意図じゃねえ、ってわかりきってるのが余計に気色悪い。賢者様ももうちょい部下は見張ってろってんだ」
「ブランは……『機巧の賢者』のことが、わかるですか?」
「俺が奴の立場なら、って前提で考えりゃ、ある程度は想像つく。とはいえ、俺も奴じゃねえし『レザヴォア』で繋がってるわけでもねえから、確実じゃねえが」
こつり、と。蟻の頭を蹴飛ばし、ティンクルが消えた虚空を睨む。その氷河の瞳には、やはり、感情の色を見てとることはできなかった、けれど。
「俺が奴なら、どんなに準備を重ねても、俺ら四人と纏めて会おうとは思わねえな。シュンラン一人か、俺一人。それ以外に用はねえはずだ。だからこそ、自分だけはずっと海の底に隠れて、シュンランと『ディスコード』を奪いに追手を差し向けてきてたんだろうしな」
その姿勢を崩す理由も、賢者様にはないはずだ。ブランはそう指摘する。
「奴はいつだって慎重だ。ある意味、臆病、と言い換えてもいいかもしれんがな」
「ブランみたいですね」
シュンランが、ぽつり、と感想を漏らす。確かに、全く同じ評価をブラン自身が与えられていたことを、思い出す。
その言葉を受けて、ブランの口元が歪んだ。笑っているようにも見えたが、それが心からの笑みでないことは、余計に鋭さを増した視線からも明らかだった。
「……ほんと、やなところばっかり似るもんだ」
言って、外套の裾を翻して歩き出す。ティンクルが消えていった方角に向けて。セイルも、足下に転がった残骸を踏みつけて、その背中を再び追いかける。
――やなところばっかり似るもんだ。
そう言ったブランは、果たして『機巧の賢者』ノーグ・カーティスのことをどれだけ知っているのだろうか。
そういえば、賢者との因縁については聞かされたが……ノーグ・カーティスの人柄や性格に関する話をブランから直接聞いたことは、なかった気がする。「このような存在だ」という一般的な評価をブランが語ることはあったが、ブラン自身の評価を聞かされたことはない。
嫌な奴、とだけは宣言していたけれど。
「とにかく、道化の嬢ちゃんの狙いはわからんが、賢者様の本来の狙いとは違う方向に進んでる、って点は間違いねえだろうな」
「その展開すら読まれてる、ってことはないのかい? 相手は未来視なんでしょう?」
「俺は、ねえと思ってる。『アーレス』はそこまで万能じゃねえ。それに」
ブランは、声を上げたチェインに一瞬だけ視線をやって……しわがれた声で、呟いた。
「奴が、自分以外の人間を、正しく理解できるとも思えねえ」
その瞬間。
『言うじゃないか、ブラン・リーワード博士?』
空色少年物語