空色少年物語

24:ノーグ・カーティス(3)

 聞き覚えのある声が響き渡り、セイルははっと顔を上げた。
 少年のような、やけに高い声音。平坦なようでいて、確かな熱を篭めた響き。
 その声を聞いた瞬間、セイルの中で何かがざわめいた。背筋に何かが走りぬけ、呼吸がままならなくなる。
 そんなセイルの反応に気づいているのかいないのか。聞き覚えのある……セイルがずっと求め続けていた声は、天井の辺りから淡々と響く。
『お前が生きているとは思わなかった。話を聞いた時には亡霊かと思って、柄にもなくびびったもんだ』
「亡霊はどっちだ」
 ブランは吐き捨てるように言うだけで、足を止めようとはしない。身体が痺れるような感覚に囚われていたセイルも、何とか一歩を踏み出して、ブランに追いすがる。
 淡々と、淡々と。歩き続けるセイルたちに向けて、声が降り注ぐ。
『少しばかり計画は変わったが……ここでシュンランと「ディスコード」が手に入るというなら、そう悪い展開でもないか』
 シュンランは、唇を引き結ぶ。もし、目の前に声の主がいたなら、また違う反応を示したのかもしれないけれど……今は、ただ声だけが浮かび上がっては消えていくのを、聞き届けることしか、できない。
 それは、セイルも同じだ。懐かしい気持ちで、胸がぎゅっと締め付けられる一方で。
『仲良しごっこは終わりだ。今度こそ、お前の手の中の、何もかもを渡してもらおう』
 どうして。どうして、こんなにも、この声は冷たいのだろう。そう、思わずにはいられない。
 頭の中に浮かぶ影は、いつも穏やかにそこに佇んでいたではないか。静かでありながら温かな声を、投げかけてくれたではないか。優しい記憶と同じ声で、どうして、ここまで何もかもを拒絶するような響きを、奏でているのだろう。
 息苦しくて、言葉が喉から外に出てこなくて。口をぱくぱくさせることしかできない。その時、ブランがセイルの頭をぐしゃりと撫でて、言った。
「その言葉は、後で聞かせてくれ」
「――え?」
 ブランの言葉が、理解できなくて……聞こえなかったわけではないはずなのに……思わず声を上げてしまうセイルだったが、ブランはそれには応えぬまま、顔を上げる。
 向こうからは、こちらの姿が見えているのだろうか。ブランの、何もかもを刺し貫くような視線に、気づいているのだろうか。人間らしい熱を感じることのできない、どこまでも空っぽな声が、告げる。
『ま、足掻きたければ好きに足掻け、劣化品。そのくらいなら、付き合ってやる』
 いつしか長い廊下は終わっていて、セイルたちの前には一枚の巨大な扉が立ちはだかっていた。その扉の前で足を止めて、ブランは背筋を伸ばして、宣言する。
「望むところだ――『機巧の賢者』 」
 その言葉に、返事はなかった。
 ただ、微かな笑みの気配と共に声は消え……目の前の扉が、音もなく開く。
 その瞬間、セイルの喉がひゅっと鳴った。
 扉の向こうに広がっていたのは、一つの部屋だった。かなり大きな部屋であるはずだが、ところせましと並んでいる「何か」が圧迫感を生み出している。
 何か。そう、セイルには、一瞬それが何なのかわからなかった。理性的には。
 だが、セイルの人並み外れた感覚は、理性よりもはるかに鋭敏に立ち並ぶものの異様さを捉え、身体におかしな震えをもたらしていた。
「な……何なんだい、これは」
 背後から聞こえてきたチェインの声も、震えていて。それを認識して初めて、セイルの理性が感覚に追いついた。追いついても、正しく理解しているとは、思えなかった。何よりも、この目を疑いたかった。
 周囲に立ち並ぶのは、円柱型の水槽。そして、その中に浮かんでいるものは――
 人、だ。
 いや、「人の形をしたもの」と言うべきかもしれない。
 脳味噌を収めるための頭があり、内臓を収めるための胴体があり、動作を司る手足がある。二足で歩くための骨格を持ち、骨と内臓の周りを血管と筋肉と脂肪が取り巻き、その上から皮を被せたもの。そういう形のものを「人」と称するのであれば、この水槽の中に浮かんでいるものは、限りなく人に近く、それでいて人になりきれていない何かであった。
 内臓が露出しているもの、切断されたわけでもないのに四肢を欠いているもの、そもそも首から下が存在しないもの、逆に頭を持たないもの。そのどれもが、生命として極めてイビツな形をしているにも関わらず、水槽の中にいるそれらは「生きて」いた。生きているということが、感覚で、わかってしまう。
 横に立つシュンランは、真っ青な顔で口元を押さえていたが、そのすみれ色の瞳は立ち並ぶ水槽を見据えたままだ。目を逸らすことも、できないのかもしれない。かく言うセイルも、ふらりと一歩を踏み出した姿勢のまま、動けない。
