キルナ・クラスタは、瞳を上げて目の前に立ちはだかる巨大な扉を見つめる。その体は、小さな震えに支配されていた。
この先に、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスがいる。
その思いが、自然と、キルナの身を震わせていた。
『魔弾の射手』ブラン・リーワード率いる四人組や、かつて『エメス』の研究所から逃げ出した『器』の襲撃により崩れ行く『シルヴァエ・トゥリス』から脱出した後、キルナを待っていたのはノーグの腹心、道化師のティンクルだった。姿を現さぬ賢者の代行者である彼女は、ひとしきりキルナと、姿を消した弟ラグナを罵倒した後にこう言った。
『ノーグが呼んでる』
……と。
賢者、ノーグの居場所は『エメス』の中でもほんの一握りしか知ることが許されない。キルナも、ノーグの声を聞くことはあっ
たが、それはあくまで通信機巧を通してだった。今回も、同じかと思っていたが、ティンクルの言葉はその想像をあっけなく否定した。
『だから、今からノーグのところに連れてくね』
その言葉の意味を確かめる前に、ティンクルはキルナの手を強く引き……そして、視界が暗転する。
とうに楽園からは失われたはずの転移の術。いつになっても慣れることのできない、酔いにもにた意識の揺らぎを感じながら、キルナは恐る恐る、目を開く。
キルナが立っていたのは、金属の床の上だった。崩れ落ちた『シルヴァエ・トゥリス』のそれに似た、無機質な部屋。他に人の姿はなく、ここまでキルナを連れてきたティンクルの姿も、いつの間にやら見えなくなっていた。
ぽつりと、その場に取り残されたキルナは、所在なく辺りを見渡す。ノーグのところに連れてく、とは言われたが、その賢者は一体何処にいるのだろう。強く、歯車を模した飾りを持つ杖を握り締める。
その時、天井に取り付けられていた拡声器が、聞き慣れた声を立てる。
『よく来てくれたな、キルナ・クラスタ』
「……ノーグ様!」
幼い少年のような、それでいて深い知性を感じさせる声。それこそが、キルナが崇める『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの持つ音色だった。
初めてその声を聞き、彼の持つ異端の力を目にした時から、キルナの世界は変わった。自らに救いをもたらしてくれなかった、残酷な女神の支配する牢獄から、旧き知恵を司る賢者に導かれゆく救済の楽土へ。
ノーグは、キルナの目から見る限り、まさしく異端の王だった。
長年異端研究者たちが研究し続けても解かれなかったいくつもの謎を解き明かし、女神が『存在しないもの』と称した世界の輪郭を暴いていく。その過程で彼が示したのは、この世界があまりにも女神の偽りに満ちているということ。この世界が一度、女神の手で滅びたということも、賢者は鮮やかに証明してみせた。
そして、今もなお、楽園は女神の手の上であり、いつ女神の気まぐれで滅びてもおかしくない……だからこそ、ノーグ・カーティスは己の望みを『エメス』に名を連ねる研究者たちに、伝えたのだ。
女神ユーリスを倒し、世界に真理と真実を。
女神の恣意に支配された世界ではない、絶対の真理と、唯一の真実によって成り立つ、正しい『楽園』に「戻す」ことが、自分と『エメス』に与えられた使命なのだと。
そして、そのためには、世界樹を支配する能力を持つ『鍵』……『ディスコード』と、楽園のあり方を変えることになる存在『棺の歌姫』を手に入れなければならない。そう、言ったのだ。
その言葉を、疑えるはずもない。迷い続けていた自分に、一つの道を示してくれた賢者は、キルナにとっての全てだったのだから。
だが――自分は、その賢者に何をもって、報いることができただろうか。
賢者の思いを叶えるために、ラグナと共に『ディスコード』と『棺の歌姫』を追い続けたが、結果として何一つ手に入れることはできず、それどころか被害だけを増やすばかり。裏切り者リステリーア・ヴィオレの始末にも失敗し、そして今、拠点の一つであった『シルヴァエ・トゥリス』を落とされ、優秀な戦力であったラグナも姿を消した。
