どこまでも、どこまでも続く無機質な回廊。
終わりが見えない道を、セイルは駆ける。シュンランも、セイルほど足が速くないはずではあるが、遅れることなくついてきている。ただ、振り向いて様子を伺うと、かなり息が上がっているようではあった。
「……大丈夫?」
「はい、だいじょぶです。急がないと、ブランに置いていかれてしまいます」
シュンランの、言うとおりではあった。
セイルたちの前を行くブランは、元より普通に歩いているだけならセイルより速く、その足で走られるものだから、背中についていくだけでも一苦労だ。細い背中から伝わってくるのは、針を思わせる鋭く冷たい気配。氷色の刃の切っ先がこちらにむけられているようで、何とも背すじが冷たくなる。
ディスはセイルの内側で軽く舌打ちして、セイルとブランにしか聞こえない声で呼びかける。
『柄になく焦ってやがんな。ちったあ落ち着けよ、ブラン』
「ああ」
と言いながらも、ブランは走る速度を緩める気はなさそうだった。
『や、いつものことながら、全く俺の話聞いてねえだろ手前……』
「聞いてる。自覚もしてる。出来る限り、冷静であろうとは試みてる」
それでも……それでも、冷静ではいられないのだろう。セイルは、ブランの後姿を見つめて、思う。求めていた存在が、すぐそこにいるのだ。セイルの中では、未だにいくつもの感情がせめぎあっているが、それでも兄がそこにいるというなら、一刻も早く会いたい。
だが……
「ブラン」
その時、セイルより一歩後を走っていたチェインが、強い語調で言った。
「他でもないアンタが判断を鈍らせてどうするんだい。アンタは、この子たちの願いも背負ってるんだよ」
「……っ」
ブランは息を飲み、速度を緩めて振り向いた。セイルは、チェインの顔を見ていなかったから、彼女がどういう表情でブランを見ていたのかはわからない。何となく、睨んでいるのだろうな、とは思ったけれど。
相変わらずの、汗ひとつ見せない白い顔でチェインを眺めたブランは、静かに言った。
「冷静ね、姐御」
「アンタの危なっかしさを見てると、嫌でも冷静になるよ」
「そうね。悪い、少し落ち着いた」
苦しげだった呼吸を整え、ブランは再び前を向く。
「怯えてんのかもな……しっかりしねえと」
ぽつり、静寂の中に言葉がセイルの耳に響く。怯える。そうだ、ブランの足取りは、何か恐ろしいものに追われているようでもあった。ブランにとって、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスとは、恨みを抱く相手であると同時に、ブランの大切なものをいくつも殺したという点で、恐怖を駆り立てる相手なのかもしれない。
ブランが、その感情を「恐怖」であるとはっきり自覚できなくても、体は焼きつけられた恐怖を正しく反映してしまう。理性で制御しきれない「何か」の存在に、ブラン自身が戸惑っているようでもあった。
そんなブランを見ていると、こう、言わずにはいられなかった。
「無理、しないで。俺たちも、ここにいるから」
それが、ブランにとって、どれだけの助けになるかはわからない。むしろ、セイルと対峙するまで、誰と共にいても本質的には「独り」であったブランにとっては、足手まとい以外の何でもないかもしれない。それでも、自分はここにいる。もし、恐怖に我を忘れても、その名を呼びかけることができる。そうすることで、少しでもブランの凍りついた心を守れればいい。そう、祈るように思う。
再び一歩を踏み出したブランは、セイルの方を振り向きはしなかったけれど、先ほどまでの冷たい気配を消して、穏やかな声で言った。
「ありがとな、セイル」
「うん」
ブランの「ありがとう」は、いつも心地よくセイルの胸の中に響く。自分を、どこまでも対等な相手として認めてくれている、と思うと小さな勇気が湧いてくる。