 悲鳴をあげ、胃の中身が喉までせりあがってくるのを無理やり抑えこむ。ここで吐くのは簡単だが、そうしたところで、目の前の光景が消えてくれるわけでもない。だから、歯を食いしばり、胸を押さえることで意識を繋ぎとめる。
 ふと、横にあった水槽に目を移すと……その中に浮かんでいたものは、他のものに比べると、まだはっきりと人の形を残していた。ただ、皮膚は存在せず、その下の筋肉や脂肪が露出している。それが、小さく動いている。ぴくぴくと、震えるように。
 そして……薄い瞼が、うっすらと開くのを、目撃する。
 赤黒い瞼の後ろに隠されていた、瞳の、色は。
 それを正しく認識するよりも前に、セイルの視界は闇に閉ざされた。ひやりと冷たい、武骨な指先の感覚。それがブランの手であることを理解するのは、そう難しいことではなかった。
「見て気持ちのいいもんでもねえだろ」
 耳元で囁く、嗄れた声。その手を振り払うこともできずに、セイルは小さく頷くしかない。
「嬢ちゃんも、目を閉じていいんだ。こういうもんは、お前らが見るべきじゃねえ。知るべきでもねえ」
 知らなかったふりをするにも、刺激的すぎるけれど。
 そう言って、ブランは小さく溜息をつく。
「これは……何、なのです?」
 か細い、シュンランの声が聞こえてきた。目隠しされたままのセイルは、そんなシュンランの手を探って、そっと握る。小さな手は、小刻みに震えることでシュンランの恐怖をはっきりとセイルに伝えていた。
「これも、『エメス』が研究する失われた技術の一つだ。何も、禁忌と呼ばれる技術は鋼の機巧だけじゃねえ。人が、人を創る――なんて技術も、『存在しない時代』には確かに存在した」
 人を、創る……?
 人を産む、というならわかる。人は人から産まれてくる。そのためにどのような行為が必要であり、どう自分と違う生命である子供が生まれてくるのか、という知識くらいはセイルにだってある。何度聞かされても、子供が人の胎内に宿る仕組みだけは理解しきれないのだけれど。
 だが、ブランはあくまで「産む」ではなく「創る」と言い切った。この水槽の中に浮かぶものたちは、セイルの知る人のつくりかたとは全く違う手順を踏んで、生まれたものであるに違いない。
「人を創る、なんて。女神ユーリスじゃあるまいし」
 チェインの声が、闇の向こうから聞こえてくる。先ほどはあまりの光景に驚愕を隠せなかったようだが、今聞こえてきた声は、それよりずっと冷静なものだった。それに対し、セイルの頭越しにブランが応える。
「ま、記録を見る限り、昔からそう上手く行くもんじゃなかったみてえだけどな。簡単に人が創れるようなら、それこそ、誰だって神になれちまう」
 結局、ここにいるのは、水槽から出ることもできない出来損ないだけだ、と言ったブランは、ゆっくりとセイルの目を覆う手をはずした。
 柔らかな闇が晴れれば、目に入るのは、奇妙な肉の塊。人として創られながら、人になりきれず、ただただ狭い水槽の中に浮かぶことしかできない、ものたち。
 彼らは、自分と同じように、ものを考えることがあるのだろうか。もし、そうだとしたら……この水槽越しに広がる世界に、何かを夢見ることがあるのだろうか。考えれば考えるほど、胸に苦いものが広がる。それは何も、先ほど喉元まで押し寄せた胃液というわけでも、なさそうだった。
「……ブラン、この人たちは、何のために創られたのです?」
 セイルの手を握ることで、少しだけ震えが収まったらしいシュンランは、ブランを真っ直ぐに見上げて問う。
「さあな。いつも言ってるとおり、賢者様の高尚な考えは、俺様にはさっぱりわからん」
 そんなシュンランに対して、ブランは大げさに肩を竦める仕草を見せたけれど……詳しい言及を、あえて避けているようであった。それがセイルにもわかったのだから、シュンランに伝わらなかったはずもない。怪訝そうな顔になって、ブランの外套の裾を引っ張る。
 チェインも、猫を思わせる瞳を一際細くして、ブランに言葉を投げかける。
「そうは言うけど、想像くらいは、できてるんじゃないかい」
「……遺憾ながら。だがそいつは、俺の口からは、言いたくねえのよ」
 物言わぬ水槽の中のものたちの、冷たい気配を振り払うかのごとく、外套を翻して。ブランは、普段以上の低い声で、ぽつりと呟いた。
「どうせ――すぐに、わかる」
 言って、部屋の奥に向かって歩き出す。セイルはシュンランの手を引いてその背中を追おうとしたが、一旦振り返って、先ほど目が合いかけた、赤黒い人影を見やる。