どれもこれも、自分の力のなさが招いた結果だ。賢者から与えられた恩寵に対して何を返すこともできない自分は、果たして、ここに立っている価値があるのか。
そんな、キルナの心を汲み取ったかのごとく、機巧仕掛けの賢者は言葉を紡ぐ。
『お前を呼んだのは他でもない、「シルヴァエ・トゥリス」の件について話を聞かせてもらいたかったからだ。そして』
一拍置いて。賢者は、凍れる響きの声で、言った。
『キルナ、是非お前に見てもらいたいものがあってな』
「私に……ですか?」
『ああ。さあ、こっちへ』
賢者の声と共に、部屋の扉が一つ、開かれる。キルナは躊躇うことなく、そちらに向けて足を踏み出した。変わり映えのしない廊下が、長く、長く、続いている。『シルヴァエ・トゥリス』のそれと似ている、と思ったのは気のせいではなかったらしく、廊下の途中にはここもまた『シルヴァエ・トゥリス』であることを示す文字が刻まれていた。
『シルヴァエ・トゥリス』とは、女神降臨以前の旧い時代に建造された、塔にして機巧仕掛けの装置なのだという。何のための装置であるかは、詳しくは語られなかったが……ノーグの話によれば、「人が人を救うための場所」であったという。そのような塔がいくつも建てられ、神の力に頼ることなく己が手で未来を模索する、そのような時代があったのだという。
それもまた、正しかったのかどうかは怪しいが。
かつてノーグは、淡々と、そう言っていたのだと思い出す。果たして、賢者はこの『シルヴァエ・トゥリス』という建造物に何を見出しているのだろうか。キルナには到底想像が及ばない。
かつ、かつ、と。靴底が立てる高い音が響く。ここが『エメス』の本拠地であることは間違いないと思うが、人っ子一人見えない。時々、機巧仕掛けの六足歩行の兵器とすれ違うだけで。
そんな、一抹の不安が胸の中によぎるのを感じながらも、ノーグの声に従って歩き続け……そして、今、一際巨大な扉の前に、立っている。
ここに手を触れれば扉は開き、自分は『機巧の賢者』ノーグ・カーティスと対面する……それを思うと、体の震えが止まらない。主として崇めるが故のおそれ、畏怖。それが、最も今のキルナの心を支配する感情を言い表すに相応しい言葉であった。
だが、その主を待たせることも、許されない。
キルナは、思い切ってその細い指先で扉に触れた。その瞬間に扉はすうと開き、その内側をキルナの眼前に晒してみせた。
そこは、がらんとした空間だった。ゆるやかな曲線を描く金属質の壁に囲まれ、奥だけは材質の違うくすんだ白の壁となっている。何一つ床や壁を飾るものはなく、何処までも、何処までも、平坦な鈍色の床だけが広がっている。
その、部屋の真ん中に、それは立っていた。
ゆったりとした白衣を身に纏った、分厚い眼鏡をかけた一人の男。
『機巧の賢者』――ノーグ・カーティス。
決して特異な姿をしているわけではなく、ごくごく普通の人間に見えるこの男こそが、楽園の在り方を変えようとしている、禁忌の主。
「やあ――このかたちでお目にかかるのは、初めてだな」
通信機から聞こえていたものと同じ、少年の声でノーグは言った。キルナは、自然と床に膝をつき、頭を下げていた。姿かたちこそ人のものではあるが、目の前の賢者から放たれる気配は、あまりにも冷たく、かつ強大なものであったから。
だが、ひたすら顔を伏せることしかできないキルナに対し、ノーグは「はっ」と息をついて声を降らせる。
「よせよ。そういうの慣れてねえんだ。顔を上げろ、キルナ」
キルナは、恐る恐る顔を上げる。すると、賢者の顔はすぐ側にあった。体が弱い、という情報通りに酷く白い肌をしているが、分厚い眼鏡の下から見据える瞳は鮮やかな光を湛えている。
「今まで、よくやってくれたよ。お前たちの報告のお陰で、俺はこの場から外の動きを知ることができた」
「そんな……私は、何もなしていません。『ディスコード』や『歌姫』をあなたさまの手元に届けることも、できなかった」
「何、気に病むな。どうせ、あいつは放っておいても俺の元にやってくる」