いや、そもそも、ブランは一度もセイルを子供だからとか、無知だからとか、そんな下らない理由で侮ったことはなかったはずだ。言葉ではセイルを子ども扱いするが、それでも、セイルの思いを簡単に笑い飛ばすことなく、全てを聞き届けた上で己の判断を下していたはずだ。
未だに理解できないことも多いが……彼の、その偽らざる「真っ直ぐさ」は、認めてもよいと思う。
『……こいつの場合、人としてぶきっちょなだけだろ、絶対』
いつ、心の声が漏れ出していたのだろう。セイルの思いを的確に読み取ったディスがもっともなことを言い出したものだから、セイルは思わず小さく吹き出してしまった。手を繋いでいたシュンランが、すみれ色の瞳を怪訝そうに細める。
「何がだ?」
そして、ディスの声が断片的に聞こえたのか、ブランが少しだけ顔をこちらにむけて問うた。ディスは『なんでもねーよ』とぶっきらぼうに言って、再び黙り込む。ただ、意識の奥底に潜るのではなく、表層に近い場所に留まって、セイルの五感を通して周囲の様子を把握しようとしていた。
だから、セイルも少しだけ緩みかけていた意識を引き締めて、前を見据える。
金属の壁に囲まれた無機質な廊下に、終わりは見えない。温度は暑くも寒くもなく、空気の濃さも問題はない。チェインも、持ってきていたルーンのお陰だろう、少し息苦しさを感じる程度のようで、顔色はそこまで悪くない。
ただ、何だろう。全身で感じる、この違和感。
四人分の足音を聞きながら、セイルは何となく居心地悪さを感じて辺りを見渡してしまう。そこにあるのは、もちろん、金属の壁だけなのだけれど。
「……静か、ですね」
シュンランが、そっと、セイルにささやきかける。
そうだ、静かなのだ。静かすぎるほどに。
異端結社『エメス』の長、ノーグ・カーティスがいる場所なのだから、それこそ彼の元に集った異端研究者たちが待ち構えていてもおかしくないはずだ。だが、ここに至るまで人の姿は一つも見ていない。動くものの姿、と言い換えてもよいかもしれない。
虫一匹いない、無菌の空間が作り出す静寂は、空気や魔力の有無とは関係なく、セイルの体に重たくのしかかってくる。まだそれほどの距離を歩いているわけでもないのだが、妙な疲労感が募る。
チェインも同じようなことを考えていたに違いない。前を行くブランに向かって問う。
「この静けさ、どう思う、ブラン」
「……秘密主義の賢者様が、そうたくさんの人間を周囲にはべらすとは思えねえ。だが、それにしちゃ静かすぎるな」
何か、仕掛けてくるつもりなのか――と言い掛けたところで、ブランはひゅっと息を飲んで、叫んだ。
「止まれ!」
声と同時に響く乾いた音。セイルはびくりと震えて、その言葉の意味を考える前に足を止めていた。繋いだ手も同じように震えて、シュンランがどんぐり眼でこちらを見て……次いでブランを見る。
ブランの手には、いつの間にか硝煙立ち上る銃が握られていた。そして、一拍遅れてがしゃん、という音が少し離れた場所から聞こえ……一瞬、その音の出所の周囲が歪んだかと思うと、機巧仕掛けの球体が忽然と床の上に現れた。目玉を思わせるそれの中心部には赤い硝子がはめ込まれていたが、ブランが放った今の一撃によるものか、粉々に砕けて赤い破片を床にばら撒いていた。
ブランはその球体を足蹴にして、軽く舌打ちする。
「視覚を欺く撮影機巧か……こちらの様子は、向こうに筒抜けだったか」
今まで気づかなかったのは失態だが、果たしてここで気づいたのが吉と出るか、凶と出るか。ブランの、そんな呟きを聞きながら、セイルはぐっと息を飲む。
機巧の目玉は何も語らない。だが、その存在だけでも、この場所に自分たち以外の何者がいることを示唆している。
見ている。ノーグ・カーティスが、こちらを見ているのだ。
「セイル、『ディスコード』を」
「うん」
ブランの言葉は断片的だったが、すべきことははっきりとしていた。セイルはディスに呼びかけ、右手に刃を生み出す。翼を思わせる突撃槍。セイルただ一人のための剣。左手ではシュンランの手を掴んだまま、彼女を守るように立つ。