 今はもう、その瞳は瞼の下に再び隠れてしまっていたけれど……ブランに目隠しをされる前に、一瞬だけ、見えてしまったのだ。それを、言葉にしてよいのかわからないまま、胃液と一緒に飲み込んでしまったけれど。
 水槽に浮かんだ赤黒い人間の目の色は――氷河のアオだった。
 ブランと同じ、瞳の色。
 偶然、なのだろうか。それとも。ぐるぐる巡りはじめる思いを、何とか断ち切って。氷河の眼を持つひとがたに、立ち並ぶ水槽の群れに背を向けて、何とか一歩を踏み出す。
 水槽の群れの先には、おそらくこの施設を利用している異端研究者のものと思しき、机や椅子があった。机には茶器が並べられ、椅子のひとつには無造作に白衣が投げかけてあり、今にもその持ち主が帰ってきそうな様子であった、が――
『……人の気配は、ねえんだよな』
 ディスに促されて机を確かめると、器に入っていた茶はすっかり乾いて、内側に赤茶けた輪を作り出していた。白衣も、最低数日は動かされた形跡がない。
 どういうことなのかは、わからない。わからないけれど、背筋がぞくりとする。わけもわからない、しかし確かな恐怖がこの施設を支配している、そんな錯覚に陥りかける。もし、一人でこの場所に放り出されたとすれば、真っ先に逃げ出していてもおかしくはない。
 今は、かろうじて。握った手の温かさが、自分を繋ぎとめていて、くれているけれど。
 シュンランもまた、同じことを思っていたのかもしれない。一度は収まっていた震えが指先から伝わってきて、掠れた声が、綺麗な形の唇から漏れ出す。
「セイル……わたしには、わかりません」
 つう、と。机の上に積もった埃を、白い指先がすくいあげる。
「 『機巧の賢者』は、何を考えているのでしょう。わからないが、こんなに恐ろしいのは、初めてです」
 わからない。シュンランにとって、この世界はわからないことに満ちていて、けれど、それはただ「恐ろしい」と感じるものではなかったはずだ。初めてセイルに出会った時、シュンランは笑顔で言っていたではないか。わからないから、楽しみだと。
 だが、この場に満ちている「わからなさ」は、そのシュンランの思考をも恐怖に塗りつぶそうとしている。理不尽で、不可解で、誰の理解をも拒んでそこにある世界。それは、今自分が立っている足下がぐらぐら揺れるような不快感に満ちている。
 この世界が、自分が追い求めてきた人物――兄、ノーグ・カーティスによって作られたものである分、尚更、不安は増すばかりだ。
 だから――
「……そうだね。俺も、怖いよ」
 素直に、セイルは己の内に生まれた恐怖を認めた。
 けれど、ただ認めるだけでは、何も変わらない。立ち尽くしていたところで、目の前にある理不尽は消えてくれない。頭の中にぐるぐると巡り続ける「何故」を、説明してもくれない。
 それならば、今の自分にできることは、ただ一つ。
「だから、行こう」
 シュンランの手を、硬く握って。
「きっと、この先に行けば……わかるはずだから」
 全てがわかるという保証はない。この先に待っている兄が、何もかもを説明してくれるとも思えない。だが、立ち止まっているくらいなら、進むべきだ。そうやって、背を押してくれる者たちに恵まれたからこそ、セイルはここまで歩いてこられた。求めていたものの目の前にまで、辿りつくことができたのだ。
 それこそ、横に立つシュンランは、ここに至るきっかけを作った人物であり……セイルの背を、常に叩き続けてきてくれた存在だ。だから、今度は、自分がシュンランの背を押す番なのだと、思う。
 シュンランは、少しだけびっくりした様子でセイルを見上げていたけれど、やがてふと、微笑みを浮かべた。これほどの凄惨な世界にあっても、シュンランの笑顔は少しも輝きを失うことなく、セイルの大好きな温かさに満ちていた。
「そうですね。セイルと一緒なら、怖いのも半分こです」
 握り返す手の温度が、セイルの中に蠢く冷たいものを溶かしてくれる。こうやって、手と手を取り合って、ここまでやってきた。自分は、いつもシュンランに助けられてばかりだったけれど……その言葉を聞くと、自分も、少しでもシュンランの支えになれていたのかもしれない、と誇らしくも思う。
 心を奮い立たせ、銀色の瞳を見開いて、この先に続く道を見据える。
 水槽の部屋の終わりには、たった一枚だけ、扉があった。今まで自分たちの前に立ちはだかってきたものと、何一つ変わることのない鋼の扉。ただ、この扉を開けば、もう決して後戻りはできない――そんな感覚に、囚われる。
 チェインも、同じことを思っていたのだろうか。そっと、呟く。
「……この先に、奴がいるってことかい」
「だろうな。奴さんは、性根は腐ってるが、ここで狡い罠を仕掛けるタイプでもねえよ」
 ブランは軽く肩を竦めてそれに応える。
「そう、奴は、真正面から攻めてくる。必ず逃げ道を塞いでから、だがな」
 ぞくり、と。セイルの背筋に冷たいものが走る。それが、ブランの経験に裏打ちされた分析だからこそ、尚更恐怖を呼び起こしたのかも、しれない。そんなブランに対し、ディスが睨むような気配を醸し出して、低い声で言う。
『ブラン、んなセイルを脅すんじゃねえよ』
「はは、悪いな。だが、事実は事実だからな。警戒はしてしすぎることはねえ。ただ……お前らは、お前らの思うところを、奴にぶつければいい」
 外套の下に隠れた、銃の柄を握って。ブランは、氷色の目を細める。
「俺は、そのお前らを助けるために、ここにいるんだから」
 セイルにとって、そのブランの言葉はとても頼もしかった。頼もしい反面、どうしても不思議に思って、「でも」と声を上げていた。
「……ブランだって、目的があって、ディスとシュンランを求めてたんじゃ」
「前にも言ったでしょ、俺様は、ただ賢者様をぎゃふんと言わせられればいい、って。それが叶うなら、その役目は俺様でなくてもいい、ってこと。ねえ、姐御?」
 微かに口元を歪ませたブランは、何故かチェインに話を振った。チェインは眼鏡の下からブランを鋭く睨み付けたが、それ以上ブランに何を言うでもなかった。その代わりに、というわけでもなかったのだろうが、ぽんぽん、とシュンランとセイルの頭を一回ずつ叩く。
「とにかく、ここまで来たからには、奴の顔を拝まなきゃ帰るに帰れない。それは、アンタらも一緒でしょう?」
「チェイン……」
 姉の仇、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスを殺す。
 その願いだけを胸に、影追いとなった彼女ではあったが。セイルを見下ろすその瞳の色は、どこまでも、優しくて。その、優しさを理解してしまっているだけに、胸が締め付けられる思いに駆られる。
 チェインには、言いたいことがたくさんある。あるけれど、そのどれもが、上手く言葉にならないまま、セイルの内側に積もり続けている。チェインは自分を見守っていてくれた。それどころか、助けてきてくれた。時に立場に縛られながらも、自分に可能な限り、セイルたちの足を縛らないように、心を砕いてくれていた。
 そのチェインとの、決定的な決別の瞬間を予期せずにはいられなくて。思わず、唇を噛んで俯いてしまうセイルの頭を、もう一度、しなやかな手が叩く。
「前を向きな、セイル。私も……本当のことを確かめるまでは、終われないって気づいたからね」
「……え?」
「何故、姉さんは死んだのか。死ななきゃならなかったのか。それを知らないまま、ノーグ・カーティスを殺すわけにはいかないんだよ。絶対に」
 静かに宣言するチェインの横顔は、いつになく、張り詰めた気配を湛えていた。
 何故、チェインの姉は死んだのか。その理由は、確かに誰も語ってはいない。かつてのノーグの仲間であり、そのノーグの手によって殺された、という事実だけが伝えられているだけだ。
 もちろん、「姉を殺した」という事実だけで、チェインがノーグを殺す理由は十分であったはずだ。実際、当初のチェインはそれだけを己の行動理念としていたはずだ。だが、セイルが知らない間に、チェイン自身にも「知らなければならない」と思うだけの理由が生まれていたに、違いない。それが一体何なのかはわからないけれど……一番、ノーグとの対峙を求めていたチェインが、この瞬間冷静でいるということは、セイルを安堵させる。
 そっと、息をついて、肩の力を抜く。すると、胸の奥底に沈んでいたディスが、声をかけてくる。
『……行けるか、セイル?』
「うん」
 力強く頷いてみせると、ディスはふと力を抜くような気配を見せたが……すぐに、意識を引き締めて、鋭い声で言う。
『そうか。なら、この先に何が待っていても、惑うな。お前は、お前の思うところを貫け。……俺が言えるのは、それだけだ』
「俺の、思うところ……」
 胸の中に渦巻く思いは、上手く言葉にはならない。ならないけれど、その混沌こそが、今のセイルを形作っている。不安、焦燥、恐怖、それに期待。どれもこれも、不安定にゆらめくばかりだけれど、その全てがあってこそ、セイルはセイルたりえている。
 その全てをもって、ありのままに対峙すればよい。
 この先に待つ、探し求めていた相手に。
 思いを定めて、セイルは、力強く一歩を踏み出す。その歩みに合わせて扉は開き、そして……
 そこに広がっていたのは、一つの、町だった。