本当ならば、何もかもが揃った状態で迎えてやりたかったが……そう言って、血も涙もない、と称される男は口の端を歪ませ、笑みらしき表情を浮かべてみせる。その言葉の意味がわからずに、微かに眉を寄せてしまったキルナに対し、ノーグは白衣を翻して背を向ける。
「未来は読みきれない方が面白い。お前らの話を聞いていて、そう思ったよ。まあいい、まずは、『シルヴァエ・トゥリス』でお前が見たこと、聞いたこと。その全てを聞かせてくれ」
その言葉に従い、キルナは『シルヴァエ・トゥリス』での一部始終を説明した。逃亡中であった『器』が数名の手勢と共に地上から侵入、それと同時に『棺の歌姫』を含めた四人組が空中から滑空艇で突入を図った。ラグナは、『棺の歌姫』を連れた空色の少年と交戦するも敗北、その後の行方は不明。そして、自身は『魔弾の射手』ブラン・リーワードと『連環の聖女』と対峙し、手も足も出なかったこと……そこに話が至ったところで、賢者はキルナを振り向いて言った。
「案外元気そうじゃねえか。安心したよ」
「誰がです?」
「こっちの話だ。続けてくれ」
「……はい。『シルヴァエ・トゥリス』は中心部を破壊されて崩壊、しかし『器』率いる一団によって脱出経路を暴かれ、『棺の歌姫』は『シルヴァエ・トゥリス』の崩落には巻き込まれず逃亡しました。同時に、クラウディオ・ドライグも解放された模様です」
ノーグは「ふむ」と顎を撫で、眼鏡の下で目を細める。
「なるほど。まあ、『器』の件はラースに任せときゃいいだろ。問題は、これからの『歌姫』たちの動きだが……」
と、言いかけたところで、突然、警報が鳴り響く。天井に取り付けられた赤い灯りが激しく点滅し、耳障りな音と共に無機質な声が響き渡る。
『侵入者発見、侵入者発見』
「……何?」
ノーグの鋭い視線が、天井の辺りを彷徨う。そして、ぱちんと指を鳴らしたのが合図だったのだろう、突如として虚空に画像がいくつも生み出される。それは、この建物の中を映し出したものだったのだろうが、そのうちの一つの画像に見覚えのある顔を見つけた。
遠目でもはっきりとわかる空色の髪を揺らし、駆ける少年。その手には白い少女の手が握られている。彼らを先導するのは幾度となくキルナの行く手を阻んできた『魔弾の射手』、そして殿を守るのは『連環の聖女』だ。
何故、この四人組がここに?
そんな疑問符を浮かべてノーグを見ると、ノーグもまた、驚愕に目を見開いて画像を見つめていた。
「どういうことだ、奴らがこの場所を知っているとは」
言いかけた言葉を飲み込み、賢者はぽつりと呟く。その声は、掠れていてよく聞き取れなかったが、
「ティンクル……?」
確かに、そう言ったのを、聞いた。
だが、キルナがその言葉の真意を確認する前に、賢者は白衣を翻して歩き出す。何もないように見えた奥の白い壁に触れると、その一点から波紋が広がり、壁一面を伝っていく。
一体、何が起ころうというのか。
わからずにただただその場に立ち竦むばかりのキルナを振り返り、ノーグはふと、今度こそそれが「笑み」であるとはっきりわかる柔らかな表情を浮かべて、言った。
「……キルナ・クラスタ」
だが、何故だろう。
それは確かに笑顔だというのに、決定的に何かが欠けているように見えた。眼鏡の下の瞳は、どこか虚ろに揺れ、こちらを見ているはずだというのに、焦点が合っていないようにも思える。
「今まで、よく尽くしてくれたよ。最初から最後まで、俺のわがままだったっていうのにな」
「いえ、私はどこまでもノーグ様の考えに従います。あなた様が示してくださった理想は、私の理想でもあるのですから」
「理想? ああ……」
ノーグはふと、笑みを深める。
「そうか。そんなことも、言ったっけな。あんな馬鹿馬鹿しい理想論で、よくここまでついて来る気になったもんだよ、お前も、他の『エメス』の阿呆どもも」
「……え?」
「ま、俺としちゃ好都合だったけどな。俺には、行動を起こすための人材が必要だった。組織が必要だった。本当に、お前らはよく動いてくれた。だから……お前に、一つ、いいものを見せてやろう」
そう言った賢者の前に立ちはだかっていた壁が、忽然と姿を消して。
最後に見たのは、紅の、
空色少年物語