その瞬間、セイルの鋭敏な聴覚は、自分たちの気配以外の音を掴んだ。
遠くから迫ってくる、無数の足音。いや、あれは足音ではない。鋼と鋼が軋みあう音色、禁忌機巧が生み出す音だ。
「何か来る」
セイルの呟きに応えるように、チェインもセイルの横に立ち、袖から鉤のついた鎖を引き出す。そんなチェインを一瞥し、銃を手の中でくるりと回したブランは、普段の軽薄さを取り戻して言った。
「無理は禁物よ、姐御。ただでさえ魔力が足らねえんだ、魔法の乱発は死を招くわよ」
「そのくらい、自分のことなんだから自分でわかるさ。そう無茶はしないよ、アンタじゃあるまいし」
鎖の先端が、宙に浮く。右と左、魔力を通された鎖は、蛇の動きでチェインを中心に展開する。先端に取り付けられた凶悪な鉤がセイルのすぐ横を掠めるが、あくまでチェインの周囲から動く様子はない。
隙なく周囲を巡る銀の鎖を眺めながら、ブランが小さく感嘆の息を付いた。
「……なるほど、迎撃の構えか。考えたな、チェイン」
チェインはふと唇を笑みの形にする。眼鏡の下の瞳は、あくまで落ち着いた色を湛えて、音が聞こえてくる廊下の先を見据えている。
「私は、元々守る方が得意だからね。それに、アンタとセイルがいれば、攻め手には困らないでしょう」
どこまでも、どこまでも、冷静な分析。姉の仇であるノーグの膝元にあっても、チェインは決して己を見失ってはいなかった。そんな彼女の態度が、温かなものをセイルの心に生み出してくれる。揺るがぬものが一つあるだけで、これだけ安心できるのだと知る。
そうだな、とブランもまたほんの少しだけ口の端を歪め、セイルを見る。
「行けるな、セイル、ディス」
「もちろんだよ!」
『当然だ。誰にものを言ってんだ、ブラン?』
「心強いな」
その言葉は、素直な感想だったに違いない。普段は感情の色を映さないブランの瞳の中に、小さな輝きが見て取れたから。
セイルの手を一際強く握ったシュンランは、そんなブランを見つめて、言った。
「それならわたしの役目は、チェインを助けること、ですね」
「……わかってるじゃねえか。マナを生み出す嬢ちゃんがついてりゃ、チェインも守りに全力を傾けられる」
こくこくとシュンランは頷き、そっと繋いでいた手を離す。
「セイル」
真っ直ぐにこちらを見つめるのは、いつも自分を映していてくれる、すみれ色の瞳。
「ノーグに会うまで、わたしたちは負けられません。ううん、ノーグに会ってからも、負けてはいけません」
そう、旅はノーグに会ったところで終わるかもしれない。その瞬間に、何もかもが変わってしまうかもしれない。大切なものを手に入れる代わりに、もう一つの大切なものが、掌から零れ落ちてしまうかもしれない。見えない未来は、時にセイルの足を絡め取る。恐怖で足が竦んで動けなくなることなんて、しょっちゅうだ。
それでも、それでも。
今は前に進むのだ。今まで進んできた道のりを信じて、前へ。
その「道のり」の全てを映しこんできたすみれ色の瞳で……シュンランは、にっとセイルに笑いかける。
「全力で行きますよ、セイル。負けられないんだから、負けません!」
負けられないんだから、負けない。
そう言い切れるのが、シュンランの強さだ。セイルには到底真似できない、己と周囲への無条件の信頼。そして、その理由も根拠もない信頼を信じさせてしまうだけの力が、シュンランの言葉には篭められている。
これが、歌姫の持つ力なのだろうか。いや、歌姫という肩書きとは全く関係のない、シュンランという一人の少女が持つ、心の強さに違いない。
そんな、強さを一欠片でも分けてもらえるように。シュンランの鮮やかに咲く瞳を見据えて、強く頷く。
「うん、負けないよ。行こう!」
その声を合図に、セイルとブランは同時に廊下の先に視線を移す。機巧は徐々に接近を続けていて、その姿が廊下の奥から現れ始めていた。
空色少年